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 微かな光が、まぶたの裏を照らす。ゆっくりと目を開けると、そこは昨日までの世界とはまるで違う景色だった。


 淡い朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の輪郭をやさしく浮かび上がらせている。柔らかなシーツ、天蓋付きの広いベッド。


 花瓶には白い花がひっそりと飾られ、窓辺からは風に乗って香草のようなやさしい香りが届いてくる。


 そのすべてが静かで、穏やかだった。まるで、今はただ守られていていいのだと告げてくれているようで


(……眠れたんだ、ちゃんと)


 昨夜のあんな出来事のあととは思えないほど、深く、長く眠っていた。心が壊れかけていたあの瞬間、どうしてあの人の姿がそこにあったのだろう。


 エリス・グランチェスター。


 ルクレール公国の若き公爵。冷徹で近寄りがたい——そんな噂ばかりを聞いていたはずの人。


 けれど、初めて言葉を交わしたそのとき、感じたのは冷たさではなかった。銀糸のような黒髪を後ろで静かに束ね、深い紺の衣を身にまとった彼女は、舞踏会の喧騒の中で、ひときわ静かな光を放っていた。


 そして何より、忘れられないのはその瞳だった。


 深い紫の瞳。


 暗い空に星が滲むような色。光が当たる角度によってすこし灰がかった紫に見えたり、夜のように深く沈んでいたり。一度見たら離れられない、不思議な色だった。


 目が合った瞬間、胸の奥が少しだけきゅっと痛んだ。怖かったわけではない。ただ、そのまなざしの奥に、何かとても静かで強いものを感じてしまって。


(……あの人は、どうしてあんなふうに私に手を差し伸べてくれたんだろう)


 理由なんて、きっと訊いても教えてくれないだろう。でも、あのとき——王太子に背を向けられ、人々の視線に晒されていた私に、何のためらいもなく手を差し出してくれたのは、彼女だけだった。


 その手にすがった瞬間、すべてが変わった。助けてほしかったのではない。ただ、何か一つ、自分で選びたかった。何かを、自分の意思で掴みたかった。


 だから私は、震える声で言ったのだ。


 契約でもいいので、恋人にしてください。


 あれは、恋心ではない。ただ、助けられたことに対するお礼を、どうにかして返したかった。どんな言葉にすればいいのか、どうすれば感謝を伝えられるのかも分からなかったから。だからせめて、あの人の傍にいられる形を選んだ。


(……でも、こんな形で本当に伝えられるのかな)


 感謝を、誠実に返すにはどうしたらいいのだろう。言葉では足りない気がする。贈り物でも、礼儀でも、到底釣り合わないような気がしてしまう。


 心のどこかで、それを怖れている自分がいる。「ありがとう」を伝えるには、自分はまだ何も知らなさすぎると。だから、彼女の隣に立つ資格があるのか、不安になる。


 でも、それでも


(……あの人の瞳を、また見たいと思った)


 そんなことを思うのは、傲慢なのだろうか。それでも、昨日の自分の選択に後悔はない。このぬくもりが、その証だった。


 リリィはそっとシーツをめくり、足を床に下ろす。厚手の絨毯が、かすかにひんやりとした感触を伝えてくる。それすらも、眠気の残る身体には心地よく感じられた。


 立ち上がって、窓辺へと歩く。レースのカーテン越しに見える朝の光は、淡い金色に部屋を染めていた。


 その光の色が、ふとあの深い紫の瞳と重なった気がした。


 (……今日も、私はこの人に恥じないように過ごそう)


 それが、今の自分にできる最初の「お礼」なのかもしれない。



 そう考えていると



 「……リリィ様、失礼いたします」



 そっと扉がノックされ控えめな声が室内に響いた。



 「どうぞ」



 リリィが声をかけると、昨夜案内してくれた侍女が、静かに部屋へ入ってきた。紺の制服に身を包み、淡い栗色の髪を後ろでひとつに結ったその姿は整っていて、どこか落ち着いて見える。



