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グローバル・OEDO 〜江戸幕府鎖国せず〜  作者: 扶桑かつみ


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14/25

フェイズ14「インダストリアル・レボリューション」

 東アジアで最初となる日本での産業革命は、ナポレオン戦争を契機としていると言われる。

 多くの日本人達が、ブリテンが勝利できた理由の一つが産業革命にあった事を知ったからだ。

 そして直接の契機は、便利で新規なものに目聡いとされていた海外に出ていた日本人が目にした蒸気船が、その直接的な引き金になったとされる。

 

 風を気にせず動ける船の価値は、日本人の間ではまずは商業分野で注目されることになった。

 

 また工場機械の動力としての蒸気の利用も、比較的早く着目された。

 この背景には、文化文政時代の初期の頃に水力を動力とした紡績機械が日本独自に誕生していたことが大きな要因だったとされ、ブリテンで行われていた蒸気機関の利用をすぐに模倣するに至っている。

 各種鉱山での排水装置ポンプとしても、蒸気の力は注目された。

 

 また日本での冶金技術が、既に近世技術としてはほぼ最高水準に達していた事が、初期の器具、機械の製造で役だった。

 経済システムが既にヨーロッパ最先端水準だった点も、産業革命進展に必要な要素の多くを満たしていた。

 

 そしてウィーン会議以後の海外領土の確定とそこでの開発という巨大な需要がさらなる産業の拡大を求め、これに応えるためにも産業の革新が必要とされていた。

 


 もっとも、日本の産業革命は、主に商人達が動かしていた。

 

 日本初の近代製鉄所といわれる建造物は、後の住友金属工業となる大坂の大商人住友家が1834年に建設していた。

(※堺に建設した、規模を大きくした反射炉を発展させた製鉄所。石炭を用いる反射炉そのものは、18世紀中頃から徐々に普及している。)

 そして住友家が近代製鉄所を作った何よりの理由は、日本での鉄鋼需要の高まりを示していた。

 

 住友は、元々銅山経営、銅の精錬という当時リスクの高かった商売で大きくなり、金銀や鉄の採掘、精錬にも分野を伸ばし、伝統的手法からは外れた西洋式の製鉄、石炭を使った製鉄を行うようになっていた。

 海外の日本勢力圏での鉱山開発にも、多く関わっていた。

 そして江戸時代半ば以降、特にナポレオン戦争頃から軍船や沿岸砲台で使う大砲の製造をほぼ一手に引き受けた、いわゆる「死の商人」でもあった。

 

 三井、淀屋、鴻池が両替商から海運へと新たな活路を見いだしたのと違い、住友は日本領各地での鉱山経営、金属加工でその後も拡大していった。

 ウィーン会議以後領有したフィリピンでの銅山、鉄山(鉄鉱山)開発も行っており、各地の炭坑の開発にも熱心だった。

 日本でコークスを最初に作ったのも住友だった。

 事業拡大の為、欧州で言うところの株式も導入した。

 住友の拡大に焦り、他の大商店が慌てて同業種に参入したほどだった。

 

 幕府や雄藩と呼ばれる財力のある藩の中の幾つかも近代化政策を進めたが、幕府の場合は近代資本家への過渡期に入っていた大商人達に援助や支援をして肩代わりする事も多かったため、一層商業資本家主導による産業革命が進展した。

 

 最初に蒸気船を持ったのは、三井家の廻船部門だった。

 

 日本での鉄道敷設の話しも、民間(住友、三井などの合弁)によって京=大坂間での話しが持ち上がり、ブリテンから技術者を招く形で建設が開始され、1843年に開通している。

 

 鉄道敷設に関しては幕府も流石に焦り、江戸(新橋)=横浜間の鉄道敷設を上方に2年遅れで計画を開始。

 完成はこちらの方が1年早く、1842年に日本初の鉄道となった。

 その後日本での鉄道敷設は精力的に行われ、1852年には早くも東海道本線が開通して、日本の物流網が激変した。

 当時欧州世界でも最新鋭の通信手段である電信も、1840年代のうちに京=大坂間で開始され、すぐにも日本中に張り巡らされた。

 先物市場が世界で最も発達していた日本での電信普及は、極めて急速だった。

 

