フェイズ06「ゲンロク・エイジ」
「元禄文化」。
一般的には1690年代から1700年代前半を主に指す、日本で様々な文化が花開いた時期だった。
この「元禄文化」から19世紀前半の「化政文化」の時期が江戸幕府の「黄金期(Golden Age)」になるだろう。
元禄文化を将軍で言えば、五代将軍徳川綱吉の時代となる。
この頃ヨーロッパでは、イングランド(1707年よりブリテン)が議会制国家として本格的に歩み始め、フランス、オーストリア、プロシア、ロシアなど主な国々は絶対王政下にあった。
そして日本でも、徳川綱吉はかなりの独断専行で政治を行っているので、半ば偶然に世界の潮流に少しばかり乗っていたと言えるかも知れない。
とはいえ日本の江戸幕府では、特に絶対王政としての政治制度へと変わることはなかった。
人事を少しばかり将軍の都合の良い形にする事で、将軍の専政が少しばかり強まった程度だった。
政治全般は、近世型の官僚化した武士達の手によりつつがなく執り行われていた。
そうして綱吉が行ったのが、学問の奨励と幕政の一部刷新だった。
日本人の生物、生命に対する価値観すら激変させたと言われる「犬将軍」の別名や「生類哀みの令」があまりにも有名だが、どちらかといえば学業を重んじ能楽を愛するなど、賢明な君主であった。
その中で、彼が行った最も効果的だった政策が、貨幣の改鋳と普及の促進だった。
この頃、日本列島以外からも入るようになった豊富な金銀銅を用いて日本中に貨幣が浸透しつつあり、拡大の一途をたどっていた日本経済の潤滑油となっていた。
小判の材料となる金は、日本各地ばかりでなくユーラシア大陸北東端の北氷州各地からも多くもたらされており、依然として豊富な質量を誇っていた。
江戸時代初期の貨幣と言えば、岩見、生野銀山に代表されるように銀で、特に量で価値を計る秤量貨幣としての銀貨(丁銀、豆板銀)が最も普及していた。
だが18世紀に入る頃から金の流通量がかなり増え、金の価値が若干下落すると共に計数貨幣としての金貨(小判など)の流通も少しずつ進むようになっていた。
元禄時代頃までの金貨(小判など)は、これまで個々人や両替商によってほとんど死蔵されていた事を思えば、大きな変化だったと言えるだろう。
一方、海外貿易の拡大、日本の勢力圏での砂糖栽培の拡大、日本産絹の質の向上と生産量拡大に伴う金銀流出の沈静化、人口拡大に伴う国内産業の発展、船舶技術、航海技術の向上による国内、国外の流通網の大幅な向上と拡大、農業生産力の拡大、商品品目の増大と増産、漁業拡大による良性の変化、手工業の多様化と工場制手工業の出現による生産量の大幅増加、材木の海外からの安定供給の確立、様々な要素が重なって大きな経済発展が続いていた。
そうした中で貨幣に関わる変化は、単に流通量が増えただけでなく、海外との取引が増えたことが重要だった。
そして手間を嫌うヨーロッパ商人は、計数貨幣である金貨(小判)での決済を好んだ。
このため幕府としては、自分たちが使っている貨幣とヨーロッパで一般的に流通している金貨、銀貨との交換に不便を感じるようになっていた。
計量貨幣ならそれぞれの重さに比例して単に数を数えれば良いが、日本で流通する銀貨の多くが秤量貨幣だったからだ。
また諸外国と広く取り引きする中で、日本と世界、アジアとヨーロッパでの金銀交換比率も正確に分かったので、それに正確かつ効率的に対応する必要も出てきていた。
このため日本で流通する各種貨幣の大幅な改鋳が実施され、銀も計数貨幣が鋳造され、ヨーロッパと同じ価値(銀の重さ)を持つ銀貨が鋳造されるようになる。
そして旧来の貨幣の交換の過程で、幕府は莫大な利益(税収)を得ることにも成功した。
