6セーブ目(1)
園香の背中が見えなくなるまで見送っていた月照は、ふと視線を感じてそちらに目を移した。
「………………」
さっき園香の声で反応した、自転車を押していた通行人だ。
相手が少し暗い所にいるので顔は分からないが、背格好を見るに若い女性の様だ。
なぜかさっきの場所から一歩も動いていなかったが、月照がそちらを見ると露骨に顔を逸らして再び歩き始めた。
(なんだ? なんか感じ悪い奴だな……)
月照が睨む様にそちらを見ていると……。
「……げっ!?」
相手が明るい所を通り、顔がくっきりはっきり見えた。
(あの人がなんで俺んちの前通ってんだよ!)
食堂のおば――お姉さんだった。
よく見ると、激安タイムセールで有名なちょっと離れたスーパーのレジ袋が自転車の前籠に詰め込まれている。
(どこまで買い物行ってんだよ! あんたん家からじゃ自転車でも三十分は掛かるんじゃねえのか!?)
しかもそれをなぜか押して帰っている。乗っていればこの家の前なんて一瞬で通り過ぎて、きっとお互いに気にもならなかっただろうに……。
「……こ、こんばんは」
一応見知った仲なので、きちんと挨拶する。
「……こんばんは」
汚物を見る様な目で、向かいにある双子の家の門に擦りそうな位離れた所を早歩きで進みながら、それでも一応挨拶を返してくれた。
と、よく見ると彼女が押している自転車のチェーンが外れている。これが原因で歩いていたのだろう。
気付かなければとっとと家に入って終わりだったのに、気付いてしまっては仕方がない。折角良い気分でゴールデンウィーク初日を終えられそうなのに、このまま見捨てては寝覚めが悪い。
「あ……えと、直しましょうか?」
自転車を指差しながら小さめの声で尋ねた。
(まあどうせスルーされるだろうし、聞こえてなくても別にいいか)
そんな軽い気持ちの社交辞令みたいな、自分の心の安寧の為に掛けた言葉だ。返事代わりに舌打ちが返ってきても気にしない様にしよう、そう思っていた。
しかしちゃんと聞こえたらしく、彼女は少し行き過ぎた所で立ち止まった。
「……お願いします」
「へ? あ、はい」
ちょっと考えてからの全く意外な返事に、月照の方が言葉に詰まってしまった。
まさか素直に頼られるとは……。
月照は内心「頼られたくなかった」とまで思ったが、しかし自分の性格なら気構えがあっても無視されたらされたでイライラするだろうし、きちんと断られても「夜道を無事帰れたのかな?」などと結局気になってモヤモヤしていた可能性が高い。
ならば多分、これが最良の結果だ。
お姉さんはわざわざUターンして月照の家の門前まで戻って来た。
顔は仏頂面でこっちを見ようとはしないが、余程困っていたのだろう。この時間だと、近所の自転車屋も閉まっている。
(まあ、こっから更に二、三十分かかるからな……)
お姉さんの住む加美華のアパートは学校のすぐ側だ。
それに自転車を押して歩くとなると、普通に歩くよりも時間が掛かるだろう。
ましてや若くて体力のある現役学生ならともかく、現役を引退してから何年も経つ――。
ギンッ!!
――……若くて健康的なお姉さんでも、荷物の載った自転車では歩きにくいから時間が掛かって当然です。
言葉選びには注意しましょう。
「あ、ええと……ちょっと待ってて下さい。じゃあ、こっちで……」
虚空を凄まじい眼光で睨み付けたお姉さんに怯みながらも月照は慌てて門から出て、街灯下の明るい所まで誘導した。
自動点灯する自宅の門灯はまだ点いていないのでそっちの方が明るいと思ったのだが、正直少しマシなだけでそこまで変わらなかった。
「……」
お姉さんは無言でそれに従い、スタンドを立てた。片足スタンドなのでちょっとバランスが悪い。
月照と場所を変わる為にお姉さんがハンドルを離すと、荷物満載の籠の重量でハンドルが凄い勢いで回り、その反動でガリリとアスファルトに金属が擦りつけられる音と共に車体が跳ねて傾いた。
お姉さんが慌ててそれを支えようとするが、耐えきれず諸共に転倒しそうになる。
「――っと、危ない!」
月照は咄嗟に手を伸ばし――。
バサッ! ガシャン!
スーパーのレジ袋の安全を確保した。
お姉さんは自転車と一緒にひっくり返っている。
「………………どういう事?」
怨霊の様な低い声と共に睨まれた。
「……済みません、荷物を取ったら軽くなって耐えられるかなって……」
選択肢を何か間違えたかも知れない。
幸い怪我は無かったらしく、お姉さんは何やらぶつぶつ言いながらも立ち上がって自転車を起こした。
「ええと……これ、ちょっと持ってて下さい……」
おずおずとレジ袋を手渡すと、お姉さんは「ちっ」と舌打ちしながら受け取った。
(くそぉ! なんで俺はあの距離でチェーンなんて細かいもんに気付いちまったんだよ!)
