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しおりいと

作者: ¡no pasarán

 その昔、戦争があった。

 戦争は辺境の国境にも訪れたので、土着の猟師を招集して警備に就かせることになった。

 しかし軍は辺境を滅多に通ろうとせず、兵士となった猟師達は相変わらず猟師らしく暮らした。

 その一人であるズンダは、戦争も終わりかけた頃に密命を帯びて峠の山小屋に潜伏した。

 しかし翌日、折しも戦争は終わり、見たこともない祖国は崩壊した。そして、ズンダの密命も忘れ去られてしまった。

 だからズンダは、もうずっとその山小屋に居て、密命を守り続けているのだ。


   ***


 ズンダはその日も、鹿を捕らえるために仕掛けた罠を確かめに回っていた。冬とは言っても大体一匹や二匹は掛かる筈なのだが、どれにも鹿の姿は見当たらなかった。こんなのが二週間も続くので、ズンダは文句を言いながら鹿の塩漬け肉を食べてばかりいる。塩分が高いので血圧も上がり、輪をかけて気難しくなっていた。

 落ち込んで山小屋に戻ると、珍しくオモンダが来ていたので、ズンダは一言二言恨み言を言いつつ招き入れた。オモンダは若くて腕のいい猟師仲間で、ズンダの処へはひと月に二度三度、麓の診療所から薬を届けにやって来る。

 ズンダの出した温かい茶を一口して、オモンダは口を開いた。

「戦争が始まったらしいぜ」

 ズンダはそれを聴いて飛び上がった。ということは今の今まで戦争は終わっていたのか!?

「何を今更。前の戦争から四十年は経ってるぜ」

 そうだった。ズンダは戦争の最後の日、何か酷い災厄に見舞われ、幾つか記憶を失ったのだが、それから時々記憶が混乱するようになってしまったのである。彼はその頃からある後頭部の膨らみを優しく摩った。

「まあ、起こったのは南の方だからこっちは関係ないだろうさ。それにいざとなればここいらの猟師がそのまま猟兵に早変わりだ」

 そんなもんかね。あまり楽観的でないズンダはそう思いながら茶を一口し、口をゆすいだ。

「それよりズンダ、そろそろあんたのお宝を譲ってくれんかね」

 ズンダはオモンダを睨みつけた。これで百回目かそこらである。オモンダという奴は小さな頃から同じことばかり言ってくるのである。やれ、なになにがあった、これこれはほんとに旨い、それそれは良くないみたい。そしてお宝をくれ、である。

「いいじゃないかよ、戦争だって始まったし。それにあんたは罠猟ばっかりじゃねえか、滅多に鉄砲なんて使わねえだろ?」

 ズンダはまた茶を一口して口をゆすいだ。いつも塩漬けばかり食っているので、いくらゆすいでも口の中がしょっぱい気がするのだ。それはともかく、オモンダがねちねち煩いので、そろそろ帰るよう頼んだ。もちろん気難しく、である。

「はいはい、また血圧上がるぞ全く。婆ちゃんに言いつけんぞ」

 ズンダに動悸が走った。オモンダの祖母のミンチカは巨体で有名で、しかも生まれてからこっち、ずっと性悪である。ズンダは小さい頃に酷く苛められていたから、その後遺症が今も尾を引いているのだ。ズンダはそれを振り払うように勝どきを上げ、オモンダを追い散らした。

「薬ちゃんと飲めよー」

 遠ざかるオモンダは優しかった。


 ***


 空が晴れていさえいれば、都会人が勝手に捨てていったラジオは調子がいい。丁度この日は晴れていたから、ズンダは国営放送アンテーヌ・ドゥに目盛を合わせた。俳優とはまた違って良い声をしたアナウンサーが言う処によれば、戦争は敵方の奇襲から始まり、それも今日の明け方には南方の飛行場が初空襲を受けたということだった。

 ズンダの国は熊に食いつかれんとする林檎のようにして敵国と国境を接していたので、南方で戦争が起こったと言って北方でも起こらないとは限らない。ズンダはまだ呆けてはいなかったので、戦争が終わっていることは理解していたが、自分の受けた密命が半永久的に意味を持つことは心得ていた。何より彼は崩壊したかつての祖国に忠誠を誓っていたのであって、現在の腑抜けな共和制民主主義国家というやつには愛着がなかった。ズンダが愛するのは国であって国家ではない。そして密命は国、故郷の為のものなのである。

 やるか。ズンダは一人呟き、最後の一杯の茶で口をゆすいだ。心なしか塩気はとれたが鉄の味がし、指を突っ込んでみると口の中が切れていた。ズンダにとっての戦争とは、図らずも歯を噛み締めてしまうくらいに辛酸なものなのである。それは殆ど何もしないまま戦争に敗れ、国の崩壊を遠くで見ているしかなかったことに大きな原因があった。

 今度こそは、とズンダは安楽椅子から立ち上がり、地下貯蔵庫へ降りていった。前の戦争で軍から支給された小銃を、後生大事に保管しているのだ。それは杉の箱に収められ、油紙で何十にも包まれて半世紀近く眠っていた。