この結果、ヨーロッパ標準と同じ円形小判(※従来の一分金とほぼ同じ)が新たに鋳造貨幣として登場して、それまでの小判が事実上廃される。
新たな小判は、今までの小判と区別するため、「元禄金貨」と新たに呼ばれるようになった。
また主に上方で広く流通していた丁銀などの秤量貨幣は、大坂に建設された銀座で徹底的に改鋳が実施され、こちらでも一分銀の価値を持つ円形の銀貨(元禄銀貨)が製造されることになり、大量生産のために江戸・大坂の銀座の造幣所としての規模も著しく拡大された。
そして貨幣改鋳の結果、大きな変化を強いられたのが日本国内の両替商だった。
もともと江戸時代初期の日本の貨幣経済は、上方では銀本位制で、江戸は金本位制と言える状態だった。
一つの中央集権型統一国家で二つの貨幣が流通している状態は珍しいのだが、これは当時日本で金銀が豊富に取れるも、主要採掘地域の違いから全体にまんべんなく流通していなかったからだった。
また日本列島が、近世の人間が住むにはかなりの広さを持つ社会だったことも影響している。
土地面積ではなく自然障害の多さが、経済の分化を自然に行わせていたのだ。
しかし開国路線の進展と共に船舶つまり流通に関する技術、速度と規模が大幅に向上すると、日本は一つの経済圏へと発展していき、貨幣の動きも流動的となった。
そうした中で、金銀の交換を行う両替商が仲介を行うことで莫大な富を得ていた。
また幕府も、交換相場を操作する経済政策を行っていた。
だが、日本人が日本列島から出始めると、彼らが海外に持ち出す金もしくは銀が日本国内で統一が取れていない事は、少なくない弊害をもたらしていた。
しかしこの時の改鋳で統一され、両替商の商売から金銀交換が消えていくことになる。
そうして両替商に残された商売は、預金、貸し付け、為替が中心に移行し、ヨーロッパ世界での銀行に似た組織へと順次改変されていく事になる。
また国内外で大量の船舶が往来するようになると、今度は船荷に関する補償保険へも両替商は乗り出し、日本での保険業の発展の先駆けともなっていった。
また保険業に関しては、少し後の徳川吉宗の時代に大都市消防事業(火消し)と連動する形で、初期的な火災保険が登場する。
大都市、特に日本の建造物は木造のため、保険業はすぐにも大きな利益を生む産業に育った。
他にも両替商は、今度は海外と日本の貨幣の交換、為替取引にも乗り出し、東南アジアに自ら展開したことも重なって、ここでもある程度の利益も確保するようになっていく。
とはいえ海外と日本の取引は日本国内でのように大きな取引ではないため、かつてのような業態から、豊富な資金を貸し付けて利子を得るという近代銀行へと進む事を止めるほどの力はなかった。
なお貨幣の交換には、江戸幕府の強力な指導があっても四半世紀近くを要しているため、その間に両替商も自らの業務を転向することができた。
そして貨幣制度がより整えられると、日本人経済活動も一層活発になり、かつての両替商である日本の銀行の始祖達は、西洋での貸金業者が近代銀行になったように巨大化し、いち早く商売の形式が商店型から企業型へと発展している。
この時期の日本の変化は、貨幣ばかりではなかった。
「元禄文化」と言われただけに当時の日本経済の中心地だった上方(京・大坂)中心に華々しい文化が花開き、徳川綱吉の後押しもあって学問も発展した。
文化人の松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門、学者の新井白石などの名を学校の授業で聞き覚えている方も多いことだろう。
また「水戸黄門」のモデルとなった水戸光圀がこの頃に編纂した大日本史も、その後の日本人に与えた影響から注目すべきだろう。
