当て馬にされた悪役令嬢
「ケイト! 僕は君と婚約破棄すると決めた!」
記念パーティで久しぶりに会った婚約者、金髪青瞳の美青年、リオネス・サンセッド公爵令息が叫ぶ。
傍らにいる彼の親友、茶髪茶瞳で屈強な肉体の騎士、ゲイン・エンドリアル様が息巻いた。
「何を突然言い出すんだリオネス、ケイト公爵令嬢は君の婚約者ではないか!」
熱く胸ぐらを掴むゲイン様。リオネス様は熱の籠もった目でいやいやと首を振る。
「ケイトはお前に譲るよゲイン。ケイトは家柄も顔もいい。侯爵令息のお前が婿入りをすれば、お前は晴れて公爵家の婿になる。僕はケイトとわざわざ結婚しなくても公爵家の男だ。お前のような立派な男は出世して、僕と同じ地位にまで上がってくるべきだ」
「なんだって……俺の出世のために譲ってくれるだと!?」
「そうだ。だってお前と僕は親友だろう? 家柄の身分を揃えれば、これからも親友として仲良くしていられるだろう?」
「ああ……! なんて優しい男なんだ、リオネス!」
がし、と抱き合う二人。だが、すぐにゲイン様は大げさに天を仰ぐ。
「しかしリオネス、そうじゃないだろう! お前の女を譲ってもらって、さらにその女の家柄で身分を揃えるなんて、女々しいことを出来るわけがないじゃないか!」
「!! ゲイン……」
「へへっ。俺が憧れたリオネス・サンセッドという男は……そんな提案を、俺にするのは似合わない! 俺にケイト嬢は不要! 女の家柄でなく己の力で成り上がる!」
ゲイン様の熱の籠もった言葉に、リオネス様は照れくさそうに鼻を擦る。
「そうだな……お前がそう言ってくれるのを、僕は少し期待していたのかもしれない」
「これからも女を譲り合う譲り合わないじゃなくて、仲良くやっていこうぜ」
「ああ。お前はお前の実力で、僕と同じ地位に成り上がってくれ!」
「もちろんだ! 親友!!」
「ああ、ゲイン! 我が友よ!!」
「リオネス!!」
男達は固く拳をぶつけ、握手し、抱き合った。
騎士養成学校に入ってから、リオネス様とゲインズ様は、男社会でもまれてすっかり暑苦しくなった。
二人はきらきらとした笑顔で、私を見た。
「というわけで、婚約破棄は無かったことに!」
「これからもリオネスを支えてやってくれ、ケイト公爵令嬢!」
同時に自分のほうを向いた婚約者とその親友に向かって、私は告げた。
「ふざけないでくださいまし」
は? という顔をする男二人。
私は冷ややかな顔のまま、額の血管がバキバキになるのを感じた。
――もう、我慢の限界だった。
◇◇◇
「つまり、男同士の友情ごっこの当て馬にされちゃったってことなのね、ケイト」
「はい、さようでございます」
私は第五王女殿下、ミレイラ・レキシス殿下との二人きりのお茶会をしていた。
ミレイラ殿下は私と同い年の17歳。淡い桃色の髪と金の瞳が愛らしい王女殿下だ。銀髪に緑瞳のきつい顔立ちの私とは対照的な甘い雰囲気の可愛らしい人だ。
普段は花も恥じらう気品溢れる令嬢だけれど、親友の私たちは二人っきりの時だけは腹を割って雑談をする関係だった。
テーブルの上のマカロンを口にして、ミレイラ殿下はうーんと唸る。
「ええと。別に元婚約者と婚約者、同性愛者ってわけじゃないのよね?」
「はい。いわゆる……女を譲る俺……と、女を譲られるなんて求めてない……俺らの友情は最高だぜ! の当て馬にされただけでございます」
「本っ当に同性愛者じゃないの?」
「違うと思います。パーティーの後、ほろ酔いで馬車に乗って娼館に行ってましたので」
「……最悪」
はい。王女殿下の最悪をいただきました。
そんな最悪のブラザーフッドのつまみにされた私だが、残念ながら世間は私に冷たい。
私は二人の男の間でふらふらと勘違いして誘惑した頭の悪い女ということになり、娼館で女を通じてさらに友情を固めあった男二人は「愚かな令嬢に友情を壊されなかった理想の親友コンビ」ということになっている。
悪役令嬢なんて手垢のついた二つ名を、まさか拝命することになるとは思ってもいなかった。
私は溜息をついて肩をすくめた。
「そんなわけで、実家にも居づらいのですよ」
「えっ、ケイトは失礼こかされた側なのに?」
「はい。婚約破棄撤回を撤回して婚約破棄を受け入れたことで、もう両家の親はカンカンです」
実家は、思わず言い返した私を頭ごなしに叱った。
「両親は『信じられない』、『ただちょっとした冗談を笑って許せないと今後はやっていけない』とか、『プライドが高すぎる』とか、『弁えて鷹揚に許してやるのが婚約者のやることだ』、だとか」
「……相変わらず、どうしようもない実家ね。潰してあげましょうか?」
「ミレイラ殿下の醜聞になりますので、私的な粛正は控えてください」
「分かったわ。……というか、両家の親? なんで義理のご実家サンセット公爵家まで怒ってるの?」
「義実家は『息子の冗談や友人関係に口出しする最低な婚約者』扱いで、謝罪と損害賠償まで求めてきてるのです」
社交界のドロドロをそれなりに世渡りしてきた歴戦の将、ミレイラ王女殿下がすっかり引いて青ざめている。