言葉では言い表せない異様な威圧感に押し潰されそうになりながら、月照は自分の洞察力を呪った。
作業中はどちらも無言だった。
まあ作業という程大した事はしていないのだが。
自転車のチェーンなんて小学生でも簡単にはめられる。ただ手が油まみれになる事を我慢し、指を挟まない様に注意しながら無理矢理鎖歯車にチェーンを引っかけ、ペダルを数回回せば良い。
まあこの自転車は片足スタンドなので、後輪を持ち上げないとペダルを回せないのが面倒だったが。
「……ありがとう」
きちんと直った事を確認すると、お姉さんは短くお礼だけを言った。
「あ、いえ。どう致しまして……」
月照を見るお姉さんの目が、幾許か柔らかくなっている気がする。
何というか、さっきまでは「粗大ゴミと生ゴミを下水道に詰まらせて得体の知れない虫と未知の細菌を繁殖させ人知を越えた臭気を撒き散らす、人類が未だかつて見た事もない物体」を見る様な目だったが、今は「不気味な色のねばねばした液体に腐敗の進んだ野生動物らしき死骸が浮かんいる、長年放置されたドラム缶」を見る様な目になっていた。
この調子なら、もう少し会話して今までの誤解を解けば、もしかしたらただの「強い異臭がする産業廃棄物」を見る様な目まで改善できるかも知れない。
(………………)
既に心が折れそうだった。
しかし加美華にも双子にも介入されずにこの人と会話する滅多にない機会だ。これを逃す手は無い。
相手の都合もあるので長話は無理だろうが、きちんと今までの経緯を説明しよう。
「あ、あの……」
前籠にレジ袋を入れ直した彼女に、勇気を持って話しかけた。
「それじゃ」
しかしお姉さんは聞こえてなかったのか無視したのか、とっとと帰るべく自転車に跨がってスタンドを蹴り上げた。
「ふあっ!?」
しかしスタンドに気を取られてハンドルを疎かにした瞬間、又もや荷物の重さでバランスを崩してしまった。
「――っと、危ない!」
月照は咄嗟に手を伸ばし――。
グイッ! ドスン!
「きゃあっ!?」
自転車とレジ袋の安全を確保した。
素早く力任せに引っ張ったせいで、乗っていたお姉さんが振り落とされて地面に転がっている。
「…………なんで?」
怨念の籠もった低い声と共に睨まれた。
「……済みません、自転車支えれば助かると思って……」
今回は正しい選択肢だと思ったのだが……。
「……私、自転車より頑丈そうに見えた?」
「いえ……」
「……私、激安タイムセールの商品よりも価値が無さそうに見えた?」
「いえ……」
「……私、触れない位不潔そうに見えた?」
「……本当にごめんなさい……」
ブラック園香の百倍くらい怖かった。
(……自分がドジなだけなのに、何で俺が怒られてんだ……?)
しかも失礼な態度で先を急いだ結果なのだが、本当に月照が悪いのだろうか……。
釈然としないが、彼女の迫力と背中を摩りながら立ち上がる姿が反論を許さなかった。
お姉さんはまたも何やら不満げにぶつぶつ言いながら、月照から自転車をひったくって跨がった。
「あ……」
そのハンドルを握る手を見て、月照はふと思い至り声を漏らした。
少し暗さを増した宵の中で慌てて自分の掌を確認する。
その間にも、彼女は何も気付かないままペダルに足をかけて力を込めていた。
「あ、ちょっと!」
急いで呼び止めると、お姉さんは一漕ぎだけで止まってくれた。一応聞く耳は持ってくれている様だ。
「……まだ何か?」
しかしかなりご立腹らしく、振り返ろうともせず背中を向けたままだった。
月照は再び自分の両手を見詰めた。
拒絶された感じなのでちょっと話しかけにくいが、このままだと後で余計に恨まれかねない。
「あの、手! 俺、チェーン触った手でハンドル触ったから多分汚れてます」
勇気を出して言うと、お姉さんは自分の手を確認して「あ……」と小さく声を漏らした。やはり結構汚してしまったようだ。
「ええと、ちょっと待ってて下さい。拭く物持ってきます」
「……あ」
後ろでもう一度小さく彼女の声が聞こえたが、月照は慌てて家へと駆け込んでいった。
「(教えてくれるだけで充分でしょ。こっちは予定じゃ既に家に着いてる時間なのに目茶苦茶遅くなって、早く帰りたくてイライラしてるっていうのに……)」
お姉さんは誰もいなくなった道路で、一人小声で文句を言っていた。
「(そりゃあ、あのまま歩いて帰ってたら更に遅くなったのは分かってるけど……でも折角早く帰れる様になったんだから早く帰らせろって言うのよ)」
