フェイズ20「アグレッサー」
19世紀末、ヨーロッパ発祥の近代的帝国主義が世界を覆い尽くそうとしていた。
世界地図は列強によって塗り分けられていった。
ブリテンは「パックス・ブリタニカ」と言われたほど繁栄の絶頂にあり、主に西ヨーロッパ諸国も産業革命の成功で大いに発展していた。
中でも新興工業国のドイツの躍進が目覚ましかった。
白人達が、自分たちこそ世界の主人だと考えても仕方ないほどの繁栄だった。
そうした列強の中で帝国主義路線に乗り遅れている国が、ブリテン、ドイツを抜き去って世界最大の工業生産高を実現した、新大陸の国家アメリカ合衆国だった。
アメリカが乗り遅れている多くの原因は、日本人にあったと言われている。
少なくとも、東部沿岸に住むアメリカ人の多くはそう考えていた。
そしてアメリカ人のかなりが、自分たちの領土が「少ない」ことを嘆くようになっていた。
何しろ大平原の先にある巨大な山脈の向こう側の全てが、「先に来た」という理由だけで黄色人種のものだったからだ。
ロシア以外のどこよりも巨大な単一の固まりで温帯地帯に領土が存在する国で、しかも石炭、鉄鉱石、広大で肥沃な農地など豊富な資源を有する国が小さいわけないのだが、移民の国、開拓の国として発展していたアメリカ自身の感覚では、既に国土は満員御礼となりつつあった。
幸いヨーロッパから爆発的に流れ込んでいる移民は、これまでの開拓地ではなく都市の工場が吸収していたが、今度はその工場が作る商品をさばく市場が必要だった。
またアメリカが如何に豊かであっても、全ての資源、農産物が賄えるわけでもなかった。
そうした中で、日本の有する新日本領は、次なる資本の投下先、新たな市場として非常に有望だと考えられた。
人口拡大が続き、広大な土地があったからだ。
実際、東洋の端っこにある小さな日本は、新日本を利用することで大きく発展していた。
しかも新日本を得れば、その先には太平洋そしてアジア世界が広がっていた。
ロッキー山脈(和名:大雪山脈)の向こうに広がる日本領・新日本は、無限のフロンティアへの重要な通過点ですらあった。
そして有色人種のテリトリーを奪うことに、アメリカは躊躇するべきではないとされた。
しかしアメリカは、新日本の大人口を前に躊躇していた。
新大陸限定なら日本に全面戦争を吹っかければ最終的には勝てるし、1888年にアメリカにとっての大陸横断鉄道が完成したので、新日本を分捕れることは間違いなかった。
だが、戦争が起きればブリテンなどが邪魔をしてくる事は確実で、日本とブリテンを敵とする全面戦争は、例え最終的にアメリカが勝利するにしても、自らに大きな傷を残すことは確実だと考えられた。
ブリテンを敵とする以上、戦争中とその後の長期にわたる国際的孤立も覚悟しなくてはならなかった。
さらに勝った後の、「新領土」も問題だった。
全面戦争という大きな苦労をして新日本を日本人から全部奪ったとして、そこで暮らすのは殆ど全て有色人種だった。
しかも言語、単位系、全てがアメリカとは違っていた。
単位系については日本も近代化していたが、日本人が導入したのはフランス人が考え出したメートル、グラムだった。
そして単位系よりも問題なのは言語、そしてそこに住んでいる人々だった。
有色人種が殆どながら、既に十分な公教育(近代的教育)が施されている事が最大の問題だった。
また、域内で十分な近代的な産業社会を構築しつつあることも問題だった。
苦労して併合したところで、全てを自分たちの色に染め直すのに多くの時間と労力がかかることは間違いなかった。
価値観の違いについては、日本人がキリスト教を信仰しない限り永遠に溝が開いたままだろうとも考えられた。
また、多少異質ながら既に近代文明社会を構築しているので、今までのインディアンのようにそこに住む人々を荒野に追い立てたり駆逐することも難しかった。
