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フェイズ08「エイリアン・コンタクト」

 18世紀も半ばを過ぎると、世界は少しずつつながりを深めていた。

 主な原因は、ヨーロッパ諸国の活発な活動にあった。

 そして帆船(ガレオン船)の存在が、世界規模での活動や探検、探索を可能としていた。

 しかも18世紀頃になると、ヨーロッパ列強は、世界各地に植民地や拠点を構えていたので、ヨーロッパだけでなくそこを策源地にして足を伸ばせるようになっていた。

 

 その典型的な例が、短期間でスペインに征服された南北アメリカ大陸であり、また1690年にイングランドがインドのガンジス川河口部にカルカッタを建設した事だろう。

 

 世界は着実にヨーロピアン勢力に覆われつつあった。

 


 18世紀から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは主にブリテンとフランスが、熾烈な制海権及び植民地獲得競争を繰り広げていた。

 「第二次英仏百年戦争」とも言われる勢力争いであり、両国共に世界の次なる覇権を賭けて競い、戦った。

 そうして、競争を有利に運んだブリテンが、インドでの地歩を確実に固めつつさらに東のアジアへと足を伸ばしつつあった。

 ブリテンが日本に高い関心を持ったのも、日本と日本の勢力圏が自分たちも手を伸ばせる場所に変化しつつあったからだった。

 

 一方18世紀の東アジアは、まだ平和の中にあった。

 清朝の乾隆帝が自分たちの周辺部を頻繁に侵略したし、東アジアでは新たな国々の勃興はあったが、海は比較的平穏だった。

 スペインはすっかり元気をなくしてしまい、オランダ人の勢いも大きく衰えていた。

 その分日本人が自分たちの間口を広げていたが、基本的に日本人達は武力を自分たちの側から使うという事に消極的だった。

 清朝も、自ら海禁政策を出して船舶の発展も抑止したままだったので、中華系商人や海賊は東アジアの海ではマイナープレイヤーに落ちぶれていた。

 中華系ジャンク船では、ヨーロッパを模倣した日本商船及び軍船に殆ど全ての面で太刀打ち出来なかったからだ。

 

 つまり18世紀の東アジアの海は、日本人のものだった。

 

 そして江戸幕府による統治が続く日本は、フィリピンは名目はともかく実質的には日本領としていた。

 マニラの日本商館も日常的に「呂宋奉行所」や「呂宋総督府」と呼ばれていた。

 建造物自体も、一定の規模の堀と石垣を備えた城郭のようになっていた。

 これは、現地の反乱や争乱に備えたもので、商館内には警護を含めて十分な数の兵士も常駐していた。

 誰が実質的な支配者かを如実に伝える光景と言えるだろう。

 

 東インド(スンダ)地域でも、バンデンやマタラムといった現地国家を押しのける形で、オランダと日本が勢力を二分するようになっていた。

 シャム、ベトナム、カンボジアとの海外交易も、実質面は日本人達が握っていた。

 砂糖など南方で取れる物産の多くも、日本に送り込むために生産されていた。

 時には武力で脅したり、小規模程度なら実際に使うこともあった。

 

 だが、ヨーロッパ列強が東アジア以外で行っている横暴に比べれば、やっていることは「ままごと程度」でしかなかった。

 江戸幕府は、政府が発足して以来一度もまともな対外戦争を行ったことがなかったし、自ら戦争を行う気がなかった。

 せいぜいが、小競り合い程度である。

 海外での武力行動の多くも、商人達が浪人(傭兵)を使っている場合が多かった。

 戦争という手段に訴えなくても自分たちに必要な分の勢力拡大ができたし、莫大な戦費を浪費することは内政安定に影響を及ぼすと考えていたからだった。

 江戸幕府は、基本的に日本列島内を見て過ごしていたが故とも言えるだろう。

 


 一方のヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ、インド、北アメリカ大陸で熾烈な争い、世界中で植民地的収奪にいそしんでいた。

 そして1783年に「パリ条約」が結ばれると、インドでのブリテンの優位が明らかとなった。

 

 江戸幕府と日本人の多くが、世界の諸外国を本格的に意識しなければならない時代が到来しつつあったのだ。

 

 また、日本人が「北氷州」と名付けた北辺の地では、ロシアの皇帝となったエカチョリーナ二世(在位1762年〜96年)が、シベリアへの進出と日本への積極的アプローチを行ってきた。

 

 啓蒙専制君主のエカチョリーナ二世は、彼女が皇帝の座に着いたのは宮廷革命つまりクーデターによってであり、夫を退位させたように非常に果断な君主だった。

 行った海外政策も対外戦争や領土拡張が中心で、日本へのアプローチもその延長にあった。

 

