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好きでもない婚約者に酔いしれながら「別れよう」と言われた

作者: 佐倉えび





「別れよう、アルヤ」


 輝かしい金の髪をかきあげながら、婚約者のゴットロープは酔いしれたように呟いた。


「別れる……」


 アルヤは別れるという言葉の意味について考えた。

 それは対等であった場合の言葉ではないのかと――


(私とゴットロープ様が対等だったことなどない……)


 アルヤの祖父の顔が利くヴィルヘルミイナという高級店で昼食を食べたあとのことだ。

 ゴットロープ周辺についてまわる女の気配や、ここに来るまでの態度に目をつぶり、なんとか穏便に食事を終えたはずだった。


 雨が降ってきたから面倒臭いといって、馬車から降りたがらないゴットロープを説得し、料理の準備がまだ整っていないと困惑する店主に頭を下げて早めに店内へ入れてもらった。


 ゴットロープの『デートは婚約者の義務だから仕方がない』という顔には慣れていたが、店主とのやりとりに苦心するアルヤを無視して、腕を組んで足を踏み鳴らしながら『まだ入れないの?』という顔をしていたのにはさすがに腹が立った。

 店に無理を言ってるのはこちらなのに、使えない店だな、という雰囲気がゴットロープの顔に浮かんでいた。


 そんな態度を取られても、食事が不味くならないよう小言をのみこみ、なんとかデザートまでたどり着いたというところで別れ話が持ち上がり、スフレに添えられていたベリーの酸味だけがアルヤの口の中に残ってしまった。


「申し訳ないが、君の趣味にはほとほと嫌気がさしてたんだ。あんな失態を晒しておいて、よく恥ずかしげもなく学園に通えたもんだよ。俺なら無理だな」


 ゴットロープはトントンと指で机を鳴らし、またしてもイライラと足を踏み鳴らした。

 この一連の動作が、アルヤは嫌いだった。

 貴族であれば感情を表に出すべきでないだろう。品性が疑われる。


 しかもデザートが口に合わなかったのか、ゴットロープは半分以上残していた。

 無理を言って早い時間に通してもらったのに、店に申し訳が立たない。


「悪いけど、自分で帰って。別れた女を送るほど、お人好しにはなれない。さんざん恥をかかされてきたんだから、君も少しは恥をかくべきだと思う。これ見よがしに高い店に連れてこられて、いつもと同じつまらない会話と大して美味しくもない料理。ほんっとうに迷惑だったよ」


 ゴットロープがベルツ子爵家の馬車でアルヤを迎えに来て、城下町を少し歩いてお昼までの時間を潰し、コレッティ子爵家が予約したヴィルヘルミイナでご飯を食べ、ベルツ子爵家の馬車で帰る。


 これがいつもの義務的なデートのコースだ。


 アルヤには侍女も護衛も付いて来ていない。

 ゴットロープが「うちの護衛を信用していないのか」と言うようになってから、この定期的なデートには連れてこないのが常だった。


 元々高位貴族でもないから、そこまで厳密に護衛や侍女がアルヤについて歩く必要もなく、ゴットロープの機嫌を損ねたくなくて頷いてしまった。


 今は流されるように承諾してしまったことを後悔している。

 店を通してコレッティ子爵家の馬車を呼ぶわけにはいかない。


(辻馬車に乗るしかないわね。お祖父様が懇意にしているお店で、孫がこんな恥をかかされたと知れれば、お祖父様が社交界でいい笑いものになってしまう……)


 立ち上がったゴットロープに続いて、すぐに個室を出た。

 接待にも使われるお店なので、店員は部屋の中の会話がわかるような場所にはいない。先ほどの会話も聞かれずに済んだだろう。


 ゴットロープはいつもエスコートしてくれないから、店員は顔色ひとつ変えず、一人で歩くアルヤを丁寧に送り出してくれた。予約時間よりも早く店内に招いてくれた人たちに、もう一度お礼を言って店を出た。代金は後から祖父が支払ってくれる。


