プロローグ
イエスの謎を解くカギは弁証法が握っている。
・イエスは予言されたキリストだった
このキリスト教の言明をテーゼとし、
・イエスはキリストだったわけではない
このイスラム教的な言明をアンチテーゼとして、
この二つのテーゼを総合すればひとつの止揚に至るからである。
このように定式化すると論争の焔も消えることになる。不完全であっても互いの正当性を認めれば条件は同じである。このようにこの試みは大人の対話を可能にする意味でも意義のある取り組みといえる。
ではジンテーゼはどのようになるのだろうか。私の止揚は次のとおりである。
・イエスは予言されたキリストではなかった、ゆえに、わたしたちのキリストだった
これが本来の在るべき姿ではなかろうか。
ここで問題となるのがキリストの解釈の問題である。キリスト(メシア)の起源であるイスラエル民族は、よく知られているように、キリストは「ダビデの家系から生まれ、イスラエルの再興を果たし、世界に平和をもたらす者」と解釈している。この他にもモーセの如き指導者とか「人の子」といった解釈もあるが、話が込み入るので省くことにする。キリスト教は「ナザレのイエス」をキリストと信じ、三位一体の一位格にキリストを仰ぐ世界最大の宗教である。キリスト教はこの信仰を基にイエスを神格化した独自の神学を唱えている。有名な三位一体論はアウグスティヌスの譬えが好例である。愛は「『愛するもの』と、『愛されるもの』と、『愛そのもの』によって成り立つ」という。つまりこれが愛の実在と捉える立場から以上の三つの要因を一様化して「愛」とするのである。この例が分かれば「父なる神、子なる神、精霊なる神」の意味もつかめると思う。以上がキリスト教のキリスト像である。アンチ・キリストのキリスト像は多種多様で理解し難い解釈もあろうが、蓋然的に総合すると「救世主(神の子)」に帰納するのではなかろうか。
いずれにせよジンテーゼとなるキリストはあらゆるキリスト観を満たすキリストでなければならないだろう(真理)。万人が納得し、万人を救えるキリストでなければキリストとはいえない。ゆえに、ジンテーゼに「わたしたちの」という人称代名詞(一人称複数だと思う)が不可欠となるのである。以上が、本稿が提示する「ナザレのイエス=イエス・キリスト」である。
因みに現教皇ベネディクト16世が「ナザレのイエス」について書いている(『ナザレのイエス』/教皇ヨゼフ・ラツィンガー著/里美泰明訳/春秋社)。教皇はこの書の中で「史的イエス(人間イエス)]の批判的・歴史的研究の進捗について次のようにコメントしている。
・ところが五十年代に入ると状況が変わってきました。「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」の間に裂け目が深まり、亀裂は日増しに増大してゆきました。人間イエスの姿が今まで私たちが信じてきたものとはまったく異なるものとなってしまうとしたら、福音書が示し、福音書に従って教会が教えるようなイエスの姿でなくなってしまうとしたら、キリスト・イエスに対する信仰、生ける神の子イエスに対する信仰はどうなってしまうのでしょうか。
・人間であり、私たちの友であるイエスに対する内的な信頼の念がすべてのよりどころであるというのに、そのよりどころが奪われようとしているのです。
目を疑うような悲愴的なコメントである。「キリストの代理人」を任ずる教皇のこの赤裸々な告白に教会の置かれている現状が切実に綴られている。
まずは「イエスの事件」の真相を明らかにしなければ話にならない。
早速福音書の読解から始めることにする。
*タイトルの「Yeshua」はイエスのアラム語でイェーシューアと読む。