3セーブ目(13)
街灯の明かりも届かない夜の旧校舎の一室で、園香はいつもの様に顔なじみに声を掛けた。
「和尚さん、ただいま~」
すると仏像のある隠し扉の向こうから住職が姿を現した。
「おやおや、随分と早いお帰りだね」
住職は満足げな顔で、一人「うんうん」と頷いている。
「お家にお邪魔して、最初色々悪戯してたら怒られて、追い返されない様にずっと大人しくしてたらやる事無くなって、あの子が早寝しちゃったんです」
「部屋に入ったのなら、札の効果は無かったのかね?」
住職の眉が少し動いた。
「ちゃんとお札は効いてますよ。『夜間安眠』ってなってて、たまたま君の名前書いてあったから、あの子が夜に寝てる間だけ効くみたいです。夜になっただけなら平気だったのに、あの子が寝たらこっちも凄い眠くなって、気付いたらここに向かって歩いてました」
「ほうほう、それで入り直す事はできたかね?」
「頑張ってみようと思ったけど、戻るのが凄く億劫で……。多分お札の効果ですぅにゃぁ……ふ」
園香は口元を隠して大きなあくびをした。とても霊とは思えない眠そうな顔で、ふらふらしながら肺一杯に空気を吸い込んでいる。
「ふむふむ、なかなか興味深い札の様だ。条件を限定して効果を強めているのかな? いずれにしても、一晩二晩なら彼も大丈夫そうだね」
住職は園香の様子に少し不安になりながら続ける。
「それで、例の物はあったかね?」
「ふぁぁ~……ん。だいじょおぶ~、見つけておいたよ~」
園香はもう半分夢の中だ。
受ける必要の無い授業にわざわざ霊障を使ってまで出席して居眠りする事もしばしば、という園香の睡魔は気にしてもどうしようも無いので、住職はそのまま話を続ける。
「これこれ、話はちゃんと聞いているだろうね? ところで、彼の部屋に仏像を置けそうな場所はあったかね?」
「……ふぁ? 秘蔵の本の隠し場所ぉ?」
真逆の品物……もう会話が成立しそうにない。どうやら帰ってくるだけで精一杯だった様だ。
「やれやれ、札の効果も懸案事項か。やはり仏像を彼の家に移す訳にもいかんだろうて、まだまだここに籠もるしかないかな」
立ったまますやすやと寝息を立て始めた園香に呆れながら、住職は隠し扉を振り返った。
その向こうには、彼がここの地縛霊になった原因の半分、仏像が未だに埃を被っている。
(いやはや、それにしても――)
幸せそうな顔で「ふみゃぁ」と寝言を言っている園香に視線を戻して、住職は頬を緩めた。
「なにやら憑き物が落ちた様だね。昨日までとはまるで別人の様だ」
自分の『説法』では決してこんな安らかな寝顔を作れない。せいぜいが彼女の発作的凶暴性を自分に向けさせない程度の効果だろう。
(あの刃物のご婦人の時もそうだったが、一体どうやってあれほどの懊悩を解きほぐしたのやら……)
園香は本当に、だらしない位に無防備で幸せそうだ。
「んにゃぁ……エロ寺、くん……」
「………………エロ?」
彼は本当に何をしたのだろう。
ふと、住職の頭に包丁女と対峙した時の彼の姿が思い出された。
「――……ぱ、ぱふぱふ、か!?」
こうしてまた、月照があらぬ誤解を受けるのだった。
◇◆◇◆◇
人の胸で泣いたのは一体何十年振りだろう。
多分小学生の頃、卒業したら友達と別れなければならないと知った時以来だ。
以降、ずっと涙を堪えて生きていた。
次に泣いた時には、もう誰の胸も借りられなくなっていた。
かつて胸を貸してくれた両親は、その時もすぐ側にいた。
でも私の方が彼等の側にいなかった。
言葉を忘れた様に何時間も何時間も嗚咽だけを漏らし、食事も摂らずに呆然と娘の写真を見つめる両親。
彼等は愛する娘の為を思い借金を増やしてまでこの町に引っ越しをしたのに、結果的に娘を苦しみの中での死に追いやってしまった。
以前住んでいた町はもう随分と環境改善されていて、光化学スモッグなんて注意報すら出なくなっていた。
それが余計に両親を苦しめた。自分達が殺したんだと自分を責め立てた。
私がどれだけ否定しようとも、その声は届かなかった。
私は、愛する両親が苦労して稼いだお金で通わせてくれている学校だから休まなかった。でも文房具や衣類でこれ以上無駄遣いさせたくなかった。
だからあの時のあの選択は、大切なものを守り加害者に復讐し、そして自分も楽になれる最高の選択肢だと思っていた。
だけど現実は違っていた。
私がしたのは両親の想いを踏みにじる行為だったのだと、取り返しが付かなくなってから気付かされた。
ただ私に元気に生きていて欲しい、それが両親の願いだったのだから。
