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HIRUKO  作者: 月岡 あそぶ
3/23

その壱 禍福倚伏

 鐘が鳴る直前に、イソラは学校の中へと滑り込んだ。鐘が鳴り終わると同時に、警備員によって校門は閉じられる。

 その頑強な門と学校をぐるりと囲む高い塀は、生徒を守る為と言われているが、一体何から守ろうというのか、イソラにはさっぱりわからなかった。


 学校の自転車置き場には、まだお喋りを楽しんでいる生徒達の姿があった。さっき鳴ったのは、校門を閉める合図の鐘。始業までにはまだ時間がある。


 ハアッと息を吐き、うつむきがちに自転車を止めたイソラの肩を誰かの手が力強くつかんだ。

 振り返らなくても、それが誰であるかはわかる。生まれてこの方、労働など一度もした事などないであろう美しいその手。

 支配者階級にふさわしく爪先にいたるまで磨かれている。

 イソラの顔が恐怖に歪んだ。


「遅っいな~イソラ!ギリギリセーフだぞ!」

 よく通る張りのある声。笑顔を浮かべ、イソラの肩越しに声をかけてきたのはクラスメイトのアンドリュー・レイ・ペンバートン。


 父親はこの街の市議会議員。議長も務める実力者。


 しかし、その一人息子である彼自身が、父親のような優秀な人間ではないことは、誰しもが知っている周知の事実だった。

 古代皇帝の彫像を思わせるような逞しい外見に、リーダーとしての姿を投影する者もいたが、その期待はすぐに裏切られた。

 そこにいるのは、甘やかされた、ただの暴君の姿。

 噂では、後継者レースからとっくの昔に外されているとも囁かれていた。しかし、一人息子であるという事実は、媚びへつらい追従する者にとって錦の御旗。例え、その性格や知性に少々難があったとしても・・・

 今もその爽やかな笑顔とは裏腹に、イソラの肩に食い込んだ指は、関節が白くなるほど力が込められていた。その痛みにイソラの顔は益々引きつった。


 ケイ・リー・ナカムラ。 ユーリィ・バフェット。 ノア・ヴィルヘルム・シュヴァーベン。 ジオ・カーンの4人が、にやにやと薄ら笑いを浮かべつつイソラの周りを取り囲んだ。


 4人はアンドリューの子分のような存在。

 市議会議員をしているアンドリューの父に、媚びへつらいおこぼれをもらう彼らの親と同じ部類の人間。

 強い者には逆らうべからず。

 幼い頃から、その事を骨の髄まで叩き込まれて育ってきている。彼らは、アンドリューに無条件に従うことに何の疑問も持っていない。


 アンドリューは仲の良い友人のようにイソラの肩を抱き、彼が震えながらポケットから出したコインを素早く取り上げた。

 逆光でアンドリューの金髪が輝いた。まるで神の彫像から後光が差すように。

 その代わり白い肌は黒くくすんで見え、白目と矯正された白い歯だけが不気味に浮き上がった。

「最近、休んでたからさ、心配してたんだ・・・」

 アンドリューがイソラの耳元で優しげに囁く。


 コイン一枚など、アンドリューにとっては、端金に過ぎないだろう。わざわざカツアゲするようなものでもない。

 しかしこれは彼らにとってのほんのお遊び。小動物をなぶって怯える様を楽しむ為のただの余興。一日の始まりのウォーミングアップのようなもの。


 イソラは、恐怖で震えながら周りに目をやった。しかし、5人でうまく視界をさえぎっているため、周囲の誰も気付く事はない。

 それに、例え気付いたとしても、誰も自分の事など助けない事をイソラは十分すぎるほど知っていた。

 この世にある純然たる階級制度。

 例え子供の世界であっても。人は目に見えない鎖や壁を敏感に察知してそれに従う。

 それに抗うより、恭順の意を示し、うまくおこぼれをもらう方が賢いやり方なのはわかっていた。

 しかし、イソラは、彼らの何かを刺激してしまった。それが何だったのか、今だにイソラには良くわからない。きっと滲み出る弱者の匂いを彼らは察知したのだろう。


「な~んでも素直にオレ達の言うこと聞いてくれるイソラが、だ~い好きさ」

 そう言いつつ、笑顔を浮かべアンドリューはイソラの腹にパンチを食らわせた。カエルが踏みつぶされるようなグウッという音が低く響く。

 アンドリューは腹を押さえ、震えながらただうずくまるだけのイソラを見下ろした。

「イソラ。お前ってヤツは相変わらずだよな。力もナイ、自分の主張もナイ。そんな奴なんてこの世に存在していないのと同じ。虫ケラ以下!