 ハーモニカを円形にしたような銃口制退器マズルブレーキ、五条右回り、紅鉛鉱鍍金クロムメッキの施された重厚で贅沢な銃身、極めて簡潔な機関部とその代償である単弾倉遊底作動方式シングルローダー・ボルトアクション、不釣合いな木製銃床とその先端の二脚。

 高価で重く、そして弾は一発ずつ込めるしかない。しかし使用する弾丸がそれらすべてを補って余りある力をこの銃に与える。13×110ミリの親指ほどもある大口径高速弾は一千二百メートル先の重厚な防寒具を着込んだ兵士を打ち倒し、巨大な灰色熊でさえ仕留めることが出来る。ズンダは初めてこの大型小銃を持った時、高揚感と共に恐れを抱いたのを覚えている。人間にとってはあまりにも過大な破壊力を持つこの銃は、もちろん人間相手に使うものではない。前の戦争で現れた鋼鉄の野獣の顔面を打ち抜く為に作られた、獣殺し(スマウロコ)なのだ。

 これを任された者は、否応なく鋼鉄の野獣と対決せねばならない。野獣は一千メートル先から大砲を撃ち込んでくる。三百メートルからは機関銃がそれに加わる。そしてこちらの小銃弾などは豆鉄砲のようにして弾いてしまう。獣殺しを持って来た技術士官がそう言って何度も忠告していたものだ。

 ズンダは獣殺しの機関部を分解して、そこに満遍なく塗りつけられた機械油を拭き取った。彼は年に二度油を塗り替えていたから状態は良く、ボルトも正常に、勢い良く作動した。次いでズンダはブリキの弾薬缶を開き、深いオリーブ色をしたグリスに包まれた十三ミリ弾を一発ずつ引き抜いて拭う。その内の一発はズボンのポケットにしまって、貯蔵庫を出た。

 ズンダがそのまま家の外に出て煙草を咥えると、後ろで扉の軋むのと重なって遠い響きが聞こえた。空の高い処を、鳥の群れが周回している。それが不思議なことに白い尾を長く引いているので、ズンダは驚いて目を見張った。そんな鳥は生まれてこのかた見たことがなかったからだ。しかしやがて、機械仕掛けの翼竜(アヴィヨン)だとわかった。

 ズンダはポケットの弾丸を取り出し、それを弾頭と薬莢に分離して発射薬を少し灰皿へ削り落とした。これを壁際の棚に置き、その上でオイルライターのフリントを擦る。油が跳ねるように火花が散った。


   ***


 軍隊が辺境を通るなら、必ず道を行くものだ。

 ズンダの故郷は北方の辺境にあって高地だ。そこを通るには峠を行くしかない。

 雪は深い。スチールの主殻を熊毛で覆ったヘルム、猟兵仕様の古い冬季防寒具を着込んだ上、ズンダは重苦しい獣殺しを引きずって、峠道を望む古い観測壕へ上がった。壕は山の斜面にそびえ立つ断崖の横穴にあり、頭上には巨大な岩盤が被さって三百キロ爆弾の直撃にも耐えうる。

 ズンダは獣殺しに装着されていた専用のソリを取り外し、二脚を広げて土嚢を積んだ壕のへりに据え付けた。次いで照準眼鏡スコープを装着し、測距の目安となる目印を確認する。欠かすことなく手入れしていたから、眼鏡に曇りはない。

 獣殺しの十三ミリ弾用に調整された四・五倍率照準眼鏡の十字に、峠へ繋がる渓谷に掛けられた吊り橋が写る。半世紀前は貨物自動車でも一台ずつ、しかも用心してやっと渡れるだけの橋だったが、十年前に支塔を補強して架け替え、より重いものも渡れるようになった。重要な交通路は軍隊の進撃路にも成りうるということを、長い平和が忘れさせた良い例だった。ズンダと同じく、ここの峠も忘れ去られているらしかった。

 ズンダはそのまま吊り橋を監視し続け、鹿の塩漬け肉に文句を言いながら夜を迎えた。若ければ眠くなるだろう時間だったが、生憎老いているので睡眠はそれほど必要なかった。気温が下がって吐く息は水蒸気のようになり、ズンダは雪を口に含んでそれを消そうと努めた。

 今日は来ないだろう。ズンダは月が頭上高く登ってまた下がり始める頃、眠った。


   ***


 ひどい夢だった。

 ズンダはかび臭い寝袋の中で目を覚まし、思った。そうして横穴の外を見た。空は重く灰色に、雪を降らせている。

 夢じゃなかった。ズンダは落胆して口をゆすごうとしたが、そこに暖かな茶はなかった。仕方ないので水筒に入れてきた茶を飲もうとしたが、どうにも冷たくて嫌だ。よし、湯をわかそう、と手近な箱を応急のコンロとし、次いで燃やすものを探していると、すぐ近くに人の顔があるのを見つけて飛び上がった。

「やっぱりここだったな、ズンダ。そのデカブツで橋を見てみな」

 オモンダだった。見慣れない模様を顔に塗りつけ、濃緑色の中に白目が目立つ。

 ズンダは取り敢えず、言われた通りに照準眼鏡を覗き込んだ。

 雪のせいで視界は悪く、四百メートル程向こうにある吊り橋のこちら側は見えても、向こう側は霧に飲み込まれるように霞み掛かっている。主ケーブルと支塔には雪が積もっているのがわかる。そこから視界を下ろすと、四・五倍に拡大されてはいるものの、精霊ニングルのように小さな人間達がちょこまかと動き回っているのが見えた。兵隊だ、敵だ。

「あの通り、橋は取られちまったよ。敵の斥候はもう峠辺りに来てる」

 なんてことだ。ズンダは呆然と照準眼鏡から顔を上げ、ため息をつくように長く、白い息を上げた。もう随分老いたつもりが、子供のように良く眠り、青年のように考えなしだった。自分が寝ている間に、全て終わってしまったのか?

