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6.慣れない日々と優しい旦那様


 ルイーズが城で暮らし始めてから、一か月が経った。


 初夜にもならなかった初夜以来、シリルとは時折時間が合う時に食事を共にするだけの時間が続いていた。

 磨き上げられた広いテーブルには、中央に二人が向かい合って座り、そのすぐ傍にイネスや数人の執事が控えている。


「このパン、街で評判でね。昨日出かけた時に買ってきたんだ。ルイーズの口に合うといいのだけど」

「そうだったのですね。すごくおいしいです」

「それはよかった」


 シリルは満足そうに微笑んで、自分の分のパンを口に運ぶ。それから音もなく噛んだそれを飲み込んで、ナプキンで丁寧に口元を拭いた。もちろん、テーブルには屑のひとつも落ちていない。背筋もぴんと伸びたままだ。


 その様子を横目に、ルイーズはグラスに口をつけた。


(私も基本的な食事マナーは学んでいるけれど……)


 絵画として切り取られそうなほど美しい所作で食事を進める人が目の前にいるだけで、緊張感が高まってしまう。


「ルイーズに水のおかわりをもらえるかな」

「! かしこまりました」


 いつの間にかグラスの中の水が減っていたらしい。誰よりも先に気づいたシリルに声をかけられて、執事が慌てたように動き出した。


「ありがとうございます……」

「ううん」


 微笑んだシリルが、今度はスープに手を伸ばす。


「今日も街へ視察に出る予定なんだ。何か欲しいものはある?」

「いえ、お気遣いありがとうございます。お帰りは昨日と同じくらいですか?」

「うん、恐らく。見送りは気にしないで。夕食は一緒に食べよう」

「はい」


 給仕係の執事からグラスを受け取り、悩んでからすぐに口をつけた。間を持たせるようにゆっくりと喉を潤す。


「他は? 何か困ったことはない?」

「はい、大丈夫です。イネスにもいろいろ頼らせてもらっているので」

「イネスからも聞いたよ。ルイーズは優しくて仕える立場なのに楽しいって」


 シリルが微笑ましそうにイネスを一瞥する。ルイーズも笑顔を返した。


 二人の食事の時間は、朝晩決まって三十分から一時間程度。

 シリルは食事マナーが完璧なだけではなく、料理を残すことも絶対にしない。今のように執事たちよりも先にルイーズの水や紅茶が無くなりそうなことにも気づき、話を盛り上げることも忘れない。

 会話の内容はその日の予定やできごと、食事の感想が中心。踏み込んだ話をどちらからもしない日々は、表面上だけの時間という言葉がぴったり当てはまるような気がした。もちろん形だけの夫婦なのだからおかしくはないけれど――。


(『いろいろ知りたい』と言っていたし、最低限のことは聞いておいた方がいいわよね?)


「そういえば、シリル様はパンがお好きなのですか?」

「どうして?」

「よく買われているイメージがあるので」

「そうだね……普通かな」


 ――普通。

 ルイーズは心の中で、シリルの答えを繰り返した。


「では、何がお好きですか?」

「わからない?」


 訊いたのはこっちなのに、なぜか質問で返されてしまった。


「は、はい」

「ルイーズだよ」

「……あの、好きな食べものの話だったのですが」

「そうだったの? てっきり、そういうことかと」

「……」

「妻を好きだと言って何かおかしいかな?」


 どう答えたらいいものか反応に困るルイーズを見て、シリルは優雅に小首を傾けた。ただこれだけの仕草さえ洗練されていて、ルイーズはますます戸惑ってしまう。


(イネスや執事たちもいるし、そう答えているだけだとは思うけれど……なんというか、優しいのだけど掴めない人だわ)


 優しい。とにかく優しいのは優しい。

 それでも、お互いを知るための時間のはずなのに、なんだかうまく躱されている気がしてしまう。


(まあいっか。これくらいが気楽でいいものね)




 なぜなら、ルイーズにはそれ以上に深刻な悩みがあった。

 こうして結婚式後の挨拶回りも無事に終え、シリルが言っていた通り大きな公務がない日が続き、ようやく穏やかな時間を取り戻していた――はずだったのだが。


(落ち着かない……!)


 朝の清らかな空気が満ちる部屋に戻った後、ソファに腰を落ち着けたルイーズは読み終わった本を閉じて息を吐いた。これでもう何十冊目だろう。


 最初はクラルティ家には置かれていなかった本があるというわくわく感から王宮図書館に入り浸っていたけれど、気になっていた本はもうすべて読み終わってしまった。今までよりも時間がある上シリルが材料をくれたおかげでアクセサリー作りも捗りすぎてしまう。


 それならばと庭にある花の鉢植えを手伝おうとすると庭師のマルクに「ルイーズ様にそんなことをさせられません!」と止められ、自分で朝の支度をすると提案すればイネスに「私の仕事ですから!」と断られてしまった。

 鉢植えは何度もお願いし倒した結果なんとか手伝わせてもらえて手際がいいと褒めてもらえたことは嬉しかったけれど、できたのはあのたった一度きりだ。掃除をしようと思っても、窓も床も毎日ぴかぴかに磨き上げられ埃ひとつ落ちていない。