 あっ、もしかしてお前、人間じゃなくてアメーバーなんじゃないの?」

 アンドリューのブルーの瞳が、氷のような冷たさを持ってイソラに突き刺さる。

「そうかぁ・・・それでかぁ・・・

 それじゃあアメーバー君。今日はプールの中にでも飛び込んでもらおっかなぁ。

 まだ少し寒いけどさ、アメーバー君には水の中の方がお似合いだろ?なあ、お前らもそう思うだろ?」

 取り巻き連に同意を求めるアンドリューの笑い声が明るく響く。


 イソラは目に涙を浮かべ、怯えた表情でアンドリューを見上げた。まるで、主人に憐れみをを請う奴隷のように。

「何コイツ!男のくせに泣いてるよ。力のない奴は惨めだね~踏みつぶされるのも当然!」

 アンドリューは、心底馬鹿にしきった眼差しをイソラに投げかけた。そして、残酷な笑みを浮かべながら、自分を仰ぎ見るイソラの顔を靴底で踏みつけた。

 その一踏みで、抗うことなくへなへなと地面へと倒れ伏す。アンドリューは、そんなイソラの背中で自分の革靴の底を拭った。

「アメーバー君の変な病原菌がついてたらいけないからな」

 そうでなくても古ぼけたイソラの制服が土にまみれた。


 イソラは、うつむいてじっと耐えた。早くこの嵐が過ぎますようにと。

 もしくは、彼らの関心が誰か違う人の上に移りますようにと・・・ 

 そう、心の底から願いながら・・・


「おい・・・そこの者・・・・・」

 蝋色を帯びた少女の声が響いた。


 ぎくっとしてアンドリュー達が振り返った。

 視線の先には、ここらでは見かけた事のない尼僧服のような制服に身を包んだ小柄な少女が一人。


 不機嫌そうな表情で腕を組み、仁王立ちポーズで、こちらを睨みつけるかのように見ている。

 その切れ長の瞳は暗く燃え、鬼火のような光がチラチラと揺れる。

 風に揺れる少女の漆黒の髪には、五色の紐が結ばれ、それらは彼女の髪を丸く束ねて垂らされていた。

 その紐の所々には小さな銀の鈴が結ばれ、風の動きに合わせ辺りに小さく澄んだ音を響かせた。

 黒髪に縁取られた少女の肌は蒼白く透けるようで、目尻と唇だけに暗い朱が彩りを添えていた。


「今日転校してきたのだが、教員室がわからん。貴様ら、案内を頼む」

 その仰々しい雰囲気に気圧され、アンドリューはおもわずイソラから離れて一、二歩後退った。

 ゴクリッと喉が鳴る。


 しかしすぐに、ただの少女に気圧されたことを恥じて、威厳を取りつくろうように重々しく頷いてみせた。

 一種独特の異様な雰囲気を身にまとい、ひどく偉そうに命令を下す少女の出現に戸惑いながらも、彼らはイソラをその場に残したまま、教員室に向かって歩き出した。


 アンドリュー達の目が、コイツ誰なんだと仲間内で探るように交差する。

 足が悪いのか、少し引きずるような歩き方をする少女の後ろ姿を、イソラはその場でボンヤリと見ていた。


 少し離れて、アンドリューが思い出したように振り返った。

「イソラ!また後からな!」

 ヨロヨロと立ち上がろうとしたイソラの顔がくしゃりと歪む。


 チリリと何処かで鈴の音がした。少女の髪が揺れ、イソラの方を振り返る。

 イソラの方に向いた少女の顔は能面のようで、怒りや悲しみをその下に覆い隠し、その表情を読み取る事はできない。

 それは捉えようによって、怒りとも、悲しみとも、侮蔑とも取れる。


 その視線を捕らえた時、イソラの背筋に何かが走った。思わず後ずさる。腹の底が、鉛を飲み込んだように重苦しかった。


 そのままニコリともせずに、少女は、イソラに向かってコインをはじき飛ばしてきた。

「お前のだろう」

 びっくりした顔でコインをキャッチするイソラを見て、アンドリューは慌てた様子で自分のポケットを探った。

 取り上げたお金がない事に気づき、いぶかしげな顔で少女の方を見やる。

 正面に向き直った少女の顔は無表情そのもので、取り付く島もなさげに見えた。

