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金糸のシャンデリアが光を散らし、絢爛たる舞踏会場を照らしていた。
春の夜、王都にある王城で開かれた祝宴には、百を超える貴族が集まっていた。
その中心に立つのは、名門フォルテ家の次女、リリィ・フォルテ。
清楚な銀髪を後ろで編み、緋色のドレスに身を包んだ姿は、見る者すべてを魅了するほどだった。
だが、彼女の目元はどこか硬く、唇には不自然な笑みが浮かんでいた。
「――本日をもって、我が王太子殿下とフォルテ家令嬢との婚約は解消される」
その瞬間空気が一変した。
音楽が止まりざわめきが広がる。貴族たちは動きを止め、壇上の二人を見つめていた。
そしてリリィは動じなかった。
「……理由をお聞きしても?」
ただ静かに問いかける。表情ひとつ崩さず。王太子は居心地悪げに視線を外し、こう言った。
「私には、ふさわしい方が別にいる。……君には感謝している。だがこれが、私の決断だ」
浅い息。震えそうな指先を、リリィはドレスの中でそっと握りしめた。
「――承知いたしました」
わずかにお辞儀をするその所作は、まさに“貴族令嬢”の鑑だった。
(……わたくしは、最初から“王太子の花嫁”であることを求められていただけ)
それでも、心がまったく傷まないわけではない。どれだけ冷静を装っても、胸の奥にぽっかりと空いた穴は、自分でもわかっていた。
その場を離れようとしたとき、彼女の前に一人の女性が歩み出た。
「この場に一人で立たせるには、少々残酷な夜だと感じました。よろしければ、お傍に参っても?」
低く、落ち着いた声。銀糸のような黒髪を束ね、紺の正装を身にまとうその女性は、目を奪うほどに整った顔立ちだった。
「……貴女は……」
「エリス・グランチェスター。ルクレール公国の公爵です」
その名を知らぬ貴族はいない。若くして隣国の公爵を継ぎ、「氷の公爵」と称される才女。
だが今、彼女の瞳には冷たさの代わりに、どこか人の温もりのようなものが宿っていた。
迷いの末に、リリィはその手を取った。
◇ ◇ ◇
王太子は、会場の隅で凍りついたように立ち尽くしていた。
彼の表情には、明らかな動揺と――どこか、後悔の色が浮かんでいた。
つい先ほどまで、自らの意思で“見限った”令嬢が、今、隣国の名高き女公爵に手を取られようとしている。
それが、どれほどの意味を持つのか。
いや、そんなはずはない。捨てたのは自分だ。価値がないと判断したのは、他でもない自分自身だった。それなのに、彼女は、まるで“選ばれた存在”のように立っていた。
「……なぜ、あの女公爵が……」
吐き出すような呟きが、誰に聞こえることもなく零れる。
エリス・グランチェスターは、決して他人と距離を詰めることのない、孤高の存在。貴族たちの間でも「他者に心を許さない氷の令嬢」と噂されていた。
その彼女が――今、自らの意志で舞踏会の中心に足を運び、一人の少女に手を差し伸べている。
まるで、「この人こそが、私にふさわしい」とでも言うかのように。
それは、王太子にとって思いもよらぬ光景だった。
貴族たちもまた、ざわめき始める。リリィの名を囁き、エリスの行動に言葉を失いながら、視線を向けていた。
――誰もが目撃していた。
婚約破棄された令嬢が、その場で別の“未来”を選び取る瞬間を。
◇ ◇ ◇
馬車の内部には、外の喧騒とは別世界の静けさがあった。
リリィは窓の外をぼんやりと見つめながら、息をひとつ吐いた。
――舞踏会のあの場から離れても、心のざわめきは消えない。
王太子に突然婚約を破棄された。いや、気づいていた。あの人の心は、もう自分には向いていなかったことに。
でもそれを本当に「終わり」として告げられると、思っていた以上に……虚しさが残る。
(わたしは、これから……どうすればいいのだろう)
このまま家に戻れば、母は泣き、父は憤るだろう。姉は平然と哀れむかもしれない。誰もわたしの気持ちを聞こうとはしない。
あの王太子との縁談に、どれほどの意味が込められていたか――政治的にも、家の誇りとしても。
けれど、彼女は見ていた。エリス・グランチェスターはただ一人、“リリィ・フォルテ”その人を見つめていた。
「……お礼を言わねばなりませんね。あの場で手を差し伸べてくださって、ありがとうございます」
沈黙の中、ようやくそう口を開いたリリィに、エリスは静かに首を振った。
「礼を求めたつもりはありません。……ただ、そうするべきだと感じたからです」
「でも、わたしには……とても大きな意味があったんです。だから……」
少しの間、リリィは言葉を選ぶように黙った。胸の内で何度も繰り返していた問いがあった。
――この人は、どうして私にここまでしてくれるの?
