8セーブ目(21)
「済みません、まだまだ新米なもので。学校の事でも知らない事が結構あるんですよ。『おばさん』は結構ベテランさんなんですよね?」
大谷の言葉が終わる前に、遠くの方で多数の犬が一斉に吼え始めた。
「ええ、まあそうですねぇ。栄養士の資格を取って直ぐに就職したんで、この学校ではあなたより先輩って事ですねぇ……」
お姉さんが話し始めると同時に、「キャン」と小さな声を幾つか残して犬が一斉に吼えるのを止めた。
「へぇぇ……それって、教員免許と比べてやっぱり取得は難しいんでしょうか?」
「さあ~? 私は教員に興味なんて毛頭ありませんのでその免許を取ろうなんて全くこれっぽっちも思いませんから。あなたが試しに栄養士の資格取ってみたらどうでしょう? 比較できますよ~? まあ『取れるものなら』、ですけど~」
「あはは。それも面白そうですが、教師ってご存じの通り凄く忙しいですし、生徒達の人生を預かっていますから、そんな暇潰しみたいな理由で『どうでもいい資格』を取得する様な時間は無いんですよ」
「ああ~、それは気が回りませんでしたぁ。確かに教師って、無駄が一切改革されなくて給料と全く割が合わない『哀れな』職業のイメージがありますねぇ。まあそれでも、改革を提案する立場のお偉い様方は現場の方よりも優秀なんでしょうけど~?」
(おい、あんたらっ! 大人が職業差別みたいな発言してんじゃねえ! 特に大谷は教師だろうが! 生徒の前で教育に悪いだろ!)
「みたい」というか、まんまアウトレベルな暴言合戦になってきた。これは早く何とかして逃げ出さないと、既に一触即発だ。
「あら、ここは日本ですよ? 大本営より現場の兵隊さんの方が優秀なんです。戦中から」
そもそも月照や勉相手だと外見だけでビビって声も出せなくなっていた大谷が、どうしてこんな風に強気に口喧嘩できるのか分からない。
相手が女性だから、という安易な理由なのかもしれないが……。
そんな大谷の笑顔に込められた、敵意というか殺気の様なものを真っ向から受け止めて、お姉さんもそれ以上の殺気立った笑顔で返す。
「あら~、そんなに優秀なら、現場叩き上げですぐにでも大本営に意見できる様になれますわねぇ。改革、後進の方の為に頑張って下さいね~」
「ふふふ。それは覚えていれば将来の目標の一つにする事を検討するかどうか考慮する程度には気に留めておく場合があるかも知れませんね」
「うふふ、でも普段から気を引き締めておかないと駄目ですよねぇ~? さっきみたいに公共の場で男子生徒に唇が触れそうな位顔を近付ける様な事を繰り返していると、そんな将来設計全て無駄になりかねないですから~」
「あらまあ、ご心配なく。私は男子女子問わず、可愛い生徒達に慕われているだけですよ」
大谷が少し顎を上げ、勝ち誇った様な見下す様な微妙な角度でそう言うと、お姉さんはほんの一瞬だけ言葉を途切れさせちらりと月照を見た。
(ひえっ!? なんでこっち!?)
ギクリ、とほんの僅かに肩を竦めた月照は、やっと身体が動いた事にも気付かず何もできないまま、ただ怯えた視線を返すだけだった。
「……へええ~。でも小学校じゃあるまいし、高校では生徒さんとの距離感ってかなり大切で難しいですよねぇ? 特に男子は」
視線を大谷に戻したお姉さんの声は、先程までより明らかに低くなっていた。
「ええ、それはまあ、確かに……」
大谷も少し怯んだのか一瞬笑顔が曇ったが、直ぐにまた元の顎を上げた笑顔に戻って続けた。
「ふふふ、私って年齢的に『若い!』せいか、同級生の様に接してくる生徒も沢山おりまして」
「うふふ。失礼ながら、ただ舐められてるだけかもしれませんよ~?」
「(舐め――……っ!?)」
負けじと顎を少し上げて言い返したお姉さんの言葉に、大谷は小さく驚きの声を漏らして何やら少し考え、ニヤリと笑った。
「それは――望むところです!」
更に胸の前でぐっと力強く右拳を握り締めた。
「(望むんかい!)」
そう小声で突っ込むお姉さんに心中完全同意していた月照は、今もにやにやしている大谷が自分を見詰めている事に気付いた。
(ふ、ふふ、ふへへへへ。舐められる……この後生徒指導室で二人きりになって、咜魔寺君に舐められ……うへへへへ)
どうやら大谷の将来は、図らずともお姉さんの心配通りになりそうだった……。
まあそれはともかく、予想外の返答に絶句したお姉さんと妄想にトリップした大谷の両名が集中力を欠いたので、互いの殺気が少し緩んだ。
(はっ!? こ、ここしかねえ!)
