6セーブ目(2)
「お待たせしました!」
全速力でウェットティッシュを持ってきた月照は、律儀に待っていてくれたお姉さんに数枚取り出してそれを差し出した。
勿論自分の手の汚れも拭い取る。
(あ、ゴミ捨てる入れ物忘れた……。まあいいか)
細かい事を気にしても仕方ないので、お姉さんが自分の手を拭いている間に自転車のハンドルが回らない様押さえて、ついでにそこに付いている汚れを拭き取った。
「(ふぅん……細やかな気遣いは――~~……)」
「え?」
お姉さんが何か小さく呟いたので顔を向けたが、視線が合うと真っ向から睨み返された気がしたので月照はすぐに視線を逸らした。
「…………」
もう一度ちらりと見るが、手を拭き終えた彼女はずっとこっちを見たままなので、慌ててまたすぐに目を逸らした。
「……なに? 用がないならもう行くけど?」
お姉さんは不満丸出しだ。
「いえ、ええと……」
今までの誤解を解こうにも、いきなり本題を切り出すのは不自然だ。かといって相手の興味を引けそうな話題も無いし、上手く誘導する話術も無い。
一体何からどう話せばいいものか……。
「あ、えと……ゴミは貰いますんで……」
とりあえずそう切り出すと、お姉さんは邪魔そうに握っていた使用済みウェットティッシュを月照の握っていた自転車のハンドルと交換した。
「(……そこまで悪い子じゃない気もしてきたし、ちょっと人間関係正した方が良いかも――……)」
何か不満げにブツブツと独り言を言っているが……。
おかげで月照は話しかけるタイミングが全く見付からない。
「…………一応忠告しておくけど――」
月照が受け取った姿勢のままでしばらく言葉に詰まっていると、彼女の方から話しかけてきた。
「ほどほどにしとかないと、いい加減その内刺されるわよ」
「は? え?」
しかし月照には一瞬なんの事かさっぱり分からず、少し悩んで――。
(――って、え!? も、もしかして、これ以上言い淀んだり引き留めてたら殺されるって事か!?)
自分なりに現状を踏まえて言葉の意味を解釈し、戦慄した。
確かに、汚物同然に思っている相手に意味もなく足止めを受けていつまでも付き纏われたら、嫌悪感が爆発してもおかしく無い。
これは誤解を解くよりも命を優先した方がいいのだろうか……。
隙を見て家に逃げ込みたくなってきたが、さすがにまさか、そこまではされまいと思って踏み留まった。
とはいえ彼女が時折見せるあの眼光は、ちょっと包丁女に通じるものがある。既に三人以上山の中に……と言われても信じてしまいそうだ。
それに月照を見る目だって、なんというか生き物に向けてはいけないものの様な気がする。果たしてただの誤解だけで、脊椎動物をあそこまで汚物扱いできるだろうか……。
しかしよくよく考えれば、その汚物と思われているのは誤解に基づいているからだ。解いたところでどっちみち本当に刺しそうではあるが、誤解が無ければ、もしかしたら急所は外してくれるかもしれない。
(やっぱ、このチャンスを逃す手はないよな!)
腹を括って話をするべきだ。
まずは誤解の内容を確認しよう。
「……そういえば、さっきの子は初めて見たわね」
僥倖にもお姉さんの方から核心に触れる話題を振ってくれた。これはチャンスだ。
「そ、その事ですけど――」
弁明する為に彼女に先んじて発言しようとするが、
「デートの締めに自宅に連れ込んだのか最初から自宅に誘ったのかは知らないけど、あんまり調子に乗って派手にやってると学校にチクるから」
「…………」
弁明の余地のない、誤解でもなんでもない正確な状況把握をされていたので黙るしかなかった。
(――てか手段!)