そして、もう一つ。
――私は、どうしたいの?
(きっと、今なら……)
少しの沈黙ののち、リリィは意を決したように顔を上げた。
「エリス様」
「……はい」
「とても、突拍子もないお願いをするかもしれません。でも、どうか聞いていただけますか」
エリスは黙ってうなずいた。
リリィは小さく息を吸い込み、そしてまっすぐに告げた。
「契約でも構いません。わたしと、“恋人”になっていただけませんか?」
馬車の静寂が、時を止めたかのように深まる。
エリスのまなざしがわずかに揺れた。
「……それは、どういう意味で?」
「正直に言うと、わたしは今、何が正しいかも、何を望んでいるのかも、よく分かっていません」
リリィは視線を伏せ、けれどしっかり言葉を継いだ。
「ただ一つ、はっきりしているのは――貴女が、あの場でわたしを一人にしなかったこと。それが、わたしにとってどれほど救いだったかということです」
「……」
「だから、どうか……お礼をさせてください。わたしが貴女にできることは少ないかもしれませんが……もし、契約でも仮初めでも、あなたの隣に立てるのなら……」
ほんの少しの沈黙。
リリィは、最後にほほえんだ。
「――わたしにチャンスをください」
◇ ◇ ◇
「――わたしにチャンスをください」
その言葉が落ちた瞬間、馬車の中に小さな静寂が訪れた。
私は、彼女の顔を見つめたまま返事ができずにいた。まっすぐで、どこか傷ついたような、けれど逃げていないその瞳。
それが――あのときと、重なって見えた。
◇ ◇ ◇
十七のとき、私は戦の最前線にいた。敗走中に味方とはぐれ、森をさまよっていたところを敵に囲まれ、剣を振るうことさえできずに倒れ込んだ。
右脚からは出血が止まらず、肩も焼けるように痛んだ。命が尽きるのは時間の問題だった。
地面に横たわり視界が揺れ始めたそのとき。
「……ひと?」
小さな声が森の奥から響いた。
驚いて目を細めると、草の間から現れたのは――籠を提げた、小さな少女だった。
麦わら帽子に白いワンピース、そして銀色の髪。驚きに目を見開いたまま、それでもその場を離れず、震える手で私に近づいてきた。
「まってて……すぐに、すぐに手当するから」
少女は自分の頭に結んでいた淡い青のリボンをほどき、傷口に巻きつけるようにして血を止めようとした。
その小さな手が、あまりに真剣で、あまりに優しかった。
リボンはすぐに血で染まり、ぎこちなく巻かれた布が私の肌に触れたとき、私は思った。
(ああ……まだ、生きたい)
少女は私の目を見て、少しだけ笑った。
「だいじょうぶ……助けを呼んでくるから」
そして、森の奥へと駆けていった。
少女が去ったまもなく味方の騎士たちが到着し私は一命を取りとめた。
治療のあと、あのリボンは兵たちが私の荷物に入れてくれていた。血で汚れてしまって元が何色かも分からなくなってしまったあのリボンを。
血に染まったリボンを洗い、私は丁寧に包み今も箱に入れて保管している。いつか、この命の礼を伝えるときが来るかもしれない。そう思って。
それから数年後――
音楽会の片隅で、私は再びあの少女を見つけた。銀髪、藍の瞳、優雅な立ち姿。そして何より、あの眼差し。
彼女の名は、リリィ・フォルテ。
あのときの少女だと、私は確信した。
けれど、彼女は王太子の許嫁だった。私が立ち入る資格などない。だから、見守ることしかできなかった。それが私なりの礼のつもりだった。
だが、舞踏会で――彼女は捨てられた。
あの時と同じだ。ただ今度は彼女が“誰にも気づかれず血を流していた”。
私は耐えきれず、足を踏み出していた。あの手を救われた自分ではなく“今の私”として、今度は取ってほしいと思ってしまった。
◇ ◇ ◇
そして今、彼女が言った。
「わたしにチャンスをください」
その声は、揺れながらも、確かだった。かつて私に「大丈夫」と言ったあの少女の声と、何ひとつ変わらない。
それが礼であっても、私のことを選んでくれたことに、胸が締めつけられそうになる。
(……礼なんかじゃなくていい。けれど今は、言葉にする自信がない)
私はそっと視線を伏せ、深く息を吸った。
そして、なるべく感情を抑えながら、静かに答えた。
「……契約でも構わないのなら。私は、あなたの“恋人”になります」
