【プロローグ】 生まれてくるべきではなかったもの――昏き孔で光を求める――
この世に生まれてくるべきではなかった人などいないというが…それは本当なのだろうか。
全ての命は、生まれてきてよかったのだろうか?
無意味で無価値な人生があるとしたら、其処に救いはあるのか。そして何を以て、救済だと認定されるのだろうか。
――バイエルン州某市ザンクトマグダレーナ精神病棟の実態告発に向けたメモ(ヴィルヘルム・ヴァイスヴァイラーの手記)――
―――2018年11月12日。僕の名前は、ヴィルヘルム・ヴァイスヴァイラー。1993年12月26日バイエルン州某市生まれ。僕の人生は今のところ、思えば今まで何もかも上手くいかなかったように思える。この約24年と11か月の間。本当の意味で誰かに必要とされたことなど、あっただろうか。そして今、この瞬間も。ああ、また上手くいっていない。
思えば幼少の頃から、何故か僕の周りには不運と…そしておかしな出来事が絶えなかった。いつも僕だけ籤運が悪いとか、何故か不良に訳もなく絡まれたりとか、信号を守らない車やバイクに何度も轢かれかけ――そして実際にうち数回は軽い接触事故になったりとか、花瓶が頭上から落ちてきたりとか、グループやスポーツのチームの失敗の責任をいつも擦り付けられたりとか。そういう在り来たりな不運だけならまだいいが――実際のところ、それだけでも人並みよりはかなり多いのだが。そういうことだけではなく、例えば僕が触ってもいないはずの皿が、まるでフライングソーサーであるかのようにひとりでに滑空して床に落ち、壁に衝突し、割れたこととか。誰がスイッチを弄ったわけでもなく家電製品の電源や電球がついたり消えたりするとか。ひどいときにはシャワーや水道から血のような赤い液体が放出されるとか、家族が悪夢にうなされて目を覚ますと、黒い靄のような人影を目撃したとか。家の中だけじゃない。例えば僕が小学生の頃から大学に通っていたころまで、学校生活においても怪奇現象は頻発したのだ。友達と一緒にいると妙な声がどこからか聞こえてくるとか、やはり本などの物体が勝手に空中に浮遊して滑空して時には学友をめがけて飛ぶとか、窓が急に割れるとか。そんな奇妙奇天烈な現象が、他の人に比べて僕の周りではしょっちゅう起きるものだから、僕は学校のクラスメイトや先生だけでなく、家族からすら気味悪がられていた。
しかし、僕の周りで起こる現象で、僕に対する周囲の心象を最も悪くしたもの――そして僕を今、僕が置かれているこの状況に直接追いやったものの実態は、それらとはまた別のものだ。
―――僕は極稀にではあるものの、突然、唐突に、何の前触れもなくいきなり気を失う。そして、周囲の人によれば、その後起き上がった際に、まるで人が変わったように激昂し、気が狂ったような怒声を発しながら。気付かない間に異様な怪力を発揮したり――時には、何故か僕の口からセム語族系言語のような響きの奇妙な外国語が教えてもいないのに出てきたり、僕の周りで急に停電が起きるというのだ。理由はわからない。ヨーロッパでは昔から言い伝えられている話として、悪魔憑きという現象があると聞いたことはあるが。まあ、僕自身、特段オカルトを信じているわけではないし、信心深いとも思わないので、もしかすると精神障害だったのだろうと思いたい。診断が下れば、多少は安心できるのではあるが…今いる場所では望み薄だろう。
しかし、今この瞬間までに僕の身の周りで起きたこと、これまで僕が話してきたこれらの悪魔憑きの伝承と類似した体験談は、今僕が置かれている事態の深刻さに比べれば最早、些末事に過ぎなくなった。何故ならば―――
周囲の評判のせいもあったのだろうが、あろうことか僕は、3日前に殺人事件の容疑者として嫌疑をかけられてしまったからだ。僕はその日——11月9日に、壊れてしまった腕時計を時計屋に修理に出しに行った帰り道、いつものように地元の教会近くの道を通りかかったのだが…教会の建物の曲がり角を曲がった辺りに、何やら警察が来ている様子が見えた。そして通りかかって遠巻きに様子を眺めると……なんとそこには、その教会の神父さんの変死体が転がっていたんだ!勿論、僕はその時までそこに神父さんが死んでいることなんて知りもしなかった。パニックになりながらも近寄って遺体をよく見ると、不思議なことに外傷の類は視認できる範囲では一切見受けられなかった。神父さんは病気なんてなかったという評判だから、僕は急性の心疾患ではないかと思ったのだが…僕の姿に気付いた警察官が歩いて来て、なんと僕は容疑者の一人として、署で事情聴取を受けに連れて行かれてしまった!こんなことが信じられるか?どうにも、遺体を最初に発見したのは近所の人だったのだが、僕の周囲で起きることについての、小さい頃からの穏やかではない評判が祟ったのだろうか。無論、僕の周囲で昔から起こっている一連の出来事の噂を知る人は近所にはある程度いた。しかし、だからといってそんな簡単に殺人犯に仕立て上げられるものだろうか?何か僕を陥れることで誰の得になる…?真相は何だというんだ?