 また運賃が高価な乗合馬車、新たに建設が開始された都市交通としての鉄道馬車と平行して、安価な少人数の移動手段として日本独自の乗り物である人力車が登場した。

 人力車は一気に日本中で広まり、何とか残っていた駕籠を一瞬で駆逐した。

 

 合理的な洋式建造物が日本での耐震構造を取り入れた形で建設が増えるようになったのも、産業革命が必要とした変化であり、この時期から、江戸、大坂、京、横浜、神戸、長崎、箱館を中心に西洋風建築が増え始める。

 建造物の高さも、二階以上のものが増えた。

 鉄骨を建物に組み込む事ができるようになったが故の変化だった。

 日本風建築も近代的手法を取り入れたものとなり、この時代に再建または建設された城塞の天守閣や櫓などの中には、鉄筋コンクリートのものも存在する。

 大坂の町衆の寄付によって再建された大坂城天守閣がその代表だろう。

 


 日本の中央政府である江戸幕府が産業革命の精力的推進を政策として決意したのは、1840年に清朝とブリテンの間に起きた「阿片戦争」においてだった。

 この時幕府は、戦場となった港湾に自国商船と邦人警護のために軍船を派遣した。

 そこで、清朝のジャンク型戦闘艦が風によって動けない状態の時に、蒸気式の武装商船によって一方的に破壊される情景を目にした。

 

 この事件はヨーロッパでも衝撃的事件として受け止められたが、日本人にも大きな変化を強要することになった。

 

 そして一気に幕府の資金を投じたり、日本全体での統一的な取り決めを行ったり、幕府の人材を投入することで一気に産業革命と軍備の刷新を行おうとした。

 また領域内での資源探査にもいっそう熱心となり、これまであまり見向きもされていなかった資源に関しても調査が開始された。

 大商人達も、こぞって山師を雇い込んだりした。

 

 しかしこの頃の幕府は借金財政状態に陥っており、金銭面で最初から躓きを見せていた。

 

 蝦夷や台湾は天領(直轄領)で、共に100万人以上の人が住むようになっていたので一見税収は大幅に伸びている筈だった。

 日本本土の天領自体も、総人口から推定すると900万人程度の人口がある筈だった(※検地(人口調査)は、18世紀後半(吉宗の時代)を最後に行われていない)。

 

 しかし維持にも大きな経費がかかるし、同じく天領とされている北氷州やスンダの維持管理にも大きな経費がかかっていた。

 新日本も、人口は係数的な増加を見せているが、まだ発展が端緒についたばかりで、人口拡大による税収の上昇よりも各種投資に対する消費の方が遙かに大きかった。

 

 一方、地下資源については、相応に日本には幸運があった。

 

 北九州、蝦夷、北樺太に相応の規模の炭田が見つかり、当時は日本各地で銅も豊富に採掘されていたからだ。

 鉄鉱石についても、産業革命初期に消費される程度の分量なら、奥州の釜石近辺、国内に豊富な砂鉄とフィリピンで見つかった鉄鉱石があれば十分賄えそうだった。

 亜鉛や鉛などについても、それなりの量が見つかっていた。

 


 こうして、鉄鋼、造船、鉄道、機械、武器製造、セメント、ガラス、紡績、製糸、製紙など様々な分野の工場の建設が目白押しになったが、これらの事業が一気に進むには1848年以後を待たねばならなかった。

 言うまでもないが、加州でのゴールド・ラッシュの到来を、だ。

 

 新大陸西海岸の新日本を震源地にして一部の日本人の間に黄金が溢れかえり、彼らから得られる税収(冥加金・運上金)だけで天文学的な収入が幕府の手元に転がり込んできた。

 ゴールドラッシュ後の鉱山経営での利益については言うまでもない。

 

 この資金を湯水のように投入して、次々と新事業を次々に興し鉱山を開き、それでも金が余ったので今まで積もり積もっていた借金も多くが返済してしまえた。

 各大商人にも、豊富に資金を提供した。

 