そうした一方で、主にオランダ、スペインから流れてきたヨーロッパの科学、学術、文化、風俗も元禄文化に大きな影響を与え、また民衆にもヨーロッパ文化が新たな南蛮文化として広く流布する事になった。
蘭学がその先駆けだが、「武学」と呼ばれる当時ブリテン(和名:武里天)と国号を改めたばかりのイングランドからの情報が入り始め、その学問である「武学」が広がり始めたのもおおよそ元禄時代の事だった。
日本とブリテンの接触は、日本人商人がインドにも赴いていたからこそ発生したものだった。
また日本人による東南アジアやユーラシア北東部への進出によって、日本とは異なる各地の風俗や文物が流れてきた。
そしてこの頃の文化の運び手としても日本人が頭角を現していたことが、日本に流れ込む海外文化の質と量を大きく押し上げていた。
当時日本では、外国衣料品の一大ブームが起きていた。
その中で最大規模だったのがインド綿いわゆるキャラコ(伽羅子)で、大変もてはやされていた。
通気性、着心地が良く、しかも輸入品でも安価なため、庶民の間で爆発的な人気を博していた。
他にも、更紗、羅紗(ウール地)、ベルベット、絹、様々な素材、それらの素材で作られた海外輸入品が溢れた。
レースなど、ヨーロッパの装飾衣料品が一般的に入るようになったのも元禄時代である。
これらの物産を運んだのは、海外貿易を行っている日本の廻船問屋達だった。
衣料品は軽いため船の上の方に積めるので、船内空間を無駄に使うことなく使え、また船の重心を取るのに便利がよかった為だ。
そして17世紀末頃になると、海外で活動する日本船舶には日本船である標識として、葵の御紋だけではなく白地に赤い丸を染め抜いたいわゆる「日の丸」が使われるようになっていた。
しかし赤は色あせる事もあるので、アルファベット言語圏の人間に日本船であることを分からせるため、墨文字で「JS」と書いた。
「日本船」という最も単純な略称だ。
オランダ(ネーデルランド)とイングランドが戦争するようになると、オランダ東インド会社の「VOC」を記した日本船はめっきり減ることになる。
そうした日本船が積極的に海外に赴き、この頃にはインド洋を越えてヨーロッパに直接赴き始めてもいた。
18世紀に入りスペイン、ネーデルランドが海洋国家として衰退し、いまだ中華商人と中華中心部の手工業が力を取り戻していないこのチャンスに、東アジアの海運業とヨーロッパ諸国との貿易を、日本人達が一気に握ってしまおうと活動していたからだった。
また東アジアとヨーロッパの海外貿易を有利にするべく、中華商人を台頭させないようにするため、ヨーロッパ船に頼らず自分たちで直接ヨーロッパに売り込みに行き始めた時期とも重なったため、海外を行き交う日本船の数は一気に増えていた。
そしてそれを可能とするだけの大型ガレオン船が、十分な数の日本人の手によって運用されるようになったことも重要だった。
江戸時代初期は2000石から3000石程度だった大きさも、18世紀に入る頃には5000石から1万石が商船の一般的大きさとなり、最大で3万石(1石=150kg)もの巨船が建造されるようになっている。
こうした巨船の建造には大量の木材と労力が必要で、木材取得のための北方進出をさらに促すと共に、日本国内での造船業と関連する工業を大きく発展させる事にもなる。
そうして日本製の巨大ガレオン船がインド洋を越えて中東に赴いたり、喜望峰すら越えヨーロッパに行き、現地で陶磁器、漆器、染め物(衣料)などの工芸品や美術品、手工業品を売り、現地で日本に持ち帰ることの出来る様々な製品を積載した。
交易のために赴いた港は、交流のあったスペイン、オランダのが主だったが、親書交換や不要な衝突を避ける連絡のために、ヨーロッパの様々な国や港にも赴いた。