「……今までも、結構我慢していたのよね? ケイト」
「私なりに、努力して参りました」
私は遠く空を見やる。この景色も見納めだ。
思えば今までもずっと煮湯を飲まされてきた。
◇◇◇
――初めての出会い、婚約のお披露目の席で。
「なーんだ、可愛くないなあ。ママの方が綺麗じゃん」
これが婚約者リオネス・サンセッド様の第一声だった。
あろうことか、息子の発言を義母は否定しなかった。
「そうね、でも世の中の女の子のなかではマシなほうなのですよ。これからあなたがこの芋を育ててあげればいいのです」
「そうだな。僕が育ててやる必要があるんだな」
にやっと笑ったリオネス様の顔に、嫌な予感がしていたのだ。
――それからは地獄だった。
会うたびにブスだの、バカだの、やぼったいだのと揚げ足を取るような罵倒。
それでも私は婚約が決まってからは節目節目に合わせて、誕生日プレゼントや、記念日のプレゼントをした。
けれど、相手はいつも文句しか言わなかった。
これが良かったとか、これはいらないとか。
かと言って何が欲しいのかを尋ねても嫌がるし、渡さないと大騒動を起こすし。
私が学校で優秀な成績を収めたら可愛くないと言われて、私の親は夏合宿に行かせてくれなかった。
学はあくまで良縁のため花嫁修行のためであり、嫁ぎ先の顔を潰すものじゃないと。
「学園のチェス部に入部してると聞いたよ。チェスなんて男の遊びはやめろ。恥ずかしいから」
「しかし……他にも、令嬢の在籍者もおりますが」
「は? 僕に口答えするの?」
「……もうしわけございません」
そうしてチェスの趣味も奪われた。
可愛い女にならねばならないかと思い、私が可愛い服を着ても婚約者は文句を言ってきた。
また、何かプレゼントをくれたかと思ったら、飲み屋でお気に入りのバーメイドの私服と同じのを着てくれ、と言われたこともある。実際に着たら、地味だの胸がないだの、男友達たちと一緒に馬鹿にする。
――そういう態度は、15歳で騎士養成校に入ってから加速度的に酷くなっていった。
そんなのも、全部「人生はこんなもんだ」とあきらめて弁えてきた。
親にも義両親にも、「わきまえなさい」と言われてきたから。
人生経験のない私は、公爵令嬢としてはずかしくない生き方をすることしか、己を保つ方法がなかった。
全部、婚約者としての矜持だった。
けれど私の心の支えだった「婚約者」というポジションさえ貶められては。
ふざけないでくださいまし――だ。
◇◇◇
ミレイラ殿下が言う。
「でもケイトは公爵令嬢なんだし、次の結婚相手くらいすぐに見つかるんじゃないの? 私の結婚相手の、フランツ王子殿下も側近のみなさんも、ケイトのことは素敵な方だっていつも褒めてるわよ」
「……結婚相手……ですか……」
ミレイラ殿下の言葉に、私は心が曇るのを感じた。
さあ、今日のお茶会で伝えたかった本題を、切り出さねばならないようだ。
「同世代の貴族令息だと義実家が怒るから、隣国の50代男性貴族の後妻に入ることになったのです」
「え」
「今日はそれをミレイラ殿下にお伝えしたく伺ったのです。実家からわざわざ先方にお金を握らせて頼み込んで、私を引き取ってもらうみたいです」
「そんな、娘を廃棄物みたいに……」
「実家もさっさと私を片付けて、家名の傷を無かったことにしたいみたいなので」
「……最悪。断らないの?」
「断ったって、生きられません。私には何もありませんので」
私は自嘲の笑みを浮かべた。
「貴族令嬢としての飼い猫の人生しか過ごしたことのない私です。今更野に出て強く生きられません。……わきまえなければ」
「何もないなんてこと、ないじゃない。あなたは今まで良くしてくれたし、賢いし、政治にも流行にも明るいわ。私も何度助けられてきたか」
「それでも……貴族の娘としての信用は、悪評と婚約破棄で崩れてしまいました」
目を伏せて、悲しみに耐える。
どう足掻いても、全てを捨てて逃げるなんてロマンス小説の中だけの話だ。嫁ぎ先の男が意外といい男というのも、ロマンス小説の中だけ。
現実は土気色。次の世代の苗床になって、養分になって、死を待つだけの腐葉土。
それが結婚後の人生だ。
ああ――だから気持ちを狂わせる極彩色で花嫁を彩るのねと、今更なんとなく腑に落ちた気持ちになった。何も知らない娘時代に鮮やかにラッピングして、この世の春を楽しんだ後に煮物色の人生を過ごす。
貴族にとっても平民にとっても、女の人生って所詮そんなものだ。
「ミレイラ殿下。私はあなたに出会えて本当に幸福でした。幼なじみとしておそばにいて、一緒にお茶をして、いっぱい誰にも言えない愚痴を言い合って。……楽しかったです」
「ケイト」
「悪役令嬢と誹られても、私はミレイラ殿下との思い出を胸に、」
「ケイト……! それ以上は、言わないで」
ミレイラ殿下が涙ぐんでいる。
「こんなことってないわ。真面目に生きてきたあなたが、幸せになれないなんて」
