4セーブ目(12)
「とまあ、そんな訳でこいつの頭がおかしい訳じゃねえっす」
月照が心を折られ説明できずにいると、勉が復活して大谷に全部説明してくれた。
彼も園香同様、着物女の声がちゃんと聞こえていたらしい。
彼女が敵対的では無い事と、月照の方が明らかに強そうな様子を察して気力を取り戻したようだ。
まあまだ彼女の方をちらりとも見られないので、話はできても回復しきってないのは明らかだが……。
ちなみに吹奏楽部の女子は部活で急ぐと言っていたので先に帰らせた。その際に音楽室の鍵を渡された大谷の表情は、きっと一生忘れられないだろう。
その大谷には、誤解を解く前に逃げられては堪らないので、女子を見送るふりをして廊下に出て退路を断った。
遅れて月照の意図に気付いたらしい大谷が青ざめた顔で嗚咽を漏らしていたが、それは気付かなかった事にした。
というか、今でも流すのが涙から冷や汗に変わっただけで男子二人とは全く目を合わせようとしない。
(どう見ても不良なつとむん先輩と、ちょっと目つきの悪い俺の二人に挟まれて、人気の無い部屋にいるんだもんな……)
月照の自己評価がかなり甘めなのはご愛敬だ。
月照がどうすれば説得できるのか思案する間も、勉は恐る恐ると言った感じで着物女の方を指差して続ける。
「そ、そこに霊がまだいるんすよ……マジで……」
どうやらようやく「ちらり」位は見る事ができたらしい。いや、見えてしまっただけか……。
(どどど、どうすれば……後ろの扉から非常階段で――ううん、駄目。どっちも鍵を開けてる間に捕まっちゃう……)
ちなみに当の大谷にその説明を聞く余裕があるはずも無く……。
片や震えながら話し掛け、片や震えながらその話を聞き流すという、ただただ不毛に震える二人組になっている。
しかし勉の説明には当然ながら終わりがある。
だから不毛に震えるのはすぐに大谷一人だけになった。周囲が静かになったせいで余計に自分を追い込んでいく。
(ど、どうしよう……私もさっきの女子生徒みたいに――ううん、それどころか二人がかりで!? 駄目よそんな、教師と生徒で……ってそうじゃなくて! ああ……初めては親の留守中に家で彼とファーストキスして、気持ちが止まらなくなってそのまま――とか色々想像してたのに、恋人どころか初恋もろくにしないまま彼氏いない歴二十五年でシングルマザーになるなんて! ……そりゃ確かに二人共ちょっとかっこいいけど、でもやっぱりもっとこうロマンチックなムードとか愛とかが大事で……って駄目よ、私達は教師と生徒! そんな関係は許されないわ! あ、でもこんな風に無理矢理だったら私のせいじゃないし良いのかしら? それにちょっと強引な感じのシチュも考えてた事あるし悪くないかも? でも年下に好き勝手されるのって大人のプライド的になんかこう……あ、でもなんか、一回り近く年下の男の子二人が私に夢中なのって、なんか凄く良いかも……)
一周回って余裕が有り余った。
いつの間にかにやけ面で捕食者側の目になっているが、月照達からは顔ごと逸らしているのでバレてない。涎を啜って「ぐふふ」と笑いが漏れたのも、月照には声を押し殺して涙や冷や汗を拭っていると勘違いされている。
(そうよね、この子達だって色々理由があってあんな事をするんだろうし、私がこの子達を何とかしてあげないと! ああ……この子達の為に何かして上げたい!)
ストックホルム症候群的な何かを発症している気もするが、本人的には幸せになれた様なので何よりだ。
(そう、そうよ……この学校の女性教員で一番若い私が、彼等――ううん、男子生徒全員の若さを受け止めてあげないと!)
