2セーブ目(10)
月照の背筋が凍り付き、全身総毛立った。
ただ偶然、本当にただの幸運で、悪戯をした桐子を蹴るまいと転びそうなくらい前屈みになっていたから。
その、月照の首があった辺りの空気がひゅんと鋭い音を立てただけで済んだ。
持ち前のバランス感覚で転倒せず桐子に抱き付く様な姿勢で踏み留まった月照は、恐怖で固まりそうになりながらもゆっくりと視線を動かし、その声の主を見た。
──下着姿で髪を振り乱し、振り抜いた包丁を今度は上へと大きく振りかぶる中年女性。
「(──っうわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!?)」
絶叫が声にならず「かはぁ」と乾いた息が漏れた。訳が分からないまま腕の中にあった桐子を抱きかかえ、視界に入った建物──旧校舎の入り口へと走り出す。
直後、一瞬服の襟を後ろに引っ張られる様な感触があったが、振り向く事もできずにただ全力で走って振り解く。
ドアに体当たり気味にぶつかって、一、二度握り損ないながらもノブを何とか回し慌ててドアを開け中へと飛び込んだ。大急ぎでそれを閉め、ついでに鍵を掛けると、周囲を見回して何か武器になる物を探す。
ちらりとドアの窓から外を見れば、包丁女が走り寄ってくるのが見えた。
「つ、月くん!? どうしたの!? ごめんなさい、私、そんなびっくりするって思わなくて!」
恐怖で取り乱していた月照は、腕の中の桐子が怯えて謝っているのに気付いて我に返った。
だが時間が無い。つい咄嗟に鍵を閉めたが、相手が霊である以上すり抜けてくるのはほぼ確実だ。一先ずここから離れ、包丁女から隠れないといけない。
月照は桐子を抱え直すと、奥に向かって走り出した。
「な、なになになに!?」
「やばい霊がでた! ってお前は置いてっても大丈夫だったのに、畜生!」
既にスピードに乗っているので、今更桐子を手放すのは自分も桐子も危ない。一人で逃げるよりもかなり遅くてスタミナを消耗するが、仕方ないので桐子をコアラ抱っこしたまま走る。
「月くん、服! これどうしたの!?」
桐子はしっかりと月照にしがみついていたが、首に回していた手で月照の首筋や背中を服越しに撫でたり服を引っ張ったりした。
月照はその感触で、服が切り裂かれている事が分かった。さっき一瞬感じた、後ろに引っ張られる感触の原因はこれだろう。
「切られた。包丁持った、完全にイカれた霊にいきなり斬りかかられたんだ。お前のおかげで死なずに済んだけど、追ってきてる」
桐子が邪魔で振り返る事ができないが、きっと包丁女も走って追いかけてきているはずだ。
いや、間違いなく追ってきている。自分の物とは別の足音が響いている。
とにかく一度包丁女の視界から逃れなければ、隠れる事も不意打ちの反撃もできない。
(いや、刃物持った相手だと不意打ちするのも危険か!)
ここは逃げの一手しかなさそうだが、廊下はT字で、分かれ道は勢いのまま通過してしまい残りは直線だ。旧校舎は木造平屋なので、後は突き当たりに見えるドアに鍵が掛かっていない事を祈るしかない。
だが現実は無情だった。
ドアノブに飛び付き乱暴に押したり引いたりしてみたが、硬い手応えとシリンダー錠が立てる金属音だけが返ってきた。内側からも鍵が必要なタイプだ。
「くそっ!」
ここから出るのは諦めたが、しかし逃げる事まで諦める訳にはいかない。
月照はしがみついたままぶら下がっている桐子を半ば力尽くで降ろすと、扉が開いたままのすぐ横の部屋に飛び込んだ。
「お前は先に先輩のとこにでも行ってろ!」
「ま、待って!」
しかし事態が飲み込めていない桐子は月照に付いて入って来た。
月照にとって桐子は逃げる時の障害物になりかねないのでとっとと置いていきたいのだが、こうなっては仕方がない。とりあえず戸口に立ったままだとこの上なく邪魔なので、手を引いて部屋の奥へと連れて行く。
(あいつは……って、もう部屋のすぐ傍か!)