「私はミレイラ殿下がお幸せになれば、それで報われます……」
「……ケイト……」
ミレイラ殿下は既に隣国ツヴァル王国の王子、フランツ王子殿下との結婚を来年に控えている。長身で笑顔が明るく、プラチナブロンドが美しい王子殿下だ。
何度かお会いしたけれど、優しくて、責任感が強くて、立派で、ミレイラ殿下が気づいていない場所でも、ミレイラ殿下を愛おしそうに見つめる信頼できる男性だった。ミレイラ殿下ならば永遠の春を彼と過ごせるだろう。友人が幸せなら、それも悪くない。
そう思いながらミレイラ殿下の涙を拭うと。
目を開けたミレイラ殿下は、強い眼差しをしていた。
「あのねケイト。あなただって、幸せになる権利はあるわ。悪役令嬢がなによ。……そんな噂、この国の中だけの話よ。……うん、決めたわ。私はあなたに幸せになってもらいたい。だって、あなたは大切な親友だもの!」
ミレイラ殿下の瞳にはいつしか決意が滲んでいた。
私は知っている。ミレイラ殿下は表では楚々とした慎み深い王女殿下だけど。
この強い意志の瞳をもったときには、なんだって不可能を可能にしてしまう、強い女の子であることを。
ミレイラ殿下は私の手を握って、椅子から腰を浮かせて言った。
「決めたわ。当て馬にされたのなら、当て馬に仕返してやればいいのよ」
「えっ」
「男の友情に煮え湯を飲まされたなら、女の友情で、煮え湯で紅茶を沸かすのよ!」
◇◇◇
ミレイラ殿下は、その後、あまたのお茶会で根回しを始めた。
「私が輿入れする際の筆頭侍女はケイトが適任だと思うの」
悪役令嬢と噂される私の指名に、貴族達は皆困惑した。
「ケイト様は……しかし、悪評があるし……侍女としては不適格では」
「そもそもプライドも家格も高い公爵令嬢を、王女付きとはいえ侍女にするのは……」
悪いことなど何もしていないはずなのに、悪評はすっかり広まっている。
しかしミレイラ殿下はにっこりと笑い、どんな手を使ったのか皆の意見を一蹴したのだ。
「お嫁に行くに当たって、公爵家の侍女をつけるのは隣国へ強いアプローチとなるわ。それだけ今回の婚姻を大切にしているという、ね。 どんな曰く付きかなんて、これからどうとでもなるのではなくて?」
彼女の微笑みは、有無を言わさぬ力がある。
この国の貴族令嬢達が要らぬ諍いを起こさないのは、彼女の手腕あってのものなのだ。
そして私は装いをすっかり改めて、ミレイラ殿下の侍女として付き従った。
私は恩義に報いるため、ミレイラ殿下を美しく映えさせるため、従者として生きた調度品であることを意識した。
ミレイラ殿下が大ぶりの花だとすれば、その周りを飾るかすみ草のように、葉のように。
元婚約者たちの振りまいた悪評すらアクセサリーにした。
高慢な公爵令嬢が反省して改心したのは、ミレイラ殿下の力あってこそのものだと言われるように。
そう――そもそも、私を叩いても埃は出ないのだ。
根も葉もない噂話を広めるにもネタがない。
だって私は、ただひたすらに元婚約者の婚約相手として、公爵令嬢として真面目に生きてきたのだから。
「ありがとうございます。いただいた新たな人生を大切にし、誠心誠意をもってお仕えさせていただきます」
「新たな人生なんかじゃないわ。ちょっと蠅を払っただけよ」
私が感謝の言葉を伝えると、ミレイラ殿下は肩をすくめて笑った。
「馬鹿らしい悪評も覆せたのは、ケイトが元々しっかりしていたおかげなんだから。私がこうして王女として堂々と偉そうに出来ているのも、友人のあなたがしっかりと支えてきてくれたからよ。これからもよろしくね、ケイト」
後日。
私は国王陛下直々に命じられた。
ミレイラ王女殿下付きの侍女として、一緒に隣国ツヴァル王国に行くように、と。
国王陛下に命じられてしまっては、実家も義実家も反発を許されない。
お金を握らされて無理矢理私を娶るつもりだった年上の婚約者は、当然のように白紙にしてくれた。
私に対する手紙にそっと
「幸せになりなさい」
と書いてくれたから、きっといい人だったのだろう。
なによりミレイラ王女殿下だけでなく、嫁ぎ先の隣国からも、私を歓迎する連絡が届いているのだから。
◇◇◇
そうしてミレイラ王女殿下は妃殿下となるべく隣国に輿入れし、私はミレイラ妃殿下付きの侍女として同行した。
「ようこそ我が国に。ミレイラと一緒に来てくれて本当にありがとう」
フランツ王子殿下は私的な場を用意して、わざわざ一介の侍女である私に挨拶をしてくれた。
また、王子殿下は私を近衛騎士に引き立てた学生時代からのご学友たちとも会わせてくれた。皆高位貴族の令息で、今までもミレイラ妃殿下と一緒にお会いしたことがある。
令息達の姿に、私は一瞬身を固くする。それに気づいたミレイラ殿下が私の肩を撫でた。
「大丈夫よ。皇子殿下のお友達は、あなたの悪評の事なんて信じてないから」
王子殿下はウインクをする。
「君がどんな扱いを受けていたのか、ミレイラからずっと愚痴を聞かされていたよ。これからもミレイラの話し相手をしてやってほしい。僕だけじゃ、ミレイラのおしゃべり全部を十分に聞けないかもしれないからね」