ルイ十四世統治下のフランスのパリ、ブリテンのロンドン、北欧の大国から転落しつつあるスウェーデンの王都ストックホルム、オーストリア帝国の都ウィーン、アラブ地域での円滑な貿易のためにオスマン朝トルコの都イスタンブールにも赴いた。
インド地域については言うまでもない。
物好きな船は、東アフリカ沿岸に赴き、日本本土に珍しい動物を持ち帰ったりもしている。
印鑑の材料として象牙が最初に注目されたのも、元禄時代だと言われている。
海外に赴いた日本船は、おおむね現地で歓迎された。
特に日本王(=将軍)の親書(+献上品)を持った船や使節は、ほぼ全ての国で大歓迎された。
この頃日本は、まだ黄金の国としてヨーロッパ社会で知られていたし、陶磁器輸出などでその知名度も上昇していたからだ。
日本の金貨も純度と精度の高さから、信用度も高かった。
そうした国が自ら平和を求めて交易にやって来る事は、自力で東アジアにまで行けない国にとって喜ぶべき出来事だったからだ。
そしてアジアの情報に飢えた国では、日本の様子を金箔張りの屏風などに描いた絢爛豪華な屏風絵が特に喜ばれたと伝わっている。
そして日本人自らが出向いた国では、たいてい様々な文物を献上品と交換の形でもらうことになり、日本の方でも非常に珍重された。
中には書物や最新の道具や機械もあり、日本の科学、学術の発展に貢献も果たした。
ヨーロッパ由来の近世的文物が日本に全て出揃ったのも、おおむね元禄時代の事だった。
さらには、商売目的以外の物好きと言える白人が、日本の船に乗って日本にやって来る頻度も増えるようになったりもした。
このため日本の海外貿易港では、外国人居留地の整備も進んだりした。
大坂近辺の神戸村、江戸湾の横浜村が白人居留地として開かれたのは、共に1706年の事だ。
この頃になると、江戸幕府もキリスト教を殆ど気にしなくなってもいた。
なお、長期の外洋航行が可能となった日本式のガレオン船とはいえ、本当に貨物を満載していては航海がおぼつかない。
このため、一番船底には厳重に封をされた樽やガラス瓶に入った各種酒類や油類、中間辺りには防水を施した各種工業製品、ガラス製品、さらにはヨーロッパの優れた武器を積載することもあった。
そして船の上の方の船倉には、比較的軽量な衣料品や装飾品を積載した。
そうして到着した衣類が、当時の日本でもてはやされたのだ。
またインド洋に赴いた船は、中東ではコーヒー豆、インドでは原綿、綿製品、東南アジアでは香辛料などを買い付けた。
日本からの船の中には、一番底の船倉に鯨の脂や日本で生産された調味料の醤油を積載したりもした。
ヨーロッパのソースの隠し味に醤油が使われるようになったのは、古い記録では17世紀末のものが残されている。
日本酒がヨーロッパに最初に紹介されたのも、18世紀初頭の事だった。
こうした日本商人の活発な活動は、スンダ地域(東インド)で勢力を何とか維持しているオランダにとっては、あまり好ましい状態ではなかった。
このため17世紀末の頃でも、出過ぎた日本商人への対応を悪くしたり、酷い場合は洋上で私掠(海賊)行為に出ることもあった。
このため幕府水軍も、徐々に海外に駐留する向きを強めるようになり、ブルネイ島北部に広がっていたブルネイ王国と提携を結んで、その首都に常駐するようになっていた。
またヨーロッパの勢力に入っていない東南アジア、インド西部の国々との間にも契約を結び、商船の寄港を認めてもらったり、商館を開いた場合もあった。
この中で、16世紀末から進出を始めた日本人町が大きな役割を果たした。
フィリピンのマニラは、既に日本人抜きには市政どころか統治も成り立たない状態だった。