リリィの瞳がわずかに揺れた。でもすぐに、微笑が浮かぶ。小さく安心したような優しい笑みだった。
私はまだその微笑みにどう応えていいのかわからない。けれど、この手を離さずにいよう――今はそれだけで十分だと思った。
◇ ◇ ◇
馬車がゆっくりと止まり御者の「到着しました」の声が響いた。
窓の外を見ると、見たことのない建物が目に入った。王都にあるような石造りの堅牢な館ではなく、丸みのある塔と優美な庭をもつ、どこか異国の空気を纏った建物――ここが、わが国の迎賓館なのだろう。
扉が開かれたとき、外の夜風がすっと頬を撫でた。同時にまったく違う空気のにおいがした。
少しだけ躊躇してから、私はそっと一歩、地に足をつけた。緊張で足元がふわりとするのを、ドレスの裾を握ることでなんとか落ち着ける。
「……おや? まさか、女性の同伴者とは」
馬車の横で出迎えていた護衛の一人が、目を丸くして言った。
その後ろから現れた年配の執事らしき人物が、私を見るなり、少し慌てた様子で頭を下げる。
「公爵様、事前のご予定にはなかったかと……」
「予定外だったわ。でも、必要なことだったの」
エリスはそう短く返すと、ちらりと私を見て微笑んだ。どこか嬉しそうに感じるのはわたしだけだろうか。
「おやおや、まさか恋人をお連れとは……これはこれは、春が来ましたなあ」
軽口を叩いた護衛の青年に、もう一人の女性使用人がすかさず肘を突く。
「馬鹿言ってないで、令嬢に失礼でしょうが!」
「い、いえ、そんな……!」
私は慌てて首を横に振ったが、そのやり取りに肩の力が少しだけ抜けたのを自覚した。
こんなふうに軽口を言い合うような、温かい空気が流れているなんて、正直想像していなかった。
(公爵家ってもっと……静かで、冷たくて、厳しい場所かと思ってた)
そして何より――
(この人も、“氷の女公爵”なんて呼ばれてたけれど……)
隣で、ごく自然に私を受け入れ、周囲に何も言わせない空気を保ちながら、必要以上に気負わずけれど決して私を“放り出さない”。
たったそれだけの仕草が、どれほど心強いものなのか私はこの数時間で知った。
「部屋を整えて。できるだけ落ち着ける場所を。あと執事を一人フォルテ家に、彼女をこちらで保護していると伝えてきて」
「かしこまりました、公爵様」
彼女の指示は淡々としていて、けれどどれも“私”のためのものだった。冷たいと言われるその背には、静かな炎がやさしい炎が灯っているように見えた。
エリス様は使用人たちと話を終えるとこちらに向き直った。
「リリィ様。よろしければ、まず湯浴みをなさってください。道中のお疲れもあるかと思いますので」
「……はい、ありがとうございます」
「部屋の準備はその間に整えます。侍女がご案内いたしますので、ご安心ください」
その言い回しは丁寧でどこか距離を保っていたけれど、優しさが滲んでいた。私を無理に詮索しようとせずそっと包もうとする配慮。
「こちらへどうぞ、リリィ様」
先ほどの侍女がやわらかく微笑みながら案内してくれる。
振り返るとエリス様は微かに会釈したのち、そのまま背を向けて邸内の奥へと歩いていった。
(……本当に、あの人は“噂通りの冷たい公爵”なんだろうか)
そう思ったまま、私は静かに湯の間へと歩き出した。
そうして案内してもらい湯浴みを終えた体を、ふんわりとした布で包みながら私は扉を開いた。
そこには先ほどの侍女が待っていて、変わらぬやわらかい笑顔で私に頭を下げる。
「お疲れさまでした、リリィ様。お部屋のご用意が整っております。どうぞこちらへ」
廊下はしんと静まり返っていて、蝋燭の揺れる光が床を照らしていた。この国の建物なのに、どこか異質な静けさがある。
エリス様が過ごすために整えられた迎賓館。その空気の中に、確かに“あの人らしさ”が滲んでいる気がした。
案内された扉が静かに開く。なぜか小さな「カチリ」という音すらやさしく響いた気がした。
「何かございましたら、鈴を鳴らしてくださいませ。お休みなさいませ、リリィ様」
そう告げて侍女が静かに扉を閉めると、部屋に再び深い静寂が訪れた。
部屋はあたたかかった。
入った瞬間ひんやりとした夜気ではなく柔らかな空気に包まれる。窓は少しだけ開けてあり、星空が見えるようにカーテンが結ばれていた。
(……星がよく見える。わたし、星が好きって……言ってたっけ?)
