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れいしょういっぱい  作者: 叢雲ひつじ
2セーブ目
24/92

2セーブ目(11)

 (しん)(ぶつ)(しゅう)(ごう)の時代、この町の高台──月照達の言う上の広場には、それなりの力を持った寺が建っていた。だから付近には別の寺や神社が建つ事は無く、精々が(ほこら)や地蔵だけだった。

 それが明治維新によって神仏分離が進み、寺と神社に別れた。寺子屋も寺からこの場所に移動して、小学校として運営される様になった。

 その頃はまだご(ほん)(ぞん)もご神体もそれぞれ寺と神社に納められていたのだが、やがて時代が進み、日本は戦争に負けてGHQが支配する様になった。

 GHQ――(すなわ)ちアメリカ人は、自国の不良軍人に非常に甘かった。

 しかしそれも人種差別意識が極めて強く、まして敗戦国相手には何をしても良いという中世的な思想がまだ残っていた当時においては仕方がなかったのかも知れない。

 彼らは武器の不当所持検査を口実に平気で民家に上がり込み、強盗同然に(りゃく)(だつ)を行った。

 こんな田舎町でも人口はそこそこ多いので、彼等は何度かやってきて、大きな家を見つけては押し入り金目の物や日本文化の象徴的な物を当たり前の様に持ち去った。むしろ大都市と違って日本側の高官や国際ジャーナリストの目が届かない分、余計に酷かったのかも知れない。

 通報しても「どうせ日本人にはアメリカ人の顔の区別は付かないから」と、GHQが適当に用意した()()(しゃ)を被害者に直接会わせて「誰がやった?」と問いかけるという、非常に()(さん)な形だけの捜査をするだけだった。

 最初から家に()れない様に抵抗しようにも、アメリカ人は小銃を持ち歩いていたので、目を付けられたらもう泣き寝入りするしかなかったのだ。

 だから寺の(じゅう)(しょく)と隣に建つ神社の(ぐう)()は、町の腕利き大工に頼んでこの学校の講堂に隠し部屋を(きゅう)(きょ)作らせ、そこに寺のご(ほん)(ぞん)と神社のご神体を隠して略奪から守ったのだ。

 しかし運の悪い事に、治安が落ち着く前に学校が土地ごと国に買い取られてしまった。

 今では市の土地になっているが、とにかくその買い取りによって、住職と宮司は隠し部屋に納められたご本尊とご神体を回収できなくなってしまったのだ。

 それから高度成長を迎えて人々の生活が豊かになると、日本には様々な思想や宗教が現れ始めた。

 この町もその影響を大きく受けてしまった。いや、単一の寺が力を持っていたこの町だからこそ、より狙われ易かったのだろう。

 (しん)(こう)宗教──後に暴力団の資金源の為に作られた団体と断定され、宗教法人を取り消される事になる団体が、この町に目をつけ団体の施設を作ったのだ。

 しかし彼等の布教活動はなかなか上手くいかなかった。

 (いな)()特有の家族関係や近所付き合いの強さから、(だん)()(うじ)()は皆先祖代々お世話になっている寺社を捨てなかったのだ。

 真っ当な団体ならここで諦めたのだろうが、この団体はあろう事か改宗しない者達に嫌がらせを始めた。

 それはすぐにエスカレートし、やがてこの辺りは不審火や無人トラックによる事故が(ひん)(ぱつ)する、ちょっとした無法地帯になった。

 寺と神社が(まと)めて燃やされたのはその頃だ。

 宮司は行方不明になり、未だに見付かっていない。住職は焼け死に、今ここで霊となってご本尊とご神体を守っている。

 この焼き討ち事件に激怒した町の住人達は、暴力や犯罪に限りなく近い手段に訴える事を決意した。

 全面戦争となってから数年後、その宗教団体の施設が全焼する事四回。

 ついに彼等を町から追い出す事に成功した。

 それでも収まらない住人達は各地の被害者と(けっ)(たく)して(つい)(げき)を行い、やがて警察が動き全国で連日報道される大事件へと発展した。それがこの宗教団体を背後の暴力団ごと(かい)(めつ)に追い込むきっかけとなった。