 納得のいかない顔つきのまま、それでも確たる証拠も見つけられずアンドリューは再び歩き出した。


 イソラは呆然としながら、ただ黙って彼らの姿を見送っていた。風が吹き、自転車置き場の砂を巻き上げ渦を巻いた。

 イソラは、乾いた砂を吸い込んで咳き込んだ。再び顔を上げると、もう少女達の姿は見えなくなっていた。

 イソラはしばらくの間、怯えた目のまま彼らが消えた方向を見つめていた。


 助けてもらった証拠のコイン。

 それでも、イソラはその事を素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。何かが心に引っかかり不安定に揺れている。


 事実、少女の目には優しさの欠片も見て取れなかった。

 何かが動き出す予感に、コインを握り閉めたままのイソラの手は小さく震えていた。




 イソラが教室に入ってすぐ、授業開始の鐘の音が鳴り響いた。

 先生がせかせかと教室に入ってくる。


 そのすぐ後から、先ほどの少女がついてきた。学年や学期の区切りでもない中途半端なこの時期。時季外れの転校生に教室内の視線が集中した。


「今日は、転校生の紹介をする。

 彼女の名前はタマイシ・ヒルコ。

 身分は外つ国からの難民だ。

 しかし、様々な事情によってここの市民として受け入れられることになった。

 かなり例外的な事例だが、上の方針でそういった決定が下された。

 そんな訳で、彼女はここでの生活にはまだ慣れていない。だから、皆でいろいろ教えてやってくれ」


 クラス中の好奇の視線がヒルコに集中した。

 普通ならば、七つの都市以外の塀の外の民が発見されたとしても、都に住むことなど絶対に許されない。

 異例中の異例の事態。ザワザワと教室中がざわめいた。


「じゃあ君はとりあえずあそこの空いている席に」

 先生はイソラの隣の空いている席を出席簿で指し示した。


 足を引きずり、独特のリズムでヒルコが歩いてくる。イソラの胸の鼓動もそれと合わせ高まっていく。

 彼女がイソラの隣の席に座った瞬間、舞い上がった空気の渦に乗って、独特の香を焚きしめたような香りがイソラの元に漂ってきた。


 その香りが、彼の脳内の遠い記憶をかき立てていく。

 心を鷲掴みにされるような懐かしい香り。体の奥底が痺れ、抗いがたく引き寄せられていく感覚。

 自分はこの香りを知っている・・・

 イソラはそう思った。その香りに誘われるように、ついつい何度となく隣に視線を走らせる。


 突然、背中に鋭い痛みが走った。

 体がビクンと反り返る。

 それでも、彼の口からは叫び声は出ない。

 ただ黙ってうつむくのみ。

 涙が一滴、頬を伝って机の上にポトリと落ちた。


「女の子の顔をジロジロ見るなんて失礼だろ」

 後ろの席のアンドリューが、コンパスを手に馬鹿にしたようにイソラに向かって言葉を投げかけた。

「後からいきなり刺す方が失礼だと思うが・・・」

 ヒルコがすました顔で前を向いたまま呟く。

「・・・・・・」

 イソラは、ぽかんと口を開けたままヒルコを見た。

 ヒルコは、横目でジロリとイソラをにらみ、冷たく言い放った。

「その口を閉めろ、アホウのようだ」

 そう言うと、鞄から教科書を出し机の中に入れはじめた。


 後からクツクツと笑いをかみ殺すアンドリューの声が聞こえた。

 それでも、その笑い声はイソラの耳には入らなかった。

 彼は、生け贄に選ばれた子羊のようにただ怯えていた。新たなる厄災の始まり。そんな予感が彼の心を満たしていった。


 次の休憩時間になって、女の子達がヒルコの周りに集まって来た。

 好奇心いっぱいの視線と質問が次々と浴びせかけられる。キャッキャとはしゃぐ女子達の無遠慮な質問に淡々と答えるヒルコ。その態度が面白いのか、喋り方が変わっているからなのか、益々無邪気な歓声が上がった。