覚えがない。でも、あの人なら聞き流した何気ない一言さえ拾っていそうだ。
ベッドの脇には小さな香炉。湯浴み前にも感じたあの甘くて穏やかな香りが、部屋全体をやさしく包んでいた。
枕元には小さな銀のトレイに載せられたハーブティーのカップ。湯気はもう薄れていたけれど、まだぬくもりは残っている。少し冷めてしまっているが湯浴みをしたあとには丁度いいと感じる温度。
(緊張を和らげる夜用の……)
ベッドの上には軽く温められたシーツと、ふわふわの掛け布。
寝間着も肌あたりのやさしいもので、冷えないように厚みのある上掛けも備えられていた。
何も言われていない。置き手紙もない。
けれどひとつひとつが「ようこそ」と言っているようだった。
(……こんなの、ずるい……)
私はそっと、寝間着に袖を通しベッドに腰を下ろす。まるで、自分が“ここにいていい”と許されたような気がした。
シーツに体を沈めると思わず息が漏れる。
(今日一日……長かったな)
王太子からの婚約破棄。噂にさらされる視線。そして、彼女が差し出してくれた手。
(……契約でもいいから)
あのとき、なぜそんなことを言ってしまったのか。いまさら答えは出ない。
けれど――
公爵様は迷いなく受け入れてくれた、あの人の声を私は忘れない。
甘い香りが、心にまで沁みてくる。まぶたが重くなって、星の光が少しずつ霞んでいく。
(……もう少しだけこのままで)
気づけば私は、そっとシーツを握ったまま、深い眠りへと落ちていった。
◇ ◇ ◇
迎賓館の外には虫の音だけが残り、灯りを落とした廊下は、まるで深い森のような静けさを纏っていた。
執務室の机の上には、整理しきれなかった報告書が積まれている。けれどその文字たちは、今のエリスの目にはどこか遠くに霞んでいた。
思考がふと、別の場所へ引き戻されそうになるたびに、ペンを握る手にわずかに力が入る。
(……彼女は、よく眠れているだろうか)
そんな問いが心に浮かぶたび、自分らしくないと思う。
そのとき、控えめに扉がノックされた。
「失礼いたします、公爵様」
静かに開かれた扉の向こうには、侍女ミレイユがいた。その背後には控えていた老執事クラウスの姿。
「リリィ様、湯浴みを終えられ、お部屋でお休みになりました。とてもお疲れのご様子でしたが……香炉の香りにほっとされているようでした」
「そう、良かったわ。対応を任せて悪かったわね」
エリスがそう告げると、ミレイユはふと唇に笑みを浮かべ、いたずらっぽく首を傾げた。
「ですが、公爵様――あの香炉、お選びになったのは“偶然”ではないのでしょう?」
「……どうして、そう思うの」
「寝具の肌触りから湯の温度、香りの種類に至るまで、まるで“彼女の好きなもの”を全部並べたような調え方でしたもの」
やわらかな声音。けれど、含みのあるその目に、エリスはわずかに視線を逸らした。
その様子に、背後で控えていたクラウスが、喉の奥でくくっと笑う。
「公爵様が、あそこまでご自分で細かく指示されたのは――あの方が初めてにございますな」
「……偶然よ。記憶に、残っていただけ」
「なるほど。偶然とは……こうも都合よく重なるものですな」
クラウスの声音には、からかいではなく、どこか懐かしさが滲んでいた。
エリスはふと、机の端に置かれた小さな木箱へと視線を落とす。指先で蓋をそっと開けると、中には一本のリボンが、静かに横たわっていた。
その色は、もう定かではない。戦火の中、彼女が結んでくれたあの日。自分の傷から溢れた血がその柔らかな布地を染めた。
いくら洗っても落ちることはなかった。元の色がどんなだったのかさえ、今はもう思い出せない。
それでも、捨てることなど、一度も考えたことはなかった。
(……こんなものを、まだ手元に置いているなんて)