「いいや、斥候は猟師連中が仕留める。問題は橋だ。戦車が来るぞ」

 その言葉を聞いて、ズンダは胸の高鳴りが静まっていくのを感じた。鋼鉄の野獣がここへ来るのだ。そして獣殺しがあれば、充分に食い止めることが出来る筈だ。

 しかし何時まで? ズンダはどうしても聞かなければならなかった。

「今日中は無理だ。軍は雪のせいで遅れてるが、来ても五、六百かそこらだ。それまでに守りを固められたら、もう取り返せねぇ」

 ズンダが目を丸くして絶句したのと時を同じくして、雪の霞みの向こうから唸り声が聞こえ始めた。それは段々大きくなる。やがて耳障りな金属音が混じり始める。

「来やがった! 無限軌道キャタピラの音だ」

 オモンダが叫び、ズンダは獣殺しを構えた。しかし橋は中程で霞みに埋まっている。

 野獣の唸りは幾重にも重なり、群れとなっていることを示している。ズンダはもう細かいことは考えず、ただ照準の十字に集中した。動き回っていた敵兵は進路を空けようと橋の上から退き、視界の中にはただ雪と、その向こうに霞みへ渡る橋があるだけだ。

 霞みにぼんやりと光が浮かび始め、やがてはっきりと灯りの筋が漏れた。探照灯、野獣の目だ。ズンダは引き金に指を乗せ、その遊びを確認した。そうして何度も確実に引く動作を繰り返し、心を鎮めようと努めた。だから、吹雪を突っ切って走り来る機関車よろしく、霞みを破いて現れた野獣へ素早く狙いを定めることが出来た。

 冬毛に生え変わって白くなった野獣は、橋の上をゆっくりと確かめるように進んだ。野獣の頭たる砲塔からは戦車兵が顔を出していて、前方に開かれたハッチは二つ並んで耳のようにも見える。その後ろに間を置いてもう一匹の野獣が姿を現し、背の高い独特の姿形が橋のこちら側に三つ並んだ。

「どうする」

 オモンダの声に、ズンダはただ引き金を引いてみせた。十三ミリ弾は一気に加速され、銃口を出る頃には音の二倍を超えていた。強烈な反動はズンダの肩を打ち、衝撃波と猛烈な発砲炎が目と耳を一瞬不能にさせる。ズンダが肩の鈍痛に顔を歪めて目を開くと、もう橋へ吸い込まれつつある赤く灼熱する光の尾が野獣へ到達し、右側頭部の傾斜に当たって激しく火花を散らした。ズンダは思わず歓声を上げる。

「やったか」

 オモンダは興奮したが、ズンダは違った。弾丸は弾かれて明後日の方へ飛んで行ったのだ。しかし初弾が命中すれば十分である。肩の痛みはあったが、ズンダはボルトハンドルを引いて薬莢を引き出し、手元の弾薬ポーチから次弾を抜き出した。それを薬室に押し込み、再度ハンドルを戻しつつ命中を祈る。

 照準眼鏡の十字には、被弾して停まった野獣の上で双眼鏡を構える戦車兵が捉えられた。ズンダは引き金を引く。

 肩に走った衝撃に、ズンダは悲鳴を漏らした。煙を引いて飛ぶ曳光弾は野獣の頭頂部に命中したが、角度が浅すぎて弾かれてしまった。

 もう撃てない。銃床に簡単なバネ仕掛けの緩衝器が備わっているとは言え、限界だった。ズンダは肩の筋肉が僅かに痙攣するのを覚え、右肘より先が痺れていくのを感じた。そうして半世紀という時が如何に自分を老いさせたかを実感し、オモンダを見た。

「よしわかった」

 オモンダは一瞬戸惑ったようだったが、すぐに目を輝かせ、むしろズンダを押しやるように獣殺しを構えた。ズンダは測距の目安である大木や標識を教え、橋までの距離を四百メートルとして、照準線の一目盛り上を狙うよう念を押した。しかし衝撃について忠告する前に、若い獣殺し使いは引き金を引いてしまった。

 放たれた弾丸は光の尾を引き、その灼熱によって薄く煙さえ引いた。そして一瞬にして野獣の胸に命中して大きな火花を散らした。

「やった」

 オモンダは拳を上げた。しかしそれはすぐ力なく開かれ、ボルトハンドルへ伸びた。弾丸は命中したが、野獣の重厚な皮膚を貫くには至らなかったのだ。ズンダは新たな銃弾を手渡しながら、獣殺しも同じく老いた存在になってしまったと感じた。凡そ半世紀前、獣殺しはどのような野獣も貫くことができた。しかし草食恐竜が牙を防ぐ装甲を進化によって獲得したのと同じく、野獣も獣殺しを弾くよう進化したのだ。