(お店にもお祖父様にもこれ以上迷惑はかけられない……いずれ婚約破棄が知れ渡っても、私とゴットロープ様の不仲は有名だし……今ここで婚約破棄になったことを知られるよりはマシだわ……)


 たんぽぽ令嬢が振られた店だなどと、学園で面白おかしく語られてはたまらない。

 高級なお店は、ただ高い料理を提供しているわけではない。

 店にも利用する貴族にも体面があり、プライドがある。


 辻馬車が連なる馬車付けまで少し距離がある。

 ヴィルヘルミイナから歩いて離れ、開いていない店舗の前で足を止めた。


(ここなら人に見られずに雨宿りできそうね……)


 少しだけ軒先があるので、頭が濡れずに済みそうでほっとする。

 この店先に着くまでに随分と濡れてしまったが、仕方がない。

 持っていた華奢なレース編みの薄いハンカチは、顔を拭っただけでびしょびしょになってしまった。


 親友のマーセイディズがプレゼントしてくれた美しいハンカチを汚してしまったことに悲しみを覚える。

 おしろいが剥げて、綺麗なハンカチに粉がついてしまっていた。


「雨は……止むのかしら……」


 途方に暮れ、雨で濡れたせいで冷えてきた体を抱きしめた。

 叩きつけるような雨は泥を跳ねさせ、アルヤのドレスの裾を汚していく。


(お祖父様が仕立てて下さったドレスまで汚してしまったわ……)


 アルヤがゴットロープから大切にされていないことを知った祖父が、アルヤが美しく見えるであろう春の若草のような美しいドレスを仕立ててくれた。


 初めて袖を通したのに、こんなに汚してしまった――


 ゴットロープから酷い言葉を浴びせられても表情を崩さず、彼にとって従順な婚約者でいたつもりだった。

 眼鏡もその一つで、別に目が悪いわけでもないのに、トウモロコシの穂先みたいな髪に、くすんだ茶色の瞳がみすぼらしくて見ていられないと言われ、野暮ったい茶色の眼鏡をかけさせられていた。


(馬鹿みたい……)


 ゴットロープに従った結果、アルヤはたんぽぽ令嬢と呼ばれ、蔑まれただけだった。


 眼鏡を外して、店舗の窓のふちに置いた。

 掛けているとガラス面についた水滴で周りがよく見えないし、もう掛ける必要がないからだ。


(……寒い……どんどん雨がひどくなっていく……)


 重たい雨の雫がドレスを容赦なく濡らしていく。


 いくら軒先でも、体までは覆えない。

 雨は弱まるどころかどんどん強くなっていった。


(こんなに降ってしまうと、辻馬車の数も少ないかも……)


