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双子対策の時間潰しにも大成功したらしく、月照は無事見付かることなく加美華のアパートに到着した。
待ち伏せを警戒していたが、あの双子もさすがにそこまで暇ではないらしい。
一番の厄介事から逃れられたと安堵するが、しかし同時に回収するのが昨夜の厄介事となった布団──加美華が使った物なのだから、気恥ずかしさがまた込み上げてきた。
だがあれがないと、今夜は床で眠る事になる。
何より問題を先送りにしても、どんどん回収しにくくなるだけだ。
(いっそ新品買って……って、先輩に俺の布団押しつけたら先輩がかわいそうだな)
人の布団なんて、捨てて良いと言われてもなかなか捨てられないだろう。
そうなると加美華は、しばらくはこんな気持ちに悩まされ続ける事になる。
月照は勇気を出して、加美華の部屋のドアをノックした。
『はーい』
加美華とは明らかに違う、しかし聞き覚えのある子供の声が返ってきた。
「へ……?」
閉まったままのドアからにゅっと人の顔が飛び出し、月照は思わず声を漏らした。
「あ、大人げない大人の人」
桐子だ。
訪問者が月照だと分かると、えらくご機嫌な笑顔を見せた。
昼間から霊がウロチョロするのは珍しくも何ともない。現についさっきも包丁を持った下着姿の中年女性の霊を見付けて、狙われない様にこっそり迂回してここまで来たところだ。
だが元々深夜の時間帯に活動していた霊が、突然真っ昼間に行動し始めるのは初めて見た。
「お、おう。元気みたいで何よりだ」
「うん、死んでるけど」
桐子は嬉しそうな笑顔のまま、両手もドアから出して月照の左手を取り引っ張った。
「今加美華ちゃんいないけど、入って入って!」
ガン。
「いづあっ!?」
閉まったままのドアをすり抜けて部屋に戻ろうとする桐子に引っ張られ、ドアに指を思いっ切りぶつけて突き指してしまった。
「あ……」
桐子が再びドアの外に顔を出し、しまったと表情を変えるが、月照には文句を言う余裕はなかった。
「う……おお……」
何というか、何とも表現しがたい状況だ。苦痛なのだが懐かしい。懐かしいのだが面白くない。しかし面白い思い出の中にある苦痛なのだ。
おそらく小学校のドッジボールかサッカーのゴールキーパーをしていた時以来だろう、本当に久しぶりに味わう懐かしい痛みだ。あの頃はよく突き指していたが、小学生のくせにこんなに痛いのによく泣かなかったものだと、過去の自分が凄い奴に思えてしまう。
月照が一通り悶え終えるのを横で気を付けの姿勢で待っていた桐子は、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい……当たり前みたいに触れるから、つい忘れてたの」
「いや、俺もちょっとオーバー過ぎた。ほんとはそんなに痛くないから気にすんな」
ちょっと涙目になっているが、男の意地でそう答えた。
「でもお前、足音出せるならドア開けられそうなもんだけどな……無理なのか?」
「扉はすり抜けるものだったから……ええと……」
そういえば足音も声も、自分の存在を相手に知って欲しいが為に引き起こしたただの霊障だった。人が歩く時の様に振動で物理的に音を鳴らしていた訳ではないのだろう。
「ねえ、あなた特別だよね?」
桐子が首を傾げた。
「え? まあ、普通とはちょっと違うな。お前に触れるし」
「でも、触ってる私がすり抜けられる扉をすり抜けられないのって……どうなってるの?」
「え?」
どう、と言われても困る。
「霊とは異なり物質である生身の身体は、同じく物質であるドアとは分子の集合体同士が干渉するのですり抜けられない」などと説明しても、きっと桐子には分からないだろう。
自分だってそれで合っている自信はないし、何より桐子達霊と接触できる理由の説明が付かない。
「まあ理屈はともかく、俺の身体は霊に触れる事ができるんだよ」
月照はとりあえずそう誤魔化した。
「身体だけ……? 服は?」
「……え?」
試した事がない。
少なくとも月照が霊の服を掴む事は可能だ。しかしその逆は……。
その答えは、桐子が自分で出した。
「あ、不思議……触ろうとしたら触れるし、すり抜けようとしたらすり抜ける。ううん、すり抜けるのはちょっと難しい。変なの……」
「そ、そうか……」
ちょっとホッとした。
どうやらすり抜けようと意識しない限り、服はすり抜けないらしい。
これが無意識にすり抜けてしまうとなると、何かの拍子に霊が股間にぶつかっただけで大惨事だ。
脂ぎった中年親父の霊の顔面が……なんて、想像しただけで悲鳴を上げそうだ。
(そうか……そういや人を認識する時って、服も一緒くたにその人に含めてるよな。場合に寄っちゃ、手荷物とかも)
正解かどうかは分からないが、霊の考え方次第で結果が変わるというのなら、きっとその霊にとって月照として認識される物体が丸々、月照同様触る事ができるのだろう。
つまり、もし桐子がこのアパートのドアを月照の身体の一部だと認識していれば、ドアに触れて鍵を開ける事もできるという事だ。
(……どんな怪人だ、俺は)
アパートの着ぐるみを着た自分の姿を想像してしまい、月照は大きく息を吐いた。
「どうしよう……私、留守番なのに……」
桐子が月照の股間を凝視しながら呟いた。
どうやら結構おませさん、というか、興味のあるお年頃の様だ。さすがに手を伸ばしてきたりはしないだろうが、少し腰が引けてしまう。