 そしてエカチョリーナ二世による日本へのアプローチは、主に二段階からなっていた。

 まずは世界の僻地での日本の軍事力や即応能力、そして対応そのものを試してきた。

 この結果日本が取るに足らない国であるなら、ためらい無く北海州を侵略していたと考えられている。

 

 しかしそれ以前に、日本の方が先に北氷州(東シベリア)で動き出していた。

 

 まずは幕命を受けた最上徳内(とその随員ら)が、1786年に夏川(レナ川)一帯を詳細に調査して大まかな地図を作製した。

 現地にも、それまで無かった幕府の標識などを各所で設置している。

 その後最上徳内は、1798年から一年以上も東シベリアから西シベリアにかけての調査も行っている。

 北斗川(エニセイ川)を、日本人で初めて詳しく調査したのも最上徳内だった。

 「新最上川」や「北最上平原」などのように、「最上」という名が与えられた日本名が散見されるほどだ。

 幕府のかなりの力を入れ、夏の間には各大型河川に船を浮かべ、冬の間陸に揚げて越冬させるための施設を作ったりもしている。

 駐留する幕府役人も、常駐の上で増やされるようになった。

 重要地域には、軍事的役割を担った役人達も駐留したり、巡回するようになった。

 幕府は諸藩に命じて、参勤交代の一部免除などと引き替えに、北海州辺境の警備や屯田兵としての赴任を命じたりしてもいる。

 

 また最上徳内らによって、二つの大陸を分けるシャクシャイン海峡から北極海に入れないかという試みも行われた(※当時成功したのは、夏川からシャクシャイン海峡を抜ける行動だけだった。)。

 

 日本の活発な活動を見たロシア帝国は、シベリアと北海州での日本との交易関係の親密化を求めてくる。

 日本が騙したり安易に侵略できない相手である以上、まずは対等な交易相手として利用するというのがロシア側の第二段階だった。

 日本との貿易を強化することで自らの国力を増大させ、ヨーロッパや中央アジアで勢力を拡大するのが目的だった。

 

 その一環として日本との間の明確な領土交渉が行われ、日本は夏川(レナ川)一帯のヤクート地域をロシア側から承認されるが、それまで商売で出向いていたバイカル湖近辺や、清朝とロシアがネルチンスク条約で定めた地域の多くは、明確にロシア領と承認しなければならなかった。

 エカチョリーナ二世としてはアジアへの海の出口までが欲しかったが、日本人の数による圧力を前にしては、流石に叶わなかったと言うべきだった。

 ユーラシア奥地での勢力争いについては、ロシアにやや有利ながら痛み分けで決着したと言うべきかもしれない。

 

 だが、これまで諸外国から圧力のようなものを受けたことのなかった江戸幕府としては、ほとんど初めて外国の脅威を認識する機会となった。

 この時のロシアはあくまで紳士的だったが、圧力は圧力だった。

 

 もっとも商業的な進出で黒竜江での日本人の優位は年々進んでおり、清朝が万里の長城以北の漢民族流入を厳しく禁じていた事も重なって、黒竜江沿岸、満州北部は実質的に日本の商業圏となっていた。

 黒竜江河口部には、かなりの日本人が居留していた。

 黒竜江河口部は、川を伝って運ばれてくる日本向け木材の一大集積地となっていた。

 また清朝と日本の商人達が交易を行う場ともなっていた。

 

 本来なら清朝が排除に動くのだが、派手好きな乾隆帝は日本人を外征の一行に加えることなくむしろ厚遇した。

 日本との貿易関係を重視して、日本商人達に事実上の特権を与えていた。

 これは、ブリテンに対してけんもほろろに貿易拡大を断ったこととは半ば正反対の状況だった。

 

 主な原因は、東アジアの海では依然として日本商船の圧倒的優位が続いていたため、日本と取り引きする場合に日本商船、日本商人の存在が無視できなかったからだ。

 

 しかも18世紀の清朝は経済的にも大きく栄え、当時日本から食料品(海産物の乾物)、北辺の高級毛皮(※この頃には狩猟から飼育に代わっていた。

 )などを輸入しているので、国内政策としてもあまり日本との関係を悪化させたくなかったという背景が強く影響していた。

 ブリテンの使者には、自分たちは他者から何かを得る必要がないほど満ち足りていると言っていたが、北海の物産は日本の独占品であったのだ。

 


 一方、その物産供給源の一翼を担うアラスカから北米大陸太平洋岸には、最上徳内と同時期に近藤重蔵が幕府の命を受けて探検を行っている。

 

