7セーブ目(6)
目を覚ました加美華は、桐子に勧められるがままに銭湯へとやってきた。
(桐子ちゃんはしっかりしてるなぁ……。それに引き替え、私と来たら……)
あんな幼い少女にここまで心配を掛けるとは、あまりに不甲斐ない、と湯船に浸かりながら大いに反省する。
(はあ……。でも、どうしてこんな事になったんだろ……?)
今日は殆ど人がいないので、身体を大にしてゆっくり入る事ができる。頭を整理する余裕は充分あるだろう。
(ええと、確か河内山先輩のメッセージ通りに二度寝をして、寝坊したら桐子ちゃんに起こされて――)
飛び起きて慌ててスマートフォンの時刻表示を見て、既に走らないと間に合わない時間だった事はなんとなく思い出した。
(そこでもう完全に頭真っ白になったんだった……)
ばしゃ、と自分の顔に思いっ切り湯を掛けた。
恥ずかしくてこのまま湯船に沈みたい。
(でもちゃんと思い出さないと、もっとやらかしてるかも知れないんだから!)
徐々に蘇りつつある記憶と桐子の話を、整合性を取りながら繋ぎ合わせていく。
遅刻寸前の時間で取る物も取り敢えず家を出ようとした時に、桐子から「寝間着のままだよ!」と呼び止められ、パニックのまま制服に着替えようとした。それも着る前に「昨日買った服じゃ無いと駄目!」と叱ってくれたので、なんとか無事に着替える事ができた。
だがそこに全ての気を回してしまった為に、それ以外には全く頭が回らず、化粧やコンタクトの事を全然思い付かないまま、とにかく月照を待たせまいと全速力で駅まで急いだ。
幸い彼よりもほんの少しだけ早く到着できたのだが、呼吸もままならないタイミングで彼が現れた。
そして――。
パニック状態のまま酸欠のバッドステータスが追加された脳が、一体何を思考してどんな言動を取ったのか、全く思い出せない。
(ううぅ……変な事、言ってないよね?)
他に誰もいない広い湯船の中で小さくなってその時の事を思い出そうとするが、記憶を漁るほどに、月照がやってきたタイミングすら本当に正しいのか自信が無くなってくる始末だ。
ただ、血行が良くなって頭に血が巡り出したおかげか、その後の事は徐々に鮮明になってきた。
(そうだ……確か月照君は、私が手ぶらだった事とか全然気にしてなかったよね? それに電車に乗る時も、何も言わずに切符を二人分買ってくれたような気が……)
それが「思い出せない部分」の言動による結果なのか、それとも彼自身の気遣いからなのかは分からない。
……そこが一番問題なのだが。
(と、取り敢えず先送りしよう!)
その部分は、ちゃんと思い出すまでは「彼に無理矢理お金を出させた可能性」と「彼が自発的にお金を出してくれた可能性」が同時に存在する。
確定的な観測を行わない限り希望は残るのだ。
(ええと、その後電車でも何か少しお話ししたよね?)