 店に寄り添うように体を押し付け、ゴオッと唸るような音を立てる風に耐えた。

 体を押し付けていた窓ガラスがガタガタ揺れる。


 手がかじかみ、体の震えが止まらない。

 意識は薄れていくのに、履いていた靴の中に入ってしまった雨水だけは、やけにはっきりと感じられた。



 もう、ダメかもしれない――



 視界がぐらぐら揺れだして俯き加減になったアルヤの体を、力強い腕が支えてくれたような気がする。


 誰かが助けてくれたのか……それとも、そんな都合のいい話はいつもの妄想で……よからぬ人に捕まってしまったのか……。


 確認することもできず、アルヤの意識はそこで途絶えた。





 * * *





 ゴットロープとアルヤの婚約は顔の広い祖父が、旧友の前ベルツ子爵に頼み込んで結ばれた婚約だった。


 アルヤが十二歳でゴットロープが十三歳のときだった。


 アルヤの世代は高位貴族の女子の数が圧倒的に足りておらず、その反面、子爵以下の令嬢がゴロゴロいた。

 爵位が同じなら、家の財力や政治力、子どもの容姿など、優れた令嬢から婚約が決まっていく。

 その争いから弾かれたアルヤは婚約者がなかなか決まらなかった。


 女の子は大きくなると綺麗になるから。

 最初はちょっと不美人なぐらいのほうが、後で化けるぞ。


 そんな祖父からの残念な励ましも虚しく、アルヤは年を追うごとに平凡になっていった。


 ゴットロープは、最初からアルヤに対して義務的だった。

 十四歳で彼が王立学園に入ると、アルヤに対してますます冷たくなっていった。


 ベツォ王国の王立学園では、令息は十四歳から十九歳まで、令嬢は十五歳から十七歳まで通うことが多い。


 貴族令嬢の学園生活が短いのは十八から十九で大抵の令嬢が結婚するからで、令息よりも遅い入学になるのは、家庭で淑女教育をある程度おえてから入学するからだ。

 少数だが、途中で退学して結婚する人もいるし、高位貴族だと学園に通わずにそのまま結婚する人もいる。


 入学時期も男女共に様々なことから、同じクラスでも年齢はさまざまだ。

 令息でも十五歳から入学してきたり、入学から二年ぐらいで卒業してしまう人もいる。


 現在のベツォ国の宰相は頭がよすぎて、単位を取得するのに二年もかからなかったと言われている。



 ゴットロープとの定期的なデートは、婚約時の両家の取り決めだった。

 浮かない顔をしたゴットロープを見た祖父たちが無理やりその文言を入れたらしい。


 ゴットロープは祖父から小言を言われるのを避けるために馬車で迎えに来るが、馬車から降りて手を差し伸べてくれたことは一度もない。

 アルヤは御者の手を借りて馬車に乗り込むのが常だった。



 アルヤが十五歳で学園に入り、それから二年経ってもゴットロープは冷たいままだった。


 努力すれば少しは距離が縮まるかと思っていたアルヤの気持ちは二年の間に粉々に打ち砕かれ、さらに生活が激変する出来事が起こった。


 祖父の血を受け継ぐ子どもは、現コレッティ子爵の父の他に、バルト男爵夫人の叔母がいる。そのバルト男爵家には、叔母とバルト男爵の間にできた嫡男のほかにも、男爵がメイドに手を付けて生まれた、アルヤの一つ年下の女の子がいた。


 叔母の家はそのことが原因で不仲だったはずなのに、いつしかその女の子のお陰で夫婦仲が改善し、アルヤが気付いたときには、祖父は女の子――名前をクリスティーヌという――を本当の孫のように可愛がるようになっていた。


「クリスティーヌは将来すごい美人になるぞ」


 祖父はアルヤの前でもデレデレと話すようになっていた。


 父はデレデレする祖父に苦言を呈していたような気がするが、アルヤはそれどころではなかった。

 祖父がクリスティーヌを美人になると褒めるたびに『私はやっぱり美人じゃないんだ』と落ち込み、暗い気持ちになっていた。



 そんな可愛いクリスティーヌが十六歳の成人を迎えるころ、祖父はコレッティ子爵家の夜会に彼女を招いた。

 彼女は学園に通わず、家庭教師だけで過ごしていたから、よい青年との出会いの場を設けようとしたらしい。


 ところが、クリスティーヌはお忍びでコレッティ子爵家の夜会に訪れていた王太子殿下に気に入られてしまい、愛妾に召し上げられることが決定してしまった。


 王太子殿下は非常に女癖が悪いと言われており、コレッティ子爵家に嵐が吹き荒れた。


 祖父はクリスティーヌを王太子殿下の愛妾になどしたくはなかったというのに、世間の噂は全く違うものになっていたからだ。


 コレッティ前子爵は、娘の嫁ぎ先の庶子を利用して、新たな派閥を作るつもりなのだろう――と。


 祖父の顔の広さも仇になったらしく、噂はまことしやかに囁かれた。

 クリスティーヌが庶子であったことが信憑性をもたせてしまったらしい。


 コレッティ子爵家が所属している派閥からも抜け駆けしたと爪弾きにされ、祖父と父が大きな声で言い合いをすることが増えた。


 アルヤという実の孫娘がいるというのに、なぜ血の繋がりのないクリスティーヌに肩入れし、派閥にヒビを入れたんだと祖父を責める父と、可愛がっていたクリスティーヌが王太子殿下に嬲られる未来を想像して荒れた祖父。



