1.平凡な日々が続くはずだったのに
ルイーズの日常は、ある意味平穏だった。
「ちょっとルイーズ! 窓枠に埃が溜まってるわよ」
「嫌だわ。お義姉様ったら相変わらず気が利かないんだから」
「本当よねぇ。さっさと掃除しなさい」
「わかりました」
――ああ、今日もか。
そう思ったけれど、ここで反論をしても面倒なことになるだけだとわかっているのでルイーズは素直に頷いた。くすくすと笑いながら去っていく義母と義妹を見送り、固く絞った雑巾で廊下の窓を拭いていく。かかとを上げて高いところを拭くと、後頭部でひとつにまとめた淡いピンクの髪が揺れた。
ララモーテ王国の王都から馬車で五日。緑豊かで小さなムスヴィレ領を治めるクラルティ伯爵家の長女であるルイーズ・クラルティは、前妻の子だ。実の母であるアメリーは十五年前――ルイーズが五歳の時に病気で亡くなり、父のロベールが再婚を決めたのが義母であるアンナだった。
「お義姉様……!」
一通り窓を拭き終えて一息吐いていると、義理の弟であるフロランが慌てたように駆けてくる。
「またお母様とサラお姉様に命じられたのですか? 窓掃除なんてメイドに任せれば……!」
「これくらい大丈夫。それにメイドたちも皆忙しいんだから」
「でも……」
「ありがとう。フロランもお父様の代わりの仕事で大変でしょ。気にしないで戻って」
二年前にロベールが病に倒れてからは、ルイーズより二歳年下のフロランが領主の仕事を務めていた。
「ですが……」
フロランが申し訳なさそうに眉を下げたところで、彼に仕えている執事の「フロラン様ー!」と書類の確認を急かす声が響く。
「ほら、呼ばれているわよ」
「……はい」
後ろ髪を引かれるような顔をしながらも自室へと戻っていくフロランを見届けてから、胸元を握り締める。皺が寄った古びたワンピースの中には、アメリーが亡くなる直前にくれた形見――マーガレットの花がついたネックレスが揺れている。
義母のアンナと六歳年下の義妹サラの嫌がらせがひどさを増したのは、ロベールが倒れてからだった。アメリーは孤児だった。幼い頃、一人森で倒れていたところをロベールと執事が保護し、そのまま一緒に育ってきたと聞いたのは幼い頃の話だ。
それ故、出自のわからない母を馬鹿にした二人から「どこの馬の骨かもわからない孤児の子」だと蔑まれるたび、ルイーズは胸が痛んだ。ロベールはそれを庇ってくれていたけれどそんな優しい彼は今、病で思うように体が動かない毎日を送っている。少し気弱なところがありながらも穏やかなフロランも同じように心配はしてくれているが、ロベールの仕事を手伝うようになったため顔を合わせる機会自体がうんと減っていた。
ロベールの病の影響もあり、クラルティ家はあまり裕福ではない。「メイドの数が減ったから代わりにあなたがするのよ」と押し付けられる家事も、半分はアンナとサラの憂さ晴らしだということも理解していた。
その場にしゃがみ、冷たいバケツの中で雑巾を洗う。黒い汚れがゆらゆらと揺蕩って、重くなりそうな気持ちまで洗い流されていくような気がした。
「……よし!」
ハンカチで濡れた手を軽く拭き、重いバケツを持って立ち上がる。
反論して嫌がらせが悪化するくらいなら現状を受け入れた方が楽だ。それに自分の境遇をただ嘆いていても何も変わらない。
こんな毎日を少しでも楽しく生き抜くために見つけたのは、ささやかな趣味。庭でこっそり植物を育てたり部屋でアクセサリーを作ったりするうちにそれは日々の大きな生きがいに代わり、街にある友人の店で販売することでわずかながらお金を稼ぐこともできるようになっていた。ロベールが内密に分け与えてくれたお金も少しばかりあるし、いつか、この家を出られる日も来るかもしれない。
歩き出したところで、ぐうとお腹が鳴った。
「お腹空いたな……」
今日はちゃんと食事が用意されているだろうか。
使い走りをさせられても食事がない日があっても――生きていけているだけで、好きなことができているだけで、充分だと本気で思えていた。自由に過ごせる時間を、趣味を取り上げられないだけ幸せだ。
もう二十歳。この二年はアンナに遮られて社交界から足が遠のいていることもあり、きっと縁談の話も来ないだろう。それでも、ルイーズは日々に満足していた。
きっと、これからもこうして生きていく。
ある意味平穏で、代り映えのない毎日。色褪せているようで、ちゃんと満たされもしている日々。自分の力で作り上げた小さな箱庭で生きる日常が、これからも続くと思っていた。
家の前に立派な馬車が停まったのは、その翌日のことだった。
「シリル王太子殿下⁉」
ルイーズが洗濯かごを抱えて廊下を歩いていると、アンナの悲鳴に似た声が聞こえて足が止まった。
殿下と聞こえた気がするけれど、聞き間違いだろうか。かごを置いて玄関の方を覗くと、淡い色合いの金髪が目に入る。
長いまつ毛に縁どられた薄紫色の瞳。すっと通った鼻筋。透き通るような真っ白な肌に金糸のような髪を持つこの国の王太子・シリルは、国民から美しいと湛えられるのも納得の容姿だ。数年前のパーティーで遠目に見かけたことしかないけれど、従者や騎士に囲まれた彼はひときわ輝いて見えて思わず目を奪われてしまった。
(――じゃなくて! 本物の殿下⁉ ど、どうしてうちに……?)
夢でも見ているのだろうかと混乱していると、こっちを向いたシリルと目が合う。
「ルイーズ嬢ですね? 本日はあなたに結婚の申し込みにまいりました」
「……え?」
――結婚?
想定外の単語が耳に届いて、間の抜けた声が漏れた。
(今、結婚って言った? しかも『あなた』に……!?)