情けない僕はでも 3
情けない僕はでもの続きです。
家に帰ると、風呂に入り、風呂から上がると、今日本屋で買ってきた小説を広げた。でも、気持ちを上手く小説に集中させることができなかった。
小説の文章を読んでいる側から今日ファミレスでのんと話した会話の内容が思考のなかに滲み出てきて、次第にその声の方に僕の意識は引き寄せられていってしまうのだ。
高校の時代の友達のほとんどが仕事をして結婚し、子供を持っているという現実。のんも現在交際している恋人がいるという話。
色んなことが変わってしまったと僕は思った。僕のなかでは高校時代の頃と内面的な部分はほとんど何も変わっていないのに、周囲の環境は猛スピードで変わっていく。気持ちがそのスピードに追いついていくことができない。遥か先を歩いていくみんなの背中を呆然と見送っているような気持ちになる。
何より一番僕の気持ちを不安定にせているのは、のんにもつき合っている恋人がいるというその事実なのかもしれなかった。他のみんなには当たり前のように側に居てくれる誰かがいるのに、自分には誰もいないという事実。
僕にはもう長いこと恋人と呼べるひとがいない。最後に女の子とつき合ったのは大学四年のときのことだ。それから僕はずっとひとりだ。べつにひとりでいることが好きなわけではない。というよりほとんど常に恋人が欲しいと思ってきた。で
でも、その思いに反して僕はずっと恋人ができなかった。何故か。それは単純に僕が持てないからだ。僕はお世辞にもハンサムとはいえないし、お金をもっているわけでもないし、何か面白いことがいえるわけでもないし、頼りがいがあるわけでもない。従って女の子に好かれることが少ないのだ。それに付け加えて僕はあまり積極的に行動してこなかった。誰が良いなと思うひとがいたとしても、臆病な僕はいつも思うだけで、行動に移してこなかった。相手に迷惑だと思われてしまうんじゃないかと怖じ気づいてしまう。
いや、自分の名誉のために弁解するなら、こんな僕でも何度かは積極的に行動したこともあった。でも、残念ながら上手くいかなかった。
このままずっとひとりなのかなと思うと、ときどきたまらなくなるほど悲しくなることがある。こんなふうに言葉にしてしまうと、その瞬間から馬鹿馬鹿しく聞こえてしまうけれど、でも、そんな感情はどうしようもない。自分には誰も側にいてくれるひとがいないんだな、と、大袈裟に気持ちが沈んでしまう。
これがせめて何か自分のやりたいこと、小説の分野で結果が出せていればまだ今の自分の状況を受け入れることもできたのかもしれないけれど。ときどき、僕の感情は頭から黒いピニール袋を被せられたみたいに真っ暗になる。
沢田卓也が死んだのは僕が東京で生活を始めてから二年程が経った頃だった。
沢田卓也というのは僕の中学時代の友人だ。学校が終わったあとよく一緒に海辺で話をしたりした友達。沢田は仕事を終えて帰宅しているときに心臓発作で死んでしまったらしかった。
僕はそのことを地元に帰ったときに共通の友人から聞いた。逆にいえば友人からそのことを知らされるまで沢田の死について僕は何も知らなかった。だから沢田が死んだという話を聞いたとき僕はかなりのショックを受けた。
沢田とは中学を卒業してからすっかり疎遠になってしまっていた。べつに喧嘩別れしたとか嫌いになったとかそういうわけではない。お互いべつべつの高校に進学したせいか、次第に距離が開いていっていつのまにか連絡を取り合うことがなくなってしまったのだ。
でも、疎遠になってしまってからも僕は沢田のことが気になっていた。いつかそのうちに連絡を取ろう、取らなきゃなと思っているうちに、でも、どんどん時間は流れていって、そのうちになんて言って彼に連絡をしたらいいいのかわからなくなってしまった。沢田の方にしてみてもそれは同じことだったんじゃないかと思う。
僕が小説を書くようになったのは沢田の影響だ。沢田とは中学のときに同じクラスだったのだけれど、そのとき沢田が色々と小説のことを教えてくれたのだ。僕はそれまでどちらかというと本なんてほとんど読まないタイプの人間だったのだけれど、沢田の影響で本を読むようになっていった。沢田は暇さえあれば本を読んでいるといった人間で、中学生の頃からずいぶんと難しそうな本をたくさん読んでいた。
「実を言うと、俺、今自分でも小説を書いてみちょちゃわ」
照れくさそうな微笑を口元に浮かべて沢田がそう僕にうちあけてくれたのは確か学校帰りに海辺に寄ったときのことだった。そのとき僕たちはいつものお気に入りの海辺の岩場のうえでごろりと横になっていた。天気は良く晴れていて、空は薄い水色をしていた。そしてそんな空を仰向けに横になった状態で僕がぼんやりと眺めていると、沢田が急に口を開いて言ったのだ。
僕が振り向いて沢田の顔を見ると、
「なんか急に、自分でも物語が書いてみたくなったちゃわ」
と、沢田は弁解するように口元に曖昧な微笑を浮かべて言った。
「すげえね」
僕は単純に驚いて言った。そのときの僕には自分で物語を作ることができるなんて考えられないことだった。
「どんな話?」
と、僕は気になったので、続けて訊ねてみた。
「まだ書き始めたばかりだからね」
沢田は僕の問いに困ったように口元を綻ばせた。そして僕の顔に向けていた視線を海に向けると、
「まあ、とにかく、良い小説にしたいとは思っちょけどね」
と、しばらくして言った。
「その小説を読んだひとが少しでも前向きな気持ちになれたり、優しい気持ちになれたりするような小説が書けたらいいなと思うけど」
「その小説ができたら見せてよ」
と、僕は言った。
僕の言葉に、沢田は振り向いて僕の顔を見ると、
「まあ、気が向いたらね」
と、笑って答えた。