プロローグ 諸行無常はこの世のことわり
人々の愚かな行為により、終焉をむかえた世界。
地上に降臨した神によって人々は救われた。
しかし、クラスメイトに虐められる生活を送る十三歳のイソラにとって、
この世は地獄のままだった。
そんなイソラの前に、不思議な少女が現れる。
近未来を舞台に、神と人、妖魔に巨大企業の思惑も絡んで進むダークファンタジー。
グェップ・・・・・・ウエッ・・・・・・
喉の奥からせり上ってくる液体の侵食がやまない。
それは何度もこみ上がり、強烈な酸でもって食道を焼いていく。
繰り返される胃酸の攻撃に耐えられなくなり、イソラはオンボロ自転車をこぐのを諦めた。
道はゆるい下り坂。こがなくても自転車は勝手に前へ前へと転がっていく。
再び強烈な吐き気が彼を襲った。
耐えきれなくなったイソラは、ワイヤーが伸びきり効きの悪くなったブレーキのレバーを力一杯握りしめた。
しかし、ズルズルのワイヤーは一向にその役目を果たそうとはせずスピードは落ちない。
両足も思いっきり突っ張ってブレーキの補助とする。
ギュィルギィルと歯ぎしりをするようにその身をきしませ、あえぎあえぎ走っていた自転車は、悲鳴のようなブレーキ音と共に、靴底がこすれる音を辺り一帯にまき散らした。
学校に遅刻しそうなこの時間。それを聞きとがめる人影は周りには誰もいない。
頭上には、無垢な子供の瞳のような澄み渡った空が拡っている。
唯一無二の存在を誇示するかのように、彼の頭上に君臨する太陽は、ダイヤモンドのようなきらきらしい虹と、光の矢をまき散らしながらぐんぐんとその高度を上げる。
何もかもが清々しい一日の始まり。
しかし、自転車にまたがるイソラの表情は、そんな爽やかな朝の景色とは真逆の暗色で塗りつぶされていた。
今から闘技場に引きずり出され、ライオンにかみ殺される己が運命を知る奴隷の顔。
その瞳には運命に対する諦めと、それを自ら選択し、甘んじて受け入れる臆病者の惨めさが見え隠れする。
まだ十三歳を迎えたばかりの身空で、人生の苦役を一身に背負い込んだ弱者の悲哀が彼の周りに色濃く漂う。
そんな少年の顔つきは、ハッと目を引くような派手さこそないものの、なかなかに整って見えた。
とことん混血が進んだこの世界において、とっくの昔に滅びてしまった東の果ての民族の風貌。
その民の住んでいた島は、巨大地震と津波によって、一夜にして海中に没したと伝わっている。
そして、大災害から辛くも生き延び、別の地に移住する事ができた数少ないその国の民達も、その特有な閉鎖的文化の為か、限られた環境下でしか生きられない、か弱い花の様な体質の為か、各々の地での迫害を呼び益々その数を減らしていった。
だから、今では彼らの特徴を持つ者を見ることは殆んどない。
しかし、彼の顔つきは、その民の特徴だけを念入りに選び出し、抽出し、一滴も余すことなくその中に注ぎ込んだかのよう。
月の光で溶いた漆のごとき黑髪。
切れ長の眼に、黒曜石の輝きを持つ瞳。
少し黄みがかった卵の殻色をしたその肌は、長い年月を経て、寄せては返す波によって磨き抜かれた翡翠のように滑らかできめ細い。
それらはお互いに作用し合い、醸し合い、彼の中に一種独特の深い神秘性を創りだしていた。
しかし、病んだ野良犬のごとく疲れ切った表情を浮かべる少年の様は、生来彼に備わっていた美しさを見る影もなく打ち壊していた。
今現在、そこにいるのは、哀れで無力な小動物。
誰の目にも、彼の姿はそのようにしか映らないだろう。そしてその事は、誰よりも彼自身が一番よく理解していた。
そのオドオドと自信なさげに振るまう様が、かえって周囲の無慈悲な扱いを招く事を知りつつも、それを変えられない悲しい弱者の性。
彼はこみ上げる吐き気にせかされ、スタンドを立てる時間をも惜しんで自転車を道の脇の街路樹に倒し掛けた。
道の端には用水路と、それに沿うようにして植えられた柳が並ぶ。
用水路の水が流れ込む大きな川の対岸には工場が建ち並び、仕事の開始を知らせるサイレンが響いてきた。
巨大な歯車がギリギリときしみ動き始める音と共に、あちこちから蒸気がもうもうと吹き出してくる。
