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(悔しい……)
月照と園香がゲームのデモムービー鑑賞会を始めた丁度その頃。
加美華は「税別四千八百円」と書かれた値札を睨み付けていた。
電車で二駅、園香と分かれた後、服を買う為にそのまま向かったデパートの婦人服売り場。
財布の中身を確認し、電車賃を思い出し、そして気に入った服を見付けてその値札を手にとって、それ以降同じ姿勢で止まっている。
これ位の距離なら自転車があれば間違い無くそれを使っていただろう。だがアパートへの引っ越しの時、どうせ学校がすぐそこだからと持って来なかった。
一応歩こうと思えば歩ける距離だとは思うが、残念ながらそこまでこの辺りの道に詳しくない。自転車での散策も無しにぶっつけ本番で歩き回って目指すには、さすがにちょっと遠いと思う。
ちなみにアパートの近所にも服屋が一軒だけあるのだが、そこは地元の学校の制服や体操服を中心に扱う小規模店舗で、おしゃれ着とは無縁な品揃えだった。
もしかしたらなぜか置いてあったもんぺやブルマがおしゃれ着枠なのかも知れないが、それを来てデートに行く程の冒険家にはなりたくない。
だから引っ越したばかりて土地勘の全く無い加美華には、少々遠くてもこの店しかアテが無かった。
しかし専門店が入ったショッピングモールと比べればかなり見劣りするものの、品揃えへの不満は殆ど無い。
(悔しい……)
そんな加美華が人目も忘れてへの字口で値札とにらめっこしているのは、別に価格だけが原因ではない。
園香との口論がずっと頭から離れないからだ。
彼女の主張をよくよく思い返してみれば、要するに「月照に構って欲しいから好き勝手する。でも加美華がそうする事は認めない」という、物凄く我が儘な内容でしかない。
そんな薄っぺらい相手に言い負かされた事が、何よりも悔しい。
財布の中身が五千円札一枚と硬貨数枚だけなせいで、この三十パーセントオフのワンピースが買えない事の倍くらい悔しい。
(電車賃が……。そもそも服買いに出てきたのに慌て過ぎてお財布にお金入れ忘れたせいで、月照君の好きそうな清楚な感じの服が買えないなんて……。ああ、もう! 大体消費税なんて誰が考えたのよ! 未成年から税金巻き上げるなんて最低! 中学までなんて義務で勉強させられて税金も義務だからって払わされて、見返りの権利は一体何よ!? 義務だけ押しつけるな!)
いや、やっぱり服が買えない方が悔しいのかも知れない。怒りのあまり敵が国家規模にまで膨れ上がっている。
習慣として、キャッシュカードを持ち歩かない事と余分な現金を財布に入れない事が災いしてしまった。部屋に帰れば昨日降ろした一万円札があるので余計に悔しい。今から取りに帰るべきか悩んだが、それはそれで電車賃が勿体ない。
(そもそもあんなに好き勝手言っておいて、『自分のデートの時に楽しめばいいんだから今は邪魔せず帰って』って、一体何様っ!?)
……どうやらちゃんと園香に言われた事の方が悔しかったらしい。
しかしお金の方もなかなかに悔しいせいで、それぞれへの怒りがシーソーの様に交互に湧き上がり、思考も行ったり来たりで買い物に集中できてない。
だから本来ならすぐに諦めて別の服を探すかとっととお金を取りに帰るところなのに、いつまでも値札を睨み付けているのだ。
「四千八百円から三割引いてよ……」
暗算はあまり得意ではないが、さすがに消費税率以上の値引きならそれで足りる事はすぐに分かる。
(好きな人を独り占めしたい、って思うのは当然じゃない! 自分は夜野さんに勝てないからって諦めて愛人ポジションに就いて、他のライバルは蹴落とそうって事!? とっくに不戦敗のくせに、何で偉そうにまだ戦ってる私の事をあんな風にっ!)