 その隣では、イソラがアンドリュー達にいじられていた。

「イソラ。お前さ、少しは体を鍛ようって気ないわけ?そんなひょろひょろでさ。こんな風に、とまでは言わないけどさ」

 アンドリューは、鍛え抜かれた自分の体を見せつけるようなポーズをとって見せた。

 イソラは、椅子に座ったままギュッと拳を握りしめ、黙ってうつむいていた。


「何だよ!無視ですか~?でも、ボクたち親切だからさ、君に手を貸してやるよ。そうだな、それじゃあまず手始めに、アームレスリングでもやってみるか?」


 朝の五人で有無を言わさずイソラの周りを囲む。

 一人が、イソラを座らせたまま乱暴に椅子をぐるりと後に向けた。

 その様子を見て、何事かと何人かの男子生徒が集まり、周囲を取り巻いて面白そうに見学し始めた。


「はいはい!ギャラリーも集まって来たことだし、さっさとやろうぜ!」

 アンドリューは、イソラの手をグイッとつかんだ。そしてそのまま力強く握りしめた。


 アンドリューと手を合わせた途端、イソラの顔が苦痛に歪んだ。アンドリューが笑いながら手を開く。その開いた手のひらには、画鋲が貼り付けられていた。


 泣き顔で顔を歪めるイソラの周りで、アンドリュー達はゲラゲラと笑っている。

 女子の中には、気の毒そうな顔をする者もいるが、何も言い出す者はいない。彼らに注意して、自分が次の標的になるのが怖いというのが本音なのだろう。


 そんな中で、暗闇の中の黒猫のように音もなくするりと席を立ったのはヒルコだった。


 乾燥した空気のせいか、パチパチと音がして髪の毛が少し拡がっている。少し焦げたような匂いがイソラの方に漂ってきた。


「そんな事をして面白いか?」

「やだな~冗談だよ、冗談。一緒に楽しんでるだけだよ。な!イソラ!」

 親しげに、アンドリューがイソラの肩を叩いた。イソラは弱々しくただ下を向いた。

「ほ・ら・ね。な~んにも言わないだろ。ノープロブレム、ノープロブレム」


 アンドリューは大げさに肩をすくめ、手のひらを上げてみせた。キラリと画鋲が光る。アンドリューはそれを隠そうともしなかった。


「ほう、冗談か・・・・・・ならば貴様、私と勝負しないか?」

 ヒルコの目が光った。


「え~俺は紳士だから、か弱い女の子との勝負なんてできないね」

 益々芝居がかった仕草でアンドリューは肩をすくめた。


「そうか、そんなにこの私に負けるのが嫌か」

 ヒルコは斜め下を向き、小さくため息をついて見せた。

 それから、顎を上げ小馬鹿にしきった視線をアンドリューに向かって投げかけた。

「そうだな。負け犬の惨めな姿をさらすのは、井の中の蛙の貴様には耐えられぬ屈辱だろうからな」


「何言ってンの?このオレが負けるわけがないだろう。優しさで言ってるのがわっかんないかな~?

 も~しも~し!オタク、難民だから言葉通じてないの?

 Do you understand?