このため、スペイン語よりも日本語の普及が進んでいるほどだった。
ベトナム、カンボジア、シャムなど東南アジア諸国でも、海の運搬人としての日本人を無視することは出来なかった。
日本商人や江戸幕府は中華商人を駆逐しているが、その一方で日本人海賊、中華系海賊など海賊対策を一番熱心に行っているのも江戸幕府の幕府水軍だった。
東南アジア航路の治安維持に関しては、ヨーロッパ諸国も日本の存在価値を高く認めていた。
オランダとの関係は、スンダ地域での事実上の勢力争いもあって関係は徐々に悪化したが、日本、オランダ共に戦争はしたくなかったため、何度か話し合いがもたれて妥協が図られた。
東南アジアでの日本の優位は、「英蘭戦争」(17世紀中葉〜後期)でオランダの、「イスパニア継承戦争」(1701年〜13年)でスペインの退勢が進むのと平行して拡大した。
もはやフィリピンでは、日本とスペインの立場は逆転していた。
スペインは戦費欲しさに、日本人にフィリピンの島々を切り売りしたり、場合によっては爵位や自分の領内にある荘園の権利も売った。
日本人商人の中に、スペイン貴族の位や領地を持つ者が現れたほどだった。
スンダ地域でも、ボルネオ島などかなりの地域が日本人の勢力圏となった。
なお、日本人がスペインから買い取ったフィリピン中部の島々には、サトウキビの単一作物栽培農場が各地に開かれ、原住民を使って生産された砂糖が、続々と日本本土に注がれていた。
日本人によるサトウキビの単一作物栽培農場が広がるのは台湾島も同様で、こちらは品種を改良したり灌漑を行うことで稲作も開始されるなど、サトウキビ以外の農業も進められており、農業の進展により爆発的に増えた人々を使った農場が各地に拓かれていた。
日本列島に注ぎ込まれる砂糖の量は年々増え、18世紀には贅沢品から一般調味料へと格下げされていった。
コーヒーの普及も砂糖と共に進み、お茶、お菓子ばかりか料理一般にも砂糖が広く使われるようになった。
「甘味」は贅沢つまり権力者の味でもあるため、そうしたステイタス的な面も砂糖の普及と拡大を精神面で助長した。
そして砂糖の消費は、一人当たりカロリー摂取量の大幅な増加をもたらす事になる。
日本人の味覚も、この時期大きく変化したと言われている。
また砂糖に限らず、衣服同様にたくさんの食べ物も日本列島へとやって来た。
東南アジア、琉球を経由して豚(豚肉)が日本列島に本格上陸し、森林資源の減少に伴い減っていた猪、鹿の肉の代わりとして、南蛮猪や陸海豚というある種珍妙な名前と共に、豚の飼育と食用としての利用も少しずつではあるが進んでいった。
豚の脂も食用油、調理油として使われるようになった。
ただし、日本人の間に肉食が進むのは、徳川綱吉がこの世を去るまで待たねばならず、綱吉の悪政への反動から狩猟が減った分だけ食用家畜として飼育が一気に進展する事になる。
またインドからは「カリー」つまり香辛料の上陸もあり、日本人の味覚に新たな分野を開拓していく事になる。
そしてインドからもたらされたもので、日本人に大きな影響を与えたのが乳製品だった。
インドではヒンズー教が牛を尊び、その乳を古くから飲食していた。
おもに「ギー」という低発酵食品(ヨーグルトの一種)として調味料で使われ、インドの多くの地域では一般的な食材だった。
この食べ方が船員などを通じて日本にも伝えられ、最初はインドと同じく調味料に用いられて珍しがられた。
そして18世紀中頃には、日本酒(清酒)を作る際の「火入れ」、経験から生まれた低温殺菌技術と結びつき、世界に先駆けて牛の乳をそのまま飲む習慣が生まれる事になる。
以上のような食生活の大きな変化こそが、世界に開かれた日本で起きた最も大きな変化だったと言えるだろう。