月照はその僅かな沈黙の時間に飛び込んだ。
「じゃ、じゃあ俺、そろそろ行きますんで……!」
かなり強引だったが、それだけ伝えて立ち去ろうとした。
「「待って!」」
しかし逃げられない。二人掛かりで呼び止められた。
「いやでも、先生は秋口と話があるんですよね? お姉さんも、自転車って事はそこそこ遠く行くんじゃないんですか?」
月照も必死だ。脱出の為に正論で応戦する。
しかしそんな正論、今の大谷には通用しなかった。
「そ、そうだけど、折角だからその後貴方とも生徒指導室でお話が――……」
何とか引き留めて月照を生徒指導室に連れ込もうとする。
(げっ!? むしろ『クロ』前提かよ!? 冤罪で退学とか止めてくれよ!)
月照にとっては新たな修羅場にしか思えなかったが……。
「あら、私は夕飯の買い出しだから別にゆっくりでもいいわよ? なんなら一緒に行く? ついでに夕飯御馳走するわよ」
しかし意外な事に、死神にしか見えなかったお姉さんが助け船を出してくれた。
良かった、この誘いに乗れば――。
乗れば……。
(――……誘いに乗っても、何も変わらないんじゃ……?)
付いていこうとする月照を大谷が引き留め、それに反発したお姉さんがネチネチと嫌味を言い、それに反論して大谷がまた嫌らしい切り口で言い返し――、という未来が容易に想像できた。
(もう本当に、誰でも良いから助けてくれ!)
今なら悪魔に魂を売り渡しかねない月照だった。
しかし普段悪魔の様に迷惑を掛けてくる双子は、なぜか仲が悪いはずの舞美と向こうでアトランティスの話で盛り上がっていて不自然な位こっちを見てくれない。
そして普段小悪魔な園香は校門の向こうに消えたまま姿が見えない。
「あの、彼は私と生徒指導室で大切な話があるので、買い物は今すぐお一人でどうぞ」
「へぇぇ~……休日に制服も着ていない生徒を監禁して指導するなんて、一介の新人教師の権限で可能なのかしら?」
遂に笑顔の無くなった二人がバチバチと火花を散らす真ん中で、月照の魂は誰に売られる事もなくただ無意味に消耗していくのだった。
それからどれだけの時間が立ったのか、大人二人による大人気ない詰り合いはなかなか収まらなかった。
いい加減胃が痛くなってきた月照が「間を取って、お二人で買い物に行ってお二人で生徒指導室で夕食を食べたらどうですか?」などと軽はずみな発言をしてしまったので、現在はより一層激化している。
「いい歳して料理以外に自慢できるものがない人間とかどう思いますか?」
「胃袋を掴むのはとても大切ですし、将来は専業主婦として愛されると思いますよ。それよりも一教科しか教えられない教師なんて子供の教育も偏ってしまいそうで、私なら敬遠してしまいますよ~」
「ぷっ、将来って……。『いい歳』っていう前提を無視したらそうでしょうねぇ。ところで教師が一教科しか教えられないなんて偏見持ってる人、今時いるんですか? 専門が一教科だったとしても、それは『会計職の人が帳簿のつけ方に詳しい』とかと同じで他の事を知らない訳じゃないですよ。むしろ授業や入試に役立つ分、栄養だけ詳しい人よりも子供の将来に役立つと思いますよ」
「あら~、栄養をしっかりと計算した食事を摂っていれば、身体だけじゃなく頭だってちゃんと成長しますよぉ。むしろ脳に栄養がしっかり行き渡るからこそ、集中力も記憶力も充分発揮できるようになるんですよ~」
「へぇぇ、そうなんですか。栄養の事しか頭にない人に育てられると、身体ばっかり健康になって『健康の為なら死んでも良い』とか言い出すと思っていました」
「あはははは、そんな訳無いじゃないですか~。常識で分かりますよね~? あ、常識って教科は無いんでしたっけ~?」
声だけで笑って真顔のまま言い合う大谷とお姉さん、二人の両手がファイティングポーズを取るのは時間の問題だろう。
(俺、これからはもっと心を広く持とう……)
直ぐに感情的になってチョップを振りかざす行為がどれだけ見苦しくて迷惑なのかを、初めて客観視できた気がする。
月照がまた一つ大人に近付いた瞬間だった。
(いやその大人が『こんな』状況なんだけどな!)