 また幕府は、この時巨大な金を利用した国家としての信用貨幣、つまり国家紙幣の発行に踏み切った。

 これは単に得られた黄金をまた市場に流す程度では、産業革命の中で必要な流通貨幣量に追いつかないことが明らかになったからだった。

 また必要以上に海外に金が流出するのも好ましくないので、金を基本とした兌換貨幣、紙幣を造りだして流通させるようになった。

 従来の金貨も改修後に延べ棒にして幕府が管理し、銀貨は一部はそのまま流通するも、多くが回収後に銀による取引が盛んな清朝に売却された。

 すべてが一気に進んだわけではないが、幕府は確実に金本位制度へとこの時大きく舵を切っていた。

 巨大なゴールドラッシュと時代の変化が、そうさせたのだ。

 金本位制度へ向けた動きは、ブリテンと並んで世界に先駆けたもので、加州など新日本各地で産出される豊富な金のため、日本の金の先物市場、為替市場は、ヨーロッパ世界からも熱く注目されるようになる。

 ヨーロッパでも、大坂市場(金相場)を見ない者は愚か者だと言われた程だった。

 

 そして巨大化した予算を各所に投じ、莫大な投資を必要とする日本及び日本勢力圏各地での鉄道建設、港湾の改良と刷新、道路網の整備、さらには大都市の上下水道を含む大規模な社会資本整備もこの頃一気に計画が推し進められた。

 近代工場の出現と物流の革新的変化により、大都市人口も一気に拡大していった。

 日本最大の商都大坂は工業都市としても躍進し、1850年代の大規模地震による津波被害に対する震災復興に合わせて都市の大改造も実施され、1860年代には日本で二番目の百万都市へと肥大化している。

 大坂湾近在の神戸の都市化が本格的に進んだのも、大坂の肥大化が進んでからの事だった。

 

 1855年に大地震のあった関東地方も、震災復興を都市改造計画と掛け合わせることで、江戸、横浜、品川などの街々が大きく姿を変えることになる。

 

 ちなみに、大都市で上下水道の整備が進められた背景は、都市の巨大化だけではなかった。

 1817年以後世界的に発生するようになった、東南アジア発祥の伝染病であるコレラへの対策という側面もあった。

 良質の水と清潔な都市衛生によって、コレラを少しでも減らそうという努力の結晶が、近代的な上下水道の整備だったのだ。

 また上下水道の整備に平行する形で、河川の改修と堤防の増強、上流でのダムの建設など、こちらも金のかかる社会資本整備が進められている。

 日本の主に都市部の景観が、近世から近代へと一斉に変わり始めたのが1850年代だった。

 

 このためゴールド・ラッシュは、日本人の目を違った方面で覚ます強烈な一撃となったと言えるだろう。

 

 新大陸から大量の黄金を運ぶ船が、強力な護衛艦艇を伴った幕府の葵の御紋が入った特別製の大型武装船であったため、以後の日本では大きな変化が海の向こうから押し寄せることを「黒船」と言う事もあるほどだ。

 

 一方では、まずは日本人の間に膨大な金が溢れたため、日本国内の金の価値は大幅に下落して一気にインフレが進んだ。

 銀を持っている方が数年後には金持ちになるとして多くの者が銀に群がり、こちらは値が一時的に高騰することになった。

 このため幕府が、豊富な金で造幣所(金座、銀座)の近代化を行う傍らで、兌換紙幣と共に新貨幣を発行する背景にもなった。

 また日本と世界の金銀価値の差を利用して、世界中の銀や高価な製品、技術、人材を集めて回った。

 そうして世界的にも黄金の価値下落が起き、幕府はその混乱の中で世界的にも通用する金本位制度を確立していった。

 しかも新日本での豊富な黄金の採掘は続いていたので(※加州金山だけで年産平均20トン)、旧来の考え方なら幕府の財政は最低でも今後半世紀は安泰だった。

 

 一方で発展と繁栄に取り残された人々が日本中に溢れ、そうした人々は希望を求めて新天地へと旅だった。

 また工場労働者となって農村から都市に流出したため、農村では従来の労働的集約農業から資本集約農業へと否応ない近代化を迫られる例が数多く見られるようになっていた。

 

 産業革命と溢れる黄金という二つの変化は、天下太平を謳歌していた日本に否応のない変化を強要しつつあった。

 


 こうした中で江戸幕府に接近してきた国家が、世界の工場化と国際的な金本位制確立による世界経済の覇権を握ろうとしていたブリテンと、国境を隣接する新日本の潤沢な資金を自分たちに資本投下して欲しがったアメリカだった。

