推しと疑念
次の日。登校すると、昨日は休んでいた黒川さんが俺の隣の席に座って本を読んでいた。
黒川さんは制服の下にパーカーを着ているようで、制服の襟からフードが飛び出している。なかなか斬新な制服の着こなしだ。
「黒川さん、おはよう」
本を読んでいる人に話しかけるか迷ったが、挨拶だけはしておこうと思って声をかける。
「あ、お、おはよう、ございます……」
「昨日はわざわざお礼に来てくれてありがとうね。クッキー、美味しかったよ」
「あ、はい、いえ、そんな…… こちらこそ、プリントありがとう、ございました」
黒川さんは視線をバタフライみたいに泳がせながら、ぽつぽつとしゃべり始めた。
「私の作ったクッキーなんて、そんな価値のある物じゃないです。既製品の方が美味しいし、それに本当は市松模様のクッキーを作りたかったんですけど、ココアパウダーを切らしてて、仕方なく何の変哲もないクッキーを作って、それに昨日は用事があってそれが終わった後に急いで作ったから冷ます時間が足りなかったし......」
今までぽつぽつ話すだけだった黒川さんが、突然凄いスピードで話し始めた。
かなりびっくりしたけど大丈夫。俺はここ二ヶ月、推しのガトリングトークを聞き続けているため、早口のリスニング力がかなり高まっているのだ。
ていうかあのクッキー、黒川さんの手作りだったんだ。ケーキ屋さんのクッキーより美味しい(個人の感想)を焼けるなんて、黒川さんすごいな。
「へー あのクッキー、黒川さんが焼いたんだ。お菓子作るの得意なんだね」
「あ、えっと。別に得意って訳ではないんですけど……」
俺が話しかけるたびに、黒川さんがパーカーのフードを少しずつかぶり始めている気がする。
そして、担任の先生が教室に入って来たタイミングで、フードをかぶって机に突っ伏してしまった。まるでアルマジロだ。
昨日も思ったけど、どうやら黒川さん。人と話すのが苦手なのかな? 少しぐいぐい行き過ぎてしまったようだ。俺は反省をしながら、担任の先生の話に耳を傾けた。
それから黒川さんは、休み時間中はずっとアルマジロ状態で過ごしていたので、話しかけないようにしていた。
しかし、そうも言ってられない状況になってしまった。
今日の五時間目は情報の授業。つまりは移動教室なのだ。
学級委員長の俺は教室の施錠を任されているため、クラスメイトが全員教室から出ていくまで待つ必要がある。
もう既に黒川さん以外のクラスメイトは全員移動教室を出ていったのだが、フードをかぶって縮こまっている黒川さんは周りのクラスメイトが移動してしまっていることに気づいていないようなのだ。
これは、俺が声をかけるしかないだろう。
「黒川さん。次、移動教室だよ」
俺はなるべく黒川さんを怖がらせないように、ゆっくりと声をかける。そのせいでまるで幼稚園児に話しかけるような口調になってしまった。
「あ、え、ごめんなさい!」
黒川さんは、フードの端から少しだけこちらを覗き、慌てて跳び起きた。
そして、どたばたと教科書を準備してから走り出す。
「黒川さん。筆箱忘れてるよ!」
俺の声掛けも空しく、黒川さんはわき目も振らずに廊下を走って行ってしまった。
仕方ない。俺は机に上に残された、黒川さんの水玉模様の可愛らしい筆箱を掴んで急いで教室の鍵をかけ、小さくなっていく黒川さんの背中を必死に追いかけた。
◇ ◇ ◇
パソコン室から教室に戻り、六時間目の準備をしていると、隣からの視線を感じた。もちろん視線の主は黒川さんだろう。
しかし、俺が彼女の方を向くと、彼女はフードをかぶって隠れてしまう。
何か黒川さんに嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。情報の授業が始まる前に筆箱を渡そうとして、驚かせてしまったのがまずかったのかな。そんな心配をしながらアルマジロ状態の黒川さんを見つめていると、黒川さんが意を決したように勢いよくフードから出てきて、俺を見つめてきた。
「あ、う、えっと……」
そして、その状態でフリーズした。これは、どうすればいいのかな。
そう言えばさっき、情報の授業で先生が「パソコンがフリーズした時は余計な操作をせず、パソコンの処理が終わるまで待て」と言っていたような。
先生の言う通り、しばらく待っていると、黒川さんが再起動して、再びフードをかぶる。
「あ、あの。さっき、ありがとう。移動教室の時、声かけてくれて」
「ああ、その事か。別に当たり前の事をしただけだよ」
「で、でも。声かけてくれたの、尾形君だけだったから。ありがとう」
黒川さんはぎこちない笑顔を浮かべている。初めてしっかり見た黒川さんは、失礼ながら想像以上にかわいらしかった。
黒川さんはそれだけ言うと、何か大仕事をやり遂げたように大きく深呼吸をして、再びアルマジロになる。どうやらまだ少し、彼女とは距離があるみたいだ。
まあ、別に無理に仲良くなる必要はないかな。
そう考えながら、俺は六時間目に備えて眠気覚まし用の辛口ガムをポッケから取り出す。
すると、再び隣から視線を感じた。多分。いや、確実に黒川さんだ。
もしかして、黒川さん。ガム欲しいのかな?