 近藤らは北太平洋海流に乗って北寄りに進み、北太平洋の荒波を越えて森の深い山岳地帯への到達には成功したと考えられている。

 この時設置された標識や、一時滞在跡が残されていたためだ。

 しかし近藤は、探索の途中に北米の僻地で命を落とすことになる。

 当時、北アメリカ大陸からの返事には、海流や風の関係で1年から2年の時間差が開くのだが、待てど暮らせど日本列島に彼らの報告が届かなくなった。

 

 このため近藤の消息不明から十年後に、今度は間宮林蔵が日本列島を出発。

 丈夫な大型ガレオン船2隻による船団で北太平洋を押し渡り、随員の数も大幅に増強されての調査となった。

 船そのものも、武装商船並に武装が施されていた。

 これは調査失敗の理由が、原住民とのワースト・コンタクトではないかと疑われたからだ。

 

 そして間宮らは、北米大陸西海岸の主に沿岸各地を詳しく調査する最中、近藤の最期を掴むことにも成功した。

 これまで曖昧にしか分かっていなかった地域についても、かなりの詳細を掴むことが出来た。

 地域によっては、原住民との接触と初歩的な交易(物々交換)も実施され、調査の補足とされた。

 当然というべきか、行った先々に日本領であることを示す標識が設置された。

 

 このため今まで取り立てて固有の地名が与えられていなかった場所に、やたらと「間宮」や「林蔵」の名が付けられることになる。

 また、豊富な森林のある地域のため、「林蔵」という「林の蔵」という意味の名が人々に親しまれやすかったため、この地名が各所に付けられていく要因ともなった。

 また先に調査して命を落とした近藤重蔵の栄誉を称え、重蔵という名の街も作られた。

 この代表的なものが、現在大御所湾にある間宮市、重蔵市である。

 

 なお、幕府がかなりの努力で北米北西部を調査したのは、現地での日本人による捕鯨や毛皮目的の狩猟の状況と実体を調べるためというのが表向きの目的だった。

 だが真意は、現地にブリテンが到達したという報告と情報を得たためだった。

 

 実際、ブリテンの探検家ジェームズ・クックは、1778年に既に多数の日本人捕鯨船が寄港地に利用していたハワイ諸島に2隻の船団で到達していた。

 さらには、北米西岸を探検して二つの大陸の間にあるシャクシャイン海峡の先、つまり北極海の入り口にまで進んでいる。

 その後クックはハワイでの現地調査中に伝染病が原因で没してしまうが、ヨーロッパによる北太平洋調査はその後も続く。

 

 クックのすぐ後には、部下だったジョージ・バンクーバーが1791年から1794年にかけて北米大陸太平洋岸の調査航海を実施していた。

 それより少し前には、フランス人探検家のラペルーズが、1786年頃に北太平洋一帯を航海している。

 この時、どのヨーロピアンも日本人の捕鯨船のために築かれた日本人の拠点に立ち寄り、有償の補給を受けていた。

 ヨーロッパによる北太平洋調査が円滑に行われた背景には、間違いなく日本人拠点の存在が影響していた。

 未開の地だったのなら、ヨーロッパによる北太平洋調査はもっと苦しく厳しかった筈だ。

 

 また1780年には、北アメリカ大陸の現地スペイン人が、ロサンジェルスという拠点を西海岸南部に開いたことが、日本人商人の手によって数年遅れて日本列島に伝えられてもいる。

 

 そうした報告が幕府にもたらされていたため、大規模な探検隊が幾つも組織され、幕府の標識をそこら中に立てて回ったという経緯がある。

 同時期には、ハワイなど日本人が先に「見つけていた」島々にも、同様の措置が取られていた。

 同時に、ヨーロッパ諸国に対して北太平洋一円が日本の勢力圏、支配領域である事が改めて通知されてもいる。

 


 なお、当時の日本人が北太平洋一帯に広がり、拠点を設けていた最大の原因は、捕鯨産業にあった。

 

 鯨の脂、つまり鯨油は、石油が商業的に採掘されるようになるまで、様々な産業に必要とされる重要な燃料資源だった。

 各種照明油、潤滑油、蝋燭、石けん、ワックスなどの油脂加工品など様々な分野に使われていた。

 

 そしてヨーロッパと同様に近世的繁栄の中にあった日本人達は、各種手工業生産や夜の闇を追い払うために大量の鯨油を必要としていた。

 当時の世界的な巨大都市の夜の輝きは、鯨の脂によって支えられていたのだ。

 またヨーロッパ人達も鯨油を欲しがったので、ヨーロピアンが捕鯨場としていた大西洋で鯨が激減した18世紀後半ぐらいからは、鯨油が日本からの輸出品の一つともなっていた。