幸せになり過ぎて何かに目覚めてしまった彼女が、果たして定年まで教職を続けられるのかどうかは誰にも分からないが……。
「ええと……いま先輩が説明した通りで、そこにまだ霊がいて、そいつは先輩と話をしたがってるんですよ。――……って先生、聞いてます?」
「え!? あ、はい、分かったわ!」
かなり豪快にトリップしていたせいで全く聞いていなかったが、月照の問い掛けで我に返った大谷は咄嗟にそう答えた。
(い、いけない……私ったら今、一体何を考えて……)
ちらりと月照の顔を盗み見たが、いつもと違う理由で直視できずにすぐに自分の足下を見た。
「(きょ、教師! 私は教師で、彼等は教え子! そう、だからそれは駄目なのよ! ……でも教師の責任って、本当に担当教科を教えるだけなの? 本当に大切な事は――……)」
そのまま熱くなった頬を両手で押さえてつま先を睨み付け、ブツブツと独り言を言い始めた。
(……見えない何かと小声で会話するのって、他人の目からはこんな風に見えるのか……)
会話はしていないのだが、大谷の異様さに月照は「自分も人前で霊の相手は極力するまい」と改めて決意した。
「――って、さっきから何やってるのよあなたは! 早く私を彼に紹介してよ!」
着物女が必死の形相で詰め寄ってきた。
勉のおかげで最悪の事態は免れただろうから、大谷はこのまましばらく放置し、月照はとりあえず着物女の相手に戻る事にした。
「ねえ、彼って人見知りで一定の距離までしか近付かせて貰えないし、内気だから全然目も合わせてくれないのよ。早くなんとかして!」
ポジティブ解釈が過ぎる着物女の発言に勉が反応し、バッと勢いよく顔を上げた。
だがそれも一瞬だけで、彼女の顔が視界に入った瞬間首が千切れそうな勢いで俯いた。顎に力を入れ口を少し開けたまま動かなくなっている。
「あ、先輩。こいつの顔、もうスプラッタじゃないから大丈夫ですよ」
月照がそう助言すると、勉は逡巡した後に意を決して恐る恐る顔を上げた。
「ぅひぃ……」
それでもやはり輪郭のぼやけた人間は恐怖の対象だ。相手が超常の者だと思い知らされ、変な声が漏れた。
「お、俺……乗り越えないといけないんだ、これを……これは越えるべき壁なんだ!」
勉はぐぐっ、と両拳を力一杯握り締めた。
眉間に寄った皺の深さが決意の深さを表しているが、彼女との距離を詰める事はどうしてもできない。
「ちなみに先輩、こいつは俺の声は聞こえてますけど先輩の声は聞こえません。間に俺が入りますんで、言いたい事があったら言って下さい」
「お、おう! だ、だったら俺の名前を教えてやってくれ!」
「分かりました。……でも名字何でしたっけ?」
「岸島だ」
「下の名前は『つとむん』でしたよね」
「つとむん言うな!」
どうやら少しだけ調子を取り戻したらしい。
「ええと、こちら岸島勉先輩。で、お前は自己紹介すれば先輩に伝わる」
「は、はははい! あ、あの……」
着物女は気を付けの姿勢をとった。
「わ、私の名前は――」
しかしそこですぐに姿勢が崩れた。
「あ、あれ? 私、の……名前……?」
慌てた様子で頭を抱えている。
「あー……。記憶無いのか?」
霊になって生前の記憶が無くなったり曖昧になったりする事はそれほど珍しい訳ではない。月照もその頻度は経験的に知っている。
「あ、あるわ! でも名前が……名前が出てこないの!」
「慌てんな。結構良くある事だから、とりあえず覚えてる事を話してみろ」
「あ……う……。は、はい……」
着物女は小さな声で返事をし、しばらく俯いていたがやがてゆっくりと話し始めた。
昭和の始め頃、私はこの町で生まれた。
物心ついた時には近所の同年代の子と仲良くなっていたので、友達は沢山いたと思う。
でも小学校に進学し更に多くの友達ができると、やがて男女問わず嫌いな相手もできてきた。
理由は簡単で、その子達が私の悪口や陰口を言っていたからだ。
内容は私の態度が悪いとか、不潔だから近付きたくないとか、そんな根も葉もない言い掛かりだった。
でもまあそんな嘘の本質は、小学生でも簡単に見抜けた。
本当はもっと単純に、私のこの不細工な外見が彼等の自尊心を満たすのに丁度良かっただけだ。