一つたりとも近付いてはいけない気がしてきた……。
と、月照が胃粘膜保護の為に無意識に現実逃避し始めたところで、当の大人達の方から物理的に近付いて来た。
「とにかく! 私が咜魔寺君と二人っきりになるんです! 今から生徒指導室に行くんです!」
大谷は語気を荒げてそう言うと、月照の左手首をギュッと掴んだ。
「へ? え? せ、先生!?」
あれ程自分に怯えていた大谷が、強引に手を掴んで校内に引っ張って行こうとするなんて思いも寄らなかった。
(ちょっ!? 秋口の事情聴取すらすっ飛ばすのかよ!?)
色々突然過ぎて、月照は抵抗もできずにされるがままになった。
「ふざけないで! 彼は私の作った夕飯を食べるのよ! 隠し味たっぷりな特別製のをね!」
そのまま校内に連れて行かれそうになったところを、お姉さんが右手首を掴んで強く引っ張った。
「は? えっ?」
月照は混乱しながら小さく声を漏らした。
(たっぷりの隠し味って隠せるのか!? ――て、まさかそれ毒か!?)
混乱しながらも心の中で突っ込みを入れたおかげか、現状を理解できた。
大谷に連れて行かれて退学になるか、お姉さんに連れて行かれて死体になるか。
一択に見えて、実はなかなかに難しい選択肢だ。
お姉さんに連れて行かれれば、命は無くとも犯罪被害者になって名誉は残る。
だが大谷に連れて行かれれば、命はあれども性犯罪者となって名誉は無くなる。
物理的に死ぬか、社会的に死ぬかの二択。
現代人なら命優先が当たり前かも知れないが、月照は古い考え方をする事も多い。だから武士が選びそうな名誉優先も選択肢として充分に意義があった。
(……よし、逃げよう)
だが月照は武士ではない。
とにかく脱出だ。二人掛かりで両手を押さえられているとはいえ所詮は女性の力だ。しかも片方は華奢な英語教師、もう片方は――……まあ得体が知れなくとも一見細身だ。ましてや片手で自転車を支えたままならば、不意を突いて全力を振り絞れば運次第できっと何とかなるだろう。
……と思いたい。
(……チャンスは一度きりだ!)
幸い二人は口論に夢中になっているので、月照の手を掴む力は徐々に弱くなってきている。もう少し緩くなれば両手を同時に振り解き、毎日のランニングで鍛えたこの足で逃げられるだろう。
……まあお姉さんは自転車なのだが。
とにかく、タイミングを見誤って失敗すると二人共二度と手を緩めないだろう。
(よし、もっと口論で白熱してくれ!)
「………………」
「………………」
ギリギリギリ。
二人共いつの間にか無言で睨み合い、全神経が月照を掴む手に向いていた。
どうやら互いに怒りの余り言葉を失っている様だ。こうなると悪口で相手をどれだけ傷付けられるかの勝負ではなく、所有権を競っていた月照を手に入れた方が勝ちという物理的な奪い合いになる。
(いだだ!? 誰だ、女は非力だなんて言ってる奴!)