 当時太平洋で鯨を捕っていたのは日本人しかなく、しかも太平洋は大西洋よりも巨大なため、鯨の数も桁違いに多かった。

 日本では、菜種油なども照明油として使用されたが、18世紀頃からは質量の面で鯨油が圧倒した。

 都市の巨大化と生活や文化の発展に対して、菜種油だけでは対応できなかったのだ。

 

 しかし18世紀に入るまでに、日本近海での鯨の数が獲りすぎで激減したため、捕鯨用の外航型帆船群は徐々に新たな鯨を求めて東へと進み、ついには北アメリカ大陸太平洋岸にまで到達していた。

 同じ頃には、北太平洋南部にあるハワイ諸島にも到着し、ハワイ周辺が日本近海同様に鯨が豊富なこともあってかなりの数の日本人が進出していた。

 18世紀末で、年間約150隻の日本人捕鯨船が、ハワイに寄港していたと言われている。

 

 そして捕鯨を行う外洋型帆船は決まった航路を取らないため、様々な予期せぬ発見や出会いを行っていた。

 彼らにより発見された島や土地も数多い。

 未知の海を行く捕鯨船こそが、真の海の開拓者だったと言えるだろう。

 

 そして鯨から油を採るためには、鉄の鍋を使って鯨の脂を煮詰めるのが当時は一般的方法だった。

 そのための燃料資源となる豊富な森林のある沿岸部や海洋上にある島嶼は、捕鯨船にとって重要視されていた。

 また船や乗員の補給、保養、水や食糧、酒の供給地としても、陸の拠点は欠かせない存在だった。

 人が多く住む場所では、主に原住民を雇った売春宿や歓楽街も形成された。

 自分たちのために、原住民に自分たちの文明の利器や農作物、家畜が伝えられた場合もあった。

 

 ハワイ諸島は、そうした日本人の捕鯨拠点の中でも北太平洋上最大規模のものが既に建設されていた。

 進出していた日本人の数も早い時期から数百人を数えており、日本人による文明の伝搬の影響で誕生したハワイ王国から許可を得て、オワフ島の真珠湾にはかなりの規模の日本人町すら形成されていた。

 

 また日本人が教えた文明や文物の数々は、仏教に帰依したカメハメハ大王によるハワイ統一など、現地の人々に大きな変化をもたらした。

 同時に日本人が持ち込んだユーラシア原産の疫病(天然痘や麻疹)は、現地でのパンデミックも引き起こしていた。

 原住民が激減したため日本人の勢力も広がり、真珠湾と呼ばれた穏やかで広い湾のあるオワフ島は、日本人捕鯨船の一大拠点となっていた。

 日本人の中には、サトウキビ栽培などの農業を始める者もあった。

 ハワイで米が最初に栽培されたのは、18世紀中頃だと言われる。

 

 ちなみに、日本人が来るまでに約60万人に達していたハワイ原住民の人口は、度重なる伝染病によるパンデミックによって、四半世紀で10万人以下(約8万人)に激減していた。

 一方の日本人は、18世紀末頃で約3000人が居住するようになっていたと考えられている。

 

 ブリテン人のクック船長がやって来たのは、そうして日本人達が北太平洋で一人繁栄を謳歌している時期だった。

 


 クック達は、白人にとって未知の地域に既に日本人達が溢れていることを驚いたが、日本人の側も突然ブリテン船が北太平洋西部各所に現れたことを驚いた。

 その結果が、それまで捕鯨船以外が行かなかった場所への、幕府による調査につながっていた。

 

 とはいえ、ブリテンの探査船団は、その後バンクーバーらが調査に来ただけで、特に軍艦が攻めてきたり入植しにくるなどという事はなかった。

 北太平洋の奥地は、当時のヨーロッパにとっては最も遠い辺境地だったからだ。

 ブリテンの第一の目的も、北極海を経由して一気に大西洋から太平洋に出ることが出来るのかの調査だった。

 

 一方の日本人達だが、北太平洋の鯨はまだ十分に存在したため、赤道より南側の海や島々にはほとんど興味を抱かなかった。

 たまに珍しい物産を求める独立商人が赴くぐらいでしかなかった。

 

 日本人達も、南半球に謎の新大陸が有ることなどは、自分たちによる見聞とオランダ人から伝聞で一応は知っていたが、それは実際に見たことのあるごく一部の人以外にとっては、知識として知っているという以上ではなかった。

