天才と缶コーヒー
『缶コーヒー』
ただそれだけ書いたメッセージが届いたのは深夜のこと。
俺は上着を羽織ると何も持たずに家を出た。
安アパートから自転車で5分。彼女の家。1人で住むには大きすぎる家。
勝手に鍵を開けて中へと入っていくと怒鳴り声が聞こえてきた。
「だから、そうじゃないって言ってるじゃないか!」
どうやら、彼女はまた何かに怒っているらしい。
ひとつため息を吐いて慣れた足取りで奥へと向かう。作業部屋。扉を開ければ声は直接的に鼓膜に響いた。
「もういい! 君とは二度と仕事しない!」
そう言って携帯電話を床に叩きつける。
「壊れるぞ」
冷静にそう言うと彼女の瞳がこちらを向いた。
充血した目。ショートボブのぼさぼさの金髪。小柄な身体はまた小さくなった気がする。
床に転がった大量の紙くずをかき分けながら近寄っていく。
「どうした?」
話し掛ければ質問には答えずに、机の上の缶コーヒーを差し出される。
「はいはい」
慣れた手つきで缶のプルタブを開ける。
手渡してやると彼女はうまそうにそれを飲んだ。
天才作詞家。
世間では彼女をそう呼んでいる。
詞を書いた曲はどれもこれも大ヒット。
彼女が書く言葉たちを多くの人が待ち望んでいる。
ただ、そんな彼女にも出来ないことがひとつ。
缶のプルタブを開けること。
毎回、缶コーヒーが飲みたくなる度に彼女は俺を呼ぶ。その度に俺は自転車に乗ってここに来る。
「缶コーヒー飲む前にちょっとは寝ろよ」
そう言えばふてくされたように睨まれる。
ふと彼女の視線が緩んだ。
そっと俺の上着に手を伸ばす。
「ん?」
見るとそこにはオレンジ色の小さな花がひとつのっていた。
「金木犀……」
彼女がポツリと呟く。
来る途中にくっついてきたのだろう。
彼女は愛しそうに指先に花を乗せると嬉しそうに嗅いだ。
たったひとつの花。そんなに匂いはしないだろうに。
足元に転がった紙くずたちを改めて見る。
高校生の時、クラスで出会って意気投合した。
詞を書くのが得意な彼女と曲を作るのが得意な俺。2人で一曲作って動画サイトに投稿した。再生回数はどんどん伸びて話題になった。
その曲にはこんなタグが付いた。
「天才と凡人」
認められたのは彼女の詩だけだった。
きっと俺は足元に転がった言葉のひとつさえ思いつくことが出来ない。出来ないけれど、彼女の言葉の中には俺が開けた缶コーヒーのプルタブやくっつけてきた金木犀の花ひとつが入っているのだろう。
そう思ったら、もう少し傍にいたいと思えた。