その時の様子はちゃんと思い出せた。
カチコチに緊張して話題が全く出てこなかったせいで、つい「怖い話」をして欲しいと言ってしまった。
(はあ……。月照君がいつも夜野さんに文句を言ってる会話の振り方なのに、私の馬鹿……)
反省してももうどうしようもない。昨夜完璧なつもりだったシミュレートは、交通手段や遊園地園内での移動ルートしか考慮しておらず、会話が無くなった時の事など全く想定していなかった。
(……まあ、それでもちゃんと話してくれたけど)
彼がしてくれたのは、例によって作り話ではなく彼自身の体験談だ。
内容も覚えている。
昔、彼とその父親、それに幼馴染みの夜野さんでお正月に羽根突きをした事があった。
最初は普通に楽しんでいたのに、父親がいきなり「これじゃただのガキの遊びでつまんねえな。漫画みたいに失敗した奴には落書きしようぜ!」と言いだし、水性の筆ペンを使って本当に実行した。
勿論彼は運動が得意だったので、同い年の女子には負けなかった。
でも彼の父親は何を思ったのか、何度も容赦無く彼と戦い、完膚無きまで打ち負かした。
結果、彼は真冬なのに服を脱がされて全身落書きだらけ、残すはパンツ一丁になってしまった。
しかしさすがの父親も女子の前ではそれを脱がそうとはせず、そこでお開きとなった。
その別れ際、夜野さんが言った。
「ところでみっちゃん、耳なし芳一って知ってる?」
………………。
(月照君、確かにどこを取られるか想像したら本人的には物凄く怖かったのかも知れないけど……)
怖い話とはそう言うのじゃ無いと思う。そもそも初デートの女子相手に真っ先に話す内容じゃない。
その時はデートの緊張で固まったまま聞き流していたが、今思い出すと頬で湯温を三度位上げてしまいそうだ。
(でも子供の頃の月照君かぁ……どんなだったんだろ? ――って、いけない。脱線してる場合じゃなかった)
パンツ一丁の幼い月照を想像したところで我に返った。
しかし月照は何を考えてそんな下ネタとも取れる話をしたのだろうか。普段はもう少し思慮深いところもあるはずだが。
(……も、もしかして、月照君も緊張してて、よく分からずに話しちゃったのかな?)
そうだとしたらちょっと――いや、かなり嬉しい。
用意周到のつもりだった自分がガチガチになっていたからこそ良く分かる。
デートで緊張するという事は、失敗して相手に嫌われたく無いという気持ちがあるという事だ。
月照がそう考えてくれていたのなら、自分にも充分脈が有る。
(ふっふ~ん。どうだ花押さん! 私だって、月照君とは結構仲が良いんだからね!)
周囲に人がいないのを良い事に、丸出しの胸を張って踏ん反り返る。ボリュームだけなら園香には負けないと自負している。
(あ、でも……もしかしたら思い出せない最初の部分で変な事言って、彼も御座形な対応になって変な話をしたのかも……)
財布を持っていない自分が月照にカツアゲ宜しく電車代を要求して、更に彼の嫌う話題を振った可能性がある。それなら、怒った彼がとっととデートを終わらせて帰る為に、適当な下ネタを話したと解釈できる。
(……保留!)
深く考えると頭を抱えて湯船に沈んだまま溺死しそうなので、加美華は無理矢理切り上げて遊園地に着いてからの事を回想し始めた。
「え、えと……。と、取り敢えず一杯回りましょう、か?」
緊張のあまり、彼と初めて会った頃の様なぎこちない喋り方になっていた。
「そ、そうですね。折角フリーパス買いましたし、全部行かないと損ですね。あ、俺は昔何度か来た事ありますが、急げば全部回れますよ。昔と少し乗り物変わってますけど、まあ数はそんなに変わってなさそうですから」
彼もどこかぎこちない、台詞の様な説明的な言い回しになっていた。
ここは地元の人を対象にした遊園地なので、東京近郊や大阪の巨大テーマパークの様な待ち時間は発生しない。
ネットで調べた限り、ゴールデンウィークといえど人気アトラクションの混雑時でも精々三十分程度らしい。
それに細かい順路を決めてスマートフォンにメモをしてきたので、それを見れば効率的に全ての乗り物制覇は勿論、昼食も広場でゆっくり寛いで摂れるだろうし、夕方頃には気に入ったアトラクション二周目だって可能だ。
いつもの様に左ポケットに手を入れ、それを取り出しながら――……。
取り出し…………。