 1788年にブリテンが最初のオーストラリア移民を始めても、特に関心を示さなかった。

 多少知識のある者でも、「あんな不毛な土地」によくも入植を試みたものだと、半ば呆れていたほどだった。

 

 そして北太平洋西部、北アメリカ大陸太平洋岸についても、幕府は調査に平行して一応の領有宣言を諸外国に出しただけで、特に開発したり必要以上に調査する事もなかった。

 世界の果てのような僻地に、わざわざ移住しようと言う物好きな日本人農民も当時はほとんどいなかった。

 

 当時の日本人の中で現地に対して熱心なのは、捕鯨関係者と毛皮商人、猟師、一部商人だった。

 北アメリカ大陸太平洋岸も、北部の入り江の奥に相応の拠点を設け、ハワイ同様に猥雑な歓楽街なども形成された。

 しかし開拓や入植というレベルには達せず、せいぜいが現地での安価な酒や当面の生鮮食品を補給するための小規模な畑や牧草地が開かれた程度だった。

 


 しかし日本人が北アメリカ大陸太平洋岸に現れた事で、大きな変化が一つあった。

 ハワイなどと同様の、原住民の間でのパンデミックだった。

 

 同様のことは、既に南北アメリカ大陸各地で数百年も前に発生し、場所によっては全ての人が死に絶えた所もあった。

 南北アメリカ大陸全体でも、原住民の90%〜95%が主に疫病(伝染病)によって命を落としたと言われることもある。

 

 しかし大雪山脈(欧州名:ロッキー山脈又はコロラド山脈)を隔てた北アメリカ大陸太平洋岸は、白人達の往来がなかったため疫病からは守られていた。

 随分経ってから、ロサンジェルスと名付けられた場所にスペイン人がやって来たが、そこには小数の役人が滞在するのがせいぜいだったため、疫病を運ぶほどではなかった。

 それに現地は乾燥地帯で人口密度も極端に低く、スペイン人と原住民が接触することも少なかった。

 

 しかし日本人達が捕鯨用帆船で訪れれば数十人の規模であり、長い航海で病気にかかっている者もいた。

 そうした人間が、最初に疫病の保菌者キャリアーとなった。

 

 その後、小規模な農地を構えるほどの拠点が設けられると、そうした疫病は定期的に日本人や日本人の飼う家畜から原住民へと伝染していった。

 

 このため間宮地域からカリフォルニア南部に至る一帯でパンデミックが発生し、これまで地理的条件のおかげで疫病に守られていた人々に破滅的な人口減少と社会の破滅を引き起こした。

 しかし沿岸の居住地から出ることの少ない日本人が、この事実に気づくことはほとんどなかった。

 

 日本人で最初に気づいたのは、奥地で毛皮を探し求めていた猟師と冒険商人で、白骨死体だらけの廃墟となった原住民の村を見つけてこれを報告した。

 しかし気づいたからと言って、自分たちが原因だとはまったく考えず、むしろ日本人達は現地の疫病を警戒した。

 

 「原住民は疫病にからきし弱い」と知ることができたのは、新大陸をもう少し南下してスペイン人から話しを聞いて以後の事だった。

 


 なお、スペイン人がカリフォルニア南部にロサンジェルスの街を開いたのは1780年の事だったが、それは日本人捕鯨船がカリフォルニア北部の温暖で肥沃な場所に捕鯨のための拠点を設けるようになっていた事が影響していた。

 

 このため両者の境界線をそろそろ決めるべきだと考えられた。

 

 1790年にスペインと幕府の間に話しがもたれ、スペイン人が「アルタ・ノヴァ・イスパニア」と名付けていた北アメリカ大陸北西部は、スペインから日本領として認められる事になる。

 スペインとの陸での境界線は、北緯37度で南北に分け、さらにロッキー山脈の一番東側の分水嶺を東西の境界とする事になった。

 この時期ミシシッピ川西部は、半ば名目上スペイン領となっていたからだ。

 

 また幕府は、基本的に日本本土以外では宗教は自由としていたので、現地でのキリスト教宣教師の布教を認めたため、日本の領有はローマカトリック教会からも承認を受けたものとなっていた。

 この事は、ヨーロピアン文明圏において一定の価値を持つ要因だった。

 

 そして江戸幕府は正式に領土を決めたので、半ば渋々現地に奉行所を開設する事になる。

 これは1792年の事で、以後数年に一度の割合で幕府水軍の船も北アメリカ大陸に立ち寄るようになった。

 

 領土欲がほとんど無い江戸幕府としては、半ば厄介者を押しつけられたように考えていたが、それは江戸幕府というより日本が世界的な枠組みの中で行動しなければならなかった何よりの証でもあった。

 


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