 やっぱりサルにはわからないのか~ 

 お~い誰か!俺の言葉を、外つ国のサル語に訳してくれる奴はいないか?」

 ヒルコが難民である事を知ったアンドリューは、今度は見下した態度を隠そうともしなかった。


「貴様は見た目ほどアホウではないようだ。

 女に負けた惨めな姿を皆の前でさらすより、見苦しく言い訳を並べつつ、子豚のように尻尾を巻いて逃げた方が良策だという事を知っているからな。

 可愛い子豚ちゃんは、ブルブル震えながら逃げ込んだ先で残飯を漁っているのが似合いだろう。

 いっその事、今すぐその制服を脱ぎ捨て、素っ裸になってこの机の上で鼻を鳴らして鳴いてみるか?哀れと思った誰かが餌を恵んでくれるやもしれんぞ。

 いつかそのご自慢の筋肉が、我々の食卓に上る日も来るだろうが、私は貴様のような下賤な者の肉は御免被らせてもらおう。ヘタレがうつってもいかんしな。

 では、さっさと尻尾を巻いて豚舎に逃げ込んだらいい。白ブタチキン君・・・」

 冷笑を浮かべ、アンドリューへの罵倒の言葉を吐くヒルコに、教室中が水を打ったように静まりかえった。


 アンドリューの顔がサッと赤く染まり、ガタリと席を立った。

 握り閉めた拳がブルブルと震えている。

「そこまで言われて、優しくする義理はないな。お前いったい自分が何様のつもりなんだか・・・たかが難民のくせに」

 冷静を保つフリをしながら、ドサリと席に着き、ヒルコに向かって手で来いと招いてみせた。その目はコケにされた怒りで燃えている。

 さっき、拳を握り閉めた勢いで、貼り付けていた画鋲が自らの手を切り裂き血を流していた。


「本当に単細胞な奴だな。貴様のような奴はブタ以下かもしれん」

 流れ出る血を見つめ、ヒルコの目が仄暗い光を帯びた。

「アメーバー君・・・そう呼ばせてもらおうか?」


「うるさい!さっさと勝負しろ!」

 白ブタだのアメーバだのと呼ばれたアンドリューの顔は、今は茹で蛸のように赤黒く変化していた。こめかみには青筋がくっきりと浮かんでいる。


 それを無視するようにヒルコは、ポケットから五芒星の模様が描かれた手袋を出すと、その細い指の一本一本に優雅な仕草ではめていった。

 そのゆっくりとした仕草に、アンドリューのイライラは益々つのった。両手を握り閉め、机に叩きつけた。

「早くしやがれ!このクソアマが!」

「悪いがな・・・私はクソアマなどではないのだよ。それに、また無駄な血を流しているぞ・・・」

 ヒルコは顔色一つ変えずに淡々と言葉を返した。

 そして、アンドリューの前に唖然としながら座っているイソラに視線を移した。氷のような視線と共に、いきなり蹴りが入った。

 派手な音をたてて、イソラは椅子ごと床に倒れ込んだ。


 一瞬の沈黙の後、その無様な姿にどっと笑いが起こった。

「お姫様は、ナイトを救いたいんだかどうだか?」

 アンドリューが目に涙を浮かべ、笑い転げた。


 イソラは呆気にとられて、自分を蹴り飛ばしたヒルコを見上げた。

「邪魔だ・・・・・・」

 イソラに冷たい一瞥をくれ、椅子を戻してヒルコが座る。

「たかが難民のチビのくせに、怪我したって知らないからな」アンドリューは薄ら笑いを浮かべながら手を差し出した。


 ノアが二人の手を重ね合わせて合図を送った。

「レディー・・・・・・ファイッ!」


 一瞬のうちに、ヒルコの優に二倍以上はあろうかと思われるアンドリューの体が一回転した。カエルのようにベチャリと床に叩きつけられる。

 ブタのようなうめき声だけが、その場に流れた。


 息を飲み、静まりかえった教室にガキッゴキッと耳障りな音がした。

「男と違って、女の体は骨格が弱いな・・・・・・」

 ヒルコが、ぶらりと外れた自分の肩の関節をはめ込んでいた。


 イソラの眼は益々驚きでまん丸になった。

 関節を元の位置に戻したヒルコは、覚めた目で床の上で唸り続けているアンドリューを見下ろした。

 手袋の先を歯で軽く噛んで外す。そのままアンドリューの頭の上に手袋をハラリと落とした。

「私はきれい好きなのだよ、子豚ちゃん」


 それからおもむろに、その頭を手袋越しに踏みつけた。

 アンドリューの取り巻きも想定外の状況に、どう対処していいのか戸惑いを隠せない。


 それでも一瞬の戸惑いの後に、彼を助けようと一歩踏み出したノアに向かって、ヒルコが鋭く手で制した。

 その気迫に押されたように、思わずノアの足が止まる。


「悪い・・・な。これは冗談・・・ほんのお遊びだ・・・」

 ヒルコがアンドリューの頭をギリギリと踏みにじる。