 「おはようございます。昨夜はよくお休みいただけましたでしょうか?」


 「……はい。とても」



 笑みを浮かべたその目元にはわずかに安堵の色が滲んでいた。リリィはほんの少し迷ったあと、口を開いた。



 「昨日から……たくさんのご配慮ありがとうございます。その……あの、あなたのお名前を、教えていただけますか?」



 侍女は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにやわらかく微笑んで深く頭を下げた。



 「恐れ入ります。わたくし、ミレイユと申します。以後お見知りおきいただければ光栄でございます」


 「ミレイユさん……素敵なお名前ですね。きっと、何度もご迷惑をおかけしてしまうと思いますが、よろしくお願いします」



 その言葉にミレイユは目を細め、柔らかな表情で首を横に振った。



 「いいえ、リリィ様はとてもお礼をきちんとお伝えくださるお方です。そうしたお気持ちがあるだけで、私どもには十分すぎるほどでございます」



 リリィは小さくうなずきながら、ふともうひとつの疑問を口にした。



 「それと、昨夜……エリス様のもとにいらっしゃった執事の方、あの方のお名前は……?」


 「クラウスと申します。長年、公爵様にお仕えしている方で、今はこの滞在先の管理も任されております」



 (クラウスさん……)


 年齢の分だけ積み重ねられた威厳と、けれどどこかあたたかさのある視線。公爵様のすぐ傍にいる人物としてただの執事ではない存在感があった。



 「クラウス様は、見かけによらずとてもお優しい方ですわ。時折、口調は少々厳しめですが……公爵様のことを、誰よりも案じていらっしゃいます」


 「そう、なんですね……」



 まだ会って日は浅いけれど、この人たちに囲まれていることに、昨日までにはなかった安心感があった。



 名前を知るというのは、こんなにも心の距離を近づけてくれるものなのかと、今さらながらに思う。



 「では、お召し替えをお手伝いしますね。お支度が整い次第、朝食の間へご案内いたします」



 リリィはそっと頷き、椅子に腰を下ろす。鏡の中の自分に向き合いながら、今日という一日がどうか穏やかでありますようにと、心の中でそっと願った。



 そう願っている間にもミレイユは優しく髪を梳かしてくれる。


 少し乱れていた髪は、ミレイユの落ち着いた手つきで静かに整えられ、昨日までの混乱の気配を少しずつぬぐっていくようだった。



 「お顔色が、朝の光に映えていらっしゃいますね。やはり、よくお休みいただけたのだと……」



 囁くようにけれどどこか誇らしげな声。それにリリィは少し恥ずかしそうに微笑みながら、かすかに頷いた。



 「……自分でも驚いてるんです。もっと眠れないかと思っていました」


 「静かな場所ですから。音も灯りも、きつすぎないよう整えてございます。公爵様のお心遣いですわ」



 (……エリス様が)


 その言葉に、胸の奥が少しだけきゅっとなった。


 公爵という立場の人が、わたしのような者の眠りにまで気を配ってくれていたなんて。


 そう思うと、昨日あの場で助けを求めたことの重みが今さらのように胸に押し寄せてくる。



 「ご無理なさらずに……ほんの少しずつ、慣れていかれればよいのです。私どもも、リリィ様のことを陰ながらお支えいたしますから」



 ミレイユの言葉は、まるで春の朝霧のように柔らかく心のさざ波を静かに鎮めてくれる。


 着替えが終わり、軽く髪をまとめてもらったあとリリィはミレイユに小さく頭を下げた。



 「ありがとうございます。……こんな私にも、優しくしてくださって」


 「ご自身をそんなふうに仰らないでください。公爵様が“お連れしたい”と仰ったのは、誰でもない、あなた様だったのですから」



 その“言葉の選び方”に、リリィの胸が少しだけ跳ねた。連れてきた、ではなく「お連れしたい」と。


 (……そんなふうに言ってくれたんだ)


 顔が火照るのを感じながらも、リリィは静かに立ち上がった。



 「それでは、朝食の間へご案内いたしますね。お足元にお気をつけくださいませ」



 ミレイユに続いて歩き出すと、廊下には朝の光が静かに差し込み石造りの床を白く照らしていた。淡く香る花の匂い。ゆるやかに流れる時間。


 ここが城でも宮でもないひとつの“守られた場所”であることを、五感が教えてくる。


 やがて扉の前にたどり着いたときミレイユが一礼する。



 「公爵様はすでにお越しです。どうぞ、肩の力を抜いて……気を楽に。公爵様はきっといつものリリィ様をお待ちです」



 (……いつもの、私)