(河内山先輩といい、あほ姉妹といい、最近の女子は一体どうなってんだ……)
まあ桐子は最近の女子ではないのだが、ちょっと女子が怖くなってきた。世の女嫌いの男子達は、きっとこんな風に生みだされるのだろう。
「まあ、先輩がいないならどうしようもないか……ドアを開けられても勝手に入る訳にはいかないし。先輩はいつ帰ってくるって言ってた?」
「ええと……結構前に出て行ったけど、多分まだ二時間くらい掛かると思う。でも最近は凄いよね、お日様無くてもお洗濯物すぐ乾かせるんだって」
「あー……」
そうか、その手があったか。
月照は加美華の機転に感謝した。
要するに、お互いに気まずいあの布団のシーツだけでも洗ってしまって、気まずさを薄めてしまおうという作戦だ。
となると加美華は近所のコインランドリーだろう。このアパートには洗濯機を置く場所なんて無い。
「んじゃ、俺は直接先輩の所行ってくる。またすぐ来ると思うから、変な奴来ないかちゃんと留守番してろよ」
月照がそう言って立ち去ろうとすると、桐子が服の裾を掴んで引き留めた。
「なんだよ?」
「……誰も来ないよ。きっと……」
そう言えば、桐子は霊障の影響下にある人間しか認識できないんだった。
なら何の為の留守番だ、と問いたい気もするが、留守を任せた加美華もきっとそこまで考えてなかったのだろう。
或いはいつ来るか分からない月照の相手をさせるつもりだったのかもしれないが、どっちにしてもいつまでもここで話し込むわけにはいかない。
「あ~……いやでも、ここでお前の相手するのはなあ……。今の俺は他の人から見たら、一人でぶつぶつ言いながらドアに指ぶつけて悶えて、帰ると見せかけて急に立ち止まって、振り返ってまたぶつぶつ言い始めた危ない奴なんだぞ。通報されるわ」
幸い今は周囲に誰もいないので普通に相手できているが、場合によっては桐子を無視しなければならない。
「……そっか、そうだよね。私はやっぱり、あなたと加美華ちゃんにしか見えないんだよね」
桐子はしょんぼりしてしまった。
頭の良い子なので、きっと月照の言いたい事が理解できたのだろう。
「ま、誰にも知られず、知って貰おうとしたら逃げられる一昨日までよりは、ずっとマシになったじゃねえか」
月照は顔を背けながらそう言い、右手を伸ばして桐子の頭を撫でた。
こういうのはあまり得意ではない。
親戚に桐子と同じくらいの年頃の男の子がいるが、その子は昔の自分と同じく快活で単純な、悩みなんかとはまるで無縁な暴れん坊だ。あれくらい気楽な相手ならと思わなくもないが、桐子がそんな性格ならきっと今頃成仏している。
「まあなんだ……どうせ泥棒が来てもお前にゃどうしようもねえし、コインランドリーまで一緒に行くか? 俺が一緒なら道に迷う事もないだろうし」
慰めるのを諦めた月照は、頭を撫でていた手を桐子に差し出した。
「あ……」
その手を見つめ、桐子は一体何を思うのか。
彼女は生者だけではなく、自分以外の霊も認識できないし干渉もできない。
月照がかつて日常生活に支障を来した程うようよとこの町に溢れている霊の、どれ一つとして認識できないのだ。
だからずっと一人で、彼女にとって動いている人間はテレビの中にしかいなかった。
月照には、彼女が過ごした百数十年の孤独なんて想像も付かない。
「うん!」
しかし元気よく頷いた桐子が、自分よりもずっと強い心を持っている事だけは分かる。
差し出したこの手も、もしかしたら必要無いくらいに、この子は強い。
霊を見て、感じて、会話どころか触る事さえも可能なのに、きっと月照には桐子にこれ以上の事は何もできないだろう。
いや、桐子だけではなく、今まで出会った全ての霊に対してもそうだったかもしれない。
何もできなかった。或いは何もしなかったり、何かしようとさえ思わなかった。
彼等は一個の存在だからだ。
意志を持ち、個性がある。
生者同士は誰でも相手に干渉できる。しかし生き様を決めるのは結局その人自身だ。
同様に、死者においてどう成仏、又は消滅するか、それを決めるのは霊自身なのだ。
ならば月照の霊感は、一体何の為にあるのだろうか。
双子や瑠璃達オカルト研究部の部員がどれだけ羨もうと、傍目に見れば月照はただの変人でしかない。生者には異質で不要な能力だ。
霊達にとっても同じだ。月照は彼等と接触できても彼等の仲間ではない。
桐子が絶対に成仏しないと言って事実成仏していない様に、月照の存在は霊障に少し影響を与える事はできても霊の本質は何も変えられない。
(だああ! らしくねえ!)
月照は空いている左手で、バシ、っと自分の頭を叩いた。
小学校を卒業するまでは気にもしなかった事だ。中学生の時は霊の事も他人の事もどうでもよくて、とにかく何もかもが鬱陶しくて邪魔で仕方なかった。
そんな自分が、高校に入ったというだけで何が変わるというのか。
ほんの一月前まで中学生だった癖に、偉そうにそんな哲学じみた霊の考察ができる程人生経験があるわけでもない。
桐子が少し変わっているだけで、自分が気を揉む必要なんて無い。
巻き込まれただけで、本来自分とは関係ない事のはずだ。難しい事は当事者の加美華に押しつけて、自分は自分の高校生活を謳歌しないと勿体ない。
加美華には悪いが、桐子との縁は布団の気まずさと同じ様に、綺麗さっぱり洗い流してしまおう。
そんな事を考えながら、月照は桐子の手を引きコインランドリーへと向かったのだった。