 だが事件は解決しても、町を護っていた寺と神社は無くなってしまった。

 この町は死者が成仏する事も()()の国に行く事も難しい、霊的に不安定な場所になってしまったのだ。

 その結果が、この包丁女や月照が毎日見かける溢れる程の霊だった。

 京都や奈良の様に寺社が多ければ霊的に安定し、霊を見かける事など滅多にない。まああの古都二つは風水なども取り入れて特に安定させているので、歴史の長さに対して異様に霊が少ないらしいが、この町は日本の一般的な町と比べてかなり異常なのだそうだ。

 その予測できた状況を改善する為に、ご神体を移した時あの高台に呪術的な仕掛けをあらかじめ用意してあって、神社のあとにご神体を戻すだけでその術が発動するようになっている。


「うあああ! しねえぇぇ! はなせぇぇ!」

「済みません。全然頭に入ってこないです」

 シリアスに語る僧侶──住職に(ひね)りあげられたまま、相変わらず奇声を上げて暴れ続ける包丁女のせいで、真剣に内容を聞いていても全然理解できなかった。

「……要するに、そこの裏にあるご神体を引っ張り出して、それを神社の跡地に埋めて欲しいという事だよ」

 さっきの長い話は何だったのかというくらい(かん)(けつ)(まと)められた。しかしこれなら分かり易い。

 月照は言われるままに壁の隠し戸を見付けると、真っ暗なその中から手探りで二つの物体を見付けた。

(てか、なんも考えずに素手でまさぐったけど、ゴキブリとかネズミの死骸とかあったら()(さん)だったな)

 月照に新しい怪談ネタが追加された瞬間だった。

「その、仏像じゃない方がご神体だよ」

 言われて棒状の方を取り出し、隠し戸を元通りに閉め直した。改めてみても、そこに戸がある様には見えない。

 ちょっと隠し戸の事を人に自慢したくなったが、それをするとこの武闘派住職の霊障が自分に向きそうなので我慢しよう。

「ええと、これを上の広場のどこかに埋めれば良いんですね」

 月照は手に握っている棒状のご神体を見つめた。

 暗がりの中の(かす)かなシルエットでもすぐに何か分かった。一般的な物よりもかなり短く小さいが、短刀だ。

「うんうん、できれば神社のあった所がいいのだが、分からなければ人に踏まれにくい場所に埋めてくれれば良い。それだけでなんとかなるように、仕掛けはとうの昔に済ませてある」

「これ……埋めると具体的にどれ位の効果があるんですか?」

 月照は、隠し戸の有ったところを触ったりすり抜けたりしている桐子を見た。

「無論、今この町に(たむろ)している霊は(ほとん)どが払われ、成仏する。並外れた霊力や(もう)(しゅう)を持つ者は別だろうが、妄執だけの弱い霊であればそのうち消滅するだろうの」

「じゃ、無理です。その包丁女だけぶっ刺して、お返しします」

 昔、父親から聞いた事がある。人々の信仰を集める物体は、霊に対して干渉できる様になるらしい。

 それなら埋めるだけで霊を払えるこのご神体は、間違いなく霊にダメージを与えられるはずだ。

「待て待て! それはご神体が(けが)れるから絶対にしてはならん!」

 住職が慌てて月照を制止した。

 その拍子に、包丁女が自由になる。

「それにこのご婦人の様な悪霊が増えれば、この町の住人は皆健康を害しやすくなったり何かに付けて不運になったりする。君だって霊と干渉してしまうなら、霊の数を減らさなければ今日の様な危険がまたやってくるのだぞ?」

「うああぁぁ! 返せ、かえせぇ! 死ね、殺させろぉぉぉぁぁ!」

 さっき奪われた包丁を取り返そうと、包丁女は住職に飛び掛かった。

 それを軽々といなし、包丁をあっちへこっちへ手を伸ばして避ける。

 猫をじゃらす様に簡単そうにしているが、隙あらば噛みついたり掴みかかろうとする包丁女をあしらうのは素人には無理だ。

(俺にはこんな芸当、絶対無理だな……)

