15.変化とお誘い
一緒に視察へ行った日以来、シリルはルイーズと二人きりでの食事を望んだ。それだけではなく――。
「かわいい。よく似合っているよ」
「ありがとうございます……」
広い食卓に座るルイーズがまとうのは、柔らかな素材で作られた紺色のぴったりとしたドレス。胸元に飾られたブローチは美しく磨かれ、透き通るような乳白色をしている。
これらは全部、シリルからのプレゼントだ。
贈り物をくれたのはこれが初めてではない。
最初は申し訳ないと断っていたもののそのたびに悲しい顔をされてしまったため、だんだんと拒否をすることに罪悪感を覚えるようになってしまい今では受け入れている。
贈り物だけではなくドレスを選んでくれたり、一緒に城内を歩くたびに手を引いてエスコートをしてくれたりと何かと世話を焼いてくれるようになっていた。
(最近のシリル様、いったいどうしたの……!?)
距離が縮まっていることは明確に感じるし、それ自体は嬉しい。
それでもあきらかに今までとは温度感の違う距離感に戸惑ってしまった。ただいろんな会話をするようになった時とは少し違う。それよりももっと、甘やかで親密な気配がするのは気のせいだろうか。
「あの、シリル様……?」
「うん?」
「じ、自分で食べられますので……」
「ダメ?」
隣に座ったシリルが、緩く首を傾げる。その手にはスクランブルエッグを乗せたスプーンが握られ、ルイーズの口元に差し出されている。
「ダメではありませんが、その……」
「恥ずかしい? ふふ、大丈夫だよ。二人きりなんだから」
「……はい」
「ほんとにかわいいね」
本日二度目の誉め言葉に、ルイーズはうまく反応できない。今までにも言われたことはあるけれど、なぜか過去よりも強く意識してしまう。
以前はあまり褒められたことがないという理由で返す言葉に悩んでいたけれど今は違っていた。なんだか心が弾むような感覚がして落ち着かない。
緊張しながら口を開くと、そっとスプーンが差し入れられる。シリルの口元が満足げに弧を描いた。
今日もとろとろの焼き具合で出来上がったスクランブルエッグを飲み込んでから、訊いてみる。
「どうしてここまでしてくださるのですか?」
「妻だからだよ」
「そう、ですか……」
これがシリルなりの歩み寄り方なのだろうか。この前発した言葉が伝わって自然体で接してくれているということなら嬉しいけれど――。
何より一番困惑しているのは、柔らかな眼差しを向けられるたびに反応している自分の心臓だった。
ドキドキと形容のできない感情を抱いていると、ノックの音が響いた。
『お食事中失礼いたします。殿下、そろそろ来客のお時間が……』
「ああ、もうそんな時間か。すぐ行くよ」
とっくに食べ終わっていたシリルは、自分の食器を軽く片して椅子を引く。
「ごめんね、ルイーズ。先に失礼するよ」
「はい。確かサンリビ領の方がいらっしゃるのでしたよね? 同行は……」
「今日は平気だよ。ゆっくり食べていて」
にこりと微笑んだシリルが部屋を出ていく。
一人取り残されたルイーズは、まだ落ち着かない心臓を持て余しながらパンに口をつけた。
(……緊張感から解放されたはずなのに、なんだか少し寂しい気がするだなんて)
ロベールが倒れた後――実家の屋敷にいた頃は誰かと一緒に食事を摂るどころか、こんなふうにゆっくりと食べる時間すら持てなかった。
そもそも、どうして自分は緊張しているのだろうか。
もちろん出会った頃は立場の差やシリルの完璧さに気後れをしているという意味での緊張感を持っていた。けれどシリルのいろんな顔を知るうちにそれは少しずつ解け、距離の縮まりを証明するように言葉も砕けていき会話も増えていった。
形だけの夫婦とはいえ、ただの知り合いよりも深い友人くらいの仲にはなれていた気がする。そんな相手に緊張というのは、いったいなぜなのだろう。
(距離が急に近くなったからかしら……シリル様が前よりも心を開いてくれたから?)
悶々としながら食事を終えたところでまたノックの音が響いた。
『ルイーズ様、失礼いたします。お迎えに上がりました』
いつの間にかイネスが来てくれる時間になっていたらしい。
応えると、イネスと配膳係のメイドが部屋に入ってくる。片づけてくれるお礼を言って、イネスと共に立ち上がった。
二人でダイニングを出て、中庭へ向かうため廊下を歩く。公務がない日はすっかり花の様子を見にいくことが日課となり、イネスも時々こうして庭まで着いてきてくれる日もあった。
「そういえばゼラニウムが美しく育ってらっしゃいますね」
「実はシリル様と一緒にお世話を始めて」
「そうだったのですか!」
イネスが声を弾ませる。
青空の下、花が咲き誇る庭へ出ると、少し離れたところに風に揺れる金髪が見えた。
「殿下と……あれはサンリビ領の領主様とご令嬢でしょうか」
事前の話では領主だけが来ると聞いていたけれど、事情が変わったのだろうか。
(あのご令嬢、結婚披露パーティーにいた……)
薔薇のように鮮やかな赤色の髪。見覚えのある美しく手入れされた長髪をなびかせて微笑む令嬢は、ルイーズから見ても美しかった。
シリルが微笑む彼女をそっとエスコートしている。公務だと思えば、何もおかしな光景ではない。それなのに、どうしてか胸がちくりと痛んだ。
ルイーズは自分の感情の揺れに驚いて、胸に手を当てる。それからハッとした。
(ご挨拶に伺うべきかしら)
けれど、シリルたちはあっという間に城の中へと消えていってしまった。
「……」
ふと、隣から視線を感じる。
「どうしたの? イネス」
「ルイーズ様、もしかしてヤキモチですか?」
「……え」
ヤキモチ?