そんなに大きくない校舎だ。いくら相手が運動不足っぽい中年女性でも、走れば到着に何秒も差が開く訳ではない。
窓から脱出しようかとも思ったが、また背中から斬りかかられかねない。この部屋には何の障害物もなく、せいぜいお盆が載った教卓が一つ置かれているだけだ。
「──ってここ、肝試しの札置き場か!」
もしやと思って教卓に駆け寄り札を手に取る。
だが、どう見ても魔除けの効果なんて無さそうな、「油性マジックで五分で書いた」感満載な厚紙製だ。
「ふ、ふひひ、ひひひひひ」
その時、戸口──月照達が飛び込んできた廊下の奥とは別の出入り口から、包丁女が入って来た。首を少し傾げながら不気味な笑い声を上げ、右手に持った包丁を振り上げながらゆっくりと近付いてくる。
(これは──)
慌てていて気付かなかったが、出入り口が二つあるのなら上手くすれば相手から距離を取ったまま廊下に出られるかも知れない。
「月くん、大丈夫?」
月照の表情から事態の重大さを感じているのか、桐子が心配そうに声を掛けてきた。だが月照に答える余裕は無い。相手を充分に引き付け、上手く廊下に飛び出して全力疾走して振り切るしか、助かる道は無いのだ。
「──す、すしししし、し……」
一歩、また一歩と、包丁女は笑い声を奇声に変えて慎重に近付いてくる。向こうも逃がすまいと必死なのだろう。
「死ねぇぇぇぇ!」
包丁女がそう叫んで飛びかかってくるのと、月照が戸口に向かってダッシュするのはほぼ同時だった。
(助かる!)
月照はそう確信した。
しかし──
ガクンと強く後ろに引っ張られ、バランスを崩して転倒した。その身体にぶつかる様に、何か軽い物が乗りかかってくる。
「ぐあっ!?」「きゃん!?」
桐子だった。不安に駆られた桐子が、無意識に月照の服の裾を強く握っていたのだ。
全力を込めたダッシュだったのでかなりど派手に転がり、桐子と上下入れ替わりながら壁に思いっ切り左足の踵をぶつけた。
乾いた木材の割れる音が響き、月照の足に軽い衝撃が伝わる。
「くそ!」
慌てて立ち上がろうとしたが、左足が思う様に動かなかった。いや、何かに固定されていて殆ど動かない。
(包丁女は!? 足はどうなった!?)
頭が高速に状況把握を始める。包丁女はさっきの突進を空振りして行き過ぎ、今こちらに向き直ったところだ。そして動かない左足は、蹴破った壁の板にズボンの裾が引っ掛かって抜けなくなっていた。
「う、おらあっ!」
右足でその壁を蹴りながら無理矢理左足を引っこ抜く。足首辺りに熱さを感じたので、きっと板のトゲで怪我をした。だがちょっとの切り傷なら走るのにそれほど支障はないはずだ。
「桐子、悪いが置いていく!」
倒れたままの桐子にそう声を掛け、クラウチングスタートの様に立ち上がりながら走り出そうとした月照に、
「おいおい、それは君。男子としてどうなんだい?」
全く聞いた事のない、落ち着いた年配男性の声が聞こえた。
それで一瞬の迷いが生まれた。月照は足を踏み出せず、無意識に桐子の方を振り返ってしまった。
その目の前で──
包丁女が、両手で包丁を振りかぶっていた。
「あ……」
「ひやあああああ!」
月照が小さく声を漏らす間に、包丁女は奇声と共にそれを振り下ろした。
「おやおや、ご婦人がそんなはしたない格好でこんな危ない物を」
しかしその刃が月照に届くより前に、さっきの男性の声と共に横合いから太い腕が伸びてきて、包丁女の腕を掴んだ。
瞬間、ピタリと包丁が止まった。
いくら女の細腕とはいえ両手の力を込めた渾身の攻撃を、片手でこうも簡単に止めてしまうなんて、とんでもない怪力だ。
「はぁあなせえぇぇ!」
包丁女は掴まれた左手を包丁から離し、右手だけで声の主の男性に斬りかかった。
しかし男性はまるで慌てる様子もなく、言われた通り左手を離したと思いきや、今度はいとも容易く包丁女の右手首を掴んでそのまま捻り上げ包丁を取り上げた。
「うあああああ! 放せ、死ね、殺させろおおおお!」
かなり無茶な角度に腕を捻り上げられながらも、包丁女は痛がるどころがバタバタと暴れている。声だけでも背中がぞくりとする、殺気にまみれた叫び声だ。
「こらこら、死ねとか殺すとか、簡単に口にするもんじゃないよ」
一方の男性は、そんな包丁女の狂気など気にした様子もなく、諭す様に優しく話しかける。
(この人……坊さんか?)