確かにこのお姉さんに直接怒られる謂われはなく、学校には生徒の品行を指導する義務があるが……。
勘違いの積み重ねにたった一度の事実を被せただけで、そんな一番えぐいところを突かれては堪ったものじゃない。 学校内では事実無根の噂も広がるだろう。
いやまあ、お姉さんは「無根」じゃない事実で勘違いしたのだが……。
月照が何も言えずに黙っていると、お姉さんも反応を待っているのか黙り込んだ。
月照は悩んだ末に、ここはもう単刀直入に相手が自分の事をどう解釈しているのか確認すべきだと判断した。
「あ、あの……お姉さんは、その……」
「なに? はっきり言って!」
言い淀む月照にイライラしたのか、彼女はさっきよりも更に強めの口調になった。
「あ、はい! その、俺の事、どう思ってますか?」
これ以上彼女の心証を悪くする訳にはいかないので、月照は真剣な表情で背筋を伸ばし、彼女を真っ直ぐに見詰めて言った。
「……は? へ? ――……えっ、まさか私まで!?」
彼女は一瞬ポカンとしていたが、数秒してからなぜか急に動揺しはじめた。
「正直に言って下さい! 俺、初めてお姉さんに会った時からずっと、お姉さんの事凄く気になってたんですけど、その……」
しかし頭の回転は勢いとは反比例する物らしく、そこで言葉が途切れてしまった。
何か言わなければと焦れば焦るほど言葉が浮かばなくなり、理由の分からない緊張で顔が強張ってきた。
「ちょっ!? え!? な、ななな、何言ってるのよ!?」
お姉さんはなぜか真っ赤になって吃っている。
相手の方が混乱していると、自分は少し冷静になれるものだ。
「あ、えと! 何か俺、いつもお姉さんに勘違いさせてるかなって……。俺は別に、誰とも付き合ったりしてないですから!」
だから捲し立て気味になったが、最低限の説明はできた。
「あえっ!? あ、そ、そうなの……? え? 本当に?」
「はい、本当です!」
「い、いやいやいや! 信じられる訳無いでしょ! そんな、いつも女の子に抱き付かれたり男の子と――」
「いえ、本当です! お姉さんが見た相手全員に確認して貰っても構いません! なんなら今度、アパートに連れて行きましょうか?」
少し被せ気味に、疑いの眼差しを向けてきた彼女にそうきっぱり断言した。
彼女は「ええ~!?」と大袈裟に驚いて、
「――え? じゃ、じゃあ……本気?」
まだ信じられない、といった表情で聞いてきた。
「え? ええ、本気ですけど?」
「えええ~っ!? で、でもほら、私とあなたとでは歳の差とかあるし、ほら!」
「へ? いや、そんなの全然関係無いでしょ?」
「ええええ~っ!!? そ、そう、かなぁ?」
お姉さんがなんだか物凄く嬉しそうに言いながら両手で真っ赤なままの頬を覆った。
その瞬間――。
またハンドルが勢いよく回転し、反動でお姉さんが自転車ごとバランスを崩した。
「――っと、危ない!」
ガシッ!
今度はちゃんと、お姉さんごと自転車を受け止め全ての安全確保に成功した。三度目の正直だ。
代償に、握っていたゴミが道路に散らばったが。
「――っ!!?」
お姉さんは息を呑んだまま月照の腕の中で固まってしまった。
「大丈夫ですか?」
「……は、はい」
妙に恍惚とした表情で返事をされた。
この表情の意味は分からないが、とにかくいつまでも抱き留めたままだったら本当に刺されるかもしれない。
「手、離しますね」
「ふゃっ!? あ、は、はい!」
目を閉じてこちらに唇を突き出していたお姉さんに一声掛けて、ゆっくりと手を離した。
「ええと、それで……」
どこまで話したのか分からなくなってしまった。
仕方ないからもう一度、今度は要点だけを簡潔に纏めて聞いてみよう。
「それで、お姉さんは俺の事――」
「ま、待って!」
しかしその問いは途中で遮られた。
「そ、その……返事はもう少し待って! ほ、ほら、法律とかあるから、逮捕されちゃうじゃない? だから、その……ちょっと本気で考える時間が欲しいの!」
「へ……?」
彼女の意図が全く分からなかった月照は、何とか言葉の意味を汲み取ろうと頭を回す。
(ええと……つまり、法律があるから今すぐ刺すんじゃなくて、逮捕されない方法を考える時間が欲しいって事か? ――ってやべえ!)
完全犯罪の時間を与える訳にはいかない。
「いえ、今がいいです!」
(――って違う! 慌てるな俺! 時間を与えられないからって今刺されても、結局俺は死んじまうだろ!)
「あ、いや! やっぱりいいです! 今じゃなくて! 怖いんで、むしろ無かった事にして下さい!」
慌てて言い直すと、お姉さんはなぜか口元が緩んだにやけ面になった。
「……ううん、もう無かった事になんてできない。大丈夫、心配しないで。ちゃんと真剣に考えてくるから、心の整理がついたらあなたのお家を訪ねるわね」
(ひぎゃぁぁぁぁぁっ!?)
家バレしている以上、逃げる事も難しい。
しかも気が付けば、彼女の視線は「汚物を見る目」シリーズから一転、「猛禽の目」シリーズ第一弾、「長年待ち続けた獲物をついに見付けた目」に変わっている。中心にハートマークが浮かんでいる様な錯覚を覚えるほど熱烈に、月照をロックオンして離さない。
「一応念の為にもう一度聞いておくけど、あなたは今、本当に誰とも付き合ってないのよね?」
お姉さんのこの問い掛けの意図は何だろうか。
もしや、付き合っている相手がいたら一緒に始末するつもりなのだろうか。
「は、はい! それは勿論!」
死ぬのは自分一人で充分だ。
いや、勿論自分も死にたくないけれど。
「そう。連休にこっそりデートとかされたらちょっとショックだから、本当に良かったわ」
(ぎゃあああああ!)