知識も技術もあるので、虐げたら刃向かうのも確実だと考えられた。
数も多いので、テキサスのような方法で奪うのも難しかった。
ついでに言えば、新日本の人々はアメリカ人に対する敵愾心を既に十分に持っていた。
現時点でも持っているのだから、全面戦争後に併合したとなれば、統治にかかるコストは考えたくもない程だと予測された。
ブリテンのアイルランド問題の比ではないだろうと予測された。
アメリカ人の感覚としては、本国の隣にインドのあるブリテンのようなものだった。
逆に、併合した新日本の日本人をアメリカ市民として迎え入れるにしても、両者の人種の差、文化の差、宗教の差が主にアメリカの側で大きな壁になるのは分かり切っていた。
それに従来のアメリカ市民、つまりアングロ系を中心とする白人達が、有色人種を自分たちと同じ市民として受け入れるとは思えなかった。
加えて言えば、他の有色人種を差別するのに日本人だけを「優遇」する事は、アメリカの内政上で出来る筈も無かった。
なお当時のアメリカとしては当然だが、新日本の対等の併合や合併、統合は論外だった。
全てを譲歩したとして、市民として現地日本人が選挙のキャスティングボートを左右するぐらいなら多少は我慢できるかもしれないが、将来黄色い大統領が現れるなど決して許せないという恐らく大多数の人々(白人)によって、併合や合併については机上の空論となった。
極端な人々の考えでは、新領土獲得と共に有色人種の駆逐、つまり徹底した殲滅戦争が新日本に対する戦争の前提だった。
文明化された地域の殲滅戦争は、すでにシヴィル・ウォー(南北戦争)を経験しているアメリカにとって容易に想像できる「難事業」だった。
そして当然と言うべきか、新日本の住民はアメリカ合衆国を以前から強く警戒していた。
どんな形であれアメリカに併合や合併されると、「二級市民」もしくはそれ以下に落とされると強く警戒していた。
だからこそ新日本という名を与えられた植民地は、自分たちが唯一頼りにできる力を持つ日本本国の庇護下にあった。
こうした情勢の中、一部のアメリカの人が考え出したのが、新日本を日本の江戸幕府から独立させ、その後新日本をアメリカとの連合国家化という形の属国化に持っていくというものだった。
日本という策源地を失えば、新日本の国威は衰え自分たちに従う他ないし、戦争を経ないので様々な問題も大きく減少するのではないかと考えられた。
この考えでの問題は、属国化した後で有色人種達の市民権をどうするかだったが、当面は保護国として「別の国」として扱って、事実上の植民地にした後で、徐々に骨抜きにしていくのが妥当だと考えられた。
しかし今度のアメリカの相手は、ヨーロッパのルールを知っている文明国家だった。
日本は、アメリカとの全面戦争またはアメリカの新日本併合を強く恐れるが故に、危険を承知でブリテンとの深い利害関係を作り上げていた。
ブリテンも承知で日本を利用していた。
ブリテンにとっても、アメリカが力を付けすぎることは出来る限り阻止したかったからだ。
また、アメリカと新日本の間にも1888年に大陸横断鉄道が開通していたが、両者の様々な面でのわだかまりもあって、いまだ北部を通る大陸横断鉄道の方がよく使われていた。
アメリカと日本の大陸横断鉄道は、越境時の税関、入国管理の問題が大きいため運行が限られていたし、新日本側は意図的にカナダに向かう鉄道を使ったからだ。
北の方が、緯度の関係でその後の航海時の距離が短くなるという利点もあったが、何を考えていたかは言うまでもないだろう。
しかも日本人は、アメリカと連結する新日本内の全ての鉄道において、橋梁、トンネルの全てが速やかに爆破が出来るように細工を施していた。
山間部や谷間道では、巨大な障害物を爆破による落石などで落とせるようにしていた。
わざわざコンクリートの塊の陸橋を鉄道路線の上に設置した場所もあった。
鉄道警備隊も非常に充実していた。