 オモンダは反動を気にしていないのか、素早く次弾を込めて狙いを定め始めた。

「野郎、急所は何処だ」

 そうだ。ズンダは肝心なことを忘れていたのに驚き、目を見開いた。我々は猟師だ。わざわざ獣の強い処を狙いはしない。

 遠く、自分に獣殺しの扱い方を教えた技術士官の言葉が蘇る。

“足を狙って動きを止めたまえよ。そうすれば寸分違わず狙った処へ当たる”

 オモンダは野獣の足を狙い、二発で無限軌道キャタピラを断ち切った。

“もし貫けないとわかったなら、弱点を狙いたまえ。人の作ったものだ、必ずあるだろう。例えば側面、正面より鉄板が薄い“

 オモンダの放った弾丸は野獣の側面へ吸い込まれた。しかし角度が浅く、火花を散らしただけだった。

“それで駄目なら背面だ。より薄い。全て駄目なら君、上面だよ。心臓は熱を逃がすために開かれている。排熱板から弾丸を飛び込ませ、発動機を粉砕してやれば、鋼鉄の野獣と言えど半分死んだも同然だ”

 オモンダは注意深く野獣の心臓への入口を探した。それは背中にあったが、これだけ遠くては排熱板の網目など確かめられる筈もなかった。だから、彼はただ祈って引き金を引いた。

 弾丸は野獣の側面に当たって弾き返された。そして、その顔面が確かにこちらへ回ったのをオモンダは見た。位置を掴まれたのだ。これが熊であれば十分にやり様があったが、生憎この野獣は一千メートル先からも相手を叩きのめすことが出来るのだ。

「おっ」

 オモンダの声に合点がいったズンダが彼の肩を掴むより前に、野獣の鼻先が火を吹いた。野獣に備えられた四十七ミリ砲の高性能榴弾は凡そ一秒半をかけて飛来し、観測壕下の崖で炸裂したが、二人が体を伏せるには十分な時間だった。

 爆散した砲弾片のいくつかは観測壕上の岩盤に跳ね返り、その内の一つは伏せていたズンダの額に的中した。酷い肩凝りを招くだけと思っていた、いささか重すぎるヘルムが役に立った瞬間だった。だが衝撃は重く、ズンダは短い悲鳴の後に突っ伏してしまった。

 酒に酔ったのを更に酷くしたような目眩で、ズンダは朦朧もうろうとしていた。そこに獣殺しへ飛びついたオモンダが懲りずに何度も撃つものだから、その度衝撃が頭に響いてズンダは呻いた。獣殺しの轟音に同調するように、脳裏には幾度となく爆発のイメージが現れ、段々と鮮明になった。

 それは半世紀前、峠に架けられていた吊り橋によく似ていた。いや、むしろそのものであるように彼には思えた。吊り橋の支塔、その根元に埋め込まれた爆薬が炸裂し、残骸が渓谷へ落下してゆく。その中には兵士の姿が見え、古めかしい赤ズボンからして敵兵だった。ズンダは混沌の中で心の目が開かれるのを感じた。思い出したのだ。半世紀近く前、吊り橋に仕掛けた爆薬のことを。

 足は言うことを聞かず、右手は痺れていた。だからズンダは片手で這い回り、半世紀前の箱を探した。深いオリーブ色の鉄の箱。その中には爆薬の遠隔指令器が収められている筈である。それは思いの外早く見つかった。今朝、ズンダがコンロにしようとした箱だった。

 錆び付いた掛金錠を苦労して開くと、幾重もの繊維が珠のれんのように張り出された。蜘蛛の糸だ。中に入ろうとして出来たのだろうその織物は、ズンダにとって自分の記憶に直接張り巡らされたものに見えた。それを指で絡め取り、箱の中を探る。

 半世紀経って中の発電機が生きているか定かではなかったが、とにかくズンダはT字形の起爆レバーを立てた。そこで有線式なのを思い出し、箱から伸びているだろうコードを探した。それは側面から壕の床土へ伸び、消えている。手繰り寄せてみると埋まっていた部分が土を押しのけ現れ、絶縁体のエナメルもまだ朽ちてはいなかった。野獣の群れが釣瓶つるべ打ちに壕を叩く中、ズンダはレバーを力一杯押し込んだ。

 レバーの先端に取り付けられた幾つもの突起が接続する歯車を勢い良く回転させ、そこから伸びる胴に巻きつけられたコイルが電流を発生させる。それは一瞬にして銅線を伝わり、爆薬の雷管へ到達した。雷管内に伸びて起爆薬に接するワイヤは電流によって発熱し、極めて鋭敏な雷酸水銀は瞬時に燃焼衝撃波を発して激しく爆薬を刺激した。それに対して、土の中に埋められた爆薬は、湿って腐り果て、死んでいた。