その為に苦労を甘んじて受け入れたのだから。
私が選択を間違えたのだ。
大切な者を傷付け、自分は彼等の姿に悩み苦しみ逃げ出して、でも気になって節目となる法事の度に戻ってみて、やはり何も変わっていなくて……。
守りたい人達を自分が一番傷付けたという揺らぐ事のない現実を、受け入れられずにまた逃げて――。
いや、それだけじゃない。
結局復讐すらできてない。
加害者は全員未成年というだけの理由で保護されて名前が伏せられ、社会的制裁を免れた。
その上「各人の個別の言動だけでは私をそこまで追い込む事は予想できなかった」との主張が認められ、刑務所や少年院に入るどころか原稿用紙たった二枚の反省文だけで許された。
だからせめてあいつらだけは……。
加害者の中心人物数人だけでも、霊にしかできない方法で復讐を行わないといけない。
その為に色々と執念――いや、怨念でそれを手に入れた。
その内の一つ、変身能力。
でもそれで最初にしようと思ったのは、復讐ではなく両親への謝罪だった。
変身していれば両親の前に立てる。話もできる。
今の霊としての自分の姿がどれだけ醜い化け物になっているのか想像もつかないが、変身すれば両親がいつも見つめている遺影に写る生前の姿だ。きっと怖がられる事はない。
だから変身して自宅を訪れてみた。
しかし私の最期の時間を過ごした家には、もう誰も住んでいなかった。
両親は十三回忌を最後にこの町を去っていた。おそらく娘を死に追いやったこの町には、それ以上居たくなかったのだろう。
絶望した。
私には両親を追跡する能力なんてない。探偵を雇えば可能かも知れないが、その為の金銭を貯める方法がない。変身してアルバイトをしても、肝心のお給料を振り込んで貰う銀行口座がないし開設もできない。
でもだからといって何もできないままでは終われない。
だから私はあいつらを探した。
この恨みには、苦しみには、遣り場があるのだから!
せめて、せめて一矢報いなければ、死んでも死にきれない!
――命を以て償わせないといけない。
そう考えた。
……いや少し違う、順番が逆か。
私は自分の生を捨てる時、既にそれを目的にしていた。両親の事よりも、楽になる事よりも、何よりもまずあいつらを呪っていたんだ。
だから怨霊になれた。
でも順番なんて些細な事だ。復讐の力を得る事が大切だったのだから。
こんなどす黒い心のまま怨霊になった私は、さぞおぞましく不気味な、二目と見られない姿をしているだろう。
でもあいつらに復讐できるのなら、それさえもが誇らしい。
最初の獲物を見つけたあの時、私は笑った。歓喜――いや、狂喜した。
あいつが一人の時に、あいつの部屋の物をぐちゃぐちゃにひっくり返した。
でも、あいつはただ驚くだけでなぜそんな事になっているのか理解できていないみたいだった。
怨霊の姿を見せられないのは残念だったが、私の復讐である事を示す為に私は変身して姿を見せた。
目を剥き引き攣ったあいつの顔に爪を立て頬を撲ち、「死んだはずだ」と繰り返しながら恐怖で地べたを這い蹲り逃げ惑うあいつの姿を見て心からわくわくしていた。このまま「最後」まで――いや「最期」まで追い詰めてやろうと本気で思った。
――……その、つもりだった。
だけどその途中、偶然自分の姿を鏡で見てしまった時に気付かされた。
狂喜の表情と呼ぶにはあまりに情けない、自棄っぱちで自虐的で涙混じりの不細工な笑みに顔を引き攣らせた、ごく普通の娘。
とても化け物なんて呼べない、ただの一人の女の子。
想像――いや希望していたのと全く違う、ただのべそをかいた自分自身の姿。
だから気付いてしまった。
時間を掛けじっくりと追い詰める為だと自分の心に言い訳して、無様に逃げるあいつの姿を見るだけでそれ以上何も手を出していなかった事。
トドメを刺す方法を全く考えようともしていなかった事。
それどころか「許して、ごめんなさい」と繰り返すあいつが、腰を抜かしたまま階段を下りようとして勝手に転げ落ちる姿を見て、あろう事か心配までしてしまった。罪悪感が胸を破裂させようとした。
私には、復讐すらできないのだ……。
――私は全てを諦めた。
私はきっと、苦しみ傷付けられる為に生まれてきたのだ。
病に苦しみ、苛めで傷付けられ、命を絶つ為に苦しみ、大切な人を傷付けた過ちに死して尚永遠に苦しみ続けなければならないのだ。
私は何の意味も価値もない、ただ「花押園香」と名付けられた惨めな物体だったのだ。
なるほど、中学以降あいつらが言ってた通りだ。私なんてバケモノ以外の何物でも無い。