一日たりとも空ける事無く、全日デートの約束で埋まっている。
このままでは、双子も加美華も園香も皆殺しにされるかも知れない。
(――って、花押先輩は殺しても死なないか)
正確には「既に死んでいるので殺せない」だが。
しかし双子と加美華はそうはいかない。
「うふふ。あ、もしかして連休空いてるかしら?」
お姉さんが怪しく微笑んで聞いてきた。
「あ! いや、その……」
「あ、やっぱりもう友達と約束してるのね?」
「え、ええ」
「ふーん……。女の子の友達多いみたいだけど大丈夫?」
(大丈夫って何が!? 殺しても良いかって事か? それが大丈夫な奴なんているか!)
心で強く突っ込んでから、いや待てよと冷静に考え直す。
完全犯罪を目論んでいるなら、殺すのは一人でも少ない方が楽なはずだ。
という事は、付き合っている相手を確認したり友達の数を気にしたのは、月照を始末するのに障害になると判断したからではないだろうか。
友達との約束がなかったら、もしかしたらこの連休中に決行するつもりだったのかもしれない。
(なるほど、俺の友達が多いから――……友達が、多い……多い……)
「どうしたの? 何を悩んで――。ああ、そう言えば男の子の友達も多かったわね……」
「え? あ、はい。そう見えます?」
月照がにやけ面で嬉しそうに言った。
(そうか、そうだったんだ! 俺は客観的に見て友達が多かったんだな! そんな、いやぁ、仕方ないな、俺友達多いし~)
客観的に見ると今の月照は友達を無くしそうなくらい気持ち悪い顔をしているのだが、幸いお姉さんしか見ていない。
まあお姉さんは漏れそうになった「うわっ……」という声を飲み込んでどん引きしているが……。
「……ねえ、本当にただの友達なの? 肉体関係とかそう言った、こう、恋人ではないけれど人に言えない、みたいな特別な関係とか有ったりしないわよね?」
「うぇへへへ……え?」
表情どころか笑い声まで気持ち悪くなっていた月照だが、お姉さんに質問されて我に返り真顔に戻った。
「友達との人に言えない特別な関係、ですか……?」
よく聞いてなかったので聞き返すと、お姉さんは頷いてくれた。
(この人に見られた俺の友達って……)
記憶にあるのは、双子、加美華、瑠璃、勉、そしてさっきの園香だろうか。友達にカウントして良いのか分からない人物も入っているが、今の月照の中では友達扱いだ。
(関係、つってもなぁ……)
双子は幼馴染みだから人に言えない訳ではない。まあ特別な関係と言えなくもないが。
瑠璃は関係が特別と言うよりも彼女の性癖が特別なので、確かにあまり大っぴらには人に言えない。
勉は……園香の件で恋敵扱いなので確かに特別な関係だ。しかも目の前でかなり手酷い振られ方をしていたので、これもあまり人に言うべきではないだろう。
そして加美華や園香との関係は、人には言えない霊感という特別な物によって結ばれた、かなり特殊な関係だ。
加美華は桐子の件で縁ができたし、桐子がいるから今でも強い関わりがあると月照は思っている。
園香にいたっては霊そのもので、絶対に人には言えない。
そう考えると、確かに人には言えない特別な関係だらけだ。
「その、私もちょっと気になってる事があるんだけど……」
悩んでいると、お姉さんが返事を待てないと言わんばかりに続けた。
「特にあの子、うちの二階の。あなた、何度か彼女に抱き付かれてたわよね? 一度なんて朝一番に……。あれ、あの子の部屋に泊まったと思ったんだけど……?」
(――って、え? もしかして勘付いてんのか、俺の霊感の事に!?)
お姉さんは加美華のアパート一階の住人だ。当然桐子の騒動を知っているはずだ。
その真っ直中に月照が加美華の部屋に泊まり込むのを目撃し、それ以降騒ぎが収まったのだ。
月照が除霊したと考えてもおかしくはない。
(そ、そうか……てっきり変な誤解されてんじゃないかと思ってたけど、ちゃんとそんな風に推理してくれてたんだな)
その上で汚物を見る様な目で見られていたのなら救いようがないのだが、月照はそこには思い至らなかった。
「お姉さんの想像通りです」
だからにこやかにそう伝えた。
「………………あ゛?」
ゾワァッ!
お姉さんの短い一言で背筋が凍り付き額から汗が吹き出した。
「ぴっ!?」
あまりのプレッシャーに危うく漏らすところだったが、幸い漏れたのは怯えた小鳥の様な声だけだった。