 そう。こんなに自由があるというのに、今まで何かしら働く生活と並行していたせいでじっとしていると落ち着かないのだ。


(毎日ぐっすり眠れるし、お腹いっぱい食事も摂れるのにこれが深刻な悩みなんて贅沢よね……)


「花の水替えくらいならしてもいいかな……?」


 太陽光を背に、軽く伸びをする。テーブルに飾られた真っ白な花瓶に手を伸ばし、見た目よりも重いそれを慎重に両手で包んだところで、ノックの音が響く。


『ルイーズ様、お掃除にまいりました。入ってもよろしいですか?』

「大丈夫よ」

『失礼します』


 ドアが開き、部屋に入ってきたイネスと視線が重なった瞬間、その目がぎょっと見開かれた。


「ルイーズ様、まさかとは思いますがもしかして今日も花瓶の水を替えようとなさって……?」

「う、うん。そうだけど……」

「そういう雑用は私共の仕事ですから、ルイーズ様はお気になさらないでくださいと何度も申し上げましたのに……! どうしていつも手伝ってくれようとなさるんですか?」

「それは……その、実家でもしてたから」

「ご実家で⁉ ルイーズ様が⁉」

「まあ、家事は私がほとんどしていたしメイドみたいなものだったか――」


 イネスがますます目を丸くして衝撃を受けたように固まってしまったので、思わず言葉を止める。


「メイド……⁉ 確かにルイーズ様は手際がよいと庭師が言っておりましたけど……もしかして紅茶の淹れ方がお上手すぎるのもそういうことだったのですか……⁉」

「その、うちはメイドの数が少なかったから!」

「そういう問題ではありません」


 イネスがわなわなと震え始めたので慌てて説明するけれど、ぴしゃりと収められてしまった。


「いいですか、ルイーズ様。外では絶対に今の話をしてはいけませんよ!」


 ずいっと顔を近づけられ、反射的にのけぞった。少し言いづらそうに眉を寄せながらも、まっすぐに見つめられる。


「私はルイーズ様のことがお好きですしお仕えできてよかったと思っていますけれど……正直、家柄のことで殿下がルイーズ様を選ばれたことに納得なさっていない家臣やご令嬢もいらっしゃるので」

「あ、ああ~……」


 パーティーで令嬢たちの不満げな視線に囲まれたことを思い出して、納得しつつも乾いた返事が漏れた。

 目立たないクラルティ家とその娘であるルイーズが、王太子に釣り合わないということは自身が一番よくわかっている。イネスも次期王妃の立場を考え言葉を濁しながらも、親切心から教えてくれているのだろう。


「確かにシリル様の妻が使用人と同じことをしていると周りに見られたらシリル様にもご迷惑をかけちゃうわよね。気をつけます」

「はい、ルイーズ様ご自身のためにも。というわけで、これからは遠慮なさらず頼ってください!」


 本当にルイーズのことを考えているような顔で笑ってくれるイネスに、ルイーズは胸がほっとした。


「そもそも私たちの仕事ですからね?」

「そうだよね。イネスは信頼できるから任せられるよ。ありがとう」

「ルイーズ様……!」


 イネスが、両手をぎゅっと握り締めて歓喜に声を震わせる。

 イネスや他のメイド、執事。庭師に料理人たち。それからクロードとは他愛のない話を重ね少しずつ打ち解けることができていた。こうして皆と接する時間は、慣れない生活の中の癒しのひとつとなっていた。


 実家でもロベールとフロランは気にかけてくれていたけれど、アンナとサラ――それから彼女たちに命令を受けた使用人たちからの悪意や嫌がらせの方が強かった。それにくわえて、ルイーズの一番仲の良い友人は辺境地に嫁ぎ滅多に会うことができないでいた。それもあってか、日常の中でなにげない話を交わす相手がいることがルイーズにとっては嬉しいのだ。


「じゃあ、花瓶の水替えはお願いしてもいいかな」

「もちろんです」

「……でも、よかったら私に手伝えることは手伝ってもいい? なんだか何もしないのも落ち着かなくて」

「そうですね……わかりました。あまり目立たないことでしたら」

「ありがとう、イネス」

『ルイーズ様、少しよろしいでしょうか』


 イネスと微笑み合ったところで、ノックの音に続いて執事のオーブリーの声がした。答えると扉が開き、眼鏡の奥で少し困った目をしたオーブリーが顔を覗かせる。


「実はアンナ様とサラ様が突然訪ねられてきて……ルイーズ様にお会いしたいと」

「え?」

「今は馬車の中で待ってもらっているのですが……」


 ルイーズがクラルティ家でメイドのような扱いを受けていたことを聞いたからか、イネスから気遣うような視線を感じる。


(なんの用かしら……)


 あまりいい予感はしないけれど、追い返すのも気が進まない。拒否をして万一騒がれでもしたら、シリルや城の人に迷惑がかかってしまう。


「わかったわ。客間に通してもらってもいいかしら? 私もすぐに行きます」

「かしこまりました」

「では、私がルイーズ様をご案内いたしますね」


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