封印を解く
イエスのことは福音書に封印されているという説がある。伝説であろうが、これが事実ならば事はいたって単純である。では如何にして解くのだろうか。以下がその解法である。
正典の四つの福音書を読むと、「これは預言者によって言われた言葉が成就するためである」という句が多く使われていることに気付く。もっとも多いのはマタイ伝でW・バークレーによると十六回も出てくるという(『マタイ福音書/ウィリアム・バークレー著/聖書註解シリーズ1/ヨルダン社』)。封印したのであれば「メッセージ」を残しているにちがいない。さもないと無用の長物となる懼れがある。福音書の筋はこの句で構成されている。他にそれらしきものが見当たらないのであればこの句をメッセージとみてよさそうである。この句は同時に「キーワード」の機能をもつにちがいない。「メッセージ=キーワード」でなければ意味を成さないからである。ではこのキーワードを使うと事態はどう変わるのだろうか。以下がその概要である。
このキーワードを使うと、
・イエス(キリスト)は十字架に磔にされて処刑された
・ユダがイエス(キリスト)を裏切った
・十二使徒はイエス(キリスト)を見捨てた
という従来の認識が機能しなくなる。
なぜなら、そう予言されていたからである。
つまり、キリストは、
・罪人として処刑されることになっていた(予言されていた)のであり
・裏切られることになっていた(予言されていた)のであり
・見捨てられることになっていた(予言されていた)
からである。
自らの意志で予言を成就させたのであれば「受動的」ということはありえない。だれの指示も受けずに行ったのであれば「受動的」ではなく「主導的」と採るのが合理である。従ってこの認識は次のように改められることになる。
・イエス(キリスト)は、処刑されたのではなく、(自分を)処刑させた
・イエスは(キリスト)ユダに、裏切られたのではなく、(自分を)裏切らせた
・イエス(キリスト)は十二使徒に見捨てられたのではなく、(自分を)見捨てさせた
これが正しい読解である。
つまり従来の認識は「事実」であっても「真実」ではないのである。文字では「~された」と記してあっても「本」がそうなっていないからである。このことは次のように例えると分かり易くなるかもしれない。
たとえば、私があなたから「殴られる」という予言があったとしよう。さらに私以外だれもこの予言を知らないと仮定する。私はこの予言を果たすべくあなたに姦計を謀る。嘘をつき、デマを流し、横柄な態度をとるなどしてあなたの理性を狂わせようと図る。あなたは私を無視し、平静を装っているが私の度重なる嫌がらせによってついに私を殴ってしまう。
さてこの場面を第三者が目撃していたとしたらどう映るのだろうか。当然あなたが私を「殴った」と映るはずである。事情を知らなければ「殴った」としか受け止めようがない。仮に口の軽い目撃者であればこの事実を瞬く間に広めるかもしれない。裁判を起こしても私が勝つのは必至である。事情が漏れないかぎり負けるはずがない。
ところが「真実」の観点から見直すと、事態が一変する。私がこの事件の立案者であり、実行犯であることが明らかになるからである。その結果、あなたは私に利用された被害者となり、私は加害者となる。暴力を振るった罪も問われることはないだろう。要するに私の自作自演の事件だったことが明らかとなり、私は受動的な立場の者から主導的な立場の者に転ずるのである。
この「事実」と「真実」の相関関係の原理が「イエスの事件」でも働いている。先の予言を果たしたのであれば、イエスは処刑されたはずである。処刑されなければ果たしたことにならないのだから予言を成就させたのであれば「処刑された」にちがいない。事実、聖書外資料もそう伝えているし、これを打ち消す証拠も見つかっていない。しかしこれは「事実」であって「真実」ではない。事情は先の例と同じである。捏造するのであれば文字化しなければ捏造のしようがない。だがこれをせず「予言」と「成就」の因果関係を巧みに使って封印を施している。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人への第二の手紙3:6)の信仰が要因と思われる。「イエスの事件」は現実に起きた事件だったのである。よって、十字架に磔にされた後も生きていてマグダラのマリアと結婚したとか、子供がいた等の俗論はフィクションと言わざるを得ない。
では如何にして先の予言を成就させたのだろうか。福音書はこの問題の真相も伝えている。まずは時間的順序に沿って、「裏切られた」、「見捨てられた」という予言から取り組むことにする。手引きとなる資料は次の二つのくだりである。
さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また、悪霊を追い出す権威を持たせるためである。マルコ3:13-15
有名な十二使徒の選定のくだりである。そして、
彼らはさんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。するとペテロがイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。マタイ26:30-37
これが逮捕される夜のオリーブ山でのくだりである。
この二つのくだりの因果関係は明白である。イエスは「わたしは羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるだろう」という予言を成就させるために「みこころにかなった者(使徒)」を「みもと」に集めていたのである。「みこころにかなった者」とは「つまずく者」であり、「彼らを自分のそばに置くため」とは「散らす」ためであったことが分かるからである。事実、イエスが使徒を選んだのである。そしてその選んだすべての使徒が「今夜つまずく」と言い、ペテロにいたっては酷な表現で言い切っている。だとすると、前以て裏切る者だけ十二人集めていたとしか解釈のしようがない。「宣教をつかわす」、「悪霊を追い出す権威」といったことはエルサレム入城以前のことであって、イエスの「受難」はエルサレム入城後に起きている。そしてエルサレム入城後にこの思いを打ち明けているのであれば後者が本意ということになる。