各種街道についても同様だった。
警備がしっかりしているのに、整備を遅らせている街道はザラだった。
また日本側が強く求めた日米間の条約によって、両者の国境及び国境から10キロ(約6.25マイル)の帯状の範囲には要塞や軍の拠点を設けず、国境監視用の必要最小限の組織以上は武装組織を置かないことが決められていた。
だが、日本人が何を考えているのかは、鉄道の状況がこれ以上ないぐらい示していると言えるだろう。
アメリカ側は強く非難したが、日本は対原住民対策だと言って聞く耳を持たなかった。
ただし、現状ではアメリカと日本の間に極端に深刻な外交問題、領土問題は存在しないので、今すぐ戦争が起きるわけでもないし起こせる状況でもなかった。
国境線を明確に定め両者の移民を事実上止めている事が、かえって両者の棲み分けと安定に寄与していた。
さらにアメリカは、ブリテンを始め列強各国の目も気にしなくてはならなかった。
アメリカ国内には、アメリカから逃げ出したインディアンや黒人への悪感情はあったし、「自分たちの新たなフロンティア」を先に来ただけという理由で「勝手に」占有している日本人へのやっかみはあった。
しかし多くの意見は、戦争を吹っかけて奪い取るという意見にまでは至っていなかった。
不法な越境や移民によって両者の悪感情を醸成することは容易いが、それも政府によって止められていた。
強欲極まりない東部沿岸の資本家達はともかく、アメリカ市民は旧大陸の国家が行うような蛮行、帝国主義的な行動をあからさまに行う事には反対してもいたからだ。
そう言う点では、アメリカ社会は開拓国家としての良識をいまだ維持していたと言えるだろう。
ただし、新日本及び日本の江戸幕府との融和を訴えた大統領や政治家が暗殺された事があるので、アメリカの奥深いところの意志については考えるまでもないだろう。
アメリカという国家が、いつの日にか新日本全てを飲み込むことを望んでいたのだ。
一方の新日本側も、アメリカへの警戒感は年々増していたが、防衛以外で自分たちの側から何かリアクションを起こそうという気はなかった。
全面戦争をすれば負ける可能性が高い事が分かっているし、自衛戦争を起こすほどの理由がないからだ。
しかし軍備に関しては、自らも屯田兵、市民兵の制度を整備し、事実上の植民地だけの徴兵制度にまで手を付けて、出来る限りの軍事力整備に怠りはなかった。
足りない軍備は、日本本国にせっついて持ってこさせている程だった。
日本本国も、新日本の防衛には可能な限り努力を傾けた。
植民地を統治するためでなく防衛するために大軍を投じる日本の姿は、当時の植民地の平均としては珍しいといえるだろう。
結局アメリカはしばらく新日本の事は棚に上げ、まずはカリブ海の制覇に乗り出すことで、自らの帝国主義的欲求を発散することにした。
カリブを制覇し、中南米を自分たちの影響下に置き、さらにパナマを越え太平洋に出る事を目論んだからだ。
そして新日本を奪い取るよりも、そちらの方が全ての面でコストパフォーマンスに優れていた。
コストの問題は、東部のアメリカ人にとって極めて重要な要素だった。
それにパナマから太平洋に出てしまえば、その後の新日本併合もやりやすくなると言う考えもあった。
アメリカの再度の膨張は、マッキンリー大統領の時代に始められ、続くセオドア・ルーズベルト大統領が引き継いだ。
そして二人の大統領の間に、アメリカはスペインに戦争を吹っかけて一方的な勝利を飾り、1898年にキューバ、プエルトリコを獲得。
カリブでの覇権確立に本格的に乗り出す。
進出はその後も急速で、1903年には謀略によってコロンビアからパナマを切り離して永久租借した。
スエズ運河を作ろうとしたレセップスの事業を引き継ぐ形で、太平洋と大西洋を結ぶ運河を建設するのが目的だった。
一方日本(江戸幕府)に対しても、あくまで平和的に新日本のさらなる門戸開放を求めた。