 それがどんな自分なのか、まだよくわからない。でもそれでも今心に少しの勇気が芽生えていた。


 扉が静かに開かれる。その向こうに深い紫の瞳があると、そう思っただけで


 胸が、少しだけあたたかくなった。



   ◇ ◇ ◇




 扉が開き、朝の光が差し込む静かな食堂に、リリィは足を踏み入れた。


 高い天井と白を基調とした壁、飾り気のない設えの中に、整えられた食卓がひとつ。


 窓からは淡く射す光が、テーブルクロスの上に柔らかな影を落としている。


 その席の奥で、エリスはすでに腰を掛けていた。


 昨夜のような正装ではなく今日は軽やかな布地の、深い青みがかった衣をまとっている。


 整った黒髪はゆるやかにまとめられ、深い紫の瞳が、リリィの姿を静かにとらえていた。


 けれどそのまなざしは、どこか昨夜とは違っていた。肩の力が抜けている。けれどまっすぐにこちらを見ている。そのことが、なぜだかリリィの心にそっと触れてくる気がした。



 「おはようございます、リリィ様」



 エリスの声は低くけれど澄んでいて。朝の静けさに、少しも溶け込むようなやわらかさを帯びていた。



 「どうぞ、おかけください。……眠りにくくはありませんでしたか?」



 リリィは小さく首を振って席に腰を下ろした。



 「いえ。とても……あたたかくて、落ち着きました」


 「それはよかった。お腹が減っては、気も滅入りますからね。まずは、温かいものから召し上がってください」



 そう言いながらエリスは手元のポットから、リリィのカップにハーブティーを注いだ。香りは落ち着いていてほんの少しだけ甘さを含んだ葉の香りが、朝の空気に溶けていく。


 その香りにリリィは自然と力の入っていた肩を少しだけ緩めた。



 「……この香り、好きです」



 そう呟いた言葉にエリスはほんのわずかだけ目元を緩める。



 「私も、好きな香りです。気分が重たい時にも、少しだけ呼吸を整えてくれる気がして」



 食卓の上には、香ばしいパンや温かいスープ、果物の小皿が並んでいた。リリィはそっと手を伸ばし目の前にあった小さな丸パンを取って口に運ぶ。


 噛むほどに、やさしい甘さと焼きたての香ばしさが広がる。こんなに温かな朝食を、誰かと共に口にするのはいつ以来だろうと思った。



 「……おいしい、です」



 小さく漏らしたその声にエリスの表情がほんの少しやわらぐ。



 「気に入っていただけたのならよかった。……朝というのは不思議な時間ですね。何も言葉にしなくても、心が静かに整っていく」



 その言葉にリリィは一瞬迷ってからそっと頷いた。


 昨日は確かにすべてが怖かった。だけど今はほんの少しだけ息をするのが楽になっている。エリスの声が、仕草が、この空気が、そうしてくれているのだとわかるから。


 ふと、エリスがカップを置きながらリリィをまっすぐに見た。



 「……この朝が、少しでも心に残るようなものであれば、それだけで私は十分です」



 その言葉に、リリィは小さく瞬きをした。どう返すべきかわからない。けれど確かに胸の奥にあたたかなものが灯ったのを感じていた。



   ◇ ◇ ◇



 銀のティーポットから注がれたハーブティーが、淡く湯気を立てている。


 朝の光が静かに差し込む室内で彼女の横顔がその光に透けるように浮かび上がった。


 藍色の瞳に映る景色をエリスはそっと見つめる。その瞳はまだ少し戸惑っていてそれでも、昨夜よりもほんのわずかにやわらかさを帯びていた。


 (――不思議だな)


 彼女が目の前でパンに手を伸ばしている。緊張を隠しきれない仕草でけれど丁寧に、言葉を選ぶように。



 「……おいしい、です」



 その一言が、思いがけないほど胸に響いた。小さな声。けれど確かに届いた。


 (あのときの少女が、今)


