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13/30

13.シリルの本音


 それから領内を回り終える頃には日が暮れ、二人はアサス領の中心街にある宿に泊まることになった。

 いつものように一緒に眠った翌朝、ルイーズは朝食の時間よりも早くにベッドから抜け出した。


「ルイーズ……?」


 室内の鏡台前で髪を梳かしていると、背後から頼りない声が聞こえた。


「おはようございます。すみません、起こしてしまいましたか?」

「ううん……大丈夫。早いね」

「ちょっと外に出ようかと」

「外……?」


 のろのろと上半身を起こしたシリルが、眠そうに目を瞬かせる。声は掠れとろけきっていて、まだ覚醒からは遠そうだ。


「はい、昨日ひとつだけ湖を回ることができなかったことがどうしても気になっていて……近いですし、少し見に行こうかと思ったんです」


 シリルが、目を瞬かせる。


 昨日一日かけた視察で、領内のほとんどの場所を回ることができた。けれどたったひとつ、宿からほど近い森の中にある湖だけは時間が足りず行くことができなかったのだ。

 日が暮れて危ないという理由でエンゾも「構わない」と言っていたけれど、ルイーズは一目だけでも自分の目で見ておきたい気持ちがあった。この後、朝食をとった後はもう王都へと戻る予定のため行くなら今しかない。


「僕も行くよ」

「えっ」

「待ってて、すぐに支度をするから」


(やっぱり、シリル様も気になるのかな)




 十数分待ち、シリルとルイーズは部屋の外で待機していた騎士の一人に付き添われながら、すぐ近くの森へ出向いた。もう朝日が昇りかけているというのに、高い木が鬱蒼と生い茂る森の中は薄暗い。時折、鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。


「……この険しい森に一人で来ようとしたの?」

「? はい」


 隣を歩くシリルが、ルイーズのワンピースと低いながらもヒールのある靴を見て眉をひそめる。


「大丈夫ですよ。ムスヴィレ領も結構山や森が多くて、幼い時はよく母と遊びに行っていましたから」

「もしかして、それで花が好きになったの?」

「そうなんです。母が詳しくて、よく花冠を作ってくれたのですがそれが綺麗で宝物でした。初めて枯れた時は泣いちゃって、母が慰めてくれたんですよ」


 言葉にすると、とたんに思い出が色濃く蘇る。

 懐かしくて、けれどもう二度と戻ることのない日々がルイーズの胸を切なくさせた。


「あっ……」


 ふいに、シリルが頭上を見て声を上げる。その視線を追うと、一匹のリスが枝から幹を伝いおりてくるところだった。


「わあ、かわいいですね」

「うん、本当。この森にもいたんだね」


 答える声が柔らかい。よく猫と遊んでいると聞いたし、動物自体が好きなのかもしれない。

 ほっこりした気持ちを抱いていると、リスが突然体を広げて――。


「えっ、うわ!?」


 シリルの肩に飛び乗ったリスは首にすり寄り、それから頭や腕、あらゆるところを走り始めた。しかもまた一匹二匹と集まってきて、いつの間にか五匹ほどのリスに絡みつかれている。


(すごい。懐かれている……!)


 というよりも、襲われている。否、遊ばれているという表現が正しいかもしれないと思うほどリスたちは縦横無尽にシリルの体を駆け回っている。


「ちょ、ふふ、待って。くすぐったいよ……!」


 リスたちにされるままのシリルは、困ったように眉を下げながらもどこか満たされた顔をしている。響く声は弾んでいて、いつもの品のある笑みではなく、子どものような無邪気な笑顔だ。


(リスもだけど、シリル様もかわいいな。やっぱり動物がお好きなんだわ)


「ふ、ふふ」

「もう笑ってないで助けてよ」

「好かれているなあと思いまして」

「……困ってるのに」

「そうですか? 顔が嬉しそうですよ」

「……」


 シリルは気恥ずかしそうに自分の髪に手を当てて、乱れた髪を手櫛でさっと直した。その肩の上で、リスが小さく鳴く。


「……なんか君には変なところばかり見せてるな」

「え?」

「情けないでしょ。リスに好き勝手されてるなんて」

「? ええっと……」


(情けないって、何が……?)


 気にする理由がわからなくて、返事に窮する。むしろ、微笑ましい光景だ。


「そんなことありませんよ。懐かれているんだなとなんだか私までほっこりしました」

「懐かれてるっていうか、遊ばれてるって方が正しいけどね。猫もいつもこんな感じなんだ」

「そうなんですね。シリル様の素敵な面をまたひとつ知れて嬉しいです」

「素敵?」

「はい、だってこんなにリスに好かれる方なんて中々いません。きっとシリル様の優しさがわかるんですね、動物には」

「……そんなことないと思うけど」

「あっ」


 一匹のリスが、ルイーズの肩に飛び乗った。


「かわいい……! 私、こんなに近くで見たの初めてです」

「君も好かれてるね」

「シリル様にはかなわないですが、嬉しいです」


 顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合う。並んでしゃがみ、しばらくの間リスと戯れた。


「そろそろ湖のほうに行こうか」

「そうですね」


 顔を上げた瞬間、思ったよりも近くにシリルの顔があってドキリとする。


「す、すみません」

「いや、こっちこそ……」


 慌てて顔を背けるけれど、胸の鼓動も頬の熱さもおさまらない。


(き、綺麗なお顔が近くにあったから驚いただけよね?)