 月照にだって住職の言う事はよく分かるし、もし霊の殆どが消えてくれるならそれはまさに望んでいた世界だ。それにこの包丁女ほどではなくても、霊に危険な目に遭わされた事は数え切れないくらいある。

「正直にいえば、(わし)ももう耐えられんのだ……。本来仏の道を学んだ者が何十年も成仏せぬなどと許される事ではない。それでも世のためと思い、あと一日あと一日とその日を延ばしておった」

 住職は掴みかかってきた包丁女の勢いを利用して、宙に()(れい)な弧を描いてぶん投げた。これには包丁女も驚いたのか、「ぎゃん」と悲鳴を上げながら地面に仰向けに横たわった。

「だがもうそれも限界だ。やがて儂は力尽き成仏もできずに消滅する。そうなれば、この町には仏の教えを()く者もいなくなり、今まで以上に霊が(ばっ)()する様になる。()(よい)儂が見える君と出会ったのも何かの縁、どうか儂の()(まま)を聞いて欲しい」

 言いつつも、住職は体を起こそうとした包丁女の両手首を踏みつけて腹の上に座り、動きを封じた。包丁女は足をバタつかせるが、マウントポジションを取られていてはどうしようもない。

「…………」

 月照は黙り込んだ。

「うああああ! はぁなせえぇぇ!」

 きっとこの短刀で直接斬れば、包丁女は払う事ができるだろう。

 だがそれは一時的なもので、住職が消滅すれば第二、第三の包丁女、或いはそれ以上に危険な霊が現れるかもしれない。

 今までみたいに走っても、相手によっては逃げきれない事も充分考えられる。しかし逃げずに戦うにしても、この短刀を常に(ふところ)に忍ばせる訳にもいかないし、仮に持っていても相手が武術の達人や熊などの凶暴な動物霊だった場合は太刀打ちできない。

 どう考えても、死にたくなければ住職の言う通り埋めるべきだ。

(だけど、約束しちまったし……)

 月照はもう一度桐子に視線を向けた。偶然とはいえ命の恩人だ。自分の都合で他の霊と一緒に追い払うなんてできない。

「うあぁぁぁ! うああー!」

「あの……あなたがいる間は、どうしてマシになるんでしょう? 霊を成仏させる力はないんですよね?」

 時間稼ぎの質問だ。自分が今すぐイエス・ノーの二択すら答えられないから、相手に質問を投げかけて逃げた。

「ん? ああ、それは簡単だよ。経を読むのは自分も成仏してしまうから無理だが、(せっ)(ぽう)はできるからね。それで成仏する者は少なくない」

「……え?」

「うがぁぁぁぁ! どけぇぇぇあああ!」

「そうそう。彼らだって、心のどこかでは分かっているんだよ。この世でさまよっていても自分が苦しいだけだってね。恨みを晴らす相手がいない者は特に、切っ掛けが欲しいんだろうね」

「あああぁぁぁ! はなぁせぇぇぇ!」

 その言葉は月照の価値観を大きく揺さぶった。

「うわああ! ああぁぁぁぁ!」

 霊は我が強く、言葉だけでは殆ど何も変えられないはずだ。

「どけぇぇ! しねえぇぇぇ!」

 だから廊下の生首達だって暴力を使って(どう)(かつ)した。少なくとも月照の父親もこの方法をとっている。

「うああぁぁぁ! がぁぁぁぁ!」

 彼らの最期は、彼ら自身が決めるはずで――……。

「しゃあぁぁぁぁ! ほあぁぁぁぁぁ!」

「――ってうるせえぇぇぇ!!」

 叫び続ける包丁女がうるさすぎて、考えが全く纏まらない。

「ちょっと、先にこいつなんとかしましょうよ」

 言いながら、月照はご神体の短刀を抜こうとする。

「おいおい! それは駄目だと言っただろう! ヤるならこの霊が持っていた、この包丁を使いなさい」

(あ、刺すのはいいんだ……)

 これなら霊にもダメージを与えられるだろう。特に持っていた本人が人を殺す力の象徴として振るっていたのだから、これで深く刺されれば包丁女も消滅するほどの傷を負うはずだ。