一見活気づいて見える街の風景だが、用水路の水は澱んで悪臭を放ち、ガードレールには赤茶けた錆が侵食を始めていた。
川に沿って建ち並ぶ建物にも、磨かれた石畳の道にも小さな亀裂が縦横無尽に走る。
時折、道を行き交う自動運転バスの塗装も色があせ、目に映るもの全てが精彩を欠いて見えた。
ここは聖都を中心として、地下鉄道でつながっている七つの都市の中の一つ、工業都市カラス。
一見賑やかに繁栄を築いているようでありながらも、この街の崩壊の兆しは、街のそこかしこに澱のように積み重なっていた。
生まれてくる子供の数は年を追って減り、大人達も何かしらの病に蝕まれている者が少なくない。
人々の平均寿命は、とうとう前年よりも短くなった。
働けなくなった者や、年をとり動けなくなった者は《イトスギの館》に収容される。
多分そこで最後の時を待つのだろう。
しかし、誰一人帰ってくるものがいない現実の中で、その詳細を知る者など誰もいない。
小高い丘の上に建つその建物の煙突からは、いつも細く煙が立ちのぼっているのが見えた。
もう既に、収容人数をはるかに越える人々が連れて行かれているであろうその事実。
その事に気付きながらも、誰もが素知らぬ無関心を装い暮らしていた。
そんな死の影に怯える一般庶民達をよそに、クリスタルのドームで守られた聖都の神官達は、特別な力で命を伸ばすことが許されていた。
噂では、神に奉仕している彼らは死ぬこともないのだとも言われていた。
もっとも、イソラ達の住んでいる地方都市では、神はもちろん、神に一番近い存在の彼らですら遠目に拝んだこともなかったが。
そんな中、政府は人口減少に歯止めを掛けるべく対策に乗り出した。
量子コンピューターカムイが選び出した優良な精子と卵子を人工授精させ、劣悪な因子を排除した上で人工子宮の中で育てる試みを始めた。
そして、ランダムに選ばれた里親達によって、その子供達を育てさせる制度も始まった。
五年間人工子宮の中で育てられ、この世に生まれ出て来た彼らは、同い年の他の子供達と比べて、頭脳面でも身体能力でもずば抜けた能力を見せた。
彼らは、考え方や行動の面でも他の子供達とは明らかに違っていた。
全てにおいて思慮深く、まるで老賢者のような風格さえ感じさせた。
物静かな彼らは、よく空を見上げてじっとたたずんでいた。
何を見ているのかと周りの者が見上げても、そこには何も見いだせないのが常だった。
彼らは、他の子供達のように、駄々をこねたり我が儘を言ったりする事もない。
人々は彼らのそんな姿を見るにつけ、奇妙な違和感を感じずにはいられなかった。
表だってその事を口に出す者はいなかったが、砂の城が寄せては返す波によって少しずつ崩れていくように、人々の心をジワジワと削り取り、彼らとの間に見えない溝を広げていった
そしてそのプロジェクトと同時に、脳にチップを埋め込まれ、人間に絶対服従するようにプログラミングされたイエティ達が、子育てや家事労働をする為の召使いとして市民達に配られた。
彼らはイソラが生まれた頃に、人の住まない辺境の地で発見され、ちょっとした話題となったが、ほとんどの人はその存在すら忘れ去っていた。
クローン技術で増やされたという彼らの外見は、人間よリも猿に近いように見えた。
言葉を話す事はできないが、人間の言葉をある程度は理解でき、実直で穏やかな性格を持つ彼らは、慢性的な人手不足に困っていた市民達に、必要欠くべからざる働き手としてすぐに受け入れられていった。
今までも、一部の高級役人や、その周囲に群がりおこぼれに与る金持ち連中は、その屋敷の中に召使いを数多く持っているのが慣例だった。
奴婢と呼ばれる彼らは、国民として登録されておらず、人としても認められていない。
ロボトミー手術によって脳をいじられ、完全にコントロールされている彼らは、主人に対して逆らう事などなかったし、例え自由意志があったとしても、それが認められる事など決してありえない。
彼らは、闇業界が非合法のクローン技術で生み出したバイオノイドであったり、人間であったとしても、出生登録もされていない。人身売買によって物のように売り買いされるだけの存在だった。
