【SS】ちょっと彼岸まで
転職してまもなく一年が経とうとしているが、この仕事、向いてないなあと思うことがある。
前職は夜行バスの運転手をしていた。夜の運転が好きなので天職だと思っていた。色んな、たくさんのお客さんを乗せて少し不思議で楽しい夜の旅。運転はソフトに、かつスピーディーに。
しかしずっと楽しいバスの運転手ではいられなかった。貰い事故により長距離の運転ができなくなってしまったのだ。早期退職し、それからはタクシーの運転手をして稼いでいる。運転手といえば同じだが、仕事内容はなかなか違う。何にせよ最新のナビは不得手だし、裏道にも明るくない。その上、運転中の気の利いた接客も正直言ってうまくないのだった。
今夜も一人目のお客さんを目的地まで送ってから再び駅前へと戻ってきた。いつものタクシー待機場所で新たなお客さんを乗せるためだったが、その直前で私は気になることがあって車を路肩に停めた。
「こんばんは。今日は冷えますね」
すぐ側の歩道を歩いていた初老の男性に声をかける。年季の入った作業服に首にはタオルをマフラー代わりに巻いていた。声に応じるかのようにおじいさんはぶるりと身を震わせた。
「こんな時間にどちらまで行かれるんですか?」
「うん。ちょっとね」
おじいさんは疲労のにじむ顔ながらも人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ああ、運転手さんなら分かるかな……向こうまで歩いてどのくらいで行けますか?」
「歩いては無理ですよ。ここからとても遠いですから」
「そうなの……」
おじいさんはがっくりとうなだれた。そして少し間が開いて、ズボンのポケットをごそごそと探りはじめた。
「じゃあ、これで向こうまで行けるかな?」
見るとシワシワによれた千円札が差し出されている。
「はい、大丈夫ですよ。時間はかかりますけれども」
「うん。時間はあるから大丈夫」
おじいさんはホッとした表情を浮かべた。私はこの老人をタクシーに乗せて、空車から賃走に表示灯を変える。
「ご利用ありがとうございます」
私はタクシーを緩やかに発車させた。
「やあ、いいねえ。ふかふかだ」
おじいさんは相当疲れていた様子だった。ゆっくりと座席にその身を沈める、と言うよりは座席に吸い込まれていくようだった。飾り気のない車内だが、もちろん手入れには事欠かない。私はそう言われて、満足いただけて嬉しかった。
私が何も言わないので車内は静かだったが、しばらくしておじいさんが話し始めた。
「私ね、若い頃はラグビーやってたの」
「そうですか。ラグビーはその……大変そうなスポーツですね」
ラグビーのことがよく分からずうまい返しができなかったが、おじいさんは気にした様子なく続ける。
「鍛えるのは全身だけどね、上半身は特に逆三角形ってやつでね、そりゃあモテたのよ」
「そうですか」
「うん。でもね、今は何でかなあ空気食べても太るね」
情けないわあとおじいさんは笑った。彼はそんなに太ってる体型ではなかったが、確かに腹だけはぷっくりと出ていた。
「まあその時に付き合ってたガールフレンドがこれまた美女でね。学校のマドンナだったのよ」
「そうなんですね。もしかして奥様ですか?」
「そう! そうよ! 卒業してすぐに結婚したのよ。お互い二十歳の時に」
「それは素晴らしい」
おじいさんは子供のように無邪気に言った。本当に幸せだったんだなと思う。
「すぐに娘ができてね。まあ、子供ができる前は、子供は絶対に男がよくて一緒にラグビーなり何かスポーツをやりたいなんて思っていたわけよ。でもまあ、どうでもよくなったね。とても可愛いんだ。娘ってのは」
「いいですね。私なんてずっと独り身でとうとう結婚とは縁がございませんでした。うらやましいですよ」
「お兄ちゃんもまだまだいけるよお」
「いやいや」