「どうした」

 ズンダが落胆の余り叫んだので、オモンダはこの這いつくばる悪霊のような老人に駆け寄った。

 最後の望みが絶たれるというのはこういうことなのだ。四十年という月日は余りにも長すぎた。それは爆薬を腐らせるだけでなく、老いた猟師の生きる支えとなるには十分にすぎた。峠の山小屋で密命を守り続けた猟師は、遂に役目を果たせそうになかった。それこそが、今や生きる目的の大きな要素になっていたのにも拘わらず。

 しかし。ズンダは思った。密命とはなんだ、と。心配そうなオモンダが体を揺する中、彼は無声サイレント映画のように点滅して速度を落とす視界で世界を見る。ズンダは記憶の階段を一段一段降りていく時間を手にしたらしかった。そして、そこに探すものは見当たらなかったのである。


 そうか、今までなんとなく、不確かにこうすることを考えていたのだ。しかし、実際の命令について、自分は何一つ覚えていない。忘れてしまったのだ。あの、戦争の最後の晩にひどい事が起こって、多くのことを忘れてしまった。その中に、密命も入っていたのだ。馬鹿な。これは全く馬鹿なことだ。間抜けだ。ズンダは思わず微笑んだ。とても苦しくなり、それが限度を超えると人はこのようにして笑うらしかった。

 ズンダは頭に来て、たまたま手に触れたコードを勢い良く引き寄せ、噛みちぎろうと歯を剥き出しにした。目は充血し、目尻から涙が流れ、不気味に脂汗を浮かべてコードを噛みちぎろうとする姿は、オモンダにとって戦争の恐ろしさそのものに見えた。しかし止めずにはいられない。彼はなるべく穏やかに、なだめるように言った。

「やめとけよ、そんなの鉄砲か斧でもねえと切れねえって」

 ズンダは構わずコードに歯を立て唸り続ける。それでも足りないのか、指先に巻き付いた蜘蛛の糸を痺れる右手で無理矢理掴み、勢いに任せて引きちぎろうとした。

 糸はリールから引き出すように伸び、その途中々々に朽ちた羽根や抜け殻を巻き込んで繰り出され始める。そしてある一点で複雑なもつれを生み、遂に固く結びとなって糸を引き伸ばす。如何に強靭とは言え加え続けられる張力には耐えられず、断裂した両端は蓄積されたエネルギーによって反対へと弾き返された。そうして、ズンダは糸に絡まった抜け殻が、断裂の衝撃によって落下していくのを見たのである。

 ズンダはその日何度目かわからない驚きに目を剥いた。同じく思いきり歯を食いしばったので、固いコードに負けた奥歯が軋みを上げた。その激痛にのた打ち回りながら、ズンダは必死に訴える。峠の橋は吊り橋なのだ。つまるところ糸を切れば蜘蛛は落ちる。そしてケーブルを撃ち抜けば橋も落ちるに違いない。

「よし、まかせろ」

 オモンダはのた打ち回るズンダを背に再び獣殺しに飛び付いた。野獣の群れは先頭が足回りをやられているので橋から進めず、撃ち続けている。しかし照準器が出来損ないなのか腕が未熟なのか、砲弾は壕の周りを叩くだけである。オモンダはズンダの言う通りに支塔から伸びる主ケーブルを狙った。この距離だとまさしく蜘蛛の糸のように細く、照準線で隠れてしまう程だ。しかし、彼は若く視力に優れ、腕の良い鉄砲猟師アヤベマタギントなのだ。

 雪はいよいよ激しくなった。彼らの言葉で言う吹雪ウプンが近付いているらしい。オモンダは重く灰色の空を睨み、風が強く北へ吹いているのを感じた。風は橋へ向かって吹いている。

 オモンダは水平へ流れる雪の弾幕に視界を遮られつつ、撃った。光の尾は一瞬橋の上へ向かい、次いで引き寄せられるように橋へ下った。弾丸は支塔の縁を削り、外れた。反動を受け続けた右肩は鈍痛を示していたが、彼はただ眉間にしわを寄せ、構わず次弾を装填した。

 照準眼鏡の中で、足回りをやられた先頭の野獣が押し退けられられるのが見えた。後続の群れが煌々(こう々々)と探照灯を照らし、次々に橋を渡っている。オモンダは焦りを押し殺そうと深く呼吸し、それと合わせるよう引き金の遊びを確かめた。照準線の動揺は次第に最小へ近づき、オモンダは引き金を引く。

 風雪を貫き、光の尾は橋へ吸い込まれていく。しかし、主ケーブルを目前にして激しい乱流に巻き込まれ、僅かに角度を変えた。弾丸は今度、欄干に当たって火花を散らした。

 しまった。オモンダは力なく呟いた。

 山の風は互い違いに吹く。複雑な地形がそうさせるのだ。そこに吊り橋のように強力な抵抗となる構造物があれば、風はそこで激しく渦を巻き乱れる。今日のような日にその流れを貫くには十三ミリでもまだ軽すぎる。次いで放った弾丸も、狙いを逸れて橋桁を削っただけだった。

