20.シリルの過去
それからも、シリルの部屋に通う日々は続いていた。
同じベッドで朝を迎えるようになってから、あっという間に数か月が経過していた。
「ルイーズ様、最近楽しそうですね」
「……え?」
今日もいつものようにシリルの部屋へ向かう傍ら、イネスがにこにこと声をかけてくる。
「そうかな?」
「はい、日に日にといいますか……殿下と一緒に寝るようになってから幸せそうです」
「! そ、そうかしら」
「ふふ、図星のお顔ですね?」
「か、からかわないで。イネス」
熱くなりかけた頬を隠すように俯けば、イネスの柔らかな笑い声が降ってくる。
図星だった。
実際、シリルと眠るようになってから寝つきがよくなったし 、最近は眠りに落ちる前の密かなお喋りの時間も楽しみになっていて、お互いの好きなものや最近興味があることなど他愛のない話を重ねるだけで満たされていた。
「……あ」
イネスの声の方を見れば、レオンが数人の使用人を引きつれこちらへ歩いてくるところだった。
ぴりりとした緊張感に包まれながら立ち止まり、ナイトドレスの裾を持って挨拶をする。そのまま通り過ぎるかと思いきや、レオンはじいっとルイーズを見下ろし、嫌味っぽく、ふ、と口角を上げた。
「シリルの部屋に行くのか?」
「はい」
「そうか……そろそろ跡継ぎの顔でも見られたらいいんだがね」
向けられた言葉には、あきらかな棘が含まれている。
(王太子妃だし、これくらい言われるのは想定内だわ。まあ実際は何もないから跡継ぎも何もないのだけど……)
「そうですね。ただ、子どもは授かりものですので」
「呑気なことだ。国政に口を出す暇があるのなら、妻としての務めを果たしたほうが役に立つと言うのに」
棘どころか太い針を刺されたように、気圧されてしまう。
妻になることを引き受けた時、シリルは嫌なことはしなくていいと言ってくれた。恐らくその中には夜を共にすることも含まれているだろうし、シリルも初夜からずっとそういう雰囲気を醸し出してきたことはなかった。
(私も最初はそれでいいと思ってた。でも、今は……)
シリルの役に立ちたい。
そんな願いが、あきらかに芽生え始めている。
とはいえ、シリル自体にその気はないようだし、ルイーズも積極的なわけではなかった。どう答えたらよいか返事に窮していると、レオンの顔が歪む。
「もう少しやる気になってもらわねば困るな。自分が次期王妃だという自覚はあるのかね?」
「父上」
レオンに応えたのは、後ろから現れたシリルだった。
「シリルか。なんだね、急に口を挟んで」
「子どものことはルイーズが言うように授かりものです。待ち望む気持ちはあると思いますが、僕たちのペースがありますから」
「ぺースだと? 悠長な。大体、こういうことは妻の務めだろう」
「いえ、妻の務めではなく僕たち二人にとって大切なことです。それにルイーズはもう充分、僕にとって妻としての務めを果たしてくれていますから。あとはどうかお見守りいただけませんか」
「……」
無言のレオンを、シリルがじっと見据える。
(庇ってくださった……)
数秒にも満たない沈黙を挟んだ後、レオンの口から呆れたようなため息が漏れる。
「お前が反抗するようになるとはな」
「差し出がましいかと思いましたが、これは〝意見〟です」
「ふん……これ以上は立場を弁えることだな」
レオンはそれ以上何も言わず、使用人たちを引き連れて去っていった。
「シリル様、先ほどはありがとうございました」
「お礼なんていいよ。僕は当然のことをしただけだから」
イネスと別れ、シリルの部屋へ来た後。ベッドの上で向かい合う形で横たわりながら、ルイーズはさっきのことを思い出していた。
(でも……シリル様が陛下に意見を言うのは簡単なことじゃないはず)
どれだけの勇気を振り絞ってくれたのだろう。ふと見ると、膝の上に置かれたシリルの手が小刻みに震えている。
胸がぎゅっと引き攣るのを感じながら、ルイーズはその手を包み込むように握った。
「ルイーズ……」
「大丈夫です、シリル様」
シリルの瞳の揺らめきが少し落ち着いたように見えてほっとした。
「……僕の話、聞いてくれる?」
「……はい」
自然と硬くなった声で頷けば、指先が軽く絡められる。
「……僕は、小さい頃からずっと父上の言いなりに生きてきたんだ」
拒否権がないまま、ずっと厳しい帝王学を学んできたこと。友人と遊ぶ時間を奪われ、気持ちや意見も聞き入れてもらえなかったこと――。
「子どもだから勉強が嫌な時もあったんだけど、嫌だなんて言うと牢屋に入れられてね。三日間は出してもらえなかった」