正直折れそうな位痛い。
引っ張り合いにはなってないが、先に手を離した方が負けなので月照を掴む手の力は火事場の馬鹿力級だった。
それにしても、片手だけのお姉さんはどうして両手を使っている大谷と互角の握力なのだろうか。
(畜生、怪力を付与する能力を持った守護霊とか憑いてんじゃねえだろうな!?)
ちなみに月照は守護霊と言われる霊を見た事がない。まあ取り憑いてずっと人の背後にいる霊なら何度も見たが、それは多分違う奴だ。
……いや、もしかしたら守護霊も悪霊と普通の霊の様な曖昧な区分しかなく、取り憑いて人を守っていたら守護霊、悪さをしたりただストーキングをするだけだったら背後霊という程度の違いなのかも知れない。
(――てかそんな事より、誰かこの人達に隙を作ってくれ!)
双子と舞美の方に、もう何度目か分からない救援要請の視線を向けた。
「だから! 中学の時にも言ったけど霊なんていないから!」
語気を強める舞美と。
「いるよ!」
「みっちゃんがいつも見てるし!」
「「てか、この前音楽室で霊見たんでしょ!?」」
頬を膨らませながら反論する双子。
相も変わらず誰も月照と目を会わそうとしない。
「れ、霊なんて見てないから! あの時は宙に浮く楽器や椅子を見ただけだし!」
いや、舞美と一瞬目が合ったが彼女は慌てて双子に向き直った。
そんな視線の揺らぎに気付かず、双子はマイペースな苛立ちをぶつける。
「それが霊の仕業なんだよ!」
「むしろ霊じゃなかったらどんな現象なの!?」
「大体自分だけ体験するなんてずるい!」
「私達も見たい!」
「「こっちは見たくても見た事無いのに、自分だけ楽しむなんて!」」
首が何かに固定されているのでは、と思えるくらい不自然に正面しか見ない双子に、理不尽な文句を言われているにも関わらず、舞美は少しホッとしたような表情を見せた。
「楽しくないから! 怖いだけでどこにもずるい要素なんてないから!」
(いや反論の内容と表情が合ってねえだろ!)
バレてないと思っているらしい舞美に無駄とは知りつつも心の中で突っ込みを入れ、しかし虚しさに脱力する月照だった。
「「でも心霊体験したんだよね?」」
「してない! あれは神秘体験であって心霊体験じゃない! だって霊なんていないから!」
「「じゃあなんでみっちゃんの霊感信じてるの!?」」
(てか、お前等先生達の側で何の話題で喧嘩してんだよ!)
内容が心霊現象やアトランティス限定なら問題無かったのだが、時々月照の霊感の話題が混じってきた。
(せめてこの二人には聞こえないトーンでやってくれ……)
大谷のみに聞かれるのならむしろ音楽室での一件の説明が楽になるのだが、食堂のお姉さんにまで知られてはまた色々と面倒になりかねない。
彼女は加美華のアパートの住人なので、桐子の起こしていた霊障騒ぎを知っているだろうし、それが初めて月照を見た直後から収まった事にも気付いているかも知れない。変な詮索をされたりおかしな噂をばらまかれては堪らない。
「私が信じてないのは霊の存在であって彼の能力じゃないから!」
「「霊は信じないのに霊感は信じるっておかしいよね!?」」
そんな月照の心配を余所に、三人は更にヒートアップしている。というか、内容が完全に月照中心になっている。
「おかしく無い! そもそも彼の力は霊感とは違うんだから! 彼は霊じゃなくて精霊とか邪精霊を見ていて、貴方達の影響で変な勘違いをしているだけ!」
「え? そ、そうかな?」
「私達って、そんなにみっちゃんに影響して見えたかな?」
「「えへへ~」」
「なんで嬉しそうに笑ってるの……? ――いや、そもそも今は貴方達の影響力の話なんてしてないから!」
突然だらしなくにやけた双子に、舞美は、また不機嫌な表情になった。
「「てか、霊がいないならどうやって転生するの?」」
しかし当の双子はそんな事一切気にせず、可愛らしく小首を傾げて自分の好奇心を満たす事で頭が一杯の様だ。口論中にも関わらず怒ったり笑ったり不思議がったりとコロコロ表情が変わっていた。