「もう、王子殿下! 私そんなおしゃべりですか?」
「そういうところが可愛いんだよ」
二人は屈託なく笑いあう。
ミレイラ殿下と王子殿下が一緒に並ぶと、本当にお似合いで美しかった。
そしてそんな二人と一緒にいる側近の皆さんも、親切で優しかった。
「お互いそれぞれの殿下に仕える身、あまり接する機会はございませんが、協力し合っていきましょう」
側近の一人、ジェイド・アンバー公爵令息が私に声をかけてくれた。
眼鏡に黒髪、背が高く、厳しそうな雰囲気の人だ。
私もこの人みたいに凜々しく、ミレイラ殿下の側仕えとして仕事を全うしたい。
「こちらこそ、分からないことばかりなので何卒お力添えいただけますと嬉しいです」
私たちは挨拶をしあった。
そうして、隣国での暮らしがはじまった。
私は祖国から一緒に侍女として入った令嬢たちと一緒に、新生活になれるので精一杯の日々を過ごした。悩む間もない日々が続いた。
そんな私をときどきミレイラ殿下は王子殿下との逢瀬に招いては、私と同じように招かれた側近の皆さんと一緒に楽しく雑談する時間を作ってくれた。
彼らはよくチェスをやっていた。
ある日私に、ジェイド様が話しかけてきた。
「ケイト嬢。よかったら僕たちと一緒にチェスをしないかい」
「でも……」
チェスは男性の趣味だ。私が出しゃばるわけには、と思っているとミレイラ殿下が私の肩を抱いて言った。
「いっとくけど、ケイトはとってもチェスが得意なんだからね。甘く見たら痛い目に遭うわよ」
「み、ミレイラ殿下」
「楽しんできなさいよ、ケイト。ここにはあなたがチェスをすることを咎める人は居ないわ」
私はそれから、お言葉に甘えて側近の皆さんと、また王子殿下と一緒にチェスをするようになった。
毎日の忙しいおつとめも、時々訪れるこんな楽しい日々のおかげで、つつがなくこなしていけた。
◇◇◇
そしてついに結婚式が終わり、ミレイラ王女殿下は妃殿下となった。
結婚式を終えた新婚の王子殿下、妃殿下の二人は毎日毎日どんどん仲睦まじくなっているように見えた。
ある日、王子殿下と会話の折に「そういえば」と話を切り出された。
「ミレイラが君に紅茶を淹れたいと言っていたよ。この国の味を是非楽しんで欲しい」
「ありがとうございます」
なぜ突然紅茶の話? と思ったけれど、隣にいたミレイラ殿下が悪戯っぽくウインクするので合点した。
――煮え湯を飲まされたなら、その煮え湯で紅茶を淹れればいい。
あのたとえ話を、ミレイラは王子殿下とも話しているのだ。
二人っきりになったあと、ミレイラに私は文句を言った。
「あのお話、なさっていたのですか? ……恥ずかしいです、なんだか」
「王子殿下はあなたにきっと素敵なお茶を用意してくれるわよ」
「忘れておりましたのに、故郷の事なんて」
「そうね、それがいいわ」
くすくすと冗談を言い合いながら、私は満たされた思いを感じていた。
ミレイラ殿下は嫁いだあとも幸せに笑っている。
もちろん楽しい事ばかりではない、苦労もしていると侍女だから知っている。
けれど苦労も失敗も全部養分にして、王子殿下の愛情を受けてきらきらと輝く。
結婚して終わりじゃない。ずっときらきらの笑顔でいられるミレイラ殿下が、私はとても嬉しかった。
私も、ミレイラ殿下に親愛をもって尽くしていこう。ミレイラ殿下の笑顔のために生きていこう。
――もう、結婚は一生しないと心に誓った。
◇◇◇
私はミレイラ殿下の嫁ぎ先で真面目に働き、ツヴァル王国での高い評価を受けた。
ミレイラ殿下も王子殿下も、皆さんが私が得意な仕事をまかせてくれたおかげでもある。
故郷のレキシス王国にも私の活躍と評判の噂は伝わったようで、実家から手のひら返しの連絡が届いてくるようになった。
「お金を払ってでも、私を追い出そうとしていたのに……」
呆れたけれどお茶請けくらいにはなるだろう。
そう思って休憩時間、ミレイラ殿下に届いた手紙を共有すると、殿下はさも面白そうに眺めてくれた。
「なになに? 『故郷にはいつ帰ってくるの?』『仕事ばかりするのもいいけれど、そろそろ良縁を得ないと行き遅れるわよ』『薄情者』……ふふ、家から追い出そうとしていたのにね」
「義実家からは素直に『よくもうちの息子を捨てて成り上がろうとして!』と怨嗟の声が届いております。こちらです」
「あはは! そっちからも!? 素直すぎてかえって面白いわ」
プライベートな空間で屈託なく笑う殿下に、私は肩をすくめた。
「でもこの調子ですと、祖国では私の評判は悪いままなのでしょうね」
親を捨てて婚約者の顔を潰した、生意気な女扱いだろうと思う。
ミレイラ殿下は楽しそうに手紙を折って鳥を作る。そして飛ばしながら目を眇めて笑った。
「いいじゃない。男に煮え湯を飲まされて、国外に行って仕事に生きる悪役令嬢。かっこいいと思うわよ」
「そう言ってくださるのはミレイラ殿下だけですよ」
「そうでもないわよ、ねえ、フランツ様?」