しかし、それら奴婢はあくまで非合法なもので、公には認められるものではない。
誰もが知っているが、それについては触れることはない。そんなこの国の暗部だった。
そんな中での、今回のイエティ配布は政府から認められた合法的なもので全ての国民に配られた。
非合法な人身売買を止めさせるための対策とも巷では囁かれた。
つまらない子育てや家事などの雑事は彼らに任し、人々は生産のみに力を注ぐように。その為に神は彼らを我々に使わしたのだから。
そう政府からは勅令が出された。
もともと薄くなっていた家族という意識は、彼らが組み込まれたことにより、また一段と薄くなった。
しかし国民放送ではそれは喜ばしいことのように伝えられた。
神に選ばれし聖都の市民は、血縁などを越えた一つの大きな家族である・・・と。
聖なる絆で結ばれし我ら。
この都の民の全てを己と等しく愛せよ、と神は言われた。
カラスの統治を任されている第9神官ネヴァンからの言葉を読み上げる国営放送のアナウンサーは、理想郷の到来、新たな人類の飛躍を謳う。
しかし、それを信じる者はどこにもいない。
誰もが無感動な目をして、ただ与えられた毎日をこなす事に専念していた。
この街は、挑戦という言葉を、何処かに置き忘れてきた老人のよう。
昔からのやり方を、ただ漫然と繰り返してきた工場の生産性は落ちる一方。
品質も悪化し、中央からは改善をうながす文書が日々送られてくる。
しかし、それらの文書は誰にも検討されることなく、役所の片隅に山のように積み上げられるままとなっていた。
昔は、その生みだす富と共に、聖都を支える重要都市の一つとして位置づけられていたこの都市の凋落の様は、誰の目にもまざまざと映っていた。
それでも市民達は、我々が何と言おうとこの世が変わる事なんてありえない、とだんまりを決め込み、事なかれ主義の小役人達は、己の私腹を肥やす事のみに心を砕く。
談合、賄賂、接待が日常的に行われ、一部の者だけが甘い汁にありついた。
それらによってブクブクと肥え太った彼らは、都市を再建するための対策など、労多くして何の利にもならぬ。失敗すれば反対にこの首が飛ぶではないかと、我関せずを決め込んで小指一本動かそうとはしない。
そんな腐敗と諦めの漂うこの街の景色の中にあっても、太陽の光を浴び、流れ落ちる滝のごとき緑の枝をしなやかにそよがせている柳は、命の輝きにあふれ、周辺に向かって生の喜びを謳歌してやまない。
その芽吹いたばかりの若葉は、刈安に藍を重ねた萌黄色。
染め物の瓶から引き上げられ、空気と触れた刹那の絹糸のごとく、きらめく光の粒をその身に集め、艶めき、なよやかに風にそよいでいる。
イソラには、その輝きを放つ枝々が、自分に向かって優しく手招きをしているように見えた。
それが、神が天上から垂らした自分への救いの糸であってくれたなら・・・・・・
イソラは切に願った。
どうか、この現実から逃れさせて・・・・・・
僕を助けて・・・・・・
そんな夢想に、しばしの現実逃避を試みる。
しかし、こみ上げる吐き気は、すぐさま彼を惨めな現実世界に連れ戻した。
その緑滴る救いの糸に隠れるようにして、イソラはしゃがみ込み用水路に向かって嘔吐した。
震える背中がまるで羽化寸前の蝉を思わせた。彼の色あせた学生服に包まれた細い肩が苦しげに上下し、蠕動を繰り返す。
今にもその背中がぱっくりと割れ、そこから、この腐りきった現実世界を抜け出す為の純白の羽が現れるのではないか。
そんな幻想さえ見る者に抱かせた。
イソラの吐き気は、その胃の腑に収まる貧弱な朝食のすべて吐ききっても収まらなかった。
彼は蒼白の顔を苦痛に歪め、涙を流しながらすべてを絞り出すようにして吐き続けた。
ひとしきりの時が過ぎ、やっと吐き気の収まったイソラは、ヨロヨロしながら立ち上った。
行きたくない・・・・・・
そう、声にならない声で呟く。
それでも、彼はその想いを打ち消すように頭を振ると、自転車に向かって力なく歩き出した。
急がなければ学校に遅刻してしまう。
これ以上、欠席や遅刻を繰り返すならば、優良学生から外すから。夕べ電話で学生課から通告された。
その肩書きがなくなれば、今支給されている奨学金が半分に減ってしまう。
