【第1話】ザンクトマグダレーナ精神病棟6階——悪魔と共生し、悪魔と果てたものども—— 第2節~経緯の整理・11月9日の出来事〜
2018年11月9日、ヴィルヘルム・ヴァイスヴァイラーは、前日に動かなくなってしまった腕時計の修理に向かっていた。家を出て、そこから左方向へ直進し、分かれ道を左へ曲がる。曲がり角の教会を背に直進すると、街へと出る。なんということはない、いつも通りの道。しかし、この時、ヴィルヘルムは自分の身に何が起きていたのかを知らない。ヴィルヘルムが背にしていた教会の近くで、この時、恐るべき光景が繰り広げられていたことを、彼は知らない。そして、周辺住人の何人かが、俄かには信じがたいという心境ではあったが。見てしまっていたことに、彼は気付いていなかった。
ヴィルが街の時計屋で腕時計を修理に出していた頃、教会の付近にはパトカーが集まり、現場検証が行われていた―――一人の男性の遺体を回収して。騒然とした現場で、目撃証言の聞き込みが行われていた。遺体の身元は、教会の聖職者の一人。ヨハン・ハルトリーゲル、48歳。遺体には奇妙なことに、外傷のようなものは確認できず―――死因は急性呼吸器不全と思われたが、ある一人の老婦人が、衝撃的な目撃証言を提供したことにより、事態は大きく動いた。
―――街からの帰路へと就いていたヴィルは、“曲がり角の教会”をその視界に捉えてすぐに、妙な人だかりができていることを、そしてパトカーが並んでいることを視認した。
(なんだろう?また、あの黒い服の男が出たっていうのか?)
恐る恐る、しかし人並みの好奇心で、人だかりの現場に近づいたその矢先だった。
「この近辺に住んでいる…ヴィルヘルム・ヴァイスヴァイラーさんですね?」
「は、はい」
ヴィルを突然呼び止めたのは、警察官だった。
(警官が僕に何の用なんだ?大体これは一体何の騒ぎなんだろう)
「この教会の敷地でですね、殺人事件があったんですよ」
「は…はあ、それは物騒ですね…。目撃証言の提供ですか?でしたら、生憎僕は何も…」
「いいえ、貴方には、重要参考人の一人としてご同行していただきたいのですが」
「は?」
事態を呑み込めない。警察官の口から発された言葉を処理できない。無理はない。目にしていないはずの殺人事件で、突然。重要参考人として、警察署まで来いと言われたのである。
「い…いやいやいやいや、ちょ…ちょっと待ってくださいよ。殺人事件があったのはわかりましたけど、僕は何も知らないんですって」
「あなたがそう主張しても、目撃者、証人が居るんですよ。ですから、真相は明らかにしておかないと…」
「目撃?は?」
確かに、往路にてこの教会を通り過ぎた時、自分の身には何もおかしな現象は起きていなかったはずだ。ヴィルはそう記憶していた。記憶の途絶は無い。意識も一貫してはっきりしており、この日は今のところ、怪奇現象に見舞われた形跡もない。だったら、一体何が起きたというんだ。
そこへ、ヴィルが目にしたことのある顔がやってきた。
「お久しぶりですね、ヴィルヘルム・ヴァイスヴァイラーさん」
「…!あなたは、確か…」
オリヴァー・ユングシュタット。夏に突如ヴィルの自宅を見たいと言って訪問し、色々見て回った挙句、ヴィルの家に住まう霊について話していた、霊能者じみた胡散臭い初老の紳士であった。
「なんでこんな時に、こんなところに、貴方が…?この事件について、何か知っているんですか?」
余りに唐突な再会と、余りにも出来すぎたタイミング。この紳士の醸し出す、信用し難い雰囲気が、意識せざるとも問いの言葉を引き出してくる。そして、そんなユングシュタット氏の口からは———
「いや、何故も何も。私はね、ヴァイスヴァイラーさん、貴方の精神鑑定の為に呼ばれたんですよ」
―――ヴィルにとって、余りにも驚くべき言の葉が紡がれた。
「え――――?」
(なんだって?それじゃあこの男…3ヶ月ほど前はあんなお祓いだの何だのと言いながら…?まさか僕を嵌める為に裏工作してたっていうのか?けど、そしたら、誰が、何の為に、僕なんかを?)
頭の中に、昏く騒々しい渦が回転する。わからない。そもそもこの状況は、何故、誰のせいで発生しているのか?
「ちょっと待ってくださいよ!!あなた、何を知ってるんですか!!僕は断じて何もしてない筈だ!誰が、何の為に!僕に一体何が…!!」
「落ち着いてください。いいですか?誰が何の為に、と訊かれても、残念ながら今の私には、それに答える権限はないんですよ。そしてね、ヴァイスヴァイラーさん。これから、まさに、貴方に起きていることを調べるんです」
混乱から発せられた若人の問いに、初老の紳士は淡々と、粛々と、ともすれば冷淡に、答え。
「とにかく、署までは必ず来てもらいます。一応、取り調べもありますからねぇ。ちゃんと答えるんですよ?」
連行の宣告。ヴィルは状況を飲み込めなかった。
「そんな…」
警察官とユングシュタット氏の会話が、ただ音声として聞こえる。ヴィルにはもはや、無意味な音声のように。
「ユングシュタットさん」
「ああ、大丈夫、話はしておきましたよ」
「恐縮です。それでは失礼します」
「ああ」
(そうか…嗚呼。僕はきっと、逮捕されるのだろう。身に覚えのない、殺人罪で)
絶望が去来する。それも詮無きことでは、ある。ここに至るまで、何の説明もヴィルには齎されていないのであれば。きっと、取り調べも消化試合のようなもの。精神鑑定とやらを受けて、豚箱行きか、良くて精神病院だという未来は、想像に難くはなかった。だが、それでも―――
(それでも…僕が知りうる事実は、必ず、全て、話し…!身に覚えのないことは、知らないと断言しなくては…!!)
ただ真実を求める為、ただ真実のみを語る。そう、この時のヴィルは決意した。
―――その先に待つのが、地獄の入り口だとは知らずに。
斯くしてヴィルヘルム・ヴァイスヴァイラーは身柄を確保され、先ずは警察署に護送され、拘留された。そして、準備が整うと、取り調べが開始されたが―――
それは、東西ドイツ統一後のドイツ国内の犯罪史において、最も奇妙かつスキャンダラスな取り調べのひとつとなった。