 風音と野獣の唸りに混じって、何かが弾ける音が響き始めた。最初それはひょうあられのように思われたが、飛び散った岩の破片が手を打ったので、小銃弾だとわかった。オモンダは照準眼鏡でそれが何処から来るのかを探す。橋を渡った峠道を野獣の列が登り、その周囲に精霊ニングルのようにちょこまかと動く歩兵が続く。オモンダはそこから視界を下げ、峠道から斜面を登った処に、逆扇形に散開した集団を見つけた。扇は壕を囲むように四つ開かれ、そこから盛んに撃ってきている。山岳猟兵シャスル・アルペンとして近代戦の訓練を受けていたオモンダには、彼らが分隊ごとに交互援護しながら近付こうとしているのがわかった。距離は二百と無い。

「ズンダ」

 答えはない。オモンダはもう一度叫んだ。

 自分を呼ぶ声を聞いて、既に疲れ果てていた老猟師は咳き込んだ。この歳になると何かにつけて痰が溜まるものなのだ。特にこういった埃っぽい場所で寒風に打たれ、今さっき絶望に打ちひしがれて激昂したような時には。

 粘り気の強い粘液の固まりを吐き出し、ようやく立ち上がった老猟師オンネマタギントは若き鉄砲猟師アヤベマタギントの肩を掴んだ。

「歩兵が来る。撃てるか」

 ズンダはすぐに銃を探した。そして壕の壁に立て掛けてあった大型小銃の負い革(スリングベルト)を掴み、撃てるかどうか確かめるべく構えてみた。それは軍がオモンダに支給したもので、恐らく保管されていたものを持ち出したのだろう、ズンダにも見憶えがあった。

 8×55ミリのリム付きライフル弾を半円弾倉セミサイクルマガジンで二十五発装填でき、蛇腹状の空冷フィン付き銃身と反動利用式ショートリコイルの機関部によって、プレス加工と木製銃床の組み合わせから来る不釣り合い且つ重たげな見た目とは異なり、比較的軽量である。そして、銃身の先端に備えられた漏斗状の反動増幅器リコイルブースターに助けられることで、分間250発と不足ながら連射が可能だ。つまるところ軽機関銃である。

 右手の痺れは和らいでいたが、肩の痛みは熱を帯び始めていたから、右肩で銃床を受けるのは難しかった。ズンダはそれに足して奥歯の痛みを抱えながら、左肩で銃床を受けてみる。使い勝手は悪いが、なんとかなりそうだ。ズンダは銃身下に折り畳まれた二脚を開き、オモンダの右側へ体を横たえた。

 敵との距離は二百メートルに縮まったとは言え、照準眼鏡もない単純な環孔照門ビーブサイトでは正確な射撃は望めない。とはいえズンダは老いていたし、老いた目は近くは見づらくとも遠くは良く見えた。ズンダは敵を釘付けにするべく逆扇隊形の端を狙い、二発、三発と撃った。その度ボルトハンドルが勢い良く前後し、薬莢の弾き出されるのと同じく反動が肩に響く。しかし弾丸は敵兵の周りに雪を飛ばし、口径にしてはうるさい発砲音も彼らを威圧するには役立った。

 地の利はこちらにある。オモンダは歩兵を無視し、野獣を撃ち続けた。野獣は斜面を登れないのを理解しているらしく、峠道に沿って進みながら壕を猛烈に叩いた。一列に並んだ野獣が次々に撃つので、彼には段々と着弾が近付いているように思えたが、気にせず急所に集中した。野獣の目たる視察孔スリットは余りに小さ過ぎて狙えず、眉のように生えた潜望鏡ペリスコープも、相手が動いては止まりを繰り返すのでまず当たらなかった。そこで足回りに集中したものの、頑丈な鋼鉄で出来ているだけあって一発では破壊出来ない。いよいよ焦ったオモンダは、至近弾の発する低く短い擦過さっか音に気付けなかった。

 野獣の放った砲弾は壕の入口の岩盤に命中し、瞬発信管によってその場で炸裂した。灼熱する破片の殆どは外側へ散ったが、幾つかは内側へ飛び込んだ。その一つがオモンダのすぐ前に積まれた土嚢を引き裂き、獣殺しの銃床を削りながら右の鎖骨下へと食い込む。

 炸裂の衝撃波で床土に押し付けられたズンダは、傍らのオモンダが突っ伏しているのを見て思わず叫んだ。すぐに肩を引き寄せて仰向けにすると、分厚い防寒具の胸の辺りが滅茶苦茶に引き裂かれ、赤く血を吸った綿が露わになっている。急いで防寒具のボタンを外して開き、血に染まった綿入れを捲り上げて傷口を探す。だがそうするまでもなく、ズンダは右の鎖骨辺りに突き刺さった弾片を見つけた。胸が上下する度に流れ出る血は勢いを増し、オモンダは苦痛に呻き声を上げる。

 ズンダは必死に、しかし何故か鹿を捌く際の事を思い出そうとしていた。肉にする為にまず血を抜かなければならないが、その時に流れる血はどんなものだったか、と。鹿の血を抜くには、血管を切るのが一番だ。それも勢いの強い動脈でなければならない。動脈を切れば噴水のように血が吹き出す。

 そうだ、血抜きの血は流れるのではなく、吹き出すのだ。オモンダの血は吹き出してはいない。当たり所も、骨はやられているとしても急所を外している。

 大丈夫だ。大丈夫に違いない。ズンダは祈るように繰り返した。

「大丈夫じゃねえよ、爺ちゃん(エカシ)

