2.突然、殿下に求婚されました
――結婚。
シリルから放たれた言葉に、その場にいたアンナやサラ、屋敷のメイドや執事たちも目を丸くする。何がなんだかわからず戸惑っている間に、こつこつとシリルの靴音が近づいてくる。目の前に迫ると、想像以上に笑顔が眩しい。
「申し訳ありませんが、ルイーズ嬢と二人きりにしていただけますか」
「も、もちろんでございます~!」
反射的に返事をしてしまったのか、アンナは大きな声で答えながらシリルの案内を始めた。
(え、え? 待ってほしい。結婚って何⁉)
恐らく当事者であろうルイーズは、まだ状況が呑み込めていない。
「何をぼーっとしてるの、ルイーズ! あなたも行くのよ!」
呑み込めていないのに、ぐいぐいと強引に背中を押されて客間へと連れて行かれた。
客間には、ルイーズとシリルの二人きり。テーブルを挟んだ向かいのソファに座るシリルを見遣ると、にこりと微笑まれた。メイドが用意した紅茶の湯気がゆらりと揺れる。この華やかな蜜を思わせる茶葉の香りは、恐らくクラルティ家にあるものの中で一番いい紅茶だ。
困惑しながら、紅茶のカップを持ち上げるシリルに視線を送る。優雅な仕草でそれを口に運んだシリルが、ルイーズの目線に気づいて微笑んだ。
「さっきの話だけど、僕は君と結婚したいと本気で思っている。できるなら、今日このまま一緒に王都へ帰りたいのだけど」
(今日⁉)
「どうかな?」
「ど、どうと言われましても……」
それ以前の問題というか、まだ理解が追い付いていない。突然この国の王子が家に来ただけでも驚いているのに、なぜ結婚を申し込まれたのかがまったくわからない。あまりに現実離れしている状況はもはや不審感を抱くレベルで、その上展開が早すぎる。どう返事をするべきか迷っていると、シリルが緩く首を傾げた。
「何か問題があるかな?」
(お……大ありなのでは?)
そう思ったけれど、相手は王子なのですんでのところで呑み込んだ。
漠然といつかは家を出たいとは思っていたけれど、いきなり次期王妃だなんて正直荷が重すぎる。フロランがいるとはいえ、体調の安定しない自分の父を残していくことも心配だ。それに王子と結婚をすれば城に住むことになるだろうし、今のように好きなことを好きなだけする自由な生活なんて送れない気がする。
けれど断ればロベールに迷惑がかかる可能性が高い。そもそも王子と一介の――それも大きくもない家の令嬢。わざわざシリルが領地まで訪ねてきたということは、拒否権はないと言っているに等しい。
「結婚しても、君は今まで通りでいい」
「え?」
「もちろん王家の仕事は最低限お願いすることになってしまうけど……それ以外は今まで通り、好きなことだけして過ごしてくれたらいいよ」
「今まで通りというのは……」
「ルイーズ嬢にやりたいことがあるなら応援するということだよ。嫌なことはしなくていい。ただ夫婦として僕と一緒にいてくれたら十分だから」
『夫婦』を強調されて、少し腑に落ちた。
「つまり表面上だけの夫婦……いわゆる契約結婚で問題ないということでしょうか」
「話が早いね」
満足げに頷いたシリルが、カップをソーサーに戻す。
「僕と結婚すれば、今よりももっと自由に自分の好きな時間を楽しめる上、生活に困ることもない。ルイーズ嬢にとっても悪い話ではないと思うけど」
確かにその点だけ見ると、魅力的ではある。こちらの事情も、ある程度は調べてきているらしい。
シリルの地位を考えると、形だけでも結婚をしなければいけないというのは当然あり得る話だろうけれど、やっぱりわからない。
「どうして私なのでしょうか」
「う~ん、ずっと君が好きだったから?」
(そんなわけないと思うのだけど……)
パーティーですら一方的にしか会ったことがない上、契約結婚だと言われた状態でさすがに無理がある気がする。