ミレイラ殿下が後ろを振り返る。そこには同じ部屋で側近とチェスに勤しむ王子殿下がいた。
そう。広い私室の中で、王子殿下は側近と遊んでいたのだ。
皆さんは、ミレイラ殿下に話題を振られ、顔をあげて人好きのする屈託のない笑顔を見せる。
「ああ。私たちはケイト嬢が真面目な侍女だとしっかり見ているからね」
「ミレイラ殿下がケイト嬢にべったりだから、なかなかふたりっきりになれないって、王子殿下もときどき焼き餅焼いてますけどね」
「おい、それを言わないでくれよ。かっこ悪いじゃないか」
ははは、と側近のみなさんは笑う。ミレイラ殿下も笑って立ち上がり、チェスで劣勢に立つ王子殿下に後ろからハグをしてキスをする。幸せそうだ。
私は皆からの評価に、嬉しくなる。
容姿や家柄ではなく、働きぶりや人格を褒められると満たされた気持ちになる。
「私は幸せです。精一杯、ミレイラ殿下の幸せのために一生仕えさせていただきます」
ミレイラ殿下は微笑む。その笑顔を守れるだけでも、私は幸せだと思った。
◇◇◇
夏、故郷の記念式典に私たちは出た。輿入れから結婚式を経て、一年ぶりの里帰りだ。
城で開かれた式典で、私は皆に驚かれた。
侍女として能力を求められ、親や元婚約者の目を気にせずのびのびと過ごす生活が幸せで、どうやら以前よりもずっと輝いて見えたらしい。
両親は式典で私を見るなり、ずかずかと近づいてきて人目も気にせず叱りつけた。
「どういうことなの!? 婚約者を捨てて、家族を捨てて、連絡もろくにしないなんて!」
人前で恥ずかしい、そもそも今回は両国交流の大切な場なのに。
どうしたものかと思っていると、ミレイラ殿下がにっこりと微笑んで近づいて、私の腕を取る。
「彼女は私の侍女。外交問題にもなりますので慎重な手紙のやりとりを心がけてもらっているのです」
「あ……王女殿下……」
青ざめた両親に殿下は微笑み、そして遠くですごい顔をしている義両親にもにっこりと笑う。
「手紙でも送った通り、今後の彼女の身の振り方については王宮を通して連絡します。私の侍女への私的な訴えは今後も通せません」
柔らかくともきっぱりとした態度だった。
両親はそのまま引き下がらざるをえなかった。大勢の前で王女殿下直々に咎められたのだから、今後は少しはおとなしくなってくれるだろう。
「申し訳ございません。家族を抑えておくのも私の役目ですのに」
「むしろ人前で私がぴしゃりと言えてよかったわ。……さあ、嫌なことは忘れて。式典はこれからよ」
「はい!」
私は式典に堂々と参加した。
国王陛下も妃殿下も、私の働きを実家と元義実家の目の前で、堂々と褒めてくださった。
満たされたまま式典を終え、その後は交流パーティへの参加となった。
ミレイラ殿下が王族だけで集まり、侍女もそれぞれバラバラに仕事をし、ちょうど私が一人になったときだ。
近くから意地の悪い笑い声が聞こえてきた。
「おいみろよ、あれが悪役令嬢様だぜ」
「うわ、恥ずかしくないのかな……こんな場所に来て」
元婚約者リオネス様とその親友ゲイン様、そして悪友達が私をネタに笑っているようだった。
記念式典にもかかわらず、お酒を少し飲み過ぎて声が大きくなっている。
「男に捨てられて仕事に生きる女って、哀れだよな」
「見向きもされないみたいだから、お前声をかけてやれよ」
「やめろよ、本気にされたらだるいだろ?」
記念式典に貴族が集まるのは、両国の貴族同士の顔を覚え、挨拶を交わし、今後の友好関係の礎としていくためだ。お酒だって社交の潤滑剤であって、昔なじみ同士で飲み交わして下品な話をするためのものではない。
私は元婚約者の姿に、同じ国の人間として恥ずかしくなった。
逃げるようにその場を立ち去ると、ちょうど廊下で一人になったタイミングで腕をぐいっと掴まれた。
「きゃっ……!」
「大声上げるなよ、大げさだな」
口を押さえられ、カーテンの陰に連れ込まれる。
そこにいるのはリオネス様だった。美形だと思っていたけれど、一年会わないうちになんだか雰囲気が変わった気がする。普段あまりに美しい人々を見過ぎているせいだろうか。
「より戻したくてきたんだろ? わかってるから」
「……何をいってるの?」
私は彼の言っている意味がわからなかった。
酒臭い息が近づく。
「なあ。まだ拗ねてるのかい。僕はいつでもよりを戻していいんだよ」
「既に婚約は正式に破棄されたはずです。離してください」
「なんだよ、本気で破棄したかったわけじゃないくせに」
「なっ……!?」
「だから今も独身なんだろ?」
「ご冗談は止めてください。人を呼びますよ」
ちっと、リオネス様は舌打ちする。
「相変わらず面白くない女だな。冗談がわからない……あれは男同士の冗談だよ。わかれよ?」
「やめてください」
「一生独身でいいのかよ。……なあ。いいだろ? 本当は僕のことわすれられないんだろ? だから今日もきたんだろ?」
そのとき、会場で大きな拍手が響く。
音に驚いてリオネス様の手が緩んだところで、私は彼から逃げ出した。