 その細い体の何処にそんな重圧を隠し持っているのか、メキメキと嫌な音が響いた。


「止めてくれ!頭蓋骨が潰れるっ!!!」

 苦痛に顔を歪ませ、この現状が信じられない顔つきでアンドリューが目玉だけをかろうじてヒルコのほうに向けた。

「私の下着が拝めるのは、敗者の特権だ」

 草木の一本たりとも育つ事のない、茫洋たる荒野のようなすさんだ笑みがヒルコの唇に浮かんだ。


「強い者は弱い者をいたぶってもいいのだろう。貴様がしていたことだ。

 先生も言っていただろう。

 私は此処での生活に慣れていない。いろいろ教えてやってくれと。

 だから私は貴様に教えてもらったものを、そっくりそのまま貴様に返しただけだ・・・」


 それだけを言い終わると、黒地に一本白のラインの入ったスカートをひるがえし、ヒルコは何事もなかったかのような涼しい表情で自分の席へと戻っていった。


 水を打ったような静けさが支配する中、クラス全員の視線がアンドリューに集中した。あからさまに言葉にはしないが、いつも威張り散らしているアンドリューの屈辱的な様に、面白がるような雰囲気さえそこはかとなく漂う。

『負け犬・・・』そんな囁きさえ聞こえる様だった。


 今や、クラスの支配者からただの負け犬へと成り下がったアンドリューは、悔しさに歯がみしながら、仲間の肩を借りて廊下へと移動した。手袋越しでも、頬にくっきりとついた靴跡。他は打ち身と少し口の中を切って血が滲んでいるぐらいでそうひどい怪我ではない。


 それでも、生まれて始めての耐えきれない屈辱にアンドリューは荒れ狂っていた。

「痛え!痛え!あのクソアマ!ぶっ殺してやる!」

 大げさに痛がりながら、アンドリューの口からはヒルコを呪う言葉が次々に吐き出される。


 教室の中から、アンドリューの恋人のマナ・ミスラが飛び出してきた。

「アンドリュー!大丈夫~?キャ~やだぁ血が出てるぅ~」

 甘ったるい声を上げつつ、アンドリューの口元をハンカチで優しく拭う。


 恋人の芝居がかった叫びにころりと機嫌を直し、アンドリューは虚勢を張って見せた。

「このくらい大丈夫さ。ほんのかすり傷だし。女と思って手加減してやったのが間違いだったなぁ」

 そう言いながら、あイタタ・・・と大げさに顔をしかめてみせた。


「や~ん。すっごく痛そう。あんな奴、アンドリューのパパに言いつけて、懲らしめちゃえば~」

 そう言いながら、マナが体をすり寄せてくる。自分の魅力を知り尽くしているマナは、それをアピールして恥じることもない。

周りの取り巻き連もそれに乗じておべんちゃらの言葉を次々に口にした。


 それに益々気をよくし、アンドリューは偉そうに言い放った。

「いやいや、たかが女一匹。まずは俺自身の力で懲らしめてやるさ。たかが難民のくせに。自分の立場ってものを嫌と言うほどわからせて、アイツの泣きっ面を拝ましてもらうぜ」

 拳を握りしめてにやりと笑う。

「すっご~い!さすがぁアンドリュー」

 マナは、そんなアンドリューにパチパチと拍手を送る。他の取り巻き連も右へならえと拍手した。


 その中で、ノアだけは少し沈んだ面持ちを見せていた。

 彼は、ヒルコに止まれ!と制止された時の体の違和感に戸惑いを感じていた。アンドリューが解放されるのと同時にそれは溶けたが、あの時、指一本ですら自分の意思では動かす事ができなかった。

 ノアは、窓の外から教室の中のヒルコにむかって視線を走らせたが、女の子達に囲まれているヒルコを見ることはできなかった、

 彼は釈然としない気持ちのまま、その群れの中心を見つめ続けていた。




 一日の授業も終わり、ヒルコは部活動見学に来ていた。


「この学校のモットーは文武両道。放課後は全員、部活動に勤しむことが決まりです」

 学校説明の為に校長室に呼び出されたヒルコに、膨らんだ腹を無理矢理ズボンに押し込んだ校長がにこやかに宣言する。隣では真っ赤なシャツを着た教頭が、つり上がった狐目をめいいっぱい下げながらコクコクと同調の意を示していた。


「タヌキ親父に、へつらい狐が・・・・・・」

 ヒルコが小さく呟きを漏らす。


 武道場に続く渡り廊下。


 廊下の端には、深い藍染めの剣道着を身にまとった男子が一人。外壁にもたれて立っていた。

 遠目にもくっきりと映える燃えるような赤い髪。他の背の高い男子と比べても、頭一つ二つ分は確実に抜きん出ているだろう。見上げるような長身に、剣道着の上からもわかる逞しい体つき。まるで、精気に溢れる雄牛のような猛々しさを辺りに発していた。