(…………スマホも忘れたぁぁ)
一瞬落としたのかと思ったが、今朝の出掛けの行動を時系列順に思い出し、その最悪の事態だけは回避できていたので安心する。
今頃はきっと、部屋でくちゃくちゃに脱ぎ捨てられた寝間着のズボン左ポケットの中で、デートの心配をしてくれている河内山先輩のメッセージでも受け取っている事だろう。
「あ、あの……わ、私……」
「えっと……。あ、ああ! 先輩、ここ初めてって言ってましたもんね。分からないでしょうから、俺が案内しますよ。俺も久しぶりで結構忘れてますけど、まあ入り口付近の奴から順に、片っ端から乗れば大丈夫です!」
どう誤魔化そうか考えてしどろもどろに口を開くと、彼が気を回してくれた。
こういうピンチの時にさりげなく助けてくれる、とても素敵な人だと思う。
普段はわざとかと疑う程に鈍くてやきもきさせられているのだが……。
彼は周囲を見回し、笑顔でちらりと目配せをして歩き出した。
その少し後を付いていく。
後ろ姿を捉えていた視線は、無意識に彼の手へと注がれていた。
それを自覚して、ふと自分の手を見詰める。
この手を伸ばしても、ここからじゃ届かない。
もう少し、後二メートルだけ、彼との距離を詰めないと。
(――でも……)
――ペースを上げて彼の横に並んだら、彼はもっとペースを上げて先を急ぐだけではないだろうか。
――横を歩くのを嫌がられたらどうしようか。
――どうせ彼の横に並んでも、その先に進む勇気なんて無いから無意味な事だろう。
――勇気を出して手を伸ばしても、拒否されたらどうしようか。
歩みを速めて彼の横に並びたいという欲求を、意志を、そんな余計な考えがどんどん浮かんで妨害していく。
(――違う、駄目! これが河内山先輩が言ってた、『やらない言い訳を考えてしなくなる』って奴だ!)
躊躇していては駄目だ。「逃げ道」=「彼を諦める事」に繋がっていると、しっかり意識しないと他の子達に負けてしまう。外見ではどう足掻いても勝てないのだから。
(だ、大丈夫! 月照君なら、私が変な事しても絶対に許してくれるはず!)
自分にそう言い聞かせて、後ろから彼に近付いて行く。
でも真横に並んだら彼を今以上に意識してしまうし、彼が話しかけてくるかも知れない。それらを凌いでも、伸ばした手を咄嗟に回避されるかも知れない。
……だったら、背後から忍び寄って不意打ちで彼の手を狙おう。
(デ、デートなら、人混みではぐれない様に手をつらぐのなんてふちゅうよね!)
逃げる言い訳ではなく、攻める言い訳を考えて自分を鼓舞する。
心の中なのに噛みまくった事なんて気にしない。
(い、いざ!)
彼の左手に狙いを定め、自分の右手を――。
「先輩、まずこれ乗りましょう。ゴーカぁあっとぉっ!? ――って、何してんですか……?」
彼が急に立ち止まったので距離感が大きく狂ってしまった。右手は彼の脇腹を掠めてすり抜け、身体は思いっ切り肩から彼にぶつかった。
「……あ、ご、ごめ――……っ!!?」
立ち止まって彼に謝ろうとして、彼の顔の近さに驚き、
「――ぴっ!!!??」
自分が彼の左腕に抱き付いている事に気付いて、言葉を失った。
(あ……な……ど、どうどうどうっ……どうしてぇっ!??)
その瞬間、もしかしたら白目を剥いてしまっていたかも知れない。
しかし考えてみれば当たり前だ。
彼の左腕が無くなった訳じゃないんだから、自分の右手が彼の脇腹側を通れば自然と彼と腕を組む姿勢になるし、そのまま彼にぶつかったら夜野さん同様腕に飛び付いたみたいになる。
みたいと言うか、そのものズバリ飛び付いたのだが。
「………………デ、デデッデ、デデ……」
頭も視界も真っ白になって、自分がまた気絶しそうになっているのが分かった。
でも、倒れて急病人扱いされて初デートを事務所だか医務室だかで過ごすなんて、女の意地と誇りに掛けて絶対に回避しないといけない。
「で、ででで、ででえっとだっから!」
真っ白な世界の中で、唯一動く口を動かし、意識を繋ぎ止めようと悪足掻きをする。
多分相手には何が言いたかったのかなんて通じていないだろうけど。
いやまあ、自分でも何を言ったのかよく分かっていないんだけれども。
「あ、ああ……。デ、デートなら……ま、まあ、仕方ないって言うか……こういうの、するかも、ですね……」
(…………え?)