 思い出すのはあの夜。命を落としかけて森に倒れた自分のもとに、小さな手が触れたときのこと。長い銀の髪を揺らしながら、怯えたようにそれでも勇気を出して近づいてきたあの少女が


 今、ここにいる。


 同じ空間で、同じ朝を過ごしているという現実が、信じられないほどに愛おしかった。


 (ずっと遠くから見ていた人が、こんなにも近くにいる)


 エリスは、静かにカップを持ち上げる。香りが心をほどくように鼻先をくすぐった。



 「気に入っていただけたのならよかった。……朝というのは不思議な時間ですね。何も言葉にしなくても、心が静かに整っていく」



 当たり障りのない言葉だったかもしれない。


 けれどそれ以上をいま無理に求めることはしたくなかった。焦らずに、ただこの時間を丁寧に重ねていければいい。


 彼女が、安心して食卓を囲めるように。それが、今の自分にできる最も優しい形だと信じていた。


 リリィの指先が、少しずつ自然に動いていく。


 カップの持ち方にもパンを取る手つきにもわずかながら慣れの兆しが見えはじめている。


 (少しは……眠れたのだろうか)


 その問いは直接口に出すものではなかった。けれど彼女の表情から読み取れるかすかなやわらかさに、昨夜よりも穏やかな心持ちが宿っていることを感じた。


 ふと、リリィがこちらを見上げる。その瞳がまっすぐにエリスをとらえた。


 光を受けてきらめく銀髪。しなやかに流れる長い髪の間からのぞくその横顔はどこか儚げで、けれど確かに凛としていた。


 その姿を見て、エリスは思わず目を細める。


 (……やっぱり、美しい方だ)


 初めてそう思ったのは、あの夜。朦朧とした意識の中で見た、光に照らされた彼女の姿が、まるで月の化身のように見えたとき。

 

 そして今その想いは静かに、けれど確かに再び胸の奥に灯った。


 まだこの関係は“契約”に過ぎない。けれどそれでも彼女の隣に座れるこの朝のひとときを、エリスは決して手放したくないと思っていた。



 「……この朝が、少しでも心に残るようなものであれば、それだけで私は十分です」



 その言葉に、リリィはほんの少しだけ目を丸くして、次いで目線を落としながらも小さく頷いた。


 心の奥で何かがふわりとほどける音がした。穏やかな朝。静かなぬくもり。


 この時間が彼女の記憶に「優しさ」として残るなら、それは何よりの救いになると、エリスは信じていた。



   ◇ ◇ ◇



 紅茶の湯気がゆらりと立ちのぼり、ほんのりとした香りが部屋を満たしていた。


 食後のティータイム。ようやく、胸の奥に張っていた糸が少しずつほどけていくのを、リリィは感じていた。


(こんなふうに落ち着いた時間を過ごすの、いつぶりだろう)


 目の前には、小さな茶菓子。そしてその向かい側には、公爵――エリスが静かにカップを傾けている。


 今朝、目覚めてからここまで、ずっと優しく扱われていることに、まだどこか実感が追いつかない。


 けれど、それが心地よいことだけは確かだった。


 そんなとき、ふいにエリスがカップを置く音が響いた。柔らかで、けれど少しだけ空気が変わる。リリィは思わず背筋を正した。



「……リリィ様。お食事のあとのひとときを邪魔するようで心苦しいのですが、お伝えしなければならないことがあります」



 声の調子は穏やかだったが、どこか慎重でもあった。


 リリィは静かにうなずく。



「……はい。」



 エリスは懐から一通の封書を取り出し、卓上へそっと置いた。端に刻まれた紋章を見た瞬間、リリィの胸が小さく跳ねた。



「フォルテ侯爵家からの文です。先ほど、使者がこちらに参りました。書面によれば、近いうちに一度、お戻りいただきたいとのことでした」



 紅茶の香りがふと遠くなる。


(……やっぱり、そうなるんだ)


 わかっていたはずなのに、実際に言われると体の芯がひやりと冷えていく。



「……急ぎでは、ないのですね?」



 リリィはなるべく感情を込めぬよう、平らな声でそう尋ねた。



「ええ。あくまで、“可能な範囲で”という表現でした。ただ立場上、丁重に対応されたほうがよろしいかと思います」


 窓の外、丁寧に手入れされた庭園の緑が静かに揺れている。穏やかな景色なのに、胸の内には重たいものが忍び寄ってくる。


 エリスは、少しだけ表情を柔らげて続けた。



「……リリィ様。もし、お戻りになるのがご不安でしたら、私がご一緒いたします。この契約が“恋人”というかたちである以上、貴女の傍にいることも含まれていると、私は考えております」