あからさまな侵略ができないのならば、経済的な半植民地化を図ればいい、というような経済面での強硬姿勢を露骨に見せるようになった。
だが新日本は日本の植民地であり、当時の常識を意図的に無視したようなアメリカの申し出を日本が受け入れる事はなかった。
そしてアメリカの強すぎる欲は、いつものように日本人の警戒心と反発を呼び込んだ。
日本は、ブリテンとのカナダの大陸横断鉄道をいっそう頻繁に使うようになり、アメリカに対しては逆に特定品目に対して関税障壁を設けて両者の大陸横断鉄道の通行を減らす対抗措置を取った。
両者の行き来についても、国境監視を強めて通行証、身分証明書、滞在証などの審査を厳重にした。
当然アメリカは怒ったが、日本側はアメリカが既に行っている事を自分たちも実施したに過ぎないと説明し、北アメリカ大陸においてはブリテンやヨーロッパ諸国の幾つかが日本の肩を持った。
1880年代以後、アメリカの肥大化はヨーロッパにとってもあまり都合の良い話しではなかったからだ。
加えて言えば、19世紀末期から20世紀初頭のアメリカは「棍棒外交」と呼ばれたように、南北アメリカ大陸内で最も侵略的で膨張的な帝国主義国家であり、加えてドル札で相手の頬を叩くような国が好まれる筈もないという事だった。
特にスペインに露骨な帝国主義的な戦争を吹っかけた事は、ヨーロッパ社会から嫌悪され警戒されさえした。
敢えて他の地域と比較すれば、ヨーロッパでのドイツ又はロシアが、南北アメリカ大陸でのアメリカ合衆国だったと言えるだろう。
故に日本領・新日本は、発展と繁栄の中にあっても強い警戒の中で過ごすしか無かった。
一方、アジア、太平洋を目指すもう一つの国が、ユーラシア随一の膨張国家であるロシア帝国だった。
しかし彼らのアジア、太平洋への歩みは、早くは17世紀半ばにとん挫していた。
当時清朝は強大な力を有していたし、北の方では東から進んできた日本人と出会ったからだ。
そして気が付いたら、日本人に内陸に押し戻されていた。
その後、何度か田舎泥棒的な手法で東の海に向けての進出を試みたが叶わなかった。
ロシアからシベリア奥地は遠すぎたからだ。
18世紀半ばまでのロシアは、ウラル山脈辺りですら未開の辺境でしかなかったのだ。
しかし、文明の発展と共に時代の変化が始まる。
だが発端は、ロシアではなく日本にあった。
日本は、1860年に清朝から外満州(黒竜江北部一帯)と沿海州を得ると、すぐにも太平洋岸から黒竜江流域に鉄道を敷設し始めた。
地形の問題から黒竜江岸での工事は難航していたが、着実にユーラシアの東端を自分たちの領域にしつつあった。
しかも清朝と関係を結んで満州に経済的進出も行い、満州地域での鉄道敷設すらしていた。
加えて、タイガとツンドラに覆われた北氷州だったが、17世紀末から日本人が進出しているため、既にかなりの開発が進んでいた。
木材、黄金、毛皮以外にも、岩塩鉱山、石炭なども見つかっていた。
世界で最も寒い地域のため開発が進んでいるとは言えないが、日本人以上にシベリアの開発が遅れているロシアとしては、むしろ日本人を脅威として認識していた。
実に大陸国家的発想と言えるが、ロシア人から見れば当時の日本は十分に脅威だった。
ロシア人にとっては、17世紀のスウェーデンを見るのと少し似ているだろう。
なお19世紀中頃のロシアは、シベリアよりも中央アジア地域の併呑に力を入れていた。
しかしこの動きは、1881年に清朝と「イリ条約」を結ぶことで当面は限界に達した。
場所によってはもう一息で南の海(インド洋方面)に出られるが、インドを有するブリテンが強く邪魔をしていたからだ。
またブリテン以外のほぼほぼ全てのヨーロッパ諸国が、ロシアが黒海から外に出てくることを強く警戒していた。
クリミア戦争がその典型例だった。
一方のシベリア進出は、エカチョリーナ二世の日本との交易促進以後は停滞したままだった。