これを裏付けるのが次のゲッサマネのくだりである。
そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られてきた大ぜいの群集も、剣と棒とを持って彼についてきた。イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図しておいた。彼はすぐにイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。そのとき、イエスは群集に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣と棒を持ってわたしを捕まえにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。マタイ26:47-56
予言の成就のためと述べている。イエス自身の言葉として記されている以上これを疑ったのでは話にならない。「わたし」が神で、「羊飼い」がイエスで、「羊の群れ」が十二使徒であることは明白である。中には剣を抜いてイエスを守ろうとする健気な使徒もいた。だがイエスは戒めている。一緒に捕まったのでは「散らす」ことができない。イエスの言葉を借りれば預言者たちの言葉が成就できない。そこで「敵」が呆気に囚われるようなダニエル調の啖呵をきることで逃げる隙を与えている。イエスのこのとっさの機知で予言が成就した経緯をこれらのくだりは伝えているのである。
さらなる証拠が次のくだりである。
イエスはこれらのことを語り終えて、弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこには園があって、イエスは弟子たちと一緒にその中にはいられた。
イエスを裏切ったユダは、その所をよく知っていた。イエスと弟子たちとがたびたびそこに集まったことがあるからである。ヨハネ:18:1-2
このくだりが「最後の晩餐」の後のくだりであることが重要である。イエスは聖餐の席でユダを追い払った後、使徒たちとオリーブ山へ行き(ここで先の「羊飼い」の予言を語る)、それから使徒たちをゲッセマネへ導いている。なぜ導いたのだろうか。ユダもよく知る場所だったからである。つまりユダが現れるとふんで導いたのである。「最後の晩餐」を執り行った「知人の家」では散らせなかったからにちがいない。こう捉えなければゲッセマネでのイエスの言動と矛盾する。周到なイエスの計画が窺える。行き当たりばったりの事件ではなかったのである。
ここでユダについふれておく。
ユダこそ裏切りをもっとも期待されたメンバーだった。このことはユダが「イスカリオテのユダ」だったことから推測できる。「ナザレのイエス」同様「イスカリオテ」はユダの出身地、もしくは故郷を意味している。「イスカリオテ」はユダヤ地方に在った村か町だったといわれている。他のすべての使徒がイエスと同じガリラヤ地方の出身だったのに対しユダだけがユダヤ地方の出身者だったのである。このことからイエスの人選の意図が読める。ユダはこの一団の会計係だった。金目の事務を任せるなら収税人をしていたマタイでも務まる。だがイエスはユダを指名している。エルサレムの事情に通じる面を重視したからにちがいない。ユダはエルサレムに知人が居たはずである。ユダヤ当局とも無縁だったとは思えない。だからこそイエスを売ることができたのである。ガリラヤ出身の他の使徒ではユダのように迅速に事を運ぶことは困難である。素性の知れないガリラヤ人の話を鵜呑みにするほどユダヤ地方の人々はガリラヤ人のことを信用していなかったからである。ユダヤ地方の人々はガリラヤ人のことをアムハーレツ(地の民、律法を守らない田舎者)として軽蔑していた。
ユダは唯一の都会派のインテリだった。ユダのプライドが窺える。もとより田舎者のイエスと生死をともにする男ではない。このプライドがイエスに運命を握られる不徳となった。ガリラヤ組より小知恵が利く長所が破滅への導火線となってしまったのである。「最後の晩餐」が火薬だった。この席で慈悲にすがろうとするユダをイエスは超然と拒む。しかも裏切ることを知りながら止めずに裏切るよう促している(ヨハネ13:27)。「最後の晩餐」が神殿での事件の後で行われたことを見落としてはならない。使徒たちはイエスが起こした事件のために追い詰められていた。弱い人間性をえぐられる状況がイエスによって整えられていたのである。この抜き差しならぬ窮状でイエスは彼らにこう告げたのである、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」(マタイ26:21)。名画以上の醜い騒ぎとなったことは想像するに難くない。裏切る資質をもつ者たちが危機的状況の中で心の急所を暴き立てられれば取り乱すのは目に見えている。この窮状から己を救えるのはユダしか居ない。かれはエルサレムに通じる唯一の身である。事実、イエスはユダを指名する。「あなただ」と(マタイ26:25)。裏切り者と決め付けてユダを追い詰めている。破門に等しい仕打ちである。イエスはユダの動揺などお構いなしにさらに為すべきことを為すよう促している(ヨハネ13:27)。もはやユダの居場所は無い。イエスに義理立てする必要もなくなった。相手は犯罪者(不敬罪)である。密告(通報)は国民の義務でもある。