背後から舌打ちの音がする。
逃げたところで、私はジェイド様にばったりと会った。
ジェイド様は近衛騎士の礼装を纏っていた。その凛々しさに自分がなんだか恥ずかしいもののような気がして目を逸らす。彼は心配そうに私をみた。
「どうしたんですか、顔が青いですが」
「大丈夫です。……少し、久しぶりの故郷で勝手がわからなくて」
「本当に、何もなかったんですか?」
確かめるように聞かれ、私は目をそらす。
今あったことを伝えるべきだろうか――否。
故郷の令息の恥をわざわざ訴えるのはただの愚痴以上の何物でもない。
それにこの故郷の国では私は悪役令嬢扱いされている。
そんな国で「リオネス様に絡まれて危なかった」なんて言っても――私がかえって悪いと言われるかもしれない。ジェイド様にも迷惑をかけてしまう。
「なんでもありません。大丈夫です」
「……そうですか」
ジェイド様は私を案じるような眼差しで、それ以上追及しないでくれた。
私はほっとした。
◇◇◇
パーティは第二部に入り、ダンスパーティとなった。
私はもう目立ちたくない思いで、ミレイラ殿下の傍にいることだけに務めた。
「ケイトあなた、今日少しおかしいわよ」
「少し人酔いしてるだけです。大丈夫ですよ」
他の人が気づかない変化でも、ミレイラ殿下にはばれてしまう。
私は笑顔でごまかす。そのときフードカウンターで新作スイーツがお披露目されているのに気付いた。
「ミレイラ殿下、あちらお召し上がりになりますか? 取って参りますね」
「ありがとう」
私は殿下の傍を離れ、ケーキを取りに向かう。
すると酒に酔ったリオネス様が、例の親友と共に誰かに絡んでいた。
「……!」
それはあろうことか、王子殿下の側近として働く近衛騎士のみなさんだった。ジェイド様もそこにいる。
リオネス様は彼らに対して、にやにやと笑いながら話しかける。
「そちらの国に行っている侍女の一人に、俺の元婚約者がいるんだ。誰だと思う?」
明らかに揶揄したくてたまらない口調だった。
「あのケイト・ロードキーという侍女さ。あいつはこの国では悪役令嬢と呼ばれるような薄情者さ。幼い頃からの婚約者である僕を捨てて、貴殿の国に行くことを選んだ。打算的で、上昇志向の強い、生意気な女さ」
「ほう? それは初耳だな」
ジェイド様が話を合わせてあげている。私はいたたまれなくて耳を塞ぎたくなる。
こんな時に限って、なかなかケーキの列が進まない。
リオネス様の隣でゲイン様が頷く。
「そうそう。自分の能力をちやほやされたかったのだろう、少し勉強ができるからってかわいげのない女だった。そんな女でもリオネスは結婚してやると言っていたのに、リオネスのことも、次に男あさりして見つけた年上の男も捨てて、そちらの国に行ったんだ。貴殿らも物色されているかもしれないぞ」
「気をつけたまえ。自分の出世のためならなんでもやる女だ。王女殿下も弱みをにぎられているのかもしれないな」
がははと、リオネス様とゲイン様は笑う。
側近の皆さんは場を取り繕うような曖昧な表情を浮かべている。
その中で、話に食いつくようにジェイド様が話を促す。どこか怒っているような風だった。
「元婚約者、か。では婚約は解消となったのかな?」
「ああ。ちょっとしたことですぐかーっとする女だったんだ。だから解消をちらつかせたら顔を真っ赤にして『ふざけないでくださいましぃ!』だってさ。面白い奴だったんだよ」
「あれは面白かったな。あなたにも見せてやりたかった」
けらけらとあざ笑う彼ら。
ケーキの列が進まない。私の姿が見られたらどうしよう。恥ずかしい。
いたたまれない思いになっていたところ、突然ジェイド様ははははと笑った。
「それで貴殿は捨てられたというわけか。なるほど、それで傷をなめ合っている、と」
ぽかんとした顔で、リオネス様とゲイン様は硬直する。
「彼女については貴殿らより私たちの方がよく知っているよ。ミレイラ妃殿下が王女だったころからずっと話を聞いていたし、妃殿下のご友人として過ごしていた彼女も見ている。ずっと私たちは、魅力的で素敵な女性だと思っていた」
え? と思う。
鏡を見ると私もきっと、リオネス様とゲイン様とおなじくらい、茫然とした顔をしているだろう。
「婚約者がいる女性を話題に出すのは失礼だから、控えていたがね。ミレイラ妃殿下の側仕えとして来てくれて本当に良かった」
「それに仕事もできるしな。物腰も柔らかいし、貴婦人の話題にも令息たちの流行にも、政治の話にもなんでも合わせられる」
「あんな立派なご令嬢に捨てられた男というのはどんな男だろうと思っていたが、名乗り出てもらってよかったよ」
だんだん、リオネス様の顔が真っ赤になっていく。
酔っていることもあって、大きめの声で近衛騎士たちに詰め寄った。
「捨てられたって、そんな言い方はないだろ? なあそれに捨てられたんじゃなくて、あっちが勝手にこっちの冗談を真に受けて解消してきたんだよ」
リオネス様より幾分か冷静そうなゲイン様が、焦りながら笑顔で取り繕う。