「……正直、殿下が私を好きになる理由が思い当たりません。お声掛けをいただけたのは光栄ですが、殿下なら他にふさわしいお相手がいるのではないでしょうか」
「僕は君がいいんだ」
「……それはなぜですか?」
「好きだから」
またこの返事だ。これ以上同じことを訊いても、平行線な気がしてくる。
「まあ、断られても僕の意思は変わらないよ。何度でも君に結婚を申し込みに来るつもりだから」
王太子であるシリルが何度も来たら、このあたりは大騒ぎになることが目に見えている。平穏な生活が脅かされることだけは避けたい。
「ロベール卿のことも気にかけよう」
シリルがにっこりと微笑む。
最後の気がかりもあっさり取り払われてしまったら、もう断る理由が浮かばなくなる。
ただ……ずっと笑顔を崩さないこの人を、初対面で求婚してくるこの人を信じていいのだろうか。
「大丈夫、約束は守るよ。これでも他に断る理由があるなら聞かせて?」
心の奥底にある不安を見透かすように、言葉で安心感を灯された。
ロベールのことを気にかけてくれると言うのなら、好きなことができるなら、断る理由はない。そもそも断っても変わらないというのなら、覚悟を決めた方が何倍もいい気がする。
(形だけの結婚を前提として求婚されたのだから、私も同じように自分らしく生きていく手段のひとつとして手を取ればいいのかもしれない)
半分は前向きな気持ち、もう半分は状況を受け入れると言う名の諦め。ふたつの感情を胸に抱きながら、シリルの夜のような色の瞳を見つめ返した。
「その顔は、ないみたいだね」
「……はい。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「何度でも言うけれど僕は君がいいんだ。だから、嬉しいよ」
一礼して頭を上げると、微笑むシリルと視線が重なった。
「こちらこそよろしく。ちなみに式は二週間後だから」
(二週間後⁉)
「それはその、招待状などは……」
「もう送っているよ。あとは君の返事をもらうだけだったから」
(私が断ったら、これを交渉の材料にするつもりだったんじゃ……)
式の日程まで決まっていたのなら、どちらにせよ断れなかっただろう。国の一大行事の日程を変更することなんできるわけもない。
(そこまでして私と結婚をしたい理由なんてあるのかしら。ううん、いいわ。関係ない。もう決めたのだから、私は頑張るだけ……!)
立ち上がったシリルに手をとられて、腰を上げる。
そのまま連れ立って部屋を出ると、やはりというかアンナにサラ、メイドたち。それからさっきはいなかったフロランもそわそわと扉の周りに集結していた。シリルが笑みを浮かべて、アンナに向き合う。
「正式にルイーズ嬢に結婚を申し込みたいのですが、ロベール卿に話をさせていただけますか?」
「そ、その件ですが」
アンナが慌てたように声を上げる。
「うちにはもう一人娘がおります。妹のサラの方が器量もよいですし――」
「いえ、私はルイーズ嬢と結婚したいのです」
ぴしゃりと提案を跳ねのけられたアンナが、ぐっと唇を噛んだ。その後ろにいるサラも悔しそうに睨んでくる。
「ロベール卿は今どちらに?」
シリルに問われたフロランが、はっとする。寂しそうだった表情を崩し、すぐに凛々しい顔つきへと変えた。
「すぐにここに呼んでまいります」
「いえ、ご体調を崩されているとお伺いしております。ご迷惑でなければ私が」
「そうですか……では、ご案内いたします」
「ありがとうございます。ルイーズ嬢も」
「はい……」
フロランに続くように、ロベールの部屋へと向かう。ふと、誘う手がひやりと冷たく感じられた。もしかすると緊張しているのだろうかと思ったが、見上げたシリルの顔は朗らかで涼しげなままだった。
そこからはあっという間だった。王太子から結婚を申し込まれたとあってか、ロベールは大喜びで結婚の承諾をした。数少ない荷物をまとめたルイーズは、その日のうちに王都へと発った。