 一瞬、息が止まりそうになるほど優しい申し出だった。


 リリィはカップを持つ手をゆっくりと置き、視線を伏せる。不安も、迷いも、嬉しさも、全部が胸の奥で混ざって渦を巻いていた。


(……どうして、こんなにも自然に、こんなにもまっすぐに)


 たとえ契約の関係であっても、彼女の中で何かが変わっていくのがわかる。遠くからしか知らなかったこの人が、今確かに自分のすぐ隣にいる。



「……ありがとうございます、公爵様。すこしだけ……考えさせてください」



 精一杯、穏やかに答えるつもりだった。

でも、声の奥ににじむ揺れを自分自身が一番よくわかっていた。


 エリスは、それ以上何も言わなかった。ただやわらかくうなずいた。


 紅茶の香りが静かにまた二人の間を流れる。その香りの向こうで、リリィはそっと、心に問いかけていた。


(私のために傍にいてくれる人が、いる……。でも、甘えてばかりでは……きっと、でもまたあの屋敷では声を失ってしまう)


 少しずつ、自分の足で立つために。この人の隣に、ちゃんと“自分”としていられるように――


 胸に生まれた決意の種が、そっと小さく芽を出す音がしたような気がした。




「天気もよろしいようです。……もし気が向かれましたら、散歩などいかがでしょうか。考えを巡らせるにも、歩きながらの方が心が軽くなることもありますから」



 紅茶を飲み終えたリリィに、エリスはそう穏やかに提案した。窓の外には陽光が差し込み、草木の緑が生き生きと風に揺れている。


(散歩……)


 少し戸惑いながらも、リリィはその言葉にうなずきを返す。



「……はい、すこし歩いてみようかと思います」


「それは何より。私もご一緒したいところですが、少々、執務に戻らなければなりません」



 エリスはそう言ってゆるやかに立ち上がる。その所作は柔らかく、けれどどこか名残惜しさを含んでいるようにも見えた。



「気分が優れなければ、すぐにお戻りください。ミレイユが近くに控えておりますから」


「……はい。ありがとうございます、公爵様」



 互いに軽く頭を下げ、エリスは部屋を後にした。扉が静かに閉まり、室内に残された空気が一瞬だけ揺れる。


 それから間もなく、侍女のミレイユが静かに現れた。



「リリィ様、お散歩のご希望と伺いました。お庭へご案内いたしますね。……とはいえ、お一人の方がよろしいようにも見えましたので、私は入口のほうで控えております。ごゆるりとお過ごしくださいませ」



その気遣いにリリィは思わず微笑む。



「ありがとうございます、ミレイユ」



   ◇ ◇ ◇



 石畳を踏むたびに、花の香りがふわりと風に乗る。庭は手入れが行き届いており、咲き誇る花々が季節の色を映していた。


(……静かだ)


 陽だまりの下を歩きながら、リリィはふと遠い記憶に思いを馳せた。


(王太子殿下との婚約が決まったのは、確か十三の時だった)


 淡く咲く花のような期待と、けれどそれ以上に押し寄せる“役割”という重圧。婚約者として、王妃候補として常に正しく、品位を持ってあれと育てられた日々。


(けれど、殿下は……一度だって私の名前をまともに呼んだことはなかった)


 会話は表面だけ。交わす言葉には温もりがなくただ儀礼と体裁の仮面ばかりだった。そして別の令嬢との関係が明るみに出た日――すべてが静かに壊れた。


「もう用はない」


 そう言われたような気さえした。


(戻ったところで、きっとまた“あの日の続き”が始まる。“なぜ破談になったのか”を責められるか、“次の縁談”を用意されるか)


 きゅっと胸が痛んだ。けれど、同時に思い浮かぶのは――今朝、目覚めたときの空気。


 柔らかいベッド。丁寧に用意された服。そして、何よりも――


(あの人の声。私を“リリィ様”と呼ぶ、その声は……本当に私に届いていた)