「そうそう。その場にいたら笑えたんですよ、婚約破棄の瞬間。公爵令嬢のくせに、婚約破棄なんてそうそう簡単にできるものじゃないのに、分かってなかったのかな」
少し引きつった声で笑い話に持っていこうとする元婚約者達。
ずっと軽口を言わなかったジェイド様が、よく通るはっきりとした声で言った。
「婚約破棄などという侮辱を受けた公爵令嬢が、毅然と相手を捨てるのはもっともな事です。家名と貴族としての矜持を背負う女性ならば当然のこと。冗談で人を笑いものにする男はいずれどこかで失敗する。選ばないのは賢明なことですね」
「……はは、ご立派なことで」
自分たちの『笑い』が通じなくて興ざめしたらしい元婚約者と親友は、引きぎみにお互い苦笑いをしあっているようだ。
――その時。
「なんだなんだ、皆して突っ立ってだべって、僕を仲間はずれにしないでくれ」
両手にケーキを持ってその場にやってきたのは王子殿下だ。
突然の声かけに、リオネス様とゲイン様は焦りながら頭を下げる。
「パーティの第二部といえばダンスもだけどケーキも大事だ。そして男子たるものチェスに興じるのも楽しみだろう。ダンスホールはつかえているから、さっさとチェスにするぞ」
「かしこまりました」
皆さんとリオネス様とゲイン様が、ぞろぞろとチェスコーナーのほうへと向かう。
その中で、王子殿下は思い出したように私を振り返って笑顔を向けた。
「ミレイラがご所望だ、ケイト嬢も一緒にチェスをしろってね」
「え」
――そして。しばらく時間が経ったところで。
私はミレイラ殿下と一緒にとんでもないものを見ることになった。
王子殿下の側近の皆さんがチェスで、リオネス様とゲイン様を、次々と徹底的にやり込めていたのだ。
半ば、私刑とも言えるほどの圧勝だった。
「く、くそ……! なんで勝てないんだ……!」
「基本の定石すら覚えていらっしゃらないとは。貴族令息としてのたしなみではありませんか」
側近の一人に煽られ、ゲイン様が悔しげに頭をかきむしる。
ミレイラ殿下が私と一緒にソファで観戦しながら、楽しげに笑って言う。
「つまらないわ。私の恥となるのだから、一勝くらいしてみなさい」
「っ……!」
ミレイラ殿下に蔑まれ、リオネス様とゲイン様はお互い顔を真っ赤にする。
そこですっかり楽しそうに眺めていた王子殿下が私を見た。
「そうだな。ミレイラの母国の恥ばかりを見るのは僕も嫌だ。ケイト嬢、ここは一つ僕の学友達と勝負しろ」
「えっ……わ、私ですか!?」
「やっちゃってケイト。大丈夫よ、ケイトが結構チェス得意なの知ってるから」
チェスなんて賢しいし、令嬢の趣味ではない。
だからやりかたは知っているけれど、衆目のそれも殿方の前でやるなんて。
理解をいただけるようなお相手の前だけならともかく……
緊張する私をよそに、側近の一人が席に着いた。
「さあ、ケイト嬢。俺と勝負してくれ」
「……かしこまりました。お手柔らかに、お願いいたします」
それからは頭が真っ白で、私はろくに覚えていない。
覚えていることは、私が王子殿下の側近を一人、また一人チェスで打ち倒していったこと。
そしてギャラリーがどんどんふえていったこと。
そして――最後の一人、ジェイド様だけが手を抜いてくれていたこと。
顔を見ると、彼はウインクをした。
――私が勝たなければならない場、なのだろう。
私は彼のリードに従い、勝利をまた一つ重ねた。
最後にはついに王子殿下が参戦したが、殿下は本当にものすごく強くて、あっという間に負けてしまった。
手加減をされていると分かっていても、とても太刀打ちできない見事な猛攻だった。
「まいりました」
私は頭を下げる。気づけば集まったギャラリーが、盛大な歓声を漏らした。
令嬢である私がここまで善戦したので、母国側の人々も落胆ではなく楽しそうな歓声だった。
「ありがとう、無茶ぶりに応えてくれて」
王子殿下と握手をする。私は笑顔で首を横に振った。
「楽しい時間をありがとうございました、殿下」
私が打ち倒した側近のみなさんも、すがすがしい笑顔で私に拍手をしてくれている。
リオネス様とゲイン様の姿はそこにはなかった。
場にワルツが流れる。
ミレイラ殿下が笑顔で手をひろげた。
「さあ、楽しく踊りましょう! 両国のますますの友好と発展を願って!」
私は下がろうと思ったとき、
私の前に大きな手が差し出される。
見上げると、そこには私に勝たせてくれた、ジェイド様だ。
彼が元婚約者に対して言っていた言葉を思い出し、頬が熱くなる。
彼はずっと見てくれていたのだ、私のことを。
「……私と踊っていただけませんか、ケイト公爵令嬢」
「喜んで」
ダンスホールで踊る人混みの中に入り、私たちは身を寄せ合って躍った。
彼は穏やかな声で私に言う。
「さきほどは失礼いたしました。あなたに失礼かと思ったのですが」
手加減した話だろう。私は首を横に振る。
「いえ。そうしていただかないと私は負けていました。……ありがとうございます」
私を立ててくれるために、負けてくれたのだ。