暗がりなので最初はよく分からなかったが、どうやら和服に袈裟の様な物を重ね着し、髪の毛が一本も無いヘアスタイルの人物だ。普通に考えれば僧侶だろう。
彼は暴れる包丁女を捻り上げたまま、月照を見てにっこりと笑った。
「ふむふむ、君はどうやら素晴らしく霊感が強い様だ。どうだろう、彼女を──いや、彼女の様にこの世に迷う霊達を、成仏させてやってはくれないだろうか?」
「……え?」
それこそ坊主の仕事だろう、という突っ込みと同時に、彼にはそれができないのだという理解が沸いてきた。
「あなたは……霊、なんですか?」
こんな所に都合良く、霊と格闘戦を行って圧倒できる僧侶などいるはずがない。
何より彼は、ついさっき月照が転倒するまでどこにも居なかったのだ。そうなると、この部屋に住み着いている霊に違いない。
(そういえば、旧校舎はいつまで経ってもなぜか壊されずに残っているって……)
瑠璃が呪いと言いかけた、この旧校舎の悪い物を払う現象。
冗談か気休めだと思っていたが、他でもないこの僧侶の霊障だったのだ。
おそらく、月照が旧校舎の一部を破壊したのをきっかけに霊障が始まり、僧侶が姿を現したのだろう。本来ならば校舎を破壊しようとする人間に、その妨害の為の何らかの心霊現象をもたらすのだろうが、今は包丁女が目の前で暴れていたのでそちらを優先したのだ。
それにしても、結果的にはまた桐子に命を救われたようだ。
偶然とはいえきっかけを作ってくれたのは間違いない。もしあのままなら、この場は上手く逃げ切れても、明日以降学校で命を狙われかねなかったのだから。
「そうだ、桐子!」
「つ、月くんごめんなさい……大丈夫?」
痛かったからか月照の邪魔をしたからか、身体を起こした桐子は涙目だった。
「いや、俺こそ悪かった。大丈夫って分かっていたとはいえ、お前を置いて行こうとして」
桐子を抱き寄せ、頭を撫でる。どこにも負傷は無い様に見えるが、ショックはあったはずだ。
「ううん、私、邪魔だったから……」
桐子は俯いたまま、泣くのをじっと堪えている様だった。
「さてさて、私の話をしてもいいかな? あまり長くこうして出ていられないのでね」
僧侶が、未だに奇声を上げて暴れ続ける包丁女に負けない大きさの声で話しかけてきた。
「あ、はい!」「う、うん!」
月照は僧侶の方を見ながらも、桐子が返事をしたのでギョッとした。彼女は自分の霊障の影響が届いた加美華か、霊と干渉できる月照の様な強力な霊感を持つ人間しか認識できないはずだ。
その桐子が認識しているという事は、この僧侶はかなりの霊感、いや霊力と言うべきか、それを持っているという事になる。
「うんうん、良い返事だ。実はね、この講堂のそこの壁は隠し戸になっていてね──」
その色々と強力な霊の僧侶は、少し早口で月照に説明を始めた。