 受け取りながら、包丁女の顔を見る。

 会話の内容を理解していないらしく、全く脅えた様子もなく暴れ叫び続けている。

「おやおや、確かにこれは話どころではないな」

 住職は包丁女を起こして体勢を変え、彼女を月照に突き出すように背中に回った。手元は見えないが、片手で包丁女の両手を後ろ手にして封じている。

 これで月照が気にすべきは両足だけだが、それも包丁女を正座のように床に座らせその足の裏を踏みつけることで封じてしまった。

(つ、強え……)

 教卓に置いたご神体は、やはり逆らわずにとっとと埋めた方がいい気がしてきた。

「さてさて、このご婦人。一体どうすればこれだけ凄まじい(おん)(ねん)を持てるのか」

 住職はその体勢のまま、お茶の間での世間話の様に軽い口調で続けた。

「ふむふむ……。きっと無職で酒とギャンブルに(おぼ)れた旦那に暴力を振るわれ、体を売ってでも金を(かせ)げと脅されて日々苦労していたんだろうね」

「え?」

「結婚前に生まれた子供も反抗期で、やがて父親に似てきて暴力的になり少年院に入っては出てを繰り返し、ご近所からは後ろ指をされて、それでも(けな)()に真面目に、家族の為にお金を稼ぎ続けて……」

「え、ええと……」

 まるで住職の言葉を肯定するかのように、なぜか包丁女が静かになっている。

「体調を壊して仕事が続けられず、やむを得ず身体を売ろうとするもやはり心まで捨てる事は出来ず、自らその包丁で果ててしまったのかもしれないね」

「…………」

 月照も黙り込み、包丁女の顔を見た。

 こちらを見つめる彼女の瞳に、初めて殺意以外の感情が浮かんでいるような気がした。

「ほれほれ、かわいそうだから苦しまぬよう首をクイッとヤってあげなさい」

「できるかぁ!」

 なぜ今そんな同情を誘う話をした。

「心配せんでも、今のは儂が適当に言っただけで事実かどうかは分からない事だよ」

 だからなぜ言ったのかと……。

 月照は手に持つ包丁をどうすべきか分からず、本来の持ち主と交互に見た。

「仕方ない、なら儂が――」

「へ?」

 と、迷う月照が声を漏らす間に、住職は包丁女の首をゴキリ、とへし折った。鈍い音が月照にも聞こえた。

「ちょっ!?」

「せえぇいっ!」

 驚く間すら与えず彼女を立たせて、今度は腰の辺りを思いっ切り殴り付けた。ドスン、という振動が部屋中に響いた。

「ふんっ!」

 そしてトドメとばかりに、軽く踏み込んで回し蹴りの様に(ひざ)()りを脇腹へとぶち込んだ。

 包丁女は講堂の反対側の壁まで吹っ飛ばされ、それをすり抜けて隣の部屋へと消えていった。

 格闘ゲームの超必殺技でもここまで吹っ飛ぶのは見た事がない。

「……――な、何やってんすかぁ!?」

 一瞬呆然としてしまった月照だったが、すぐに我に返った。

「おやおや、君がしないと言うから、私がしたんだよ?」

 良い仕事をした、と言わんばかりの笑顔を向けられた。ぶっちゃけかなり怖い。

「だ、だからって! あいつもちょっと冷静な感じになってたし、動けない相手にあんな(ごう)(かい)な……」

 徐々に言葉に勢いが無くなっていったが、それでも言いたい事を言った月照は(ゆう)(かん)と言うほか無い。

「いやいや、これくらいしないと説法にはならんだろ」

「――ってこれが説法なのかよ!?」

 どこがとか何がとか、色々突っ込みどころがあるが、さっき驚かされた説法の正体がこれだという事は、結局霊に言う事を聞かすには暴力が一番らしい。

「きみきみ、『説法』とは『説く』『方法』という意味だよ。手段が対話だけとは誰も言ってないだろう?」

「『説く』って『言って聞かせる』って意味じゃなかったっすか!?」

「拳だって君、色々語るものだよ」

 ゴツゴツとした握り拳を見せられては、これ以上勢い任せには突っ込めない。

「と、とりあえずあいつの様子見て――って、んな馬鹿な!?」

 月照は隣の部屋に行こうとしたが、移動するまでもなく包丁女が壁をすり抜けて戻ってきた。

 折られたはずの首も、半身()(ずい)になりそうな一撃を受けた腰も、あれだけ豪快に身体が吹っ飛ぶ膝蹴りを受けた脇腹も、ダメージを負った様子はない。

(怪我するかどうかは霊の気分次第とはいえ……いくら何でも、普通あれを喰らったら自分の身体が壊れたって思うだろ!)