 

 本来なら有色人種国家が「分不相応な」富を得たとして、問答無用に侵略されてもおかしくない時代だったのだが、流石に幕府も馬鹿ではなかった。

 巨大な黄金が見つかると、すぐにも臨戦態勢に入って諸外国を牽制し、手に入れた黄金でせっせと軍備増強を行った。

 武器で足りない分は海外からも購入し、日本の蒸気軍艦保有数は瞬間的に世界最多となったほどだった。

 これまでおざなりにされていた陸上兵力も、ブリテン製の蒸気機械を大量に導入した工場で最新の施条銃(=スミトモ・ライフル)が大量生産されるようになり、金で雇った浪人による傭兵団を正規軍として臨時に編成して、日本各地の警備に当たらせていた。

 

 依然として封建体制下にあり、武士という特権階級の支配が続く江戸幕府体制下の日本であり、市民による徴兵軍どころかまともな常備軍すらないのに、ヨーロピアン列強では迂闊には手が出せなかった。

 

 ヨーロピアン列強が束になってかかれば日本侵略は可能だったかもしれないが、この時代に東アジア、太平洋に大軍を展開できるだけの国は限られていたし、その戦力も知れていた。

 1840年の阿片戦争でも、ヨーロッパ最強であるブリテンが内心痛感していることだった。

 

 その上日本が優秀な軍備を持ち、東アジア、北太平洋の海運を独占しているとあっては、手の出しようがなかった。

 

 このためブリテンとアメリカは、共に別の目的から日本への接近を試みた。

 


 ブリテンはまず、日本が産業革命と社会資本整備で必要とする機械、鉄鋼、鉄道車両、蒸気船の積極的なセールスによって急接近した。

 日本人が警戒すると、知識や技術も惜しげもなく売り払った。

 衣食住の紹介と輸出によって、自国文化も積極的に輸出した。

 交渉や商売をするブリテン人も、可能な限り第一級の人間が当たり、日本人の警戒感を下げる努力が行われた。

 日本に不正を働いた場合は、ブリテン人を処罰することも行われた。

 商品を売ることは「ついで」でしかなかったからだ。

 

 ブリテンの目的は、1849年に「航海法」を廃止して自由貿易体制に移行したように、あくまで世界規模での貿易と金本位体制の確立だった。

 ブリテンが金融国家として世界に君臨するためには、豊富な黄金と北半球の三分の一の海運を勢力下に置く日本のネットワークが是非とも必要だったのだ。

 そして、侵略ではなく利用する事を目的としてしまえば、後は日本人と友好的な関係を結べば当面の目的は達成できるのだ。

 歴史と照らし合わせた状況としては、17世紀から18世紀のインド洋での活動と、かなり似ていたと言えるだろう。

 

 無論、最終的にはインドのようにピラミッドの頂点と主要部はブリテンが成り代わる予定だったが、今は友人として自分たちの横に立たせることが重要だった。

 何しろブリテンには、ヨーロッパのライバルが多かった。

 故に、一秒たりとも時間を無駄にしている場合ではなかった。

 

 ナポレオン三世の統治下に入ったフランスは膨張主義を取っていたし、プロイセンはいよいよドイツ統一に向けて動いていた。

 中でも注意すべきがアメリカ合衆国だった。

 

 アメリカは、国内鉄道の敷設によって急速に工業力を拡張しており、また膨大な移民を飲み込むことで異常なほどの国力拡大を続けていた。

 そんな国が、豊富な黄金と北太平洋のネットワークを牛耳る日本に接近することは、何としても阻止しなければならなかった。

 ブリテンが日本に対して武力を見せなかったのも、日本をアメリカ側に走らせない為でもあった。

 

 そして日本との関係については、ブリテンは自らに一日の長がある事を知っていた。

 

 何しろナポレオン戦争以後、日本のヨーロッパ唯一の商館(公館)はブリテンの都ロンドンにあり、ヨーロッパの中でも近代的外交関係を真っ先に結んでいたのはブリテンだったからだ。

 そして、日本人とは変な髪型をした変な衣装の小さな連中ではあったが、そのつき合いの中で相手が馬鹿でなく知識も技術も有する連中であることは十分に知っていた。

 かなりの外交音痴で軍事に関して神経質なところはあったが、それはそれでブリテンには利用し甲斐のある要素だった。

 