その証拠に、嫌な子達の殆どは私程ではなくてもかなり不細工な顔立ちだった。まともな顔立ちでそこに混ざっていたのは、男女共に皆から嫌われている性格に難のある子ばかりだ。
経緯も簡単に推測できる。
きっとその性格の悪い連中が不細工な人達の顔を馬鹿にして、でも皆が口を揃えて私よりマシだと返していたのだろう。そして私より上位の存在だと、犬畜生の如く勝手に階級付けをしたのだ。
だからあの子達は、私が泣いても平気だった。
私が怒って言い返しても、生意気だと突き飛ばしてきた。その時に触れた手を、汚いと言って教室の壁に擦りつけた。
他のみんなは見ているだけか、せいぜい小声で独り言の様に注意するだけだった。
そんな中。
たった一人だけ、私の為に本気で怒ってくれた男の子がいた。
近所の幼馴染みで、ずっとずっと毎日一緒に遊んでいた、まともな顔立ち側の子。
彼は私を突き飛ばした、自分より二回りも大きい大将格の男の子を相手に全く怯まず、思いっ切り殴り付けて「それでも日本男児か!」と一喝した。
殴られた子はその迫力に黙り込んだ。
私はそれだけで満足だった。
一番仲の良かった彼が、私に味方してくれただけで。
後で知った事だけど、彼は私が自分で立ち向かうのを待っていたらしい。
助けたい気持ちはずっとあったけれど、ご両親にずっと言われていたから手出ししなかったそうだ。
――うちは軍人家系だから、嫁にするなら強い女でなければならん。お前が死んでも泣かない位強い女だ、と。
その言葉が無垢な子供の軽い言葉ではない、男子の本気だと理解できたのは、もっとずっと後の事。彼が兵隊さんの為の学校を卒業した時だ。
その頃の私は、この顔では誰も嫁に貰ってくれないからとずっと家事の腕を磨いていた。
おかげでジャガイモの皮なら一個十秒で剥ける様になったし、魚を捌けば鯛でも鮃でも寿司屋の店主が舌を巻く速さと繊細さで仕上げてみせた。米を炊かせれば親族内で一番美味しいお焦げを作れる様にもなった。
そのお焦げを使った梅干しのおにぎりは近所でも評判だった。その梅干しだって、私が干して漬けた物だ。
でも私は、自分の不細工加減はそんな努力なんて遙かに凌駕していると思い込んでいた。
全てが無駄な努力だろうなんて、決めつけていたのに――。
ある日彼のお父様が家にやって来て、こう言った。
――俺の愚息が今でもこちらの娘さんを気に入っているんだが、今度見合いでもさせて貰えないか。
彼はずっと寄宿舎にいたらしいから、彼のご両親が私を見ていてくれたのだ。
私はいつの間にか彼のご両親にも気に入られていたらしい。
軍の繋がりで彼には色々と縁談があったらしいけど、彼ではなくご両親が「まずは私から」と、見合いの順番を決めていたらしい。
勿論このお見合いは、私と家族と親族が総力を上げて取り組んだ。
私の家が小さいながらも地主だったおかげか、それとも彼のご両親が根回しをしてくれたのか、先方のご親族からの反発も無かった。
私達は婚約し、彼が正式に軍隊に所属したら祝言を挙げる事になった。
でも――。
時代がそれを阻んだ。
彼の配属は突然決まり、祝言を上げる間もなく彼は海外、支那大陸へと渡っていった。
何度も手紙を貰い、毎回必ず「帰ったら必ず結婚しよう」と書いてあった。休暇はあっても上海か遼東に戻るのが精一杯で、なかなか本土には戻れないとも。
だから私は、ずっと祈って待っていた。
ずっと、ずっと……。
時には待ちきれず、東京へ移ってお仕事をされていた彼のお父様を尋ねて、何か情報を貰えないかと我が儘も言った。
だけど――。
結局私は、彼と結ばれる事はなかった。
「私は彼がどうなったのか知らないわ……」
着物女の表情が後悔に染まった。
「その日も、私は東京の彼のお父様を訪ねていた。戦況が芳しくないという噂の真相をどうしても確認したくて、居ても立ってもいられなくて……」
そして自らの両肩を抱き、屈み込んだ。
「そして私は、あの夜……」
声を途切れさせガクガクと震えだしたかと思うと、全身からどっと汗が噴き出した。
霊とはいえ異常な量で、着物がびちょびちょに濡れる程だ。
いや違う、水だ。
どうやら強烈な記憶のフラッシュバックによって、自分がずぶ濡れになったと思い込んでいるらしい。
しかしそれも僅かな間の事だった。
びちょびちょに濡れていたはずの着物や髪の毛は、みるみるうちに水分を失い始めた。