「え……」
「……最初は僕も辛くて泣いてたけど、そうするとますます怒られるだけだったんだ。父上だけじゃなくて、教育係にも」
そうするうちに抵抗する力は奪われていった。
レオンの言うことを聞き注がれる期待にさえ応えていれば、何も起こらない。そう理解したシリルは、抵抗力の代わりに諦める力が強く育っていったという。
「気づいたんだ。笑顔さえ浮かべていれば、僕が言うことを聞いてちゃんと王子でいれば、平和になるのだと。父も騎士も、従者たちも……皆、それを望んでいたから」
遠くを見る目が、寂しそうに細められる。
「大人たちは皆、僕個人よりも国が大事だ。その証拠に本心を押し殺して笑って生きる術を身につけてからは楽だったよ。誰も何も余計なことを言わなくなったのだから」
楽、だと言い放つシリルの表情は悲しそうに見える。
(これは……本心? ううん、そうは思えない)
毎晩のようにうなされていたこと。人と一線を引いているように見えたこと。いつも笑顔を絶やさなかったこと。
今までの言動が全部繋がるけれど、繋がれば繋がるほど、胸が締め付けられた。本心を押し殺していたからこそ、シリルは苦しんでいたとしか思えない。
浮かない顔をしたルイーズに気づいたのか、シリルが取り直すように微笑む。
「大丈夫だよ。それでも、閉じ込められた時に助けてくれた人がいたから」
「え?」
「残念ながら今は疎遠だけど、当時は信じられる友人だったよ」
寂しさを示すように、眉が下がる。いつかクロードから聞いた言葉が蘇った。
――幼い頃は友人関係でもあったのですが。私が嫌われてしまったので。今は騎士としてお仕えしているのみです。
(もしかしてクロードさんのこと……?)
「でも、今は本当に平気なんだ。君がいるから」
「……私ですか?」
「うん。もう察しがついていると思うけど、君との結婚を決めたのも父だった 。僕はそれに従っただけなんだ。でもね――」
絡んだ指先に、力が込められる。
「今は相手が君でよかった。そう思っているよ」
「え……」
「ずっと今のままでいいと思っていた。偽物の笑顔を張り付けて、諦めて。流されて生きることが僕の使命なんだって。でも、最近はそう思わない」
シリルの表情があまりにも穏やかで、返す言葉が見つけられない。
「どんな境遇でも諦めずに今を生きる君を見ていると、最初は苦しかったよ。まぶしくて、疎ましくて――でも、それは憧れの裏返しだったんだ。いつだってまっすぐな君が傍にいてくれるから、僕も変わりたいのかもしれない」
「シリル様……」
「勇気をくれるからね、君は。今夜はこれを伝えたかったんだ」
照れ臭そうに笑うシリルに、胸がいっぱいになる。少しでも彼の力になれていることがこんなにも嬉しいだなんて、契約結婚を承諾した時には想像もしていなかった。
「そんなふうに言っていただけて……ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちだよ。今までは誰にも――こんなふうに打ち明けたいと思わなかったのに不思議だね」
照れ臭さを誤魔化したいのか、シリルは繋いでいない方の手で自分の頬を掻いた。それからルイーズのこめかみに流れた髪を、そっと耳にかけてくる。
(あ……)
肌に触れた指先が温かくて、ドキリと鼓動が波打つ。
触れられているところが、繋がっている指先が、体中に熱を広げ、肺が甘い感覚で埋め尽くされていく。
視線が絡んだ。シリルの手が耳元から髪を滑り落ち、柔らかく梳いていく。
まるで時が止まったかのように、見つめ合って――。
(どうしよう、ドキドキしすぎて苦しい)
「結婚した相手が、君でよかったよ」
強く強く、期待が胸の裡を叩く。
「シリル、様……」
心臓が飛び出しそうになりながらようやく絞り出した声は、甘く震えていた。髪を梳いていた手が、ふいに動きを止める。
「……そろそろ寝ようか」
「あ……はい」
あっさりと手を離され、少し拍子抜けした。
(ひ、一人でドキドキして恥ずかしい……!)
「お、おやすみなさい。シリル様」
「おやすみ、ルイーズ。よい夢を」
落ち着かない鼓動を持て余しながらも目を閉じる。けれどすぐに寝る気分にもなれなくてまたまぶたを上げると、既に目を閉じたシリルの耳が髪の隙間から見えた。
(耳、赤い……)
もしかすると、同じ気持ちだったのだろうか。
シリルも少しは意識してくれているのだろうか。それとも――過去を打ち明けて照れただけだろうか。
期待と自制。
複雑な気持ちが絡み合い悶々としてしまったルイーズは、その夜なかなか寝付けなかった。