それは、イソラにとってどうしても避けたい事態だ。
伯母の迷惑げな顔が脳裏を横切る。これ以上、お荷物でいるのは耐えられない。
それどころか、叔父の家からたたき出されてしまうかもしれない。
孤児院やスラム街で逞しく生きていく自信は、彼の中にはなかった。
両親が亡くなって孤児院に放り込まれた時も、そこからスラムに逃げ出した時も、さんざんな目に合った。
優しげにかけられた言葉は、彼らの力や欲望を満たす為の手段に過ぎなかった。
命令の拒否には暴力がついてくる。それに逆らう術は彼にはなかった。
弱い獲物は、何処へ行っても誰かの餌食にしかならない。その事を嫌と言うほど知った。
たまたま、あの時は人買いに売り飛ばされる寸前に助けられた。
本当に幸運だった。
いや、人買いに目をつけられた時点で、すでに幸運ではなかったとも言えるが・・・・・・
孤児院やスラムよりかはまだマシ。それが叔父の家にいるただ一つの理由だった。
イソラは前髪をかき上げた。
地表から約155センチ。
クラスメイトと比べるとあまりに小さなその体。
それでもそれだけの違いで、彼は用水路の澱んだ水と自分の吐瀉物の匂いから解放された。
海から吹いてくる爽やかな風の匂いを鼻腔に感じる。
その風は、彼の細い黒髪と、なめらかだが血の気が失せて、青ざめた頬を優しく撫でていった。
その風に促されるようにして彼が顔を上げると、その心の色とは正反対の抜けるような青空が彼の頭上に広がっていた。
それは、涙のフィルタ―を通り越して彼の眼の中に飛び込んできた。
工場が操業を開始していない朝だけに見られる澄んだ空。
これから、フル稼働する工場の煤煙ですぐに見えなくなってしまう。
一時だけの曇りのない空。この空の下は、彼にとって悲しみと苦しみだけが存在している。
それなのに、頭上の空は例えようもなく美しかった。
両親がいたあの頃と同じように。
どうして自分だけが残されたのか・・・・・・
言いしれぬ虚無感が、満ちてくる波のように彼の周りに押し寄せる。
それは彼を、より深淵に引きずり込もうとするように、重く冷たいかいなを伸ばす。
その腕に絡め取られ、小さなイソラの体はその重圧に押しつぶされそうになる。
それとは対照的に、傍らで五月の風を受け柔々と揺れる柳。朝日に透け、透明水彩を水で溶いたかのようにみずみずしい。
その若葉の内には、辺り一帯に張り巡らせた根を通して、澱んだ用水路の水も流れているであろうに。そして工場から吐き出される汚れた空気をも吸い続けているであろうに。その緑には一点の濁りも感じられない。
汚濁を飲み込み、それでもそれに染まる事なく己の力で凛と立つ。
それに引き替え、本来は若さに溢れているはずの十三歳。
今まさに、暗澹とした瞳で自転車にまたがろうとしているイソラのほうは、汚濁に侵食され、腐りきった肉体をかろうじて引きずり歩くゾンビのよう。
彼の貧弱な体を包んでいるぶかぶかの学校の制服も、心なしかくすんで見えた。
それが彼の従兄弟からもらったお古であることも、理由の一つなのだろうけれど、それだけではない事は彼が一番理解していた。
彼には両親がいなかった。
家族の絆など薄れつつあるこの世界においても、保護者がいないという現実は厳しいものだった。
両親は、彼が十歳の時に事故で亡くなった。
二人は、街の一角で食事配給の仕事を営んでいた。
上流階級以外は政府から食事が配給されている。
その為に、各街の小さな地区ごとに食事配給所が設置され、近所に朝、夕の食事を配る。
その一つのD9配給所が両親の仕事場であり、彼の家だった。
国営工場で作り出された合成食材を調理し、市民達に配達する。
イソラの両親はその仕事をしていた。
他の地区の配給所の中には、材料の上前をはねて横流しをして利を得る者や、自分達の取り分を多くしたりする輩もいたが、イソラの両親はそのような事に手を染めようとはしなかった。
しかし、配給の食事だけでは足りないのが現実で、市民達は食糧の不足分を闇マーケットで手に入れるのが暗黙の了解事項だった。
そこには、かなり怪しげな食材が並んでいたが、腹を満たすことが先決で、誰も文句を言う者などいなかった。