僕はその日の事情聴取において、神父さんの死に関して何も知らないことや、急病ではなかったのかという疑問を話したものの。何故か知らないが、事件のあった教会の関係者と警察の人たちが何やらひそひそと話し合っているうちにそのまま聴取は続き――こともあろうに、何故か僕は逮捕され、取調を受ける羽目になってしまったのだ!俄かには信じがたいし、未だに受け入れてはいないが、僕はまだ長く続いていくはずの人生において、よくわからないままに僅か24年で殺人者に仕立て上げられてしまった。しかし僕には身に覚えはないし、何より――漏れ聞こえてきた話では、僕が殺人を犯したという現場からは、殺人の痕跡は見つからなかったというのだ。無論、僕は翌日、取調室でも繰り返し無実を主張したが、どういうわけか聞き入れてもらえなかった。司法解剖の結果、奇妙にも病気の痕跡はないにも関わらず神父さんは窒息死したとのことだそうだが…なら何故だ?誰が何の目的で、こんな茶番を仕組んだのか?何故、「僕があの教会の神父さんを殺した」と決めつけられ、僕は精神病棟なんかに、今こうして収容されているというのだろう?
―――そして、僕が今、「精神鑑定」と「治療」のために収監されているこの精神病棟が「よくある精神病棟」かといえば、それは違う。確かにここは精神病棟ではある。地元の教会の医師会によって運営されているという。だが、この精神病棟は何かが…いいや、何もかもがおかしい。少なくとも、今こうして意識を確かに保っている僕からしてみれば、この光景は異常だ。キューバにあるグアンタナモ基地を知っている人には、状況を想像できるだろう。ここは監獄だ。いや、訂正しよう。そんなギリギリあり得そうだと想像できるような場所じゃあなかった。ここは人工的に整理された地獄の具現のような場所だ。ここは僕と似たような精神疾患で収容された人たちばかりが入れられている病棟だが…この病棟は狂気と暴力が充満したようなクソッタレな収容所だ。発狂した患者によって他の患者やスタッフへの悍ましい暴力が繰り広げられているだけじゃない。教会の神父のような人たちが、「患者」であるはずの収監者たちを虐待し、時として発狂した患者と――あれはなんと言えばいいのだろう、まるで「戦闘」のような行為を繰り広げている。にわかには信じがたいが、あれは超常現象の応酬のようにも見える。いわゆる悪魔祓い…即ちエクソシズムという行為なのだとしても、やたらと必要以上に暴力的で――起きている事象がオカルトに過ぎるのである。
神父が患者に聖水をかけて鞭で引っ叩くと患者の体が宙に浮き、次の瞬間、烈しい破壊音と怒声が響いてくると共に、今度はスタッフの体が宙に浮いてから吹っ飛ばされ床に叩きつけられるという様子を。つい昨日、中庭から見た。さらに言えば、まるで看守のような管理スタッフたちに連れられた患者が、見えない場所に隔離されて暫くして、悲鳴のような絶叫を上げている様子を見聞した。時に、患者が訳の判らない譫言を吐きながら、他の患者を襲うこともある。