彼の言葉に、白かった世界が徐々に色を取り戻し始めた。
すぐ近くにあったはずの彼の顔は、いつの間にか向こうを向いている。
でも彼は腕を振り解いたりはせず、じっと支えてくれていた。お陰で意識が半分飛んでいた間も倒れずに済んだ様だ。
(離れなくて、良い……?)
口に出せないその心の問い掛けに、勿論彼からの返事なんて有る訳もなく――。
「でも、今は離れて下さい」
「え?」
今度は目の前が真っ暗になった。
問い掛けてもいないのに、拒絶された。
その事実は自分でも驚く位ショックだった様で、一瞬で全身が金縛りにあった様に動かなくなった。
「これ待ち時間無いですし、一人乗り用しかないですから、離れてくれないと……」
「……え?」
彼の困った様な声で我に返り、周囲の状況を確認すると。
このアトラクション――ゴーカートの係の人が、舌打ちしそうな位顔を顰めてこっちを見ていた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
慌てて飛び退いて頭を下げた。幸い後ろには誰も並んでいなかったので、迷惑を掛けたのは彼と係の人だけだ。
先に出発した彼のカートを見送って、係の人の説明が殆ど耳に入らないまま自分も次のカートに乗り込み、それっぽいペダルを踏み込んで発進した。
私の頭の中は、頭を下げる直前に見た、真っ赤になって照れ笑いしている彼で一杯だった。
「(きゃああああああぐごぼぼぼぼ!)」
遊園地到着直後にいきなりやらかした事を思い出し、加美華は小声で悲鳴を上げながら湯船に沈んだ。
あの抱き付き体当たりは、果たして月照にどんな印象を与えたのだろうか。
今思い返せば、あの時の彼の表情は果たして本当に照れ笑いだったのだろうか。
もしかしたら、抱き付いたせいで向けられたあの係員の視線が恥ずかし過ぎて、笑って誤魔化すしかなかったのではないだろうか。
ついでに言えばその直後、気もそぞろだった加美華はアクセルペダルを思いっ切り踏み込み過ぎて、ロケットスタートで月照のカートに派手に追突、大クラッシュした。
勿論遊園地のアトラクションなので怪我をする様な衝撃は無かったが、月照のカートは勢い余ってコース横のタイヤに乗り上げた。係の人がびっくりして駆け寄ってくる程度には衝撃的だった様だ。
(うあああぁぁぁ……)
加美華はこのまま湯船の中にずっと隠れていたい気分になったが、ここで溺死しても銭湯に迷惑を掛けるだけだ。デート直後にそんな変な死に方をしたら、きっと月照にも迷惑が掛かるだろう。
加美華はゆっくりと顔を出し、伸ばしていた手足を縮めて三角座りになった。
「これ以上色々と思い出して、果たして私は生きていけるの?」
つい自問自答してしまうが、やらかしていたならやらかしていた分だけ、後できちんと月照に謝罪しないといけない。
既にやってしまった以上、今更逃げる訳にはいかなかった。
(ああ……あの時やっぱり逃げていれば……)
少なくとも月照の腕に抱き付く事は無かっただろう。
そしてこれからも、そんな大胆な事はできなかっただろう。
(…………うん、良くやったあの時の私)
月照は恥ずかしかったかも知れないが、怒った様には見えなかった。
それなら、自分の欲求以上の成果を上げた当時の自分を称えて何の問題があろうか。
加美華は、金銭面の負担を押し付けた相手に自分の身体まで押し付けた現実から、完全なる逃避を始めたのだった。