 それは、ただの契約の相手としてではない、気遣いと尊重に満ちた声だった。


 甘えたくなる自分が確かにいた。このまま傍にいたら、守られたままでいたいと思ってしまいそうだった。


 けれど、それではいけない。それでは、エリスの隣に立つにはまだ足りない。


(……行こう。私の言葉で、私の意思で)


 侯爵家に戻ることは、またあの重い空気の中に身を投じること。けれど、それでも逃げずに自分の足でそこに立つことが、いまの自分には必要だった。


(私はもう、ただの“駒”じゃない)


 心の中で、そう小さくつぶやいた。


 風が髪を揺らし、朝露の残る花の香りが胸の奥に届く。リリィは、ゆっくりと深呼吸をしてそっと空を仰いだ。


 空は澄み、まるで彼女の決意を祝福するようにどこまでも高く広がっていた。





 陽の光がやわらかく差し込む庭の小道。散歩を終えて屋敷へ戻るリリィは、心の中に芽生えた小さな決意をそっと握りしめていた。


(ちゃんと、自分の言葉で家族へ伝えたい)


 そんな思いを抱えたまま、石畳を歩いていると屋敷の扉の向こうから、ミレイユの姿が現れる。



「……おかえりなさいませ、リリィ様」



 ミレイユは深く頭を下げると、顔を上げてほっとしたように微笑んだ。



「よいお散歩になったようで。……顔色が、とても明るくなっていらっしゃいます」


「えっ……そう見えますか?」



 思わずそう返すと、ミレイユは少し口元をゆるめてから、片手を口に添えて言った。



 「はい。先ほどまでのリリィ様は……そうですね、雨に濡れた子犬のようなお顔でしたから」


「……今度は子犬ですか?」



 苦笑交じりに言い返すと、ミレイユは「失礼いたしました」と一応詫びながらも、どこか楽しげに言葉を続けた。



「でも、いまは“自分の足でちゃんと歩いてる子犬”に見えましたよ。あっ、犬呼ばわりするつもりではございませんので」


「もう……」



 ふふ、とリリィは小さく笑う。ミレイユはそれを見て、少しだけ声を潜めながら今度はこんな話を口にした。



「公爵様は、昔からああなんです。とっても優しいお方なのに、それをあまり表に出そうとされなくて……。まるで氷の彫像のように、涼しい顔で人を助けるんですから」


「……それって、褒めてるんですか?」


「ええ、一応。そう見えて、実は紅茶は甘いもの好まれますし、読書をしていると寝落ちしてしまうこともあるのですよ。でも、その寝顔は子供みたいで……って、これは内緒ですよ?」



 リリィは驚いたように目を丸くし、それからぷっと吹き出すように笑ってしまった。



「まさか、公爵様にそんな一面が……」


「おありなんです。たぶん、ご本人は絶対にお認めになりませんけれど」



 ミレイユは満足げにうなずいてから、少し表情をあらためてリリィを見た。



「そんなふうに、すこしずつでも“知っていただける”ことを、公爵様はきっと望んでおられると思います。ただ守るだけではなくて。隣に並ぶ誰かとしてちゃんと“共にある”人を」



 言葉の奥に、深い尊敬と親しみの混ざった響きがあった。それは、長く仕えてきた者にしか持ちえない、静かな愛情の形だった。


 リリィは胸の奥で、なにかあたたかいものが満ちていくのを感じる。


(この屋敷の人たちは、こんなふうに、公爵様を見ているんだ)


「……執務室に、お伺いしてもいいですか?」


 リリィがそう尋ねると、ミレイユはにっこりと笑った。



「もちろんでございます。――お気持ちを、どうかそのまま、公爵様にお伝えくださいませ」


「……はい」



 その返事とともに、リリィは小さく息を吸い、顔を上げた。


 屋敷の奥、あの人が待つ部屋へ。自分の足できちんと歩いていこう。


 その後ろ姿を、ミレイユはそっと見送りながら、声には出さず小さくつぶやいた。


(……さて、公爵様の反応が楽しみですね)


 まるで、少しだけ意地悪な姉のような眼差しで。



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