 一方のアメリカは、日本の存在を意識して以後、基本的に日本に対して警戒感を持っていた。

 まず何より、有色人種だった。

 その有色人種が、神に選ばれた土地の半分近くを牛耳っていた。

 

 そして新大陸にある新日本は、ユーラシアに存在する国家の植民地であり、この状況をヨーロッパ列強が利用する可能性があった。

 しかも、自分たちがまだまだ手を出せない場所に大人口を持ち、近代的な武器や産業もヨーロッパ一般から舐められない程度には持ち合わせていた。

 武力については、自分たちが安易に手出しできない事を意味する。

 

 しかも日本人は、原住民のインディアンに対して同化政策を採っていると見られており、アメリカ領内の大平原部族とは国境を越えた不法な取引を行っていた。

 当然だが、大平原でのアメリカの不利益も拡大していた。

 

 その上日本人は莫大な黄金を手にして、日本本国も新日本も爆発的な発展を遂げつつあった。

 新大陸への移民も、日本本土の発展から取り残された人々の流れによって順調に増えており、新日本の人口は15年でさらに二倍に増えると予測されていた。

 

 この時点でもメキシコの総人口の三分の一だったが、日本人には金と技術そして余剰人口があり、新日本の人口は短期間の間にさらに大幅に拡大すると予測されていた。

 太平洋岸が東アジア人で溢れかえるのは、時間の問題とも予測されていた。

 

 そうした日本に対して、アメリカとしては彼らの持つ豊富な黄金にこそ価値を見いだすべきだとされた。

 日本人の持つ黄金を自分たちに投資させ、経済面でのつながりを強めつつ大陸横断鉄道を引いてしまうのが当面の目的だった。

 

 そして鉄道を引いてしまえば、アメリカとしては後は自分たちのゲームが出来ると考えていた。

 当時の鉄道とは、情報と物流そのものであり、そして何より近代文明の侵略の尖兵だったからだ。

 

 このうち都合の良い面を、多少条件を日本人に有利にして持ちかけたが、日本人達はアメリカ国内で駆逐されつつある原住民と自分たちを重ね合わせる向きを強めており、話しは最初から躓いていた。

 東部、中部への投資についても、白人勢力圏のため関心は極めて低かった。

 

 しかも南のメキシコと新日本の関係の方が、アメリカよりも親密だった。

 これは、かつて日本人がスペイン人と良好な関係を結んでいたことが影響していた。

 しかもメキシコは、自分たちが「準白人国」でしかないという劣等感を持っているので、日本人への親近感が他の白人に比べて強かった。

 加えて、アメリカとの戦争に負けて領土を奪われたという拭い去れないマイナス感情を、アメリカに対して強く持っていた。

 そしてこの数十年間の北アメリカ大陸で最も侵略的な戦争が「アメリカ・メキシコ戦争」であり、日本人がアメリカに対して抱く警戒感は高かった。

 

 つまりは、アメリカの因果応報又は自業自得だったのだ。

 

 また純粋な実利の面でも、日本人はまだ大陸横断鉄道が必要だとは考えていなかった。

 まずは自らの太平洋岸内陸部を南北に結ぶのが先決だと考えていた。

 そして大陸横断鉄道が必要なのはそれ以後の話であり、必要だとしても自分たちにとって未開拓の地である北部の森林地帯において自力で敷設するつもりだった。

 鉄道連結に向けた話しは、ブリテンとの間に既に緩やかに進んでいた。

 

 アメリカは、日本を抱き込む競争に、競争にすらならないうちに敗北していたと言えるだろう。

 


 そして北アメリカ大陸では、大平原と大雪山脈(ロッキー山脈)によって隔てられた期間が以後しばらく続くことになる。

 そして北太平洋では、日本列島を中心に黄金と鋼鉄の饗宴が行われ、丁髷をしたおかしげな外見の人々の繁栄はまだまだ続く気配を見せていた。

 



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― 新着の感想 ―
史実の明治維新後の急成長を思えばこの世界の日本の急成長ぶりも納得。 あと日米交渉が不調に終わるのも、アメリカの因果応報という話ですごく納得。 とても面白い。
[良い点] 面白くて、読みごたえがあります
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