第一話:始まりは一糸を纏わず
ザァ、という音が耳に届いて、おれは我に返った。
一瞬遅れて、それが風で揺れる枝葉の音色だと気づく。見上げれば、緑に切り取られた青い空が見えた。輝く陽光に、おれは目を細める。少し湿った森の匂いが、鼻腔をくすぐった。
再度――風が吹き抜ける。素肌を撫でる冷たい感触に、おれは身を震わせた。
(……素肌?)
ふと、疑問が脳裏を掠める。感じた違和感に従って、おれ――木戸京太は自分の体を見下ろした。なにも着てない上半身と、なにも履いてない下半身。おれはようやく、自分が何一つとして衣類を纏っていないことに気が付いた。
「え、えええええええええ!?」
驚愕が口から溢れた。脳内に「何で」と「どうして」が乱舞する。いきなり自分が素っ裸になっていたら、誰でも混乱すると思う。
羞恥に縮こまりそうになり――そこでおれは、ようやく思い出す。
これは現実ではない(・・・・・・・・・)。
バーチャル・リアリティー。ここは科学の進歩によって生み出された仮想現実の世界であり、この体も0と1で構成されたアバターでしかない。おれは今、仮想空間を舞台とした多人数同時参加型オンライRPG――VRMMOG〈ネバー・エンディング・ストーリー〉、通称〈NES〉をプレイしているはずだった。
新時代の技術は、娯楽すらも新たな領域へ――コントローラーによる「操作」から、電気信号による「体感」へと変えた。VRG対応ハード〈ドリームマシン〉が生み出す偽りの情報は、プレイヤーの脳にまるで実際に体を動かしているかのような錯覚を覚えさせる。
だから今も、裸なのはおれではなく、おれのPC――〈キッド〉である。現実のおれの体は、制服のまま自室のベッドに横たわっているはずだ。もちろん、全身の感覚が再現されたVRGで裸というは、居心地の悪さを感じるものだが――落ち着きを取り戻したおれは、むしろ苦労して手に入れたレアものの鎧や、愛用の長剣が無いことへの疑問と不満を感じ始めている。
「とりあえず、何か身につけるか……」
そう独りごちると、おれは予備の装備を取り出そうと、システムウィンドウを開こうとした。このゲームでは、右手で指を弾く動作によってウィンドウが表示されるようになっている。
慣れた動作で指を鳴らし――そして何も起こらない。
「え……?」
おれはもう一度指を弾く。やはり何も起こらない。見慣れた半透明の、青くて薄い板みたいなステータスウィンドウが出てこない。
「なんで……!?」
何度繰り返しても、ウィンドウは開かない。ウィンドウが開かないと武器や防具を装備できないし、アイテムも使えない。ゲームマスターへのコールも――ログアウトも出来ない。
つまり――おれはゲームから現実に帰れないということになる。
……おれはようやく、自分がとんでもない状況に置かれていることを理解し始めた。何がなんだか良くわからないが、とにかくヤバイ(・・・)。本能が鳴らす警鐘が、いまさらのように脳裏に響き渡る。
混乱する思考の中で――おれはやがて、当然の疑問にたどり着く。つまり、そもそもこれは本当にゲームなのか、という疑問だ。〈ネバー・エンディング・ストーリー〉ではなにも装備していないPCは、下着――短パンとタンクトップみたいな服――が表示されるはずなのだ。つまり、全裸というのはあり得ないのである。
おれもう一度、己の身体へと視線を向ける。取り立てて特長の無い、中肉中背の体。腕にはこの前体育の授業でこさえたアザが浮かんでいて、胸には小さな黒子があった。
VRGでは『操作ミス』を避けるため、リアルと同じ身体データを使うことが推奨される。俺も現実の自分と変わらぬ体型にキャラクターを設定していた。だが、アザだの黒子だのまで入力した覚えは無い。まして、産毛や毛穴まで再現されることもない。
つまりこの身体はPC〈キッド〉ではなく〈おれ〉――木戸京太のものであり、そして。
「これは、ゲームじゃない……?」
己の呟きに、愕然とする。咄嗟に周囲を見渡すが、人の気配は全くなく、同時に景色に見覚えも無い。どこかの山奥、あるいは森の中のようで、高い木々によって切り取られた空からは、柔らかな日差しが差し込んでいた。
ぞっと、背筋に悪寒が走る。「ゲームで迷子になる」というのと「現実で迷子になる」というのでは、感じる焦燥は段違いだ。どっと嫌な汗が噴出すような感覚に襲われ、足が勝手に震え始める。
ここは何処なのだろうか。バーチャル・リアリティー・ゲームはあくまで身体に電気信号を流して偽物の体験をさせているだけだ。現実の身体は部屋のベッドの上から微塵たりとも動いていないはずなのである。
しかし今、俺の周囲は青々と葉を茂らせた木々に囲まれている。むせ返るような深い緑の臭いと、風に揺れる木々のざわめき。遠くから聞こえる鳥の歌声が、ここが慣れ親しんだ我が家でないことを告げている。
「だ、誰かいませんかぁぁぁぁぁ!?」
震える声で叫んでみるが、聞こえてくるのは木々のざわめきだけ。誰かが近くに居たり、近づいてくる様子は無い。
じわりと、心で不安と寂寥が広がった、その時。
「――!」
(……!? 人の、声!?)
確かに聞こえた、誰かの声。俺の心に光が差し込んだ。人が居る。助けを求める事が出来る。
「誰かいるのか!? 居たら返事をしてくれ!」
「――いる! いるから! 超いますからぁー!」
俺の呼びかけに、今度は明確な言葉が聞こえてきた。そのことに安堵しつつ――おれは眉を寄せた。なんだか声に聞き覚えがるような気がしたからだ。
「やれやれ助かったぁー。いやー、一時はどうなるかと思ったけど、近くに人が居て良かったよ。っていうか地図もレーダーも無しで森に放置プレイとかどんな無理ゲーって感じだよねー」
がさがさと盛大に音を立てながら、ぺらぺらと喋りながら、枝と茂みを掻き分けて姿を現したのは――おれと同じくらいの年頃の、小柄で痩せた少年だった。そして驚くべき事に、とても見慣れた顔をしていた。
「このまま遭難してゲームオーバーとかになったら本当にどうしようかと――って京太じゃん!」
「幸平!?」
それはクラスメイトであり、中学時代からの親友、紺野幸平だった。