ユダはこれをした。なにも知らずにイエスのシナリオ通りに動いたのである。この密告を、福音書は裏切りと説く。イエスの真意を知りながらユダにすべての罪を押し付けて「裏切り者」の汚名を着せている。なぜか。人間性に問題があったからにちがいない。ユダの醜い本性はイエスに接吻する醜悪な場面に表れている。このゲスな振る舞いが汚名を着せられる羽目になったのだと思う。事実、ユダは自分で墓穴を掘ったのである。イエスに促させる前から裏切る工作を行っていたと記されている(マルコ10:11)。イエスが用意した墓を自分で掘って飛び込んだのである。同情の余地があろうはずがない。「臭いものには蓋をしろ」という金言がある。だが福音書は蓋をせず再利用したのである。ユダは「裏切り者の代名詞」として復活した。予期せず福音書の封印に貢献したのである。しかしながら以上の解釈は技巧上の方便であって真実ではない。物語(脚色)に過ぎないことは次の二つのくだりを読めば分かる。
わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友でさえも、わたしにそむいてくびすをあげた。詩篇42:9
わたしは彼らに向って、「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃金を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」と言ったので、彼らはわたしの賃金として、銀三十シケルを量った。ゼカリア書11:12
密告の報酬が同じ三十シケルであること、「信頼した親しい友」、「パン」、「そむいてくびすをかえす」の句を読めば説明は不要と思う。見込んだ弟子から見捨てられるような人をみる目のないキリストでは話にならない。ユダの真相は後述するので省くことにする。
最後に「処刑される」という予言について述べることにする。手引きとなる資料は次の二つのくだりである。
それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか、それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。マルコ11:15-17
さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。そこで多くの偽証者が出てきたが証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証拠を申し立てているが、どうなのか」。しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生きる神に誓ってわれわれに答えよ」。イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当たるものだ」。マタイ26:59-66
つまり神殿で暴動を起こすことで耳目をひき、裁判で不敬な言葉を吐いて自分を処刑させたのである。教会は神殿を清めるために行ったと教えているが、結果は同じである。「証拠があがらなかった」のであれば黙っていれば助かる。また神殿を冒涜した証言に対してもエレミヤ書(7:4)の「あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない」という言葉を引用すれば応じられたはずである。イエスほどの男がこの言葉を知らないはずがない。にもかかわらず、暴言を吐いて処刑の道をとっている。次の言葉を成就するためである。
「あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」ルカ22:37
見よ、わたしはエルサレムへ上がって行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引き渡すだろう。
また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日後によみがえるであろう」。マルコ10:33-34
以上の言葉を成就させるためにカヤパ(大祭司)を怒らせる不敬な言葉を述べて死刑に持ち込んだのである。不敬罪は律法で死刑と定まっていたからである。だがこの「物語」も封印のための方便に過ぎない。この件も後述するので省くことにする。
ここでイザヤ書五三章を紹介する。有名な「イエス=キリスト」の核心を成す「悲しみの僕」と呼ばれる予言である。長い引用となるが全文転載する。以下がその予言である。
イザヤ書 第五三章
1だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
2彼は主の前に若木のように
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿はなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
3彼は侮られて人に捨てられ
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った。
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
5しかし彼はわれわれにとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
6われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生きるものの地から断たれたのだと。
9彼は暴虐を行わず、
その口には偽りはなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。