「ふむふむ、やはり正気を失った霊は(なま)(なか)な説法では効かん様だね」

(こいつはこいつで、あれを説法で押し通すつもりかい!)

 (しゃ)()に説法という(ことわざ)の意味を間違えて覚えてしまいそうだ。

 そもそも自分であんな同情話を語っておいて、よくもまあ容赦なくあそこまでの強力コンボを打ち込めたものだ。効果が薄いと分かっていても、並みの神経ではあそこまではできまい。

「あ……ああ……あ……」

 ふと、包丁女の様子がおかしい事に気付いた。

 今までの様にうるさく叫びながら見境なく襲い掛かってくるのではなく、小さく呻きながらフラフラと歩いてくる。

(説法が効いてる!?)

 月照は一瞬驚いたが、よく考えれば彼女の様子はその少し前からおかしかった。

(一体いつから……ってそうだ。あの同情話の途中からだ)

「やれやれ、後もう二、三十発はいるかもしれないね」

「って、待った! 待って下さい!」

 何やら大技を出しそうなオープンスタンスで腰を下げ身構えた住職を慌てて止めて、月照は一歩前に出た。

「あ……うあ……?」

 包丁を持たない包丁女なんてただの女だ。月照の恐怖の対象には成り得ない。

 というか結構美人の下着姿だから、年増でもこう、目のやり場に困るというか……。

「ねえ、月くん……」

 それまで大人しくしていた桐子が、月照の服の(そで)を引っ張りながら話し掛けてきた。

「うおわっ!? なな、なんだ!?」

 困っていながらも真っ正面から包丁女改め下着女を()()めていた月照は、慌てて桐子に視線を移した。

「結局どうなってるの? 二人で怖い話してるの?」

「いや、そうじゃなくて……さっき言ってたやばい霊、まだそこにいるからちょっと待っててくれ」

 視線を下着女に戻す。ばれないとはいえ桐子の手前、今度は身体をできるだけ見ないようにした。

 やはり、最初の狂気と殺気に満ちた表情では無い。

「う……ああ……」

 うめき声を漏らしながら月照に向かって手を伸ばす彼女の表情は、今にも泣きそうなものに変わっている。

 今更住職の攻撃が痛み出した訳では無いだろう。

「あ……ああ……い、きて……」

 下着女は月照のすぐ前に立ち、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

 あれほど凶暴に奪い返そうとしていた包丁には全く興味を示さず、月照の頬に手を当てた。

(あたた……かい……?)

 霊の体温は霊の性質や感情を表す事がある。桐子の手を暖かく感じたのがそれだ。

 だから心を失ったような霊は通常氷のように冷たくて、真夏でも触れるのは気持ち悪い。

「い、きて……いた……」

「え?」

 下着女の頬を涙が伝った。

 と思った瞬間、凄い力で月照の頭を引っ張って胸に抱き締めた。

「生きていた! 生きて、生きて……」

「(む、むぐぉ!?)」

 何が起こったのか分からないまま、柔らかい感触に(ちっ)(そく)させられる。結構苦しいのに、月照の頬は状況把握と共に緩んでいった。

「ああぁ……うあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 下着女は感極まった様子で、声を上げて泣いた。

 本当に本当に大切な、愛する者を抱き締めるように月照を強く優しく抱き締めながら、大声で泣いた。

 だから月照はそのままでいた。本気になれば簡単に引き剥がせるだろうが、苦しくても彼女のしたいようにさせた。下心なんて無い。断じてない!

 彼女はしばらくそのまま泣いていたが、

「ああ……よかった……」

 やがて小さくそう呟いて、淡く薄く消え去った。

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