 このうるさい若造の声を聞けて、こんなに嬉しいことはなかったと、ズンダは深く感じた。だから、何時もと違う風に呼ばれた事には気付かなかった。


   ***


 戦車長タンカ・カマンジールは苛立ちを隠せずにいた。既に作戦の第一段目標の達成予定を一時間近く超過しているのである。景気づけに蒸留酒ウォトカを引っ掛けてきた彼は著しく感情的になっており、砲尾を挟んだ右側で砲弾を装填していた砲手カーナチクの肩を、早くしろとばかり拳で打った。砲手と言えば、もうずっと八つ当たりに罵声を浴びせてくる戦車長を激しく憎み、被弾した戦車が火を吹こうものなら、奴の頭を足蹴にし黒焦げ(ウェルダン)にしてやろうと妄執もうしゅうに鼻息荒い。

 栄えある帝国首都スラーヴァヌィ・インビェーリ・ストリチナに育った食堂の次男坊たる若き戦車長は、このような大辺境で正規軍が足止めを食らうのに我慢ならなかった。山岳地と機械化部隊の相性が悪いことは知っていたが、国境を越えてそう進まない内からこれでは先が思いやられる。戦線突破の要である砲兵隊は細い山道のせいで遥か後方にあり、この吹雪ブランでは切り札の航空隊も手が出せない。戦車長は焦りから苦笑いを浮かべた。

 全くこいつは魔女の婆さん(バーバ・ヤーガ)の呪いか。戦車長がそう呟くのを車内通話機インターホンで耳にした砲手は、いい気味だと微笑を浮かべる。そんな中、無線手プラディオーチクが砲兵隊からの通信を戦車長へ知らせた。

乾杯6エクスチャーチ・シャスチより白い五月(ベラマイ)(ドゥヴァ)へ、少し離れているが撃てる。座標送れ”

白い五月(ベラマイ)(ドゥヴァ)了解ポーニョ支援に感謝する(セニョン ポーモシェ)KC53カーエス・ピャーチトゥリーからKC63カーエス・シャスチトゥリーに効力射要請”

乾杯6エクスチャーチ・シャスチよし()気にするな(ニェ ザシタ)

 砲兵隊の支援が受けられる事になって安堵した戦車長は、狙撃に注意しつつ天蓋ハッチを開けた。そして砲塔のすぐ後ろに張り付いている随伴歩兵の分隊長に、支援砲撃が来ることを叫んだ。分隊長は左右に伝達して皆を伏せさせ、斜面へ登った兵には出来る限り遮蔽物に身を隠すよう怒鳴る。

 雪を含んで高く鳴る風、唸るような戦車のディーゼル音、断続的な銃声とそれを突き破る砲声。その中に空気を切り裂いてやって来る砲弾の擦過音が混じり始め、瞬く間に山の斜面へ着弾した。砲撃は戦車長の想像を越えて激しく、断崖の敵陣地の周りに次々と爆煙を上げる。

凄い(イェズミ)こいつは凄い(イェズミーチェリィニ)素晴らしい(ハラショー)

 一方、砲塔内でそれを聞いていた砲手は、ある事に気付いて身を硬直させた。彼は本国南東の大草原ステップから遥か向こう、文明と文明を分断する山岳地帯クローカシスに育っており、積雪のある山、それも険しい処に今日のような天候が合わさると、些細なきっかけでも必ず恐ろしい事が起こると知っていたのである。山の大波、雪崩(ラビーナ)だ。

 山は確かに震えていた。昨夜から降り続く雪は、長く残って凝結した積雪の上へ高く被さり、その境目は脆弱に均衡を保っていた。そこへ撃ち込まれた百五十ニミリ、弾頭重量十四キロの高性能榴弾が瞬発信管にも拘わらず新雪の層を突破し、炸裂する。

 多くの兵士たちはこの猛烈な砲火に気分を高揚させた。穀倉地帯チェルノーゼムリャ育ちの彼らには、雪を貫いて伝わる山の振動も、厄介な敵陣地を黙らせてくれる心強いものとして響いたのである。しかし砲弾の炸裂する度に激しい振動を加えられる積雪の境目では徐々に均衡が崩れ、膨大な新雪の層が流れ始めた。それは斜面を降ろうとして下方の雪を押し潰し、不気味な響き(ストゥオン)を上げる。

 遥か上方、斜面を横断するように現れた筋。兵士たちはその動くのを見て、ようやく何が起ころうとしているのかを知った。彼らは急いで斜面を降り始めたが、雷が長く鳴く(ラスカティグローマ)のを聞いて思わず振り返った。それは地を這い、迫り来る雲ウズミリャンオーブラカに見えた。

 斜面を降る雪の大波(ラビーナ)は小石のような兵士たちを飲み込み、勢いを増して峠道へ迫った。戦車は逃れようと加速したが、恐慌を来した兵士によって行く手を阻まれ、戦車兵は戦車を捨てて橋へ駆けた。彼らは橋へ辿り着くことに成功したが、しかし深く雪に巻き込まれぶち当たったのである。


