第32話 トワイライトの公子(後編)
「…ク様、アレク様、アレクシス様!」
「えっ、あぁ、ごめんゼスト。ちょっと考え事をしていて」
数年ぶりにアージェント領に足を運んだせいだろうか。ついつい昔の想い出に浸ってしまい、ゼストに呼ばれている事に気付けなかった。
それにしてもアレクシスか。
今は亡き母に付けていただいた名前だが、僕はこのアレクシスという名前はあまり好きではない。
誰だって幼少の頃より『アレクシス様はダメだ』『アレクシス様は王座を狙っている』と、散々陰口を囁かれていればその名を聞きたくもなくなるだろう。
だからせめて旅に出ている間だけは身分を隠す為にと言い聞かせ、愛称でもあるアレクと名乗るように決めている。
流石に隣国であるメルヴェール王国では知られていないだろうが、母が平民出身という立場と、僕が今まで国の為に行ってきた環境改善の数々、出来るだけ目立つ事は避けてきたつもりだったが、いつしか僕の存在は多くの人たちが知る事となってしまった。
これも全て彼女に恥ずかしくないように頑張ってきた結果だった訳だが、国での僕の重要性が妙に高くなってしまい、反アレクシス派の人達からはより一層の嫌悪感を向けられるようになってしまった。
これでも僕が行った改善案の幾つかは、義兄が貢献したと見えるようにしてきたんだけれどね。
「それでどうしたんだい?」
「これを見てください」
そういってゼストが一軒の野菜屋に並べられた真っ赤なトマトを見せてくる。
「へぇ、これは見事なトマトだね。色合いも良いし実の大きさも良い。この地は山岳地帯が多いから野菜は育ちにくいと聞いていたが、あれは間違いだったのだろうか」
このアプリコット領はメルヴェール王国と、トワイライト連合国家の国境沿いに位置する領土。その大半が険しい山脈が連なり、長年両国の侵入を防いできた有名な地だ。
その為畑に出来る土地が少なく、また地質は葉物野菜などには適さない粘土質なため、山の斜面を利用した木になる果実栽培が盛んだと聞いている。それなのにこの店に並ぶ野菜たちはどれも採れたての新鮮そのもので、実の大きさや葉の色艶も普通の物とは比べものにならないくらい見栄えがいい。
「僕も結構いろんな地を回って来たつもりなんだけれど、これほど見事な野菜は見たことがないね」
「そうですね。同じメルヴェール王国でも北の地方は食べる物にも困っておりましたし、王都ですらこのような見事な品は並んでおりませんでした。もしかするとこの地方独特の栽培方法でもあるんでしょうか?」
新鮮で実りのよい野菜が多く並べば民たちは安心出来る。
これがもし萎びれた野菜だったとすれば、その地の供給は崩れかけている事を意味し、品数が少なくなれば価格は自然と値が上がり、場合によっては暴動まで発展してしまう。
言わば野菜など一目でわかる食材は、その地で暮らす人たちの笑顔そのものに繋がるのだが、残念なことに我が連合国家では現在食料不足が懸念されている。
恐らくゼストもその辺りのことを感じて目に止まったのではないだろうか。
「兄ちゃん達、旅の者かい?」
トマト一つに議論し合っていると、厳つい店主が白い歯を見せながらニコニコの笑顔で話しかけてくる。
「えぇ、各地で品を仕入れては売り渡っている旅の商人です」
「へぇー、同業者かい。若いのに頑張るね」
これでも一応お忍びなので行商人いう形をとっている。
移動には怪しまれないよう荷馬車を使用し、服装は薄汚れた地味な旅商人用の旅装束、目立つブロンドの髪は帽子で誤魔化し、実際にその地で珍しい物を仕入れては行く先々で販売までもしている。
なぜ商人という姿に偽るだけでなく、実際に取引までしているかというと、それは商人達の豊富で迅速な情報を仕入れるため。
商人達の情報は時として有益な話を聞ける事があり、その情報伝達速度も恐らく最速。中には何の根拠もない噂話なんてものも出てくるが、その一つ一つを吟味し、素早く判断していけるのが一人前の商人なんだろう。
「それにしても兄ちゃん達も目の付け所がいいね。真っ先にうちの品に目を付けるとはね」
「ではやはり、何か特別な栽培方法でもあるので?」
店主が勿体ぶりながら店に並ぶ食材をアピールしてくる。
するとゼストの見立て通り何か特別な栽培方法でも存在するんだろう。