ぐしゃり、と手にした値札を握り潰す。
「三割引セールするなら、表示より三割引くのが当たり前でしょ!」
ぎぎぎ、と更に力強く、手の中の値札に怒りをぶつける。
「ああっ、もう! 腹が立つ!」
ようやく手を離すと、板状だった値札が球状のゴミに変身していた。
それでも加美華の怒りは収まらない。
元々少し気の強いところがあるのに、普段は自分をとことん抑え込んでいるのだ。それがあんな事を言われたら我慢の限界だってやってくるし、一度限界を超えたら反動で長く激しく怒りが沸き続ける。
これが人間相手なら一線を越えない程度には抑えも効くが、値札相手では無理だった。
しかも悔しい価格が書いてある値札だったら尚更だ。
だがやはり、こんなただの八つ当たりでは何も解決しない。
(悔しい……)
園香に口だけでなく、顔とファッションセンスとスタイル(胸以外)でも全く勝てない事が。
(悔しい……)
自分と同じ位月照を想っているくせにお邪魔虫だからと身を引く潔さと、それに矛盾する往生際の悪さを悪びれない図太さが。
「悔しい……」
不甲斐ない自分が。
何もかもが悔しくて、腹立たしくて、妬ましい。
「あ、あの……お客様……?」
「何ですか!?」
後ろから掛けられた声に、つい強く言い返してしまってハッとなった。
声を掛けたのは二十代半ばの若い女性店員だが、明らかに怯えた様子だ。
(いけない、人に当たるなんて最低……)
すぐに反省して、気持ちを落ち着かせようと深く息を吸い込む。
そして謝罪の言葉と共に吐き出そうとして。
「あ、あの……よろしければ、表示価格から三十パーセント引かせて頂きますので……」
「ご、めっ……え?」
「ご試着、なさいますか?」
「………………はい」
計らずとも値引き交渉に成功した加美華は、多少の罪悪感を覚えながらもお気に入りの一着を手に入れたのだった。
無事服を入手できても気持ちのモヤモヤは収まらず、ウインドウショッピングを楽しむ気分にもなれなかったので、加美華は寄り道せずに真っ直ぐ帰宅した。
結果的に服一着の為だけに電車に乗った事になったのでちょっと電車賃に割高感を感じ余計にイライラしてきたが、値引き分で充分元を取った事に気付いて、少し平静を取り戻して玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「あ、お帰りなさい」
予定よりかなり早く帰ってきたので、桐子は少し驚いた様子で、しかしその分嬉しそうに迎えてくれた。
心が荒んでいる今の加美華にとって、この愛らしい少女の霊は癒しそのものだ。一目見ただけで下がっていた口角が上向きになった。
「可愛いお洋服、買えた?」
首を傾げておかっぱの髪をさらりと揺らすその仕草に「可愛いのはお前だーっ!」と叫びたくなったが、実行したら人としての何かが終わってしまう気がして我慢した。
「うん、ちゃんと可愛い奴だよ」
にこにことストレスから解放され、加美華は持っていた紙袋から買ったばかりのワンピースを取り出した。
「良かった。お金忘れて行ったみたいだから心配してたの」
桐子がちゃぶ台に無造作に置かれた一万円札を指差した。
「……う、うん。置いて行ったんだよ、足りるから……無駄遣いしない様に……」
年長者としての見栄を張ってしまった。
「そうなんだ」
「あ、でもこれ、お洗濯に行かないと駄目だからお金取りに来たの。ついでに他の服も洗うんだけどね。だからまたすぐ出掛けるね」
新品の服をそのまま着る人もいるが、加美華は一度洗う派だ。一々コインランドリーまで行かないと駄目なので面倒臭いが、衛生面を考えれば大切な事だ。
「あ、うん。行ってらっしゃい」
憎き一万円札を財布に押し込んで、念の為財布の中の小銭も確認する。
「うーん……どこかに寄って崩した方が良さそう。お昼ご飯、外で買い食いするけど、何かお供えして行こうか?」
「ううん。ずっと言ってるけど、私はお供えなんて要らないよ」
「でも、私が何かして上げたいんだけど……」
「大丈夫、どうせ成仏しないし」
「そっか。じゃあ行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
すっかり心のトゲが抜け、加美華は軽い足取りでコインランドリーへと向かった。
ゴウンゴウンと乾燥機の重低音を聞きながら、加美華はまた園香の事を思い出していた。
時間が空くとどうしてもあれこれ余計な事を考えてしまう。
本当は明日のデートの事だけで頭の中を一杯にしたいのだが、その相手の月照が今まさに園香とデートしているという事実が、どうしても脳裏に彼女の姿を蘇らせてしまう。
しかしながら、桐子のおかげで今はかなり落ち着いている。
もう目に入った紙切れに八つ当たりをして握り潰す様な真似はしない。さっき床に落ちていたポケットティッシュを踏み潰した分だけで満足した。
とはいえ、もやもやが晴れた訳ではないのも事実だ。
「う~……」
加美華は唸りながらベンチにどすんと深く腰掛けた。一応念の為に周囲を確認するが、店内には自分しかいない。
「あ~……」
怒りが込み上げない様に意図的に気が抜けた声を漏らし、背もたれにもたれたまま腰の位置をズルズルと前にずらしていく。最終的には尾てい骨がずり落ちないぎりぎりの所まで進み、そのままグデーっとだらしない姿勢をとって天井を仰ぎ見た。
(うーん……)
無理矢理デートと無関係な事を考えて、仕切り直しを図る。
(ここ、いつ来ても誰もいないけど、本当に営業してるのかな?)
週に一、二度、このコインランドリーを利用しているが、いつ来ても店員も客もいない。潰れたら困るのでずっと採算が取れているのか心配していたのだが、ここまで人が来ないと何か事情があるのではないかと心配になってくる。
(……もしかしたらここはただの廃墟で、昔はコインランドリーをやっていたけど経営破綻してオーナーが首を吊った場所、とか……?)
……加美華もかなりオカルト研究部に毒されてきた様だ。
(今度月照君に相談してみようかな……?)