   ***


 断崖は変わらずそこにあった。ただ何万年と繰り返されてきた事が、今また起こったのみである。

 轟音と揺れが収まり、ズンダは目を開いた。聞こえるのは時折響く風音のみで、他にはオモンダが時々低く呻くだけである。彼は何が起こったのか良く心得ていた。そして、ある事を確かめるべく壕の外を見た。

 行く手のあらゆるものを薙ぎ払った雪崩は、峠道を突き抜けて渓谷へ落ち、一方では道沿いに下って橋に覆い被さっていた。そのあちこちで、幸運にも抜け出した敵兵が仲間を探して叫ぶのが聞こえる。あれほどに暴れまわっていた野獣も力なく倒れ、腹を見せて死んでいた。それを粉雪が早くも包み込んで行く。

雪崩オキムンべか」

 オモンダが苦しそうに言った。ズンダは彼を助け起こし、その光景を見せる。敵兵が仲間を助け出し、連れ立って橋の方へ逃げていくのを見て、オモンダは必ずしも白くはない歯を見せ、苦しそうに微笑んだ。

「奴ら――」

 息が続かないのか、オモンダはそこで荒く息を吸った。

「――引っ掛かったんだ」

 ズンダは彼の言うところがわからなかった。雪崩の最中に雷光イメリの如く浮かび上がってきた記憶のせいで、それどころでなかったのだ。

 そうだ。ズンダは震える唇を固く結ぶ。あの晩も、同じような轟き(ソハエボロ)の中にあった。


   ***


 戦争最後の夜、丁度秋口の頃のことである。

 季節外れの激しい風雨スメーラユッケルヤンベの中、若きズンダは山小屋で決死の覚悟を固めていた。翌日にもこの北方に敵が攻め込んでくるという情報がもたらされていたからだ。

 夜半、獣殺しを分解したはいいものの、組み立て直すのに苦労していたズンダは、扉の蝶番ちょうつがいの軋みに気付いた。今でもそうだが、凡そ半世紀前から軋んでいたのだ。

 とにかく山小屋の入口を見やったズンダは、携帯式実用石油照具ハリケーン・ランタンの弱々しい灯りに照らされた、大きな人影を見とめた。驚き飛び上がるズンダに、人影は聞き覚えのある声で、何故こんな夜半に山小屋を訪ねたのかを明かす。彼はその理由に戸惑い、しかし一方でこうも思った。

“待てよズンダ、あのようなことを経ずに今世を去るには、全く惜しいのではないか?”

 しばし熟考の末、消極的誘惑に負けたズンダが恐る々る了承すると、巨体の持ち主は歓声を上げて彼を押し倒そとした。係る過重にズンダは耐え切れず吹き飛び、その拍子に獣殺しの銃床へ激しく後頭部を打ち付ける。その時、激しく雷が轟いた(ユップケカナハウ)のである。

 ズンダは凄まじい雷光イメリに照らされた、とても見覚えのある顔を見た。彼を手酷く苛め、トラウマさえ残した恐るべき巨女(ミンチカ)がそこにあった。しかし意識は遠のき、やがて雄叫び(ウオセ)の中に潰えた。


   ***


 思い出した。 

 ズンダは後頭部の膨らみを摩り、そこが遠く浮かび上がった記憶のせいか、震えるようにして僅かに疼くのを感じた。そうして思い出したようにオモンダを見た。出血は勢いを無くし、段々と黒く固まり始めている。ズンダは安堵して、この若い猟師を讃えるように肩を叩いてやった。

「痛ぇ」

 その様が何故か可笑しく、ズンダは咳き込むように笑った。右肩に響いてひどく痛かった。

「帰ろう、爺ちゃん(エカシ)

 ズンダはただ頷き、断崖の観測壕を出る。

 山小屋への細い山道の途中、二人は敵の斥候を仕留めた猟師連中と合流した。彼らは野戦外套(ポンチョ)を担架代わりにして二人を担ぎ、注意深く山道を降る。戦死した猟師たちの遺体と同じように運ばれながらも、ズンダはある言葉を思い浮かべ、本当に久しく爽快な気分だった。その陽気な技術士官がどうなったかズンダは知らないが、とにかく彼の伝えた意志は果たされたように思えたからである。


“重要なのは、いいかね、たった一つなんだよ。

 つまるところ、この小銃の化物(モンストル)みたいなものを君に託すのはだ、戦車でさえ仕留める猟師が、この峠に巣食っているということを敵に知らしめる為なんだ。

 獣は、一度罠のある場所を知れば、決して近付かないものだからね”

 

                                         ――おわり――

しつこいルビにイライラしたとしたら、あなたには未知の境地が待っている。この世界に溢れる、素敵な響きを持つ異言語の桃源郷。

それはグルグルホンニャクの泉。畔に佇む仙女が、あなたの聞きたい言葉を話してくれる。

でもその内、あなたは禁断の実“ホンニャクコムナク”が欲しくなるかも知れない。そんな時は、泉の下、水下街に住む“ブル・ドゥ・レェモンニ”を訪ねなさい。青き球状精霊が命を賭してあなたに授けるでしょう。

しかし、あとがきっているのか?

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