 爽やかな風が吹き抜け、二人の肩の上でリスたちが不思議そうに首を傾げていた。




 湖の状況を確認した後、宿に戻る途中で少し休憩を挟むことにした。

 離れたところで騎士に待機してもらいながら、倒れた幹の上に並んで腰かける。ゆらゆらと木漏れ日が揺れる中、煌めく湖を眺める。


「あのさ」


 ふいに、少し硬い声でシリルが切り出した。


「昨日の話だけど、君はどう思った?」

「エンゾ様からの支援申し出のことでしょうか?」

「そう。……よかったら、君の意見を聞かせてほしい」


 口を出していいものか迷っていたので、シリルの方から話題にされて少しほっとした。


「私はシリル様がおっしゃっていたようにどうにかできればと思っています。予算を削れば不可能なことはないと思うので。シリル様もですよね?」

「僕は……」


 シリルが言葉に詰まる。


「……あの場で無理だなんて言えば国の評判が下がるだろう? だからひとまず頑張るという姿勢だけでも見せようと思っただけだよ」

「……え?」

「相手を説得するための嘘だって、時には必要だから」


 低い声で紡がれる言葉に、すぐに何も言えなかった。


「後からどうにかしようとしたけど無理だった。そう添えればきっとエンゾ卿も納得するだろうしね」


 いつもよりも重く感じる声なのに、言葉だけはするすると淀みなく、速く続けられる。どこか諦めを含んだように、瞳が揺れている。


 男の子を見ていた時の苦しそうな横顔。それから付き合いが短い期間の中でも感じた彼の優しさを思うと、向けられた言葉をそのまま受け取れない。


(心配している顔が嘘とは思えなかった。それに、何もする気がないならどうして私に意見を……?)


 彼はいったい何を――どうして諦めているのだろう。


「……私には、あれがその場限りの言葉とは思えませんでした」

「……どういう意味?」


 シリルの眉間に、微かな皺が寄る。ルイーズは視線を逸らすことなく、眉の下で揺れ続ける虹彩を見つめた。


「本当は助けたいと思っていませんか? シリル様とはまだ数か月の付き合いですが、私には困った人を想う優しい方に思えるんです」


 シリルの目が、ゆっくりと見開かれていく。

 沈黙が降りた。


「それは……君の本心?」

「え? もちろんですが……」

「……そう」


 再び沈黙が流れた。

 シリルはそれ以上何も言わない。風が吹き、さらさらと木の葉が揺れた。


(何かまずいことを言ってしまったのかしら……)


「……そうだね。どうにかしたいとは思っているよ」

「!」

「でもね」


 被せるように、言葉が続けられる。


「そもそも決定権は僕じゃなくて父上にある。つまり、世の中にはどうしようもできないこともあるってことだよ」

「それは――」


 確かに〝どうしようもできないこと〟は存在している。


「そうかもしれませんけど、この件はできることがあるのでは……」

「父上を説得しろって? それが無理なんだよ」

「……」


 ふとオーブリーが『殿下は陛下に逆らえない』と言っていたことを思い出した。

 

「君だって、結局諦めて母親と妹にお金を渡したでしょう。それと似たようなものだよ」

「違います。私は自分の意思で渡して……」

「だけど、『渡さない』選択肢はなかったんだよね? 諦めがなかったって言い切れる?」


 言われて言葉に詰まった。確かにアンナとサラに何を言っても無駄だという思いがなかったわけではない。

 けれど、それはこの話と同じなのだろうか。


「……そろそろ戻ろうか。朝食の時間だ」


 気まずい空気を割くように、先に腰を上げたシリルがルイーズに手を伸ばす。少し戸惑いながらも、その手を握り返して立ち上がった。

 少し離れたところで待機している騎士のもとまで歩く中、ちらりと窺ったシリルの横顔はすっかり元通りだ。話を戻してよいものか迷っていると、「あっ」とシリルが声を上げた。


「見て。ルイーズ。綺麗な花があるよ」


 ふとシリルが、声を弾ませて足元にしゃがみこんだ。彼が手を伸ばす先――低木の隙間に白く小さな花が咲いている。


(あれ、あの花って……)


 幼い頃、母からか可憐な見た目とは裏腹に毒があると聞いたことを思い出した。


「シリル様、ダメです……!」

「え?」


 とっさに手を伸ばした先――生い茂っていた木の枝が腕をかすめる。


「っ!」


 痛みが走り小さな声を漏らしたルイーズに驚いたシリルが、慌てたように腰を上げる。


「大丈夫……!?」

「は、はい。少し掠めただけなので」

「……赤くなってる」


 ルイーズの手を取ったシリルの凛々しい眉根がぎゅっと寄る。


「どうして急に手を?」

「実はその白い花には毒があって」

「え……」


 シリルは目を丸くして、それから眉を下げた。


「ごめん、僕が触らないようにしてくれたせいだったんだね」


 泣きそうな声に、慌てて首を左右に振る。


「いえ、私の不注意ですから。それに私が花好きなので教えてくれようとしたんですよね? 嬉しかったですよ」

「……でも。君はもっと、自分を大事にして」


 赤くなっている手首の部分を、切なそうに撫でられてどきりとした。


「あ、あの」

「視察もできたしとにかく急いで帰ろう。君の手当てをしないと」

「大丈夫ですよ。ちょっとした傷ですし」

「ダメ。化膿でもしたら大変だから」


 唇を引き結ぶシリルの顔は大真面目で、ルイーズは頷くほかない。


(やっぱり、こんなにお優しいのに)


 何が彼の心を縛り付けているのだろうか。


 握られたままの手が熱い。

 宿に向かって歩く間ずっと、心配してくれている時の真剣な顔が頭から離れなかった。


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