――そして実を言えば、僕自身もまた、昨日11月11日。ここに連れてこられる前に、この病院を運営している医師会が属している教会の神父によって、妙なカウンセリングを受けさせられた。朝に警察での質疑応答が一通り済んでしばらくすると…僕は精神鑑定を受けることになった。ところが、カウンセリングルームではどういうわけか、重々しい聖品を持った神父、司祭たちが取調室に入って来て。聖句を唱え十字架をかざしロザリオに祈るとおもむろに聖句を唱えながら儀式めいた行動を始めたのだ。そんな状況の中、僕は何故だかカウンセリング中であるにも関わらず、妙なお香の匂いについつい眠くなってしまい、居眠りしてはならないと判っていたのに、居眠りしてしまった…だが、気付くと夕方を過ぎていて、何故か僕は病棟へ向かう車の中に居て、車内ではスタッフたちが何やら深刻そうな顔をしていた…そう記憶している。
…もちろん僕は目に映ったその光景を信じて受け入れられているかといえば、まだそうじゃない。しかし、実際に関係者やスタッフによる患者への虐待行為や、患者同士の傷害沙汰が頻発しているとなれば。僕は人権と法の原則に基づき、この状況を説明して状況の改善を求め、できれば別の病棟に身柄を移送してもらうと共に。僕が起こしたという事件に関する全ての真相も追求しなければならない。しかし、ここのスタッフや関係者、そして僕が起こしたという事件の担当者にはそんな話が通じる人など、居そうにはない。ならば、一時的にでも脱走してしまった方が話は早いかもしれない――そうすれば最悪、誰か一人くらいはまともな人に…例えば地元警察ではなく、市や州の単位の職員とか、司法関係者とか、医療関係者とかに。話の一つくらいは聞いてもらえるかもしれない。そう考えた僕は、この精神病棟の名を借りた地獄から脱出することを決心した。
さて、ここは310号隔離病室。僕が移送されるまでに見た光景が確かなら、ここは屋上を除く最上階にあたる6階である。だが1階まで降りて正規の出入り口から出ることは、警備体制から言えば不可能に近いだろう。入るときに見たが、かなりの数の―――少なくとも入り口付近に10人ほどは――警備員が常駐しているようだ。故に、裏口から出るか、2階か地下1階から通路を探して出るのが現実的だろう。しかもエレベーターの入口がある場所は、スタッフ以外厳しく立ち入りが禁止されており、やはり警備の者が常駐している。どこの警備会社か知らないが、よくもまあ、こんな酷い管理が行われている病院のために働こうなんて思ったものだな。――まあ、それについては、今は置いておくとしよう。とにかく、収容者はエレベーターを用いることもできなければ、所定の時間にしか移動は許されていない。だから、まずは「メンタルケア」の診療時間を待ち、機を窺う。とりあえず、今回の日記はここまでだ。今は、この日記が白日の下に晒されることを願うしかない。
―――2018年11月12日の手記、ここまで―――
――日記帳を仕舞う。ヴィル――ヴィルヘルム・ヴァイスヴァイラーは診療時間が来るのを待つ。フロアの中庭の部屋からさほど離れていない場所に出て、辺りの様子を改めて把握する。発狂している者、スタッフに暴行を加える者、独り言を呟きながら中庭をうろつく者、関係者に虐待される者。患者たちの様子。そして巡回する医師と管理スタッフと聖職者たち。数分後、カウンセラーと3名ほどのスタッフ、そして3名ほどの聖職者の一団が来る――いよいよ、診療の時間がやってくる。数少ない好機、真実へと辿り着く計画への起点!深く呼吸し、ヴィルは心の準備をする。そうして。いよいよヴィルが310号病室から出される時が来た。真実と光明を求めて、運命が動き出す―――