それに気付いた舞美は、怒りよりも不気味さを覚えた様だった。
「……中学の時も思ってたけど、貴方達情緒大丈夫?」
どん引きしながらストレートに問い掛けた。
(それは俺も毎日心配になる)
舞美に親近感を覚える月照だった。
しかしいくら月照が聞き耳を立て心の中で三人の会話に混ざって親近感まで得ていようとも、残念ながら三人の側は月照を参加させてはいない。
「「私達の事よりも、霊がいないのに転生する原理を教えて!」」
「はあ……全く、貴方達も読んだんでしょう? 禁断の書を」
「「読んだけど覚えてないよ。だってよく分からなかったし」」
その証拠に、三人の誰一人として月照を一瞥すらしないまま、本来なら月照に聞かれては不味い事を堂々と口にしている。
(俺の救難信号無視して、俺の机を勝手に漁って見た黒歴史ノートの話をしてんじゃねえ! てか、どこまであんな杜撰な設定暗記してんだよ……)
「第四章、魂魄流転浄済にあった記載によると――……」
(あったかそんな章!?)
舞美はもはや著者以上に「禁断の書・煉獄編」を知り尽くしていた。
(畜生、泣きたい……)
大人二人の醜い罵り合いで魂を消耗し、両手を締め上げられて肉体を消耗し、見殺しにして助けてくれない同級生達に黒歴史を穿り返されて精神を消耗させられている。
(なんだこの拷問……)
いっそ生爪を剥がされた方がマシな気がしてきた。
「人間は肉体が消滅したら魂になってヴァルハラに行き、魂の浄化が終われば再び肉体を得て地上に生まれるの」
ついに涙腺と格闘を始めた月照を尻目に、舞美と双子はまだまだ論争を続けていた。
「「だからその魂が霊なんだよ!」」
「霊と魂は別! だから霊魂って言葉があって、魂はヴァルハラに行くの!」
「「霊魂から魂を取ったら霊が残るよ?」」
「ぐぅ……」
禁断の書の知識を以てしても戦況はやや双子有利だった。数の優位もあるかも知れないが、舞美の設定が甘すぎる。
(いや俺の設定なんだけどな……。てか、人に見せないのにそこまで細かく設定しねえだろ……)
中学生が一人の時間を持て余して書いただけの物語では、残念ながらアトランティスの真実にもヴァルハラの真理にも辿り着けない。
苦虫を噛み潰した様な表情の舞美相手に、双子は容赦無く追撃を掛けた。
「それにバラバラ? て言うのがどこかは知らないけど」
「死んでも魂が天国に行けないでこの世に留まった時」
「「その魂が幽霊になるんだよ」」
子供を諭すような穏やかな言い方に、舞美は冷静さを欠いた。
「バラバラじゃなくて、ヴァルハラ! 魂はこの世界には存在してなくて人の肉体を依り代に顕現しているだけだから、この世界に残留する事はないの! というか、霊魂の霊と魂の両方がこの世に残ったら同じ人が二人分幽霊になってややこしいから!」
「「じゃあ人はケンケンする為だけに生まれてくるの?」」
「ケンケンじゃなくて顕現! ――ってああもう、世界中の人が片足跳びをするだけの存在って、一体どんな世界なのここ!?」
「「こっちが聞いてるんだよ!」」
真面目なのかふざけているのか分からないが、とにかく白熱する三人の論争は、もう殆ど世界設定の粗探しになっている。
まあ双子の語彙力の関係で脱線もしているが、いずれにしろ熱中しすぎて月照の事は本気で失念してしまった様だ。
(なんでそんなどうでもいい事で口論に――……って、ああそれでか……)
霊を否定されては、双子が彼女を受け入れられないのは当然だ。おかげで双子が舞美に渾名を付けなかった理由を察した。
ちなみに動物霊を数え切れないほど目撃している月照にとっては、人間の魂がどうだこうだ言ったところでその存在の否定にはならない。むしろ人間だけ特別扱いする舞美の思想は間違えていると断言できた。
(いやまあ、その元を作ったのが俺なんだが――って、いだだだだだっ!? 今はそれどころじゃねえ!)