これほど立派な作物となると、その栽培方法の価値もぐんっと跳ね上がる。ましてやアプリコット領のように田畑の面積が少ない土地でもとなると、相当な要求を吹っかけられることは覚悟しなければならない。
だが、店主が告げた言葉に僕とゼストが愕然となる。
「ははは、そんなものはねぇよ」
「で、ですがこの様に立派で新鮮な野菜など早々お目にはかかれませんよ」
ゼストの言う通り、野菜は鮮度が命。
冬場に土の中に実る野菜は適切な処置を施せば長持ちも出来るが、土の上に実る葉物野菜はそうはいかない。
これ程の鮮度ともなると輸送で仕入れているとは考えられないので、間違いなくこの地で採れた作物には違いないだろう。
だが、再び店主が告げた言葉に僕とゼストは更なる驚愕を受けることとなる。
「まぁ普通は驚くよな。俺たちも最初は驚いたもんだが数ヶ月前から急に実りのいい野菜が入ってきたかと思えば、ここ最近は鮮度まで上がってきやがった。見ろよ、この野菜なんてまだ冷てぇぜ」
「は? 冷たい?」
そういって差し出された葉物野菜に触れると、微かに伝わる心地よい冷たさ。
冬にはまだ早い今の季節、朝夕は少し冷え込む事もあるがここまでの冷たさは感じないだろう。
「これは一体……」
「俺も詳しくは知らねぇんだが、最近新しい荷馬車を開発したとか言って、少量だけ鮮度のいい野菜が入ってくるようになったんだ。それを俺の店がテストモデルとして販売が許されたって訳よ」
今の店主の話だと、その荷馬車に何か秘密がある事には違いない。しかも実りのよい野菜を育て、輸送にも力を入れ始めている。
もしその荷馬車で遠くの地にまで運ぶ事ができるならば、トワイライトが抱えている食料問題も一気に解決できるかもしれない。
「店主、すまないがその商会を紹介してはもらえないだろうか」
僕は逸る気持ちを抑えながら店主へと問いかける。
「ははぁーん、兄ちゃん達の商人魂に火を点けちまったか。だけど残念だがこれは領主様同士が結んだ輸入品なんだ」
「輸入品!? この野菜達はこの地で採れたものではないのですか?」
「あぁ、全部他の土地で採れた野菜達だ」
これには正直驚いた。
僕はてっきりこの山岳地帯でも育てられるものだと信じきっていた。それが全て輸入品だとすれば、今抱えている問題が解決したも同然となってしまうのだ。
「店主、無理を承知で教えて欲しい、この野菜達は一体どの地で作られているので? もし可能ならば輸送を担っている商会の名前も」
「おいおい、そうガッツくなって。別に秘密にするもんでもねぇから教えてやるからさ」
自分でも思いのほか興奮しすぎていたようだ。見ればゼストも僕と同じ気持ちなのか、僅かながら前のめりの姿勢となってしまっている。
「兄ちゃん達も行商をしているなら名前ぐらいは知ってるんじゃねぇか? このアプリコット領から西に行った場所に少し寂れた海沿いの村、このアプリコット領で売られている野菜の一部は、そのアクアっていう地で作られたものなんだよ」
「「なっ!?」」
「ははは、やっぱり兄ちゃんも驚くかい。今じゃすっかり寂れちまったが、昔からあの地は農業に力をいれてんだ。まぁ、その大半はこのアプリコット領に流れているせいであまり有名じゃないが、最近では漁業や畜産なんかにも手を伸ばしているって話だぜ」
恐らくゼストも僕と同じ気持ちではないだろうか。
アクア、公子である僕やゼストがその地の名前を知らないはずはないだろう。
今は寂れてしまったがトワイライトとメルヴェールとの国境沿いの村であり、れっきとした我が連合国家に属する一つの領地。
何十年か前はそこそこ賑わいのあった街だったとは聞いているが、それでも公国と呼ばれている領地からすれば小さな村に他ならない。それがこのアプリコット領の台所を支えているというのも驚きだが、これほど身近でこのような立派な品を栽培していた事も驚きだ。
そういえば以前、父上がアクアの領主を褒め称えていた事があったような……。
「アレク様」
「あぁ、一度アクアの地に行ってみる必要がありそうだね」
アクア、トワイライト連合国家の南東に位置する小さな海沿の村。
かつて精霊が村を助けたという伝説が残るとされているかの地で、再び彼女との再会を果たせるなど、この時の僕は想像すらもしていなかった。