領土拡張で言えば、17世紀半ばで止まったままだった。
遠すぎてロシア自身の注意が向きにくい場所でもあったし、太平洋への出口を日本人が止めていることが原因していた。
そして長らくロシア人は費用対効果の薄い太平洋進出のための努力をしなくなり、エカチョリーナ二世がこれを改めようとしたが、ユーラシアの先に影響を及ぼすには日本人の勢力は大きすぎた。
そしてロシア人の見るところ、日本人は明確にシベリア奥地を目指していると考えられていた。
少なくとも日本人はバイカル湖辺りまで奪う気だろうと見ていた。
新たに得た領土での鉄道敷設が理由だった。
日本人としては、せいぜい満州での権利拡大程度が目的だったので、非常な過大評価と言えるだろう。
だがロシア人は、自分たちの判断に従って予防のためにも東アジアへの進出を強化せねばならず、それにはシベリア奥地に向かう鉄道の敷設が不可欠だった。
こうした思考法こそが、大陸国家の証だった。
ロシアが、ウラル山脈からシベリア鉄道敷設の計画を始めたのは1880年頃だったが、当時のロシアにとってはウラル山脈でも十分辺境だった。
そして産業革命の遅れるロシアには、資金や技術、鉄、汽車、全てが不足していた。
当然工事は進展せず、これを見たドイツ帝国が鉄や汽車の販売を持ちかけてきた。
ドイツとしてはロシアを強くするのは本意ではないが、ロシアの興味がヨーロッパの外に向かうのは当時のドイツの利に叶い、またドイツが手を伸ばさないとフランスとロシアを結ばせる可能性があったからだ。
そうしてロシアはドイツの手助けを借りることになるが、結局のところロシア人の資金不足により鉄道敷設は進まなかった。
鉄道建設そのものは多少進んだが、ドイツ人に大金をむしり取られたという感情しかロシア人には残らなかった。
これが一転するのが、1891年にフランスとの関係が結ばれてからになる。
フランスはロシアに大量の資本を提供し、これで一気に工事が進むことになる。
そして1896年、最初の鉄道がイルクーツクおよびバイカル湖畔に達した。
一方の日本だが、19世紀の末頃一気に清朝との関係を悪化させていた。
順調に近代化を進めるサムライ達が、清朝、朝鮮のあまりの暢気さについに嫌気がさしたと言える行動の結果だった。
1885年に、日本がようやく朝鮮王国を開国させたのが原因で、以後清朝との間には対立に似た関係が出来ていた。
このため満州への日本の経済進出は清朝によって止められるようになり、日本側の苛立ちを助長した。
それでも日本は清朝への近代化の勧めを続け、援助や支援も提案した。
自分たちが民主選挙と民主議会を始めたことも自信と追い風となり、東アジア全体でヨーロッパに対抗すべきだという論調が日本列島に溢れていた。
これは一種のナショナリズムであり、封建体制を維持したままの日本人が外圧を受けることでようやく目覚めつつある証拠だとも言われる。
しかし日本人のナショナリズムは、まずは近隣の北東アジアの隣国に向けられてしまう。
過去において自ら戦端を開くことを可能な限り避けていた江戸幕府だったが、武士だけではない多くの人々の声を明確に聞き届けるようになった変化でもあった。
この時代、国民国家こそが真の帝国主義国家だったのだ。
当時朝鮮王国に対しては、ブリテンが日本への抑えとして興味を抱き、ドイツが純粋な植民地目的で食指を伸ばしつつあった。
一方ロシア人が、満州の北東部に広がるザバイカル方面から満州を狙っており、さらには太平洋への出口の確保を企んでいた。
そして新大陸でアメリカに舐められるわけにもいかない日本としては、それまでのよしみ(つき合い)で可能な限り放置していた朝鮮王国に対して干渉する向きを強めざるを得なかった。
加えて、日本が1885年に朝鮮を強引に開国させた大きな理由の一つが、その年にアフリカがヨーロッパ諸国によって細切れに分割されたからだった。