魂がこの世を彷徨おうが肉体で顕現しようがどうでもいい。このままでは睨み合う大人二人の謎の怪力で両手首を砕かれてしまう。
(てか、もう一人はどこ行った!)
園香の姿を求めて校門を睨むが見当たらない。旧校舎へと避難したのかも知れない。
――と思ったその時。
『なぁぁんでぇぇぇ、仲良さそうに手を繋いでるのぉぉぉぉ!?』
「うおわっ!?」
背後から唐突に聞こえた園香の声に、月照は思わず声を上げながら二人に握られたままの両手に力を込め振り回してしまった。勿論二人の手はしっかりと握られたままだ。
(や、やべえ!)
ハッと我に返っても今更もう遅い。これで二人に警戒され、脱出は不可能になってしまっただろう。
大谷とお姉さんを見ると、案の定二人共驚いた顔をこちらに向けていた。
「え、ええと……咜魔寺君?」
月照が何か取り繕おうと頭を働かせるよりも早く、大谷が首を傾げて視線で説明を求めてきた。
しかし霊に驚かされたからだなんて言えない。
「あ、ごめんね。痛かった?」
反対からお姉さんが優しく声を掛けてきて、なんと自ら手を離してくれた。
(え……?)
予想外の行動に少し驚いた月照だったが、ここは素直に礼を言うべきだとお姉さんの顔を見た。
ふふん、という感じで大谷に向かってドヤ顔をしていた。
どうやらこれも何らかの駆け引きだったらしい。
「くっ!」
大谷も何やら悔しそうに唸り、手を離してくれ――そうだと思ったのだが、片手は離してももう片方の手でしっかり握ったままだった。
そして何事も無かったかの様に月照の手を引っ張った。
「さあ、それじゃあ性の指導室に行きましょうか♪」
「…………へ?」
「せ、生徒指導室よ!? ちゃんと言ったわよ!?」
月照が特に何も言ってないのに大谷は一人勝手に早口で取り繕った。
その大谷の首元目掛けて両手を伸ばし、園香が月照の横からにゅっと躍り出た。
「だああぁぁっ!?」
慌てた月照は全力で園香を抱き留めて動きを封じた。
「あっ!?」
その拍子に大谷の手が振り解かれた。同じ火事場の馬鹿力なら男性スポーツマンの月照の方が女性英語教師の大谷よりも格段に上なのは自明だ。
「え……? あれ……?」
大谷は余程予想外だったのか、しばらく呆然と自分と月照の手を交互に見ていた。お姉さんも目を丸くしてこっちを見ている。
どれ位の時間が立っただろうか。
月照の腕の中で暴れていた園香が大人しくなった頃、大谷は弱々しい声で聞いてきた。
「……嫌、だった? そんなに……?」
涙目だった。
というか、プルプル震えてほぼ泣いていた。
「あ、いや! 断じて違います! ちょっと、その……そう、虫が! 目の前を変な虫が通り過ぎたんで驚いただけです!」
『……虫って、私の事かな?』
胸元の園香がくぐもった声で何か言っているが当然無視する。ブラック化は解けた様で一安心だが、見えない彼女を抱き締める姿は傍目には一体どう映っているのか……考えたくない。
「そ、そう……? 本当に……?」
無理に笑顔を作ろうとする大谷に頷こうとしたその時。
「ふふ、悪い虫が目の前にいたから振り払った、と。なるほどねぇ~」
お姉さんがニヤニヤと意地の悪い笑顔で大谷を見詰めていた。
「……咜魔寺君は明日放課後、生徒指導室に来る様に」
「なんで!?」
大谷はお姉さんを見ずにそう言い残し、舞美の方へと歩いて行った。