配給所を営んでいるイソラの家でも、地区の皆で野菜を育てたり、母親が何処からか手に入れた食糧で不足分をまかなっていた。
そして昼食は、配給所ではなく各職場や学校の中で作られ、労働者や学生達はそこで食べる。
貧しさで満足に食糧を買うことができない者達は、その時を逃すまいと食事をかき込んだ。
高齢や病気のため、働けないで自宅に残る者には昼食が配られることなどない。
死ぬまで労働をせよ。
勤勉であれ。
それが市民達に課せられた暗黙のルールだった。
それでも建前上は、国は全ての国民に足りるだけの食糧を配給する。そう憲法上で謳われていた。
住居や教育についても国が保証するのが建前だったが、都市のあちらこちらに闇マーケットと共にスラムも存在していたし、教育など一度も受けたことのない人民もかなりいる事を人々は重々承知していた。
しかし、イソラにとってそんな矛盾は、この世に空気があるのと同じくらい当たり前の事だったし、人々の口の端に上ることもなかった。
その頃のイソラにとっては、年中仕事が忙しい両親に、あまり構ってもらえない事のほうがよっぽど重大問題だった。
イソラの家の召使いであるイエティのハルも、他のイエティ達同様、従順で穏やかな性格で彼に逆らうことなどなかったが、人の言葉を話すことのできないハルは、両親の代わりにはならなかった。
それでも、朝早くから仕事でいない両親に気付き、淋しさで涙ぐむイソラの布団を暖かく、くるみ直してくれるのはハルの無骨な黒い手だった。
イソラの両親はハルを大切に扱い、もう一人の家族のように愛情を持って接していた。
人によっては、人間ではないイエティにかなり酷い扱いをする者もいたが、イソラの両親はそんな場面を目にする度に、眉をひそめていた。
召使いであるハルに対しても優しい両親が、イソラに対して冷淡であるはずもなかった。
そして、イソラの住んでいる地域は、この世界では珍しく隣近所の付き合いや、家庭の温もりが残っている一風変わった場所だった。
誰かが困っていたら、地域の皆で協力し助け合って暮らす。それがごく自然に行われていた。
外に出るまでは、その事を特別だと思ったこともなかったが・・・
イソラは、そんな暖かい人間関係の中で育ってきた。
父も忙しい仕事の合間に、時間を見つけてはキャッチボールの相手をしてくれた。
そしてイソラの自転車の整備も忘れなかった。
お前が怪我をしないように。キチンと整備しておくからな。
そう言って、古いながらも安全に乗れるように手入れを欠かさなかった。
イソラと同じ艶やかな黒髪を持つ母は、遠い太古の神々の話を、折に触れ彼に向かって語ってくれた。
教科書や聖典には出てこない異色の神々の物語。
そこに出てくる、今の言語とは明らかに違うまじないの言葉の数々。
母は、イソラと同じその黒い瞳に、深い神秘の色を湛えて囁いた。
「このお話に出てくるカンナギ達はお前の遠い先祖」
母の指がイソラの額に星の印を描く。そして、そのまま鼻すじを通り唇へと降りてくる。
「お前の中にも、その血が脈々と流れている。でもこれは誰にも知られてはいけないよ」
母の指がギュッと唇に押しつけられる。
いつも優しい母が、その時だけは怖いほど真剣な顔をしてイソラに秘密を守る事を約束させた。
その頃のイソラはこの世界についての何の不満もなかったし、この「今」が変わる事なんて想像した事もなかった。
事故に遭う直前、いつものように両親は店の前で、各家庭に配給する食事を車に積み込んでいた。
ちょうど学校から帰ってきた彼は、忙しげに車に乗り込もうとする母におやつをねだった。
テーブルの上に蒸かし芋があるから食べなさい。
そう言って笑った母の顔。
父は、遊ぶのもいいけど宿題忘れるなよ。
そう言いつつ、自分もかつてそうだったんだという共犯者の笑顔を浮かべ車のキーを回した。
次の瞬間、目の前の光景は飴のように引き延ばされた。
鼓膜を貫き、脳に突き刺さる破壊音。
二人の笑顔が、一瞬で彼の目の前から消えた。
突然、後から突っ込んできたトラックによって、両親の車は見るも無惨な形へと変化した。
大好きだった二人の肉体は、ぺちゃんこに潰された車と判別がつかないほど密着し、ぐちゃぐちゃの肉片と化した。