 歩いてくるヒルコに気がつくと、ゆっくりと肩に竹刀を打ち付けつつ無言で近づいてきた。


 竹刀一本の間合いを残し、二人の視線が鋭くぶつかった。


「何用だ」ヒルコの顎が上がる。


「噂の姫様のお手並み拝見するぜっ!」

 その言葉が終わるか終わらないうちに、空気を切り裂く勢いで竹刀が振り下ろされた。


「無礼者め!まず名を名乗らんかっ!」

 言葉を吐きつつ、素早く体をずらす。

 竹刀の先端が、制服のスカートをギリギリかすめていった。


 赤毛は、いたずらが上手く成功した悪ガキのように楽しげな表情を浮かべた。


「ははっ、こりゃ噂通りの姫様だ。俺はコウジン・ダイキ。姫と同じクラスなんだけどさっ!」

 そう答えつつ、返す手で竹刀を振り上げる。


「姫、姫とうるさい蠅が!」

 ヒルコは、うっとうしげに振り上げられた竹刀の先をグイッとつかんだ。

「我が名はヒルコだっ!」ダイキごとブンッと竹刀を払う。

 ダイキの大きな体が、渡り廊下の先まで吹っ飛ばされていった。


「お前も、奴らのお仲間か・・・・・・」

 ヒルコが暗い光を瞳に灯し、取り上げた竹刀を手のひらに打ち付けながら近づいてきた。


「ち、違う!」ひっくり返った体勢のダイキが、上下逆さまのままで慌てて言った。


「今日は、かったるくって学校フケたんだけどさ。

 いじめられっ子のイソラをかばって、お坊ちゃまのアンドリューを片手でのしちまった奴が居るって聞いてよ・・・興味があったもんで見に来たって訳。

 しかも、ソイツが一見弱っちそうな姫様だって・・・」


 ヒルコがダイキの目の前に立ちはだかった。

「だから何だ・・・」


「いや、ただ単に挨拶がてら・・・」

「ほう、貴様の挨拶とはその相手をぶちのめすことか?」

 一瞬の間があいた。


「なら、私も遠慮なく・・・」

 ヒルコは、ダイキの竹刀を大きく振りかぶった。

「うわ~っっ!タンマ!タンマ!」

 ダイキが逆さまの体勢を慌てて立て直した。しゃがみ込んだまま片手で頭を守り、反対の手で防御の構えをとる。


「お前、正義の味方じゃないのかよっ!」

「馬鹿馬鹿しい。そんなつまらん者にはならん。

 私は弱い者をいたぶる奴も嫌いだが、やられっぱなしで黙っている奴も好かん。やられたらその分はキッチリ返す。それだけの話だ」

「ふ~ん。ただの良い子ちゃんではないわけか・・・なるほどね。

 俺もさ、やられたらやり返す主義だぜ。お互い気が合いそうだよな」

 ダイキはにやっと笑い、袴の埃をパンパンと払いながら立ち上がった。


「フン!貴様のは倍返しというものだろうが・・・」ヒルコは鼻で笑ってみせた。

「へへっ。それはご挨拶と言うモンでね。それで、姫はどの部に入るんだ?」

「弓道部だ」

「え~残念!俺のいる剣道部は選んでくれないんだ!」

 オーバーアクションで残念そうな表情を浮かべ、なれなれしくヒルコの肩に手を回そうとする。

 その手をヒルコはうるさげに払いのけた。


「剣道もたしなみ程度にはするがな・・・ 

 私はその昔、姉兄から半殺しの目に遭わされて、全身の骨を砕かれて、箱に放り込まれ、そのまま海へと投げ込まれた。その時の怪我が元で今でも足が少し不自由なのだ。  

 その後、半死にの私を拾ってくれたジジイのスパルタ教育のおかげで、普通に歩けるほどには回復したが、今ひとつ踏み込みが甘くてな。だから剣道部には入らん」


「は・・・半殺し?何、その過去?

 お前の姉弟って暗黒業界のボスか?それとも政府の治安維持部隊の長か?

