8.殿下、そんな顔もするんですか?
「甘いね」
にこやかに笑っているはずなのに、目が冷たい。声にも嘲笑がにじんでいる。
「ああ、それとも偽善者? 君は誰にでも優しい自分に酔っているってことかな」
「え……」
棘のある言葉がシリルから発したものだと理解するのに時間がかかって反応が遅れた。
「その……そういうつもりではありません」
「そう。どちらにしても君の考えが甘いことに変わりはないけれどね」
綺麗な笑顔でばっさりと切り捨てられて、困惑した。
(そ、そんな言い方しなくても……というか、やっぱり怒ってる?)
アンナとサラに対しての圧は、お金の無心を受けたからだと思っていた。
けれど結果的に渡すのはルイーズが貯めていたお金だし、シリルに迷惑はかけていないはずだ。冷たい言い方とは裏腹に笑顔を崩さないシリルに背筋が寒くなる。
沈黙が痛い。
何も言えずにいると、話を終わらせるようにシリルが背を向ける。
「ああ、それと」
ドアノブに手をかけたところで、シリルが思い出したように振り返った。
「クロードと随分親しくしているようだけれど、あまり彼ばかりと親しくするのはどうかと思うよ」
「え? ですが、クロードさんはシリル様の側近騎士のお一人ですよね?」
パーティーの時も、ルイーズの護衛を任せていたくらいだ。
「そうだね。でも、だからといって必要以上に仲良くする必要はないだろう。さっきのことといい、君はもう少し警戒心や猜疑心を持った方がいい」
いまだに呆れられていることが、声色でわかった。
確かにアンナやサラに対しての話はまだ言いたいことがわからなくもないけれど、昔馴染みであるクロードとの関係を言及されるのは不思議だった。
(そういえばクロードさんが『シリル様に嫌われている』と言っていたけれど……)
やっぱり、何か事情があるのだろうか。
「それじゃあ、僕は先に行くよ。また夕食で」
「はい……」
シリルが出て行き、一人部屋に取り残される。
(まさか、あんなことを言われるとは思わなかったわ)
基本的に笑顔を絶やさず、優しくて柔らかな雰囲気をまとった人。品があって、気遣いだって忘れない。王子として完璧な人なのに、掴めない。どこか一線を引かれているように感じていたのは気のせいじゃなかったらしい。
(……誰にだって優しいのは自分のほうよね? 掴めない人だと思っていたけど、隙がないんだわ)
思い返せば、彼はルイーズだけではなく、イネスやオーブリー、レオン――誰に対しても同じような態度だ。
心に触れることを許されないような、そんな壁。初めて見た冷たいシリルの反応に、ルイーズは彼のことがわからなくなった気がした。
「……」
戸惑いが胸に広がる。動けないルイーズを、戻ってきていたイネスがドアの隙間から心配そうに見つめていることには気づかなかった。
「いいお天気……」
翌日。朝食を終え、一人庭に出たルイーズはベンチに腰を下ろして花々を眺めていた。
読みかけの本を隣に置き、花の香りを含んだ清々しい空気を吸い込んで大きく吐き出す。
「ルイーズ様、おはようございます」
「! クロードさん」
「お散歩ですか?」
「はい、花を見に来たんです。もうすぐそこのバラが満開になると庭師のマルクに聞いて」
「ああ、本当ですね」
バラに目を遣ったクロードが、口元だけでかすかに微笑む。
「あ、お時間が大丈夫でしたら座ってください」
「いいんですか?」
「もちろんです!」
笑顔で答えると、クロードの頬が微かに赤くなった。
「クロードさん?」
「あ、いえ。失礼いたしますね」
隣に座ったクロードが、もう一度バラを見遣る。
「そういえば、ルイーズ様はお花が好きとおっしゃっていましたね」
「覚えててくださったんですね」
「もちろんです」
クロードとは、こうして庭で会うたびにいろんな話をするようになっていた。
(なんだか、シリル様よりもクロードさんについてのほうが詳しくなってる気がする)
シリルには『警戒心や猜疑心を持った方がいい』と言われたけれど、現状クロードに対して気にかかることは特にない。
ふとクロードの視線が、首元に流れる。
「クロードさん?」
「ああ……失礼いたしました。綺麗なネックレスだと思いまして」
「ありがとうございます」
「どこで買われたものなんですか?」
「これは母の形見なんです」
「お母様の? 確かクラルティ家は……」
「アンナは義母にあたります。実の母は私が幼い頃に亡くなっていまして」
「そうでしたか……」