ただし、彼女にとってオカルトは全て月照と関わる為の材料に過ぎない。月照が霊視の真似事なんてできないと知っていても、彼に話しかける口実さえ用意できればそれでいいのだ。
(月照君といえば、明日のデートコースは私が決めるんだから早くアイデア出さないと……)
そして月照の名前が出ると、どうしても明日のデートの事を考えてしまう。
するとやはりそこで園香の顔がカットインしてきて、もやっとしながら思考が停止する。
(うう~……デートコースとか、まだ全然考えてないのに……)
全く集中できていないので、どれだけ考え事をしていても何一つ解決しない。ひたすら無限ループだ。
(はあ……なんか前もこんな事あったな……)
あれはいつだったか、同じ様にここでこんな風に悶々としながら洗濯物を眺めていて――。
(……――――っ!?)
ガタン!
不用意に思考を巡らした結果、月照の名を初めて口にした日の事と、ついでにその前夜、二人きりの夜を思い出し、ベンチから滑り落ちてしまった。
慌てて周囲を見回すが、幸い無人なので誰にも見られていない。
一人で赤面しながら、今度は静かに背筋を伸ばしてきちんと腰掛けた。
(そっか……。そう、だよね!)
あの晩、寝ぼけて勘違いしたせいで早朝彼にした事。
反省はしていても、後悔はしていない。
理由は確かに、その前日に彼から与えられた安心感だった。それは否定できない。
(だけど――それは彼を意識する様になった、ただの切っ掛け)
園香に何と言われようとも、瑠璃にどう評価されようとも。
(彼じゃないと駄目……)
もしもあの時安心をくれた相手が、月照よりも美形で月照よりも気遣いができて、なんならついでに大富豪の一人息子だったとしても――。
(私は、こんな気持ちにはならなかった!)
心の中で強く断言した。断言できた。
(だって――)
なぜなら――。
(私、そんな人相手だと緊張して何も会話できないから!)
月照が程よく庶民的で接し易かったから……。
勿論、彼がもっと不細工だったり冷たい人間だったとしてもこんな気持ちにはならなかっただろう。
(――って、そうじゃなくて!)
物凄く失礼な結論に達してしまった自分の思考を全力で否定して、もう一度整理し直す。
(……そもそも、人見知りの私が最初からあんな風に接する事ができたのだって、本当は有り得ないはずだったし……)
彼の幼馴染みに半ば無理矢理連れられて出会った相手で、第一印象は粗暴で女子にも容赦が無く、ただただ「怖い」と思った。
自分の性格はよく分かっている。普段ならそんな人が怒っている最中に、更に激昂させかねない行動なんてしない。相手が落ち着くのを待っていたはずだ。
それでもあの時、月照から書類を奪い取った。自分から声を掛けた。
(あの時は霊の方が怖かったから形振りなんて構ってられなかったのは確かだけど、でもそんな怖そうな相手の大切な書類を奪うなんて……)
やはり有り得ないと思う。
(今にして思えば、どこか話しかけ易くて親しみ易い、そんな雰囲気を感じてたのかな?)
つまり月照は「自分と相性が良い」と本能的に感じ取ったという事だ。
(だから、きっと私は最初から彼を好きだった。無意識の気持ちを、あの晩意識する様になっただけ……)
そう考えれば色々と辻褄が合う気がしてきた。
更に言えば、霊に悩まされていた自分と霊感を持つ月照との出会いは、運命に導かれた必然ではないだろうか。
「(ぅきゃぁぁぁ~……!)」
加美華は声にならない声を漏らしながら身悶えた。
自分こそが、運命に導かれた月照のヒロインなのだ。
運命に感謝せざるを得ない。
「はあ……。神様、ありがとうございます」
無人のコインランドリーで小さく神に感謝の言葉を述べた。何の神様に感謝しているのかは自分でもよく分からないが、きっと縁結びの神様だろう。
(私が彼を好きになったのは、気の迷いでも偶然でもない。運命の相手だったからなんだ……)
加美華は満足げに微笑んで、鼻歌を歌い出した。
彼女の心はもう明日の事で一杯だ。園香の事なんて完全に忘れて、運命の相手との記念すべき初デートに相応しい場所を検索している。
「――うん。オーソドックスだけど、やっぱり遊園地がいいよね」
奇抜で印象深いデートよりも、自分の性格を考えればもっと普通のデートの方が楽しめそうだ。映画も定番だが、映像よりも彼を見ていたい。
「ここから近い遊園地でいいよね? 月照君は行った事あるだろうけど私は行った事無いし、それならエスコートして貰えるから」
さすが運命のデート。悩んでいたのが嘘の様に、どんどん具体的なアイデアが浮かんでくる。
乾燥が終わる頃には完璧な計画ができたと自画自賛して、加美華はコインランドリーを後にした。
――しかし彼女は、自分で思うほど自分の性格を理解していなかった。
自分が人一倍「思い込みが激しい」という事を……。