また同年には、フランスがベトナムの主権を清朝から奪っていたので、行動を急ぐべきだと日本人達が考えての行動でもあった。
しかし清朝は、ベトナムを失ったことで自らの属国が減ったため、内政的理由で朝鮮の自立阻止に汲々とした。
また清朝は、基本的に日本を自分たちの格下の国として見下していたため、外交は権高なのが常だった。
一方日本の江戸幕府の側には、既に清朝に対する遠慮はほとんどなく、両者の対立は急速に深まっていった。
そしてこの両者の対立を、全てのヨーロピアンが注目した。
それは、ヨーロピアンが意識して生で見る事のできるアジア人同士の近代戦争になるだろうと見られたからだ。
戦争は、1894年に朝鮮王国内の内乱を機会として発生した。
この時日清の戦力差は、海では幕府水軍が圧倒という以上に優越していた。
幕府水軍は、自らの勢力圏の各所に葵の御紋が入った有力な艦艇を配した上で、十分に北東アジア地域に清朝海軍(北洋艦隊)を圧倒できるだけの艦隊を配置できる戦力を有していた。
ヨーロッパで誕生した近代的な「戦艦」と呼ばれる大型戦闘艦の数で見ても、清朝が2隻なのに対して日本は新旧合わせて9隻も保有していた。
その上日本は、既に大型艦の自力での建造能力すら有していた。
一方の陸軍だが、清朝内でまともに近代戦を行えるだけの力を持つ軍事力は、当時の有力政治家である李鴻章の私兵とでも言うべき限られた部隊しかなかった。
海外からの輸入により武器はそれなりに有していたが、まともな訓練が行われていなかった。
軍制も古いままだった。
加えて、清朝という満州族の国のため、多数派の漢民族兵士の士気がほとんど無かったからだ。
一方の日本側では、幕府陸軍内で武士兵と衆兵の間に様々な面での深い溝があった。
このため、軍制、装備、訓練の面でも日本側の方が圧倒していたにも関わらず、内心では大きな不安要素を抱えていた。
戦闘では、事実上近代戦争が初経験の日本兵は、武士兵と衆兵共にふがいない場面を数多く見せた。
近代的な装備を持ち近代的な軍制を取り入れ、訓練も厳しく行っていたが、実戦経験が不足していたため不利になると動きが目に見えて混乱する場合が多かった。
五月人形のような鎧武者は武士達ですらはるか過去の姿となったように、日本人のほとんどが戦いに慣れていなかった。
例外的なのは、歴史的経緯もあって戦場慣れしている傭兵隊と海兵隊だったが、数が限られていた上にどちらも陸軍からはならず者や半魚人と嫌われていた。
だが、日本が制海権で圧倒している事、日本が大軍を投じた事、沿海州、日本本土の双方から部隊が殺到した事、そして清朝側の兵の多くが日本兵以上に戦意と戦技が低かった事から、結果として日本の圧勝で終わった。
戦争は実質半年ほどで終わり、その気になれば日本軍は容易く北京を落とせる程だった。
しかし日本側は、清朝の名誉を保つという理由で首都北京への進撃を行わず、そこで講和会議の開催となった。
日本の大坂城(場内の御殿)で開かれた日清間の講和会議(大坂会議)では、清朝は日本に対して莫大な賠償金(日本の戦費分の3億両)を支払い、朝鮮の独立と満州での様々な日本の権益を認めた。
領土割譲については、当初海南島を割譲する案があったが、清朝の面子を立てるという面と、フランス、ブリテンの日本への警戒感を引き下げるために取りやめられた。
しかしその分満州での日本の権益は強められ、満州北部については既に黒竜江の北側が日本領となっていた事から日清雑居地にまで譲歩させた。
これは北満州の事実上の領土割譲だったが、他の国にとっては今更の事象のためロシア以外の反発はなかった。
この時、ヨーロピアン達にとって重要だったのは、日本軍が自分たちと遜色ない軍隊を持っている事と、清朝がそれに対抗できるだけの軍隊が存在しない事、この二点が分かった事だった。