クロードの凛々しい眉が、切なそうに中央に寄る。気を遣わせてしまったのかもしれない、とルイーズは慌てて笑顔を作った。
「そうだ。これからバラ以外にも見頃の花が増えるそうですよ」
「それは楽しみですね」
「クロード、そろそろ行くぞー!」
遠くからクロードを呼ぶ騎士の声が響いた。どうやら仕事の時間らしい。
「すみません、本日はここで失礼いたしますね。またお話してください」
「はい、また」
クロードを見送り、読みかけの本を手にとったところで足音が聞こえた。
「ルイーズ様……」
重い声に導かれるようにして顔を上げた先には、神妙な顔をしたイネスが立っている。
「どうしたの?」
「……殿下とは仲よくやっておられますか?」
「え?」
脈絡のない質問に、目を瞬かせる。促してようやく隣に腰を下ろしたイネスが、膝の上でぎゅっと手を握り、眉根を寄せた。
「その……出過ぎた質問かと思ったのですが、結婚式の夜以来、一度もご一緒に寝ていらっしゃらないですよね?」
イネスの声色からは、心配が伝わってくる。イネスも表向きの事情――シリルがルイーズに惚れたという設定――を信じきっているのだから、気を揉むのも当然かもしれない。
(本当はその夜も一緒に寝てないんだけれど……)
とてもそんなことを言い出せる雰囲気ではなく、慌てて頭の中で言い訳を整理した。
「寝室は基本的に別で、とお話していて。私も寝相がよくないし」
「……そうでしたっけ?」
不思議そうな顔を見て、朝起こしてもらったこともある専属メイド相手にする言い訳ではなかったかもしれない、と今更気がついた。困ってしまって、とっさに曖昧な笑みを浮かべる。
「もちろん私に強制する理由も権利もありませんし仲がよいのでしたらかまわないのですが、もし何かお悩みごとがあるのでしたら私でよければお話くださいね」
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫よ。シリル様はお優しいし、そのおかげで私も少しずつここの生活に慣れてきているから」
「それならよいのですが……先日 アンナ様とサラ様がいらした時、殿下の様子がいつもと違って見えたので気になっていたんです」
「え」
「申し訳ありません。盗み聞きをするつもりではなかったのですが……」
イネスは歯切れ悪く、シリルの冷たい表情の話を広げた。
「あの〝微笑み王子〟があそこまで怒るところを見たんです。きっとルイーズ様のことが大切だからこそだと思うのですが」
「ええ、私もそう思います」
突然割り入ってきた声に肩を跳ねさせる二人の傍に、いつの間にかオーブリーが立っていた。
「び、びっくりしたわ。いつからそこに?」
「たった今です」
眼鏡のツルを押し上げたオーブリーが、にこやかに目を細める。
「殿下はいつも国民や我々の期待に応えようと、笑顔を絶やさず、理想の王子として振舞っているのですよ」
(……理想の?)
「とにかく。私もあの殿下が怒りをあらわにするほど大切になさっているルイーズ様との仲は気になっています。お二人には仲良くいてほしいですから」
「わかります。私もです!」
オーブリーの言葉に、イネスも前のめりで答える。
「ルイーズ様、殿下のことはお好きなんですよね?」
「え、ええ……」
「じゃあ、なぜ一緒にお休みになられないのですか?」
心配そうな顔で見つめられると、良心が痛む。
「実はなんだか気恥ずかしくて、しばらくは別々にしてもらってるだけなの。だから心配しないで」
「そうですか……」
イネスが、何やら考えるように口元に手を当てる。
「では、一緒に寝たくないというわけではないのですよね?」
「うん、もちろん」
とはいっても二人で眠る日は来るのだろうか。ひとまずこの場を収めるために頷いた瞬間――。
「では、さっそく今夜殿下のお部屋にまいりましょう!」
「⁉」
ベンチの後ろから数人のメイドが現れてぎょっとする。全員、普段からよく会話をするメンバーばかりだ。
「び、びっくりしたわ。いつからそこに?」
「申し訳ありません。実はイネスが来た時からずっと」
「嘘……」
驚くルイーズの傍で、メイドたちが顔を見合わせて頷き合う。
「今夜、殿下のもとへ向かいましょうね! 私たちも協力いたしますから!」
「……え?」
「大丈夫ですよ。なんといっても殿下がルイーズ様を見初めてご結婚なさったのですから。気恥ずかしがる必要はありません!」
(あ……これ、言い訳を間違えたかも)
きらきらと目を輝かせるイネスを始めとしたメイドたちに、ルイーズの笑顔が引き攣った。