人を脅かし傷付ける「化け物」じゃない。ただただ人に傷付けられ自分で勝手に傷付く訳の分からないもの、「バケモノ」だ。
もういい、もう何も考えずに好き勝手してやる。そっちが好きに苦しめるなら、こっちだってやりたい放題やってやる。どうせ苦しむんだ。それならあいつらを、いや、誰かを少しでも巻き込んでやる。
出来もしないと分かっていてもそう無理矢理決心して、あいつらの残りを探しながら無関係な相手にまで悪さばかりしていた。
結局誰にも大した事ができないまま数年が過ぎ、最後の一人への復讐も案の定満足にできず失敗した。
無力さに唇を噛み締めまた苦しんだ、その翌日。
町中を彷徨い憂さ晴らしに手頃そうな相手を探していた。
今の私はどんな姿なのだろう。
少しは理想の「化け物」に近付けたのだろうか……。
少なくとも変身すれば、情けない「バケモノ」の姿のままなのは鏡を見て知っている。
変身しなければ「化け物」なのかもしれないが、それでは相手に見付けて貰えない。ジレンマだ。
見えないままポルターガイストで驚かしたところで、数年経てば自慢話にされて終わりだろう。
一般人相手ならそれでもいいが、学校のあいつらにはそんな事をしても意味が無い。なぜ怖い目に遭っているのか、ちゃんと理解させないといけないから。
もっと、何か新しい復讐方法を考えないと……。
そうして考え事をしながら人通りの少ない路地に差し掛かった時。
変身もしていないのに、小学生の男の子とぶつかった。
痛いという程の衝撃ではなかったし、その時はぶつかった事を異常とは思わなかった。
頭に浮かんだのは、「どうやってこの子を傷付けよう」「どんな風に怖がらせてやろうか」という悪意のみだった。
そんな私に対するその男の子の第一声は、ぶつかった事への謝罪ではなく「化け物」の私を見た感想だった。
「すっげえ……美人……」
感嘆の声で真っ直ぐ見つめながら言われては、否定する余地がなかった。
だから自分が変身しているのかいないのか分からなくなった。
いや、本当は分かっていた。
でも心のどこかで自分は綺麗じゃないと否定したかったのだろう、だからあの時、ついあんな都市伝説の真似事をしてしまったのだ。
その後数日たっても消えないその時のどうしようもない敗北感を払拭する為に流行の怪談を研究し、その子の家と電話番号を調べ上げ、数ヶ月を経てやっと漕ぎ着けた復讐戦は、文明の利器の前に敢え無く敗れ去った。
失意のまま八つ当たりで母校の工事の邪魔をしてみれば、和尚さんに脅され……もとい、スカウトされて旧校舎の悪霊に就職させられた。
結局、私は何もかも思い通りにならなかった。
でも、とうの昔にそんな事は諦めていたのだからどうでもいい。
ただただ成り行きのまま、この刹那の今だけを楽しめればそれで。
そんな私には、音楽室の幽霊がどうして迷わずあんな事ができるのか、どうして一つの事に拘り続けられるのか、全く分からない。
私も復讐に拘ったつもりだが、終わってみれば失敗してもなんの未練もないただの暇潰しだった。あいつらを恐怖に引き攣らせるよりも、工事の人にちょっと声を上げて驚いて貰う方がよっぽど楽しかった。満足感があった。
着物姿の彼女は、きっと相当昔の霊のはずだ。なぜなら現代でも着られている様な華やかな和服ではなかったから。
つまり私以上に長い時間を霊として過ごしてきたはずだ。
それなのに、なぜ絶望し刹那的な過ごし方にならないのか。
もしかして何か、変わる事のない希望を持っているのだろうか。
殺意の先に、それは見えるのだろうか。
もしそんなものがあるのなら、私もそれを知りたいと思った。
でも、もう知る必要は無い。興味が無くなった。
所詮それも、刹那の好奇心に過ぎなかったのだ。
今はもっとずっと、遙かに大きくて大切な事を知った。
昨夜胸を借りた時。
彼は自分の中学時代の話をしてくれた。
異質な自分は、他の町ならきっと苛められていただろう。
でもこの町だから、そうはならなかった。
私がいた、この町だったから、と。
「ふぁ? あ……んふふ~」
朝焼けの眩しさで目を覚ました園香は、最高の夢見の余韻を存分に味わいながらふにゃあと顔を崩して満面で笑った。
とはいえ夢の内容なんて殆ど覚えてない。
ただ何か暖かい気持ちだけが残っている。
(気持ちいい……)
夢見心地で気分の良いまま、昨夜の月照の言葉を思い出す。
(私、ちゃんと生きてたんだよね……この町で……)
自分は迷惑な事しかしていないはずだが、罪悪感はもう無い。
(なんだっけ、この気持ち……達成感?)