(な、なんだ!? 何が起こって――……)
まるでガスコンロの高温高火力な直火にあてた様なこの乾燥速度は、月照にも理解できない変化だ。
だが着物女の変化はそれで終わらなかった。
突然意識を失って倒れ込んだのだ。
しかも意識がないはずなのに、美白した肌が赤く変わり始めた。
両手、両足、顔。肌の見えている部分は全て、水が乾ききるのを待って変色し始めた。
(これ、は……)
同時に、着物の袖が、裾が、帯が、火の粉となって散っていく。
服を失った部分の肌も赤く変わり、しかも今度は瞬く間に、全身の肌が一斉に黒みを帯びて腫れ上がり、遂には腫れも何もかもがただの黒へと変わり始めた。
「もういい! 大丈夫だから!」
月照は声を張り上げ、膝を着いて彼女の顔を両手で掴んで無理矢理自分の方を向かせた。
熱こそ持っていなかったが人の頬とは思えない、キャンプファイヤーの後始末をした時の様な感触が手に伝わる。
「――もう、とっくの昔に終わった事だ。大丈夫、お前はもうそこにはいないから……」
指に触れている部分がパキと軽い音を立てて少し剥がれ落ちた。
慌てて手の力を緩め、慎重に、ゆっくりと彼女の上体を起こして、変わり果てたその顔を真っ直ぐ見詰める。
真っ黒な中で歯だけが白く浮かび上がっている。艶やかだった黒髪は散り消えて、代わりに頭皮が黒に染まっていた。
その凄惨な姿にも怯まず、月照は真っ直ぐに彼女の眼窩――いや、瞳を見つめた。
視界の端の勉も、彼女から目を逸らさなかった。
さっきよりも余程残酷な姿で、さっきとは比べものにならない怨嗟の空気を纏う彼女の姿を、トラウマの恐怖をも押し殺し、まるでそうする事が今を生きる人間の義務であるかの様に、真摯に真っ直ぐ見詰めていた。
からからに干涸らび焦げて焼け落ちて、穴だけとなった二つの目が果たして月照達を見詰め返しているのかは分からない。
だがそれでも、月照はじっとそうしていた。
(油断した……)
心の中で悔いながら。
彼女は極めて暗示に掛かりやすく、心の影響が身体に大きく出るのだ。だったら心に強く刻まれた死の記憶は、どんな暗示よりも強固に彼女の身体を蝕むのは自明の理だ。
きっと彼女が自分の名を失ったのも、その地獄の様な最期を記憶から消していた事と関係あるのだろう。
いくら悪霊でも、こんな惨たらしい苦しみはあまりに不憫だ。
(戻って、来てくれるか……?)
心がボロボロになった霊がどうなるのか、月照も知らない。
ただ少なくともそれは、成仏に繋がらない事だけは簡単に想像できた。
数分後、幸いにも彼女の肌は少しずつ元の人間らしい質感を取り戻し始めた。
「私は……歩いて、迷って、それでも歩いて、ここに――この町に帰ってきたわ……。彼との思い出の詰まったこの学校で、彼の家が見えるこの部屋で、彼が帰ってくるのを……」
やがて完全に元の姿――美白前の本来の姿に戻ると、彼女はよろよろと立ち上がり、再び言葉を紡いだ。ほんの少し前からは考えられない程弱々しい口調だ。
「彼は……彼、は……」
またすぐにそれは途切れ、そしてその先はもう語られる事は無かった。
「…………」
月照は何も言えなかった。「可愛いは正義」とか、「こいつなら思いっ切り殴って踏んづけられる」とか考えていた自分があまりにも恥ずかしくて、彼女を慰める資格すらない様に思えた。
「でも……」
それでも――。
何も言わない訳にはいかない。
慰められないからこそ、これだけは言わなければならない。
「――……でもお前、別の男漁ってたよな、ここで」
「………………」
着物女の顔が再び赤く変わったが、今度は血色の良い赤だ。
「だって! 彼が見つからないんだもの! 彼が貰ってくれなかったら誰がこんな醜女貰ってくれるのよ!」
偉い剣幕で返された。
「え、ええと……」
迫力に負けて一瞬言い淀んだ月照だが、すぐに気持ちを立て直した。
「じゃあ先輩も貰ってくれないって事でいいか?」
「へ? ええ!? な、何を馬鹿な事を言ってるのよ! そこはほら、当たって砕けろよ!」
「でもその幼馴染みの事を忘れられないのに、紹介なんてしたら先輩に失礼だろ」
「はあっ!? 誰よ幼馴染みって? そんなの私には一人もいないわよ!」
(こ、こいつ……!)
