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存在しない部屋

作者: 雨宮 巴

旅の始まりは穏やかだった。彼──私の恋人が、ある晩の食事の席で「たまには遠くへ行こう」と言ったのがきっかけだった。忙しい日々を離れ、海の見える旅館でゆっくり過ごす──その響きは、私の胸に小さな灯をともした。計画を立てる彼の横顔は柔らかく、窓辺に差し込む光がその輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。


出発の日の朝、彼は軽くコーヒーを啜りながら、天気予報を見て「今日は晴れるな」と笑った。そんな他愛ない会話が、旅の始まりを少し特別にしてくれた。荷物を車に積み、玄関の扉を閉めると、外の空気は街の匂いよりも少し軽かった。


道中の車内では、潮の香りを含んだ風が窓から入り、海沿いの道がゆるやかに続いていた。彼は軽く笑いながらハンドルを握り、時折、思い出話や行きたい場所を口にした。私はその横顔を眺め、ただ流れる景色とともに静かな時間を受け入れていた。


やがて見えてきた旅館は、写真で見たよりもずっと古びていて、屋根瓦は潮風で黒く鈍く光っていた。玄関脇の木製看板は塗装が剥がれ、文字がかすれていたが、それがかえって場の空気を引き締めていた。館内にはかすかに古い畳と線香の混じった匂いが漂っていた。


旅館の正面には幅広い海岸があり、その手前には鬱蒼とした雑木林が境界のように横たわっている。枝の間から覗く波の白い泡が、月明かりに淡く滲んでいた。


その晩、部屋の窓を開けると潮の匂いが強く入り込み、夜の湿気が頬にまとわりついた。ふと外を見ると、女が男の死体を引きずって小道を歩いていた。砂利が擦れる鈍い音、揺れる足、血の跡が夜気に混ざって甘い匂いを放つ。彼は彼女の恋人だったのだろうか──そう見えた。泣きもせず、淡々と──まるで日常の一部のように。


途中、彼女は数人の女たちとすれ違った。同じ宿泊客らしかったが、ためらいなく彼女は彼女たちも殺した。刃の光も悲鳴もすぐに夜に呑まれ、そこにあったのは冷たく整然とした手際だけだった。廊下の影から見ていた私は、恐怖よりもこれから先の展開への期待が胸を満たしていた。


やがて旅館の前に着いた彼女は、おかみと男性スタッフに見つかった。二人の目は暗く鋭いが、動じることはない。


「……どういうことですか?」


私は答えた。「隣の部屋にいた四人組の中の一人が……」


だが、おかみはゆっくりと首を振った。「──そのようなお部屋は、当館にはございません。」


その言葉に背筋が冷えた。確かにその部屋はあったはずだ。笑い声も、酒の匂いも、障子越しの影も。しかし思い返すほど輪郭は崩れていく。あの女たちは本当に存在したのか。あの男は誰だったのか。もしかすると、旅館に泊まっていた大勢の人々は、私の中に住む“誰か”だったのかもしれない。


裏手の海から波の音が強く響く。ふと手のひらを見ると、爪の間には乾いた赤黒いものがこびりついていた。私は、それを拭おうとはしなかった。



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