でも自分で何かを成した訳ではない。
(ああ、そっか……)
何もしていないのに、何か妙に清々しくて心地いい。
(ずっと忘れてた……)
霊になってから一度も感じた事の無い、心の底からの穏やかな気持ち。
(これ、『幸せ』だ)
それが暖かく全身を巡って、まるで生まれ変わったかの様に体が軽く感じる。
「あ……」
朝日に照らされる自らの身体に、感覚だけでは無い異変を感じて両手を見る。
「……そっか」
まるで暁光に溶け込む様に、その手は淡く光りを帯びてその先の風景を透けて見せる。
「こんな簡単だったんだ……」
両親が嗚咽の中にその言葉を織り交ぜていた時にも、絶望したあの時にも、どれだけ頑張ってもその方法の道筋すら見えなかったのに。
「これが、『成仏』――……」
今はもう、呼吸の様に当たり前にそれが分かる。
白く眩しく明るさを増す日の光に吸われる様に薄れながら、園香はいつもの魅力的な笑顔で誰にとも無く言う。
「まあ、まだまだしないんだけどね、成仏」
パッ。
と、元のはっきりした輪郭を取り戻した。
しばらく余韻に浸っていた園香だが、悪戯っぽくにやけると少し思案して悪巧み――もとい、今日の予定を決める。
「ふふ~ん。今日は部活、行ってみるかな」
おそらく今日は日曜からの合宿――じゃなくなって旅行になったが、その話が出てくるはずだ。だったら月照が呼び出される可能性が高い。
「うぅ~、なんか体が妙に軽いしうずうずするなぁ」
園香はニヤけた顔のまま、一度大きく伸びをした。
「ちょっと散歩行ってみよっと」
思い浮かんだルートは昨日歩いた道だ。
今が何時頃なのかは感覚で大体分かる。まだまだ早朝で、学校にはそろそろ朝練をしに運動部員が集まり始めた頃だろう。今から行けば彼を驚かす事もできるだろうし、あの札の効果が予想通り夜限定であれば部屋に忍び込んで悪戯も可能だ。
「にっしっし」
妙な笑い声を出しながら、園香は壁を抜け外に出た。
何気なく旧校舎を振り返り、次いで裏庭――新校舎の音楽室下辺りを見つめて、昨夜の事を思い返す。
妙な勘違いとすれ違いで始まって、最後は自分の一番奥の奥の鬱屈した面倒臭いごちゃごちゃを押しつけて――。
彼は、それらを全部受け止めてくれた。
今にして思えばなぜあの時あんな話をしてしまったのか分からないが、結果オーライ終わり良ければ全て良し、だ。
「ふふ、うふふふふ……。あはは、はーっはっはっは!」
園香はテンションがおかしな事になっているらしく、悪の大魔王の如く腰に手を当て仁王立ちになって高笑いを始めた。
「互いに知らない所で助け助けられて数年ぶりの再開を果たして、しかも本当なら決して触れる事のできない者同士が触れ合って――」
更に「くぅぅ……」と唸りながらしばらく力を貯めて、突然ぴょんぴょんと連続ジャンプをしたかと思うと正義の巨大宇宙人変身ポーズで「だー!」と叫んでフィニッシュした。
「――って、こんな事してる場合じゃないよね。たまたま君のとこ行かない、と……」
駆け出そうとして、しかし二歩目には足を止めてしまった。
「……でも、こんな早くに押しかけたら迷惑だね」
一通り暴れて体を動かしたからか少し冷静さを取り戻して、その至極当然の事にようやく思い至ったのだ。
彼に迷惑を掛けて、嫌われたり避けられる訳にはいかない、絶対に。
「あの子に、あの時の男子達みたいな態度取られたら……。もう私生きていけない……」
もう既に生きていけてないのだが、一人しかいないので誰も突っ込んでくれない。
「――今度これ、たまたま君に言ってみよっと」
持ちネタを手に入れ、園香は上機嫌に新校舎へと歩き出した。
目的地は音楽室。
特に何ができる訳でも何かするつもりでもなかったが、事前調査を進めておけば、もしかしたら月照の役に立てるかもしれない。役に立ちたい。
こんな気持ちは死んでから初めてだ。
「ささやかな悪戯だけが生き甲斐の死んだような死後の生活だったけど、これからはもっと生き生きと死後を生きてみせる! 私は今、生まれ変わったんだから!」
何一つ間違ってない事実なのに突っ込みどころだらけで支離滅裂な独り言を言いながら、園香は新校舎に入って行った。
誰も見ていないのが勿体ない、最高の笑顔を湛えて。