本当はただの八つ当たりだと分かっている。手が真っ黒に汚れたままだと、家に着いてからレジ袋を持つのも躊躇われる事にも気付いている。
ただ、自分の知る限り最低な人間に借りを作ってしまった事がどうにも我慢ならなかった。
「(確かにまあ、目付き悪いけどそこそこ格好良いし思ったよりも優しいみたいだけど……でもそれは女をたらし込む為の偽善でしょうに)」
ただの顔見知り――いや、互いに印象の悪い顔見知りなのに、困っている事に気付いて声を掛けてくれたのは正直驚いた。
それにチェーンをいとも簡単に直したのはちょっと格好いい気もしたし、あの手慣れた感じなら手が真っ黒になるのも分かった上でやってくれたのだろう。なかなかできる事ではない。
だが、それこそが彼の罠に違いない。
そういったさりげない男らしさで女を騙し、自分に依存させてからゴミの様に捨てるのだ。
それであの眼鏡の少女の様に泣きついてきたら欲望の捌け口として弄び、更に身体を売らせて金銭を得るのだ。
しかも自分の立場を分からせる為に、毎日本命の相手との仲を見せびらかしながら帰宅するという鬼畜っぷり。
「(いやまあ、あの時の歌劇団系女子が本当にうちの上の部屋で眼鏡の子にお金払って猥褻行為したのかは知らないけど……)」
和やかな談笑らしきものは響いてきたが、乱暴を働いている様な喧噪は聞こえてこなかった。
ちなみにお姉さんは瑠璃が女性だと見抜いていた。
さすが年のこ――。
ギンッ!!
――う……ではなく、単に瑠璃が目立つので何度か彼女が学食に来た時に仲間内で話題になって、一人がそれとなく確認したのを聞き知っていただけだ。
「(……でも男にまで遊び半分で手を出すとか、終わってるわよ)」
そういえば実家の自室に隠している薄い本を詰め込んだいくつかの段ボールは、親に見付かったりしてないだろうか……。
ちょっと心配になってきたので、この連休は一度実家に帰ろう。
で、こっちに持ってこよう。
……いや、あの量は車が無いと持ち運べないので、近くの宅配業者に任せよう。
いい加減あれは卒業して断ち切ろうと思ったので持ってこなかったのだが、昨日廊下で月照を目撃してからは無性に読み返したい衝動に駆られている。
「(いやいや、あれはただのフィクションな読み物だからもう一度読みたいだけであって、現実の男同士なんて臭いそうだし気持ち悪いだけだから無しよ無し。いや本当に、女があぶれるからって理由じゃなくて、男同士なんて女同士と同じ位有り得ないってだけよ。私が女にしかモテた事がないから言ってるんじゃないから)」
ぶつぶつと見えない何かに言い訳していたお姉さんは、ドアの開く音が聞こえてハッと我に返った。
月照の家の門前から少し離れているので彼の家の玄関付近はここからでは見えないが、かなり急いでいる様子は伝わってきた。
「(……待たせない様にって事かしら? まああれだけたらし込めるんだから、それ位気を利かせるのは得意よね)」
フン、と小さく鼻を鳴らすが、月照が予想外に早く出てきたので毒気が弱まっている。
正直、さっきから色々と優しくされたのはちょっと嬉しい。
化粧っ気が無くて気が強くて口下手で、およそ女らしい要素が見付からないと子供の頃から親に呆れられてきた。だからせめて言葉遣いだけはと、女らしい言葉を使う様に教育された。
しかしその甲斐無くと言うか時既に遅しと言うか、暴力なんて一度も振るった事は無いし結構非力なのに、実家の方では男勝りで知れ渡ってしまった。
おかげで顔は結構可愛いと評価されていたのに、男は誰も寄ってこなかった。
代わりに女は何人か寄ってきたが……。
だから男の月照に優しくされたのは新鮮な感じがした。
「(で、でもだからって、それで落ちるほど私は軽い女じゃないわよ! 特にあんな最低男なんて、絶対に願い下げ!)」
自分はまだまだ若い。慌てて変な男に騙されるよりも、自分だけを見てくれる相手をじっくり探すべきだろう。
理想を下げて妥協するにはまだまだ早い。
まあ学生時代と比べたら収入面などはかなり妥協したのだが、それは当時常識をあまり知らなかっただけだ。
「(さすがにこの不景気にこんな地方都市で、私より年下で年収一千万円越え……なんて、絶対無理だもの)」
社会に出て現実を知った今は、ちゃんと現実的な妥協点を見付けている。
「(でもなかなかいないのよね……。誰にでも優しくて気遣いもできてモテモテなのに、私だけを選んでくれるスポーツマンタイプで勉強もできる男らしいイケメン)」
……………………。
地域によっては夏日を記録する四月末。
お姉さんの春は、まだまだ遠いかもしれない。