辺りに漂う、血とオイルの匂い・・・・・・
どのぐらい時が過ぎたのか・・・・・・
その現実に気付いた彼は絶叫し、両の手を血だらけにして、車と両親の肉片とを引きはがそうとした・・・・・・
事故に気づいたハルが、半狂乱になって暴れる彼を必死に止めるまでずっと・・・・・・
漆黒のパワードスーツを着たジャンダルム達が、音もなく集まって来た。
彼らは、黒煙を上げて燃え始めたトラックを見つめ、周囲を取り囲み声もなくただ立っていた。
まるで、何かの逃亡を阻止するかのように・・・・・・
しかし、それすらも目に入らず、イソラはハルに抱きしめられたまま泣きじゃくり続けていた。
二人を轢き殺した犯人からは薬物反応がでた。
何故、トラックの対物障害回避システムが作動しなかったのか。
その理由も、はっきりとは解明されなかった。
彼にとって大事な2人の命を奪ったその罪は信じられないほど軽かった。
死刑にしても足りないと思っていた犯人は、たった十年ほどの罪にしか処されなかった。
裁判所でその判決を聞いた直後のことを、彼はあまり覚えていない・・・・・・
彼の喉から絞り出された野獣の如き咆哮。
赤いセロハンを通して見たような、深紅に染まった風景。
ただ、それだけ・・・・・・
そして意識はフリーズした。
目の前にいたのに、助けられなかった両親への想い。
自分だけが生きているという罪悪感が彼の身を食い破る。
彼は言葉を失った。
唯一の救いは、判決が下されたと同時に犯人が心臓麻痺によって死んだと聞かされたこと・・・・・・
それをイソラに教えてくれたジャンダルムの隊長は、くわえタバコで苦い笑いを唇に浮かべていた。
「坊主、神はちゃんと裁きをしてくれたんだ・・・・・・」そう言いながら、イソラの頭をくしゃくしゃとなでた。
犯人が死んだからといって、彼の両親が戻ってくるわけでもない。
絶望の闇の中、彼の言葉も戻ってくる事はなかった。
身体的な病理現象は見られず、医者は、精神的なものでしょう。さらりとそう言った。いつか、時が解決するでしょう、と。
その日から、彼の世界は変容を遂げた。
無条件の愛の世界は終わりを告げた。何かを得るためには、何かを差し出さなければならない。そんな当たり前の現実を、彼は身をもって知った。
慣れ親しんだ我が家は、全く知らない次の住人の住処となり、別れを惜しむ間も与えられずハルは何処かへ連れて行かれた。
そんな中で、彼の心は削られていく。
最初に孤児院に放り込まれ、そこから逃げ出しスラム街へと迷い込んだ。
そこでは人買いに目をつけられ、あやうく売り飛ばされそうになった。
しかし幸運に恵まれ、ロボトミー手術をされる直前に助け出された。
何処へ行っても、その場所に愛と呼べるものはなかった。
彼は、両親の注いでくれた愛情が二度と得られない事を知った。
そして今は、奨学金を手に入れ、叔父の家に身を寄せさせてもらっている。
しかし心に大きな虚無感を抱え、言葉も失い、人付き合いが苦手になってしまった彼にとって、叔父の家も学校も、安らげる場所ではなかった。
そして、叔父達も、しゃべることも出来ず、厄介者でしかない彼を迷惑げに扱った。
『もっと、可愛らしげに振る舞えば違っていたんだろうか』
少年は思う。
『違う。滲み出る何かが捕食者に知らせるんだ。コイツはお前より弱いって・・・・・・』
ヨロヨロと自転車を漕ぎ出しながら、少年は夕べ必死で覚え込んだ歴史を一生懸命思い出す。
今日はテスト。
学校で教わる歴史は、神の偉大さを褒め讃える。
『この歴史はホントの事なんだろうか?』そんな疑問がふと頭をよぎる。
本当は、そんな考えは口が裂けたって言ってはいけない。
ばれたらジャンダルムにしょっ引かれ、そのまま強制収容所行きだろう。
周りにも、いつの間にか居なくなった人がいる。
でも、誰も何も言わない。無表情な顔の上に、無理矢理貼りつけたような笑顔でもって日々をそつなく過ごしている。
言いしれぬ閉塞感がこの世を支配する。
教科書で教わったとおり、神がおわしますなら、何故神は、この世に悪を残したのだろう?
少年は声にならない声で叫ぶ。