おじいさんは運転席に身を乗り出してきた。少しは疲れがとれたらしい。
「そいでね。幸せだったんだけど、私は若くて……浅はかだったんだ。娘が小学校に上がるか上がらないかの時に家庭の外で遊んでしまって」
「それはよくないですね」
「そう。よくない。家族の信頼を裏切ってしまった」
おじいさんは再び席に体を沈めた。
「妻からはもちろん娘からも嫌われてしまって……どうしたらいいか分からなかった。働きに働いたけど家族の信頼はずっと取り戻せなかった」
この頃車はなかなか前に進まなくなっていた。渋滞にはまったのだ。
「結局、娘が上京したタイミングで離婚になっちまった」
車は目に見える範囲ではずっと連なっていた。
おじいさんの話は続く。
「それからはみじめなもんだった。一人って寂しいね。家に帰っても真っ暗で誰もいなくてーーああ、ごめんなさいね」
「大丈夫ですよ。私は一人に慣れていますから」
「そう? えっと……それから……えっと……」
おじいさんは目をしばしばしだした。眠たくなったのかも知れないと思った。その時、雲の向こうが光ったのが見えた。少し遅れてゴロゴロと空が唸り、すぐに雨が降り始めた。
「何だっけ?」
「ゲリラ豪雨ってやつですね」
「そんな名前だっけ? やだね年寄りはどうにも横文字に疎くて」
「正式名はゲリラ雷雨だったかな。済みません私も最新の横文字は苦手です」
「何だおそろいじゃないの」
「そうですね」
雨はすぐに豪雨となった。勢いのある雨粒が窓ガラスを叩き、道はあっという間に煙る。
「ちょっと停めますね。追加料金は発生しないのでご安心下さい」
「ありがとね」
ワイパーも追いつかないほどの雨は止む気配がなかった。これはとても運転できる状況ではなく、一緒に並んでいた他の車もそれぞれに停車していた。
渋滞に加えて雨でも時間をとられる。実はこう言う時、追加料金を払えば脇の高速を使ったり、空路を使ったりして目的地に早く辿り着くことができるのだが、千円では使えない。
また、今度はより近くで雷が鳴った。
「おお。雷が近いと怖いねえ」
「そうですね」
「車のタイヤはゴムだから車内は大丈夫ってのは本当なの?」
「本当ですよ。そこもご安心下さい」
「それなら良かったよ」
おじいさんが喋るのを止めたので、車内は静かになった。雨が天井で跳ねる音だけが聞こえる。
「どれくらいで止むかなあ……」
「この手の雨はすぐに止みますよ」
「うん……」
ミラー越しにそっとおじいさんをうかがう。また疲労の色が濃く出ていた。そして数分の内におじいさんの顔色は土気色になっていった。
「止んだらすぐに発車しますからね」
「うん。ありがとうね……時間はあるから……でも、少ししんどいなあ……。最近食事も喉を通らなくなってしまってね」
「それはお辛いですね」
「もういいのに、点滴されているよ」
「ええ」
「迎えが来てくれるもんだとばかり思っていたけど違うんだね」
「そうですね」
人によっては迎えがある場合もある。そういう時は決まって晴天で車を止める必要もないのだがそれを言う必要はもちろんなかった。
予想通りしばらくして雨は止み、私は極力振動のないように、静かに車を発車させる。
「発車しましたよ。渋滞もまもなく解消されるでしょう」
おじいさんは力なく笑んで、それから苦しげに咳き込んだ。
「それにしてもきつかったなあ。運転手さん、どうやったら抜け出せたんだろうね」
「さあ、どうだったんでしょうね」
「うん……人生の真ん中あたりからほとんどの時間一人きりで、一生仕事して終わっちゃったよ。稼がないと生きていけないから仕事は選ばなくて、働いて働いてその結果何になったって言うんだろうねえ」
「そういうこともありますよ」
「私が悪かったんだけど……」
それにしても、という言葉をおじいさんは飲み込んだようだ。この人懐こい老人は寂しい時間が長過ぎたのだ。