「すごく切なそうな顔で殿下たちをご覧になっていたので。大丈夫ですよ、殿下がお選びになったのはルイーズ様ですから!」
胸を張ってください、と言いたげに、イネスが自分の胸板を叩く。
けれど、ルイーズはまだ言われた言葉の意味が噛み砕けていなかった。
「ヤキモチって嫉妬……?」
「? そうですが……」
(私がヤキモチ? シリル様とご令嬢に……?)
それはつまり何かしら特別な感情を抱いているということにほかならないけれど、ルイーズは否定ができなかった。
一人きりになると寂しいと思うこと。距離が縮まるたびくすぐったくも嬉しく思うこと。シリルの気の抜けた笑顔をみているだけで幸福なこと。新しい一面を知ることができるのが嬉しいこと。話しているとドキドキと胸が高鳴ること。
それから――公務だとわかっていても綺麗な女性と並ぶ姿を見ると心がざらりとしてしまうこと。
――ああ、そうか。これが好きという気持ちなのかもしれない。
心の中でつぶやくと、ようやくすとんと腹に落ちてきた。
(……『好きだから』『妻だから』が全部、本物だったらよかったのに)
もうシリルの姿は見えない。それなのに、生まれて初めての感情を芽吹かせたルイーズの胸はいまだに音を立て続けていた。
「ねえ、ルイーズ。来週一緒に街へ行かない?」
すっかり日課となった二人きりでの朝食中、シリルから唐突に切り出された。
「……街、ですか?」
「うん、君とデートがしたくて」
「デッ……」
声を上げそうになったところで、慌てて手で口を押さえる。そのまま念のためナプキンで口元を拭き、一息吐いてシリルを見た。
「……失礼しました。デートとは、その……」
「デートはデートだよ。一日、君と一緒にいろんなところに行って過ごしたいんだ」
「……」
「どうして困った顔しているの。だって僕たちは夫婦だよ?」
ルイーズの驚いた反応を見たシリルが楽しそうに笑う。
確かに夫婦がデートをするのはまったくおかしなことではない。
(で、でもまさかシリル様からお誘いいただけるなんて……!)
そもそも出会った頃から簡単に好きというような人だった。冗談なのか本気なのか、判別がつかないような顔でルイーズを驚かせていた。
もちろん、今では随分感情がわかるようにはなってきた。最近のシリルからは、あきらかに一人の人間として、好意を抱かれていることは伝わっている。でも、恋慕を抱いているのはきっと自分だけだ。
恋心を自覚したばかりのルイーズは、向けられた言葉が冗談でも鼓動が反応して波打ってしまう。嬉しくて、頬に熱が集まってしまうのだ。
(嬉しいけれど、落ち着いて。浮かれたらダメ。ただ仮の夫婦としての〝仕事〟の一環かもしれない)
街の人に夫婦仲がいいことを見せたいのかもしれないし、何か用があって付き添いをお願いされるのかもしれない。
「嫌?」
なかなか返事ができないでいるルイーズに、シリルが不安そうに問いかける。
「! い、いえ。ぜひご一緒させてください」
「よかった……。どこか行きたいところはある?」
「……何か御用があるわけではないのですか?」
「うん、だってデートだよ。せっかくならルイーズの行きたいところを案内したいな」
まっすぐに言われて、少し考えてみる。
正直シリルと出かけられるのならどこでも嬉しいというのが本音だけれど――。
「じゃあ、前におすすめだと言っていたパン屋さんに行ってみたいです」
「ふふ、わかった。他には?」
「アクセサリーのパーツを見てもいいですか?」
「もちろん。他にはある? 劇場やレストランもたくさんあるけど……」
シリルが気遣うように訊いてくれる。
「いえ、ご一緒にお買い物ができれば充分です」
「わかった。じゃあ、ランチのお店も考えておくよ」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
「うん、僕も」
シリルは満足そうに笑って、紅茶に口をつけた。
ルイーズもならうようにカップを手にとるけれど、静かな動作とは裏腹に心臓は大きな音を立て続けている。
(浮かれたらダメだってわかってるのに、楽しみだわ……!)