同時に私は、彼の面目を思う。
「私に負けた姿を見せるのは、あなたも、みなさんも、不愉快だったと思います。申し訳ありません」
「何をおっしゃいます。真剣勝負で負けるのは心地よい。それに私との勝負はあくまで儀礼的なものです。きになるのでしたら、……また今度、個人的に戦いましょう」
「是非」
ダンスは続く。
ゆったりとしたワルツの音色が、リズムが、私の鼓動の高鳴りと呼応する。
彼の手から感じる体温に、胸がぎゅっと甘くなる。体温が手を通じて、染み渡っていくような心地だ。
こんな気持ちになるのは初めてだった。
私とジェイド様のダンスを、元婚約者と友人が唖然として眺めているのが見えた。
けれどすぐに人混みに消えていく。
私も忘れることにした。
過去の辛い思い出なんて、覚えていても頭の中がきゅうくつになるだけだ。
私なんかをからかって溜飲をさげていないで、もっと彼らの大きさを観て欲しいと思った。
音楽がさらにムーディなものへと変わる。
ぐっと、ジェイド様との距離がまた近くなる。
「……あなたと、ずっとこうしたかった」
「いつから私を見ていてくださったのですか?」
「ずっとですよ。あなたがまだ婚約者もいらっしゃるころから」
驚いて、私は彼の顔を見た。
「まだ王子殿下の婚約前、お見合いのお茶会の段階で、僕はあなたが気になっていました」
「な、……なぜか、おうかがいしても?」
「まだお見合い中頃の妃殿下は、見ていてこちらが心配になるくらい緊張しておいででした。けれどお見合いが成立し、両国の友好パーティが開かれるようになってから、あなたはかならず妃殿下の傍にいらっしゃった。あなたが妃殿下を励ましたり、妃殿下がのびのびと王子殿下と親交を深められるように配慮なさっていたのを、僕は見ていました。……よく目が行き届く、妃殿下思いのかただと」
なんだか恥ずかしい。彼は優しく続けた。
「婚約破棄されて、違うところに嫁がされそうになったときいて驚きました」
「ご存じだったのですね」
「妃殿下と協力して、なんとしてもあなたを侍女として連れてくるために、例の婚約者にも頭を下げて白紙にしていただきましたしね」
「えっ」
「……強引で、引きましたか」
そういえば手紙には「しあわせになりなさい」と書いてあった。
――まるでこれから幸せになると、わかっているような言い方だった。
私は侍女としての新しい人生を、幸せだと思い込んでいたけれど。
あの手紙にあった「しあわせになりなさい」は別の意味を含んでいたのだ。
「いえ……私も、望んだ結婚ではなかったので……ありがとうございます」
「他の人には、取られたくありませんでしたので」
「……私も、あなたをよく知りたいです。おしえていただけますか?」
「ええ。なんでも教えます。……ケイト嬢にも僕のことを、知って欲しい」
私たちの夜は、ダンスの音楽が終わっても続いた。
これまでの時間を埋めるように、時間の許す限り、たくさん、お互いのことを話した。
◇◇◇
――それから、私は少しずつジェイド様との接点が増えていった。
彼が宰相の息子だと知ったのもその後のことだ。
噂を聞いてますます私のことが惜しくなったのだろう、実家からの連絡が増えた。
義実家からよりを戻さないか、息子がさみしがっているという連絡が来た。
けれど、妃殿下は私にその情報が届く前に、さっさとお断りの連絡を入れていたようだった。
そして次の年を待たずして、ジェイド様は私にプロポーズをした。
直ぐに受けたかったけれど、私はどうしても踏ん切りがつかず、一日だけ猶予をもらった。
私は妃殿下とのティータイムで、告白されたことを告げた。
迷っている私に妃殿下は腰を浮かし、ずいっと身を乗り出して尋ねてきた。
「どうして猶予がほしいの? あなたが私の幸せを喜んでくれたように、私もあなたの幸せを願っているのよ」
「ですが……」
好きだと思った相手に、本当に好きで居てもらえる自分なのだろうか。
視線の先、ガラスのティーポットの中で茶葉が踊る。
のびのびと広がった茶葉が、透明な水を紅に染めていく。
その向こう側で、ミレイラ殿下が私に微笑んだ。
「ねえ、もう一度信じてみない? 幸せになる未来を」
◇◇◇
結局、私は彼と幸せになった。
隣国宰相家に嫁いだ娘の才能を見抜けなかったと、実家はずっと揶揄されることになった。
元婚約者と親友は悪評が広まったので、その後なかなか縁談がまとまらずに苦労することになる。
最終的に二人がどうなったのかは知らない。ただ、結婚できたのなら私に連絡が来るだろうから――家督も、弟や女きょうだいの婿に取られたのかもしれない。
――数年後。
私は親友と、親友の夫。そして私の愛しい夫と避暑地で過ごす。
あの日飲まされた煮え湯は、煮え湯をネタに入れてもらった美しい紅茶の思い出に上書きされ。
当て馬にされた嫌な記憶も、すっかり忘れてしまった。
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