「ね。もしかしてお金じゃなくても対応して貰えるのかい?」
おじいさんはやっとで声を出した様子だった。
「ええ、可能ですよ」
「そう? じゃあ金歯があるからそれで……」
おじいさんはヨロヨロと、再び運転席に身を乗り出した。
「実はね、私の奥歯はランボルギーニなの。そのくらいしたのよ。何せ県で初めて導入された時に一番乗りでしたからね」
おじいさんは弱々しくも笑ってそう言った。この話はかつて彼の定番の話題だったに違いない。
そうですかと言いながら私はやっとの思いで口を開けたおじいさんの奥歯をのぞいた。
「奥歯……ないですね」
「えっ、そう? ああ!」
おじいさんの目が少し輝いた。
「娘だよ! 火葬する前にとるように言ったから……ほら、今、金の価格が上がってるでしょ? だから売るとそれなりになるはずよ」
乾いたおじいさんの目の輝きがとろけて少し潤んだ。
「とってくれたってことだね」
「はい。そうだと思います」
「それなら、いいんだ。本当に」
おじいさんの顔色は相変わらず悪かったが、表情は満足そうだった。
「お嬢さんとお話しできましたか?」
「ううん。もうずいぶん会ってないままだよ。でもくそおやじの最期の願いで一度くらい顔を見せて欲しいって言ってたの」
おじいさんの目から涙がひと粒こぼれ落ちた。
バックミラー越しに老人の様子を盗み見ると、老人は千円札のなくなった手を膝で握りしめていた。
しばらくするとタイヤが少しずつ浮き始めた。タクシーが大きな宇宙の流れに乗ったのだ。
一つまた一つと並んでいた車が視界から消えていった。
「ここまで来ると、すぐですよ」
おじいさんから返事はなかった。私も何も言わないので車内は再び静寂に包まれた。
飛び立つタクシーはまだ薄暗い雲を抜け、上空へと至った。先ほどの雷雨が嘘みたいに晴れた。目前には太陽、眼下には分厚い雲。タクシーは緩やかに晴れと雲の間を上昇気流に乗り滑空する。
千円札は恐らく何度も握りしめたせいで、シワシワになっていた。私には先の人が払ったお金とこのおじいさんが差し出した千円札の区別はつかないが、この千円札はおじいさんにとって大事なものなんだと分かる。服よりも何よりも大事にしてきた千円札だからここまで持ってくることができたのだ。
タクシーはそっと雲の上へ降り立った。
私は眠っていたおじいさんの肩を軽く叩いた。
「つきましたよ」
おじいさんはゆっくりと目を開ける。
「ようやく……」
おじいさんは呟くと、タクシーを降りて雲の上に立った。
「ありがとうね」
「いえいえ、ご乗車いただきありがとうございます。こちらですが……」
私はシワシワの千円札をおじいさんに差し出した。
「大事なものでしょう? こちらは結構ですよ」
「ええっ……でも……」
「そのままお持ち下さい」
「……」
おじいさんは再び手に戻ってきた千円札を見つめた。おじいさんはしばらく迷ったのちに千円札をギュッと握りしめた。
「……ありがとう」
「どういたしまして。行ってらっしゃいませ」
「うん」
何度も振り返り、その度に頭を下げて、おじいさんは雲の向こうへと消えて行った。
「向いてないなあ」
私は呟くと白手袋をはずしタクシーの脇でタバコに火をつける。ぷかりと煙を吐き出して老人の去って行った雲の彼方をしばらく見つめる。
「本当に、向いてない」
一服終わるとガムを口に入れ噛み始める。五分ほどして車内に戻り、シートベルトを締めた。
「ああ、忘れる前に……と」
私は自分の財布から千円札を出して料金箱に入れた。私に家族はいないし、千円くらいならいいやと思った。こういう時、だから向いていないと思う。
それから賃走を再び空車に変えて、タクシーで元来た道を返っていく。自分が客側になった時、誰か私に同情してくれるだろうかなんて考えながら。