少しでも同情した自分が馬鹿だった。というか必死過ぎて馬鹿馬鹿しい。
「おい、咜魔寺!」
と、ここで勉が気合いの入った声を上げた。
「構わねえ、そいつに俺を紹介しろ!」
「え? いや、でも……」
「男として根性を見せるだけじゃ駄目だ。けじめ付けねえとな!」
さっきの「人が炭化するシーン」の恐怖を乗り越えたおかげが、勉には気力が充実していた。
……そんな自分にただ酔っているだけとも受け取れるが。
(まあ、本人が良いって言うならいいか)
本当は悪霊ストーカーとこれ以上関わらせるのは忍びないが、これだけ強く決心しているのに水を差すのは同じ男として申し訳ない。
それに勉は人の話をあまり聞かないので、説得は時間の無駄だろう。
「ええと……先輩がお前を嫁に貰ってくれるってさ」
だから遠慮無くストレートに伝えた。
「え……」
「ちょっ!?」
驚きのあまり言葉を失う着物女と勉の二人。
(ん? なんで先輩まで驚いてんだ?)
男が、結婚できないで悩んでいる女の好意に「けじめを付ける」と言った以上、やはり「恋人」程度ではなく最低でも「許嫁」だろう。
ならば「嫁に貰う」と言っても何も問題無いはずだ。
月照はそう考えての発言だった。
一方の勉は……。
「けじめ」とは、はっきり「好きな人がいるから付き合えない」と伝えて、きっぱり相手を振る事のつもりだった。
会話の流れで結構前から着物女の気持ちに気付いていたが、トラウマに打ち勝つのに時間が掛かってなかなか月照に「けじめ」を言い出せなかったのだ。
その結果、伝えるのが絶妙に最悪なタイミングとなってしまった。あのタイミングで「紹介しろ」なんて自分から言い出したら、そう受け取られても仕方がない。
「う、うそ……私、そんな……」
着物女の目からぽろぽろと涙が零れ落ち、よよよ、と覚束無い足取りで勉に近付いてきた。
(――まっ!? ちが!? い、いやいやいひぃぃぃやぁぁぁ!)
トラウマは克服したのではなく根性――いや、やせ我慢で耐えていただけだ。
霊に真っ正面から向かって来られた勉はまともな言葉も発せずに硬直し、彼女が胸に手を伸ばしてきても指一本動かせなかった。
(ひぃぃぃぃ!?)
カタカタカックンカックンと不自然というか危険な震え方を始めたが、月照はそれに気付いていても勉の覚悟だと思って何も手を貸さない。
勉が悲鳴を上げられれば……或いは視線だけでも月照に向ける事ができれば、月照もきっとフォローしただろう。
だが彼は恐怖のあまり全身が痙攣し、更には思考さえも痙攣して「ひぃぃ」しか浮かばなくなっていた。
そして――。
「ああ……あなたに触れられないこの身が、あまりにも口惜しいわ……」
そう言って、着物女は勉の胸元にすうっと右手をめり込ませた。
何の害もなくすり抜けているだけだが、された勉は堪ったもんじゃない。向かい合った相手の右手が触れるのは、自分の左胸だ。
「う、おお……」
心臓を貫かれた様な錯覚を覚え、勉はがくっと両膝を付いた。
背の高い勉が背の低い着物女の前で膝立ちになると、頭の高さが丁度同じ位になる。
「ああ……嬉しい」
その動きを自己中心的に勘違いした着物女は、迷う事無く勉の唇に自らの唇を重ね合わせた。
(う、ぎゃあああああああ!)
ぷつん。
勉の脳のブレーカーが落ちた。
「ああ……触れられずとも、この気持ちだけは、心だけは、強く強く結ばれたのを感じます……」
相手の心は遮断中で何も感じないのだが、着物女は一人続ける。
「これが、愛なのですね」
その身体が淡く光り始めた。
「ありがとう、ありがとう」
手を伸ばし勉の頬を撫でる様に動かした。優しく丁寧な動きをするその手が、緩やかに光の粒子へと変わり始める。
「私は……やっと思い出せたわ。あなたのおかげで、私の事を……」
穏やかで満ち足りた笑みを、白目を剥いて口から泡を吹いて動かない勉に向ける。
「覚えておいて下さい。私は――」
彼女の身体が光の中へと溶け込んで――。
『私の、名前は――……』
そして、彼女は成仏した。