 それともお前流のジョーク?

 いや~その話、どこまで信じていいかわっかんないケドさ。

 まっとにかくお前がすげ~奴だってわかったわけで・・・」

 ダイキは、その長身でグイッとヒルコに迫った。


 ヒルコは一瞬よろけ、壁に押しつけられた。

「俺の女になっちゃえよ」

 満面の笑みを浮かべ、肩を引き寄せそのまま唇を奪おうとする。


「脳天までぶち抜かれたいか?」

 竹刀の柄頭がダイキの顎下を強く押し上げた。容赦ない突きにウエッと嘔吐き、ダイキは慌てて体を離した。


「あっぶね~な!姫は!どこまで本気かわかりゃしね~よ」

 ゲホゲホ咳き込みながら喉元を押さえる。


「私は冗談は言わんタチだ。次にやろうとした時は、天井に脳漿をぶちまけられると思え。それと貴様。タバコはやめろ。心肺能力が落ちる」

「な、何それ・・・」

「とぼけるな。臭いのだよ。お前の体に染みついている。

 それにな・・・持久力がないと姫達をかわいがってやれんぞ。

 弱いオスは捨てられる運命だ。もしくは食い殺されるだけのな・・・」

 竹刀をダイキに投げ返し、ヒルコは小さく笑った。そしてくるりときびすを返すと弓道場に向かって去って行った。


 その後ろ姿を呆然と見送りながら、ダイキはウッと胸を押さえた。

「何、やべっ!この胸の高鳴り!コテンパにやられて胸が高鳴るなんて、俺ってマゾか?」

「・・・いつものパターンだろうが・・・」ため息と共に、呆れたような呟きが武道場の中から漏れ出てきた。

「あにすんだよコノヤロ~!」

 続いて武道場の窓から突き出された竹刀で小突かれ、ダイキは叫び声を上げた。


「思いっきりフラれてやんの。かっこわり~!」

一部始終を窓から覗いていた剣道部員達がダイキに向かって言葉を投げかけた。


「うっせ~!ぜって~モノにしてみせっからよ。見てろよ!俺の7人目の女にしてやるぜ!」

 ダイキは、鼻息も荒く周囲に向かって宣言した。


「いや、無理だろ・・・」

「一部始終見学させて頂いたけど、全く相手にされてなかったしな・・・」

「今の6人もすっげ~趣味わりーし。お前、いっぺんメガネかけて世界を見た方がいいと思うよ」

「それにさ、今回はカマキリの雄みたいに、ボリボリ頭から食われるのがオチじゃね~?」


「何だって!もういっぺん言ってみろよ!」

 ヒルコに負けた腹いせもあって、ダイキは中に駆け込むと相手をギリギリと締め上げた。

「今に見てろよ~俺様の魅力トコトンわからしてやっからな!」

 ダイキの絶叫が道場の中に谺していった。



 弓道場にやって来たヒルコは、入部手続きの為に部長と話していた。

「それじゃあ、今日はまず自由に見学してて。手続きが終わったら説明するから」部長はハキハキと明るく言った。


 部員の中にはイソラがいて弓を射ていた。

 ヒルコが来ているのに気付いて、全身がガチガチになっているのが見て取れる。

 射終わったイソラにヒルコが近づいていった。


「イソラ、お前、あいつらが怖いのか?」

 イソラは怯えた目でヒルコを見て、うつむきがちに頷いてみせた


「我慢していれば、いつかは終わるとでも?」

 うつむいたまま唇を噛み、再び頷く。


「臆病者が・・・・」

 吐き捨てるように言うヒルコの言葉を聞き、イソラは顔をくしゃりと歪め、泣きそうな顔をした。


 ヒルコがイソラに話しかけるのを見た他の部員が、少しためらいがちに話しかけてきた。

「イソラ君。タマイシさんに説明してもいい?」

 こくんと小さくイソラが頷いた。

「タマイシさん。イソラ君しゃべれないの。ご両親を亡くされて、それ以降言葉が出なくなったんだって。だから、ね・・・」

 その子はとことん人の良さそうな笑顔で笑って見せた。

「そうか・・・」

 ヒルコは、それだけ言うとその場を離れた。イソラは少しホッとした表情でその後ろ姿を見送った。ヒルコの残り香がまだその場に漂っていた。

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