愚かだと笑う者もいるだろう。けれどこの手の中で、命を繋いでくれた温もりは今も確かにここにある。
「クラウス。私が顔に出しすぎているかしら」
「ええ。まことに見事なまでにですな」
「……そっけない返事ね」
「ですが、それが公爵様のご誠実さでございます。お心に真を持たぬ方ならば、わざわざこんな香りもその他全て選ばぬでしょう」
そう言って、クラウスは静かに一礼した。
「リリィお嬢様は、ようやくご自身で一歩を踏み出されました。ならば公爵様もまたただ見守るだけの位置には、いらっしゃらぬのでは?」
ミレイユも続けて、柔らかく笑う。
「公爵様。どうかご自身の気持ちにも気づいて差し上げてくださいませ。その瞳はとても嘘がつけていません」
ふたりが出ていったあと執務室には再び静寂が戻る。
蝋燭の灯が小さく揺れ、影がふたたびリボンを包み込んだ。
(……あなたが、あの夜のことを覚えていなくても構わない)
でもどうしてもこの手からこれだけは離せなかった。
それが、誰にも語ることのなかったただひとつの本音だった。
◇ ◇ ◇
執務室の扉が閉まる音が、重く夜の静けさに溶けていった。ふたりは廊下を並んで歩く。蝋燭の灯が、長く揺れる影を落としていた。
「……やっぱり、あの方は何も仰らないのね」
ミレイユがぽつりと呟く。その声音には、少しだけくすぐったそうな、けれど確かな温かさが含まれていた。
「昔から、そういうお方です」
クラウスは前を向いたまま、淡々と返す。その声の奥にあるのは、長年仕えてきたからこそ知る、変わらぬ信頼。
「でも……今夜のお迎えには、やっぱり何かがあったんでしょう。あの方が香りの調合まで直々に決められるなんて、いつ以来かしら」
「そうですな……十年前、戦から戻られてすぐ、包帯代わりに巻かれていたリボンをあの細工箱に静かにしまわれた日以来でしょう」
ミレイユの足が、少しだけ止まった。そっと振り返ると彼女はふっと微笑み声を潜めた。
「……あのリボン。今でも変わらずあの場所にありますものね。あれほど丁寧に、埃ひとつないように仕舞われている品、他に見たことがありません」
「ええ。色も形ももう元には戻りませんが “あの夜”のことを思えば、当然のことでしょう」
「クラウス様、覚えていらっしゃいます?
あの方が少女の行方を探して、あちこちの村や名簿を調べておられた頃。“名前も知らぬ、ただひとりの子を”って」
「……ええ。名を知る術もないのに、誰よりも真剣に。“命を繋いだ恩があるのだ”と、それだけで」
ふたりの声が少しだけ遠くなり、蝋燭の炎が静かに揺れた。
「それが……リリィ様、なのでしょうか」
問いかけたミレイユの声は、あくまで静かで慎ましい。
クラウスはすぐには答えず、しばし廊下の先に目をやった。やがてゆっくりと口を開く。
「……あの方の様子を見ていれば、確証などなくとも、思わずにはいられません。“ようやく見つけた”と。まるで、何年も心のなかで描いていた姿と重なるようにただ静かに見つめていた」
ミレイユはそっと頷いた。
「本人は――やっぱり、言葉にはされませんね」
「ええ。いつものことです。ですが、我々は見守るのが務め。そしていざという時のために言葉の代わりになる準備をしておかねばなりません」
「……それでも、願ってしまいますね」
ミレイユはそっと息を吐き小さく呟く。
「もし本当に、あの方が探し続けてきた少女がリリィ様だとしたら……今度こそ失わずに済みますようにって」
「その願いは、我々ふたりだけの胸にしまっておきましょう。あの方が自ら口にされるその時まで」
クラウスは小さく笑い、ふたりは再び静かに歩き出す。夜はまだ深くけれど、どこかで朝の気配が忍び寄っているようだった。