これを渡せばちょっとは仲良くなれるかな。そんな淡い期待を胸に、黒川さんにガムを差し出す。
「これ、食べる?」
「え、いいんですか?」
「もちろん」
俺はガムを一枚取り出し、遠慮がちに差し出された黒川さんの手の上に置く。なんだか動物に餌付けしている気分になってきた。
「あ、ありがとう。大切にします」
黒川さんは目をキラキラさせながら、ガムを大切そうに握りしめる。
「いや、それは大切にする物じゃなくて、食べ物だから。できれば食べてほしいかな」
「あ、そ、そうですね」
慌ててガムの包みを剝がして口に放り込む黒川さんを見て、思わず笑いそうになってしまった。
これで少しは仲良くなれるといいな。
そう思っていたのだが、ガムを口に入れた黒川さんが急に涙目になる。
しまった。眠気覚まし用の辛口ガムだという事を伝え忘れていた。
「黒川さん、ごめん! 無理だったら吐き出して!」
しかし、黒川さんは首を振る。意地でも完食するつもりのようだ。いや。最終的に吐き出すガムを完食すると表現するかは不明だが、とにかく、彼女からはそんな気概を感じた。
結局、黒川さんはガムを完食(?)し、涙目のまま六時間目の授業を受けていた。
せっかく少し仲良くなれたと思ったのに、また心の距離が開いてしまった気がする。
また明日から、アルマジロ状態の黒川さんの殻を破るところから始めなければいけなさそうだ。
明日はせめて、英語のペアワークくらいは一緒にやってくれると嬉しいな。俺はそう思いながら、六時間目の授業を何とか乗り切った。
◇ ◇ ◇
『いいことがあったので歌枠』
今日のルカちゃんの配信タイトルにはそう書いてあった。何やら俺の推しにいいことがあったらしい。
『みんな聞いて聞いて! 今日は良いことがあったんだけどね! なんとね、隣の席の友達からね、ガムを貰いました‼』
……そんな事で喜べる俺の推し、かわいい。
しかしそう言えば俺も今日、隣の席の人ガムにあげた記憶があるような。まあ、今日ガムを人から貰った人間なんて、地球上にごまんといるだろう。
それに、俺と黒川さんの距離感は、お世辞にも友達と言えるようなものではなかった。だって、英語のペアワークすらできなかったんだから。
ただの偶然だな。
【良かったね】【幸せそう】【この前プリントを届けてくれたイマジナリーフレンド?】
『だからイマジナリーじゃないってば! 14時33分21秒に私に眠気覚ましの辛口ガムを渡してくれた友達がいるの! 嘘じゃないもん!』
俺の推しが、なにやら隣のトトロに出てくる妹ちゃんのようなことを言い出した。
しかし、14時33分21秒と言えば、五時間目と六時間目の間の休み時間だ。確か俺が黒川さんに辛口ガムを手渡したのも、その辺の時間だったような……
『ちなみに、私がもらった時、ガムは残り三枚だった』
そう言われて、俺は一応っ制服のポケットの中にある、今日黒川さんに手渡した辛口ガムを取り出す。
なんと、俺の手元にあるガムの残り枚数は、三枚だった。
まさかな……
いやいや、このガムは眠気覚まし用としては割とポピュラーなものだし、このガムを残り三枚持ち歩いている人だって、この世のどこかには居るだろう。何せ、地球は広いのだ。
きっと、偶然だ。
俺はそれ以上特に深く考えず、ルカちゃんの美しい歌声に耳を傾けながら課題をやることにした。