 まったくかみ合わない怒鳴り合いが続き、コレッティ子爵家は荒れに荒れた。

 誰にも止めることができない騒ぎに母は疲弊し、同じく疲れ果てた兄は学園の寮に住まいを移した。


 泥沼のような日々に気分が落ち込み、アルヤは私室に籠って耳をふさぐようになっていった。



 そのころ、アルヤに対するゴットロープの態度はますます悪化しており、彼は美しい令嬢たちとの恋をアルヤに隠すことなく楽しむようになっていた。

 アルヤの前でも平気で令嬢の肩を抱き、ときには見せつけるようにキスをしていた。それらはアルヤが読書をするためにベンチに座っているときに行われ、相手の令嬢も面白がって見せつけているようだった。



(我慢しなきゃ……)



 荒れる父と祖父の関係は、修復しそうにない。

 母は心労がたたり、領地に療養へ行ってしまって帰ってこない。

 兄からは手紙すら届かない。

 同じ学園にいても兄のいる建物へ向かう勇気はなく、会ったところで何を言えばいいかもわからないまま月日が流れた。



 コレッティ子爵家がこのような状態のときに、アルヤの婚約まで駄目になってしまったら……大好きな祖父の心が壊れてしまう……。

 そう考えると、とてもじゃないがゴットロープが嫌だなどとは言えなかった。



(お祖父様はベルタ叔母様のことを本当に心配していたから、関係を修復してくれたクリスティーヌ様のことを可愛がるのは当然なのよ……)



 それを寂しく思ったことは、一度や二度ではない。


 コレッティ子爵家の夜会に現れたクリスティーヌは驚くほど華奢で清廉な美少女だった。

 所作が洗練されていて、とても学園に通ってない男爵令嬢には見えなかった。


 それを見て嫉妬もしたし、本当の孫娘は私なのにお祖父様を取られてしまったと心の中で妬み、評判の悪い王太子殿下の愛妾になるなんてお気の毒ね、とまで思った。


 そして。

 そんなふうにクリスティーヌのことを考えれば考えるほど、自分が嫌いになっていく――



 ゴットロープに眼鏡を掛けるよう強要され、容姿へのコンプレックスは日ごと増していったのはこの頃だった。


 アルヤの変化に気付いたのは侍女のネネだけだった。

 祖父も父もコレッティ子爵家の政治的な立場の回復に忙しく、アルヤのことなど見ている暇はない。


 ネネがいくら伝えようとしても、侍女と話している暇など父と祖父にはなかった。

 ネネは母に手紙まで出してくれたようだが、母が帰ってくる気配はない。



(ネネ以外……誰も私を見てくれない……)



 私はこの物語の主人公じゃないんだから、仕方がない――


 そうやって自分の生きる世界を物語に置き換え、自分は煌びやかな注目されるべき主人公ではないからと、アルヤは必死に自分を宥めていた。



 そう思わなければ、壊れてしまいそうだった。



 そんなとき、ふと隣の席のカールのことを思い出した。

 物語のヒーローのように目立つ彼は、錆色の髪に薄茶色の瞳で、頬に散ったそばかすが可愛いブロック男爵家の五男で、すでに公爵家の護衛として働いているらしく、学園には来たり来なかったりする。


 来たときは嬉しくて、様子を窺ったりしてしまう。

 すごく無口で謎の多い彼は、その雰囲気がミステリアスで物凄くモテていた。

 特にドミニカ・アーレという派手な令嬢に「二番目の男にしてあげてよ」などと言われ、しつこく迫られていたようだ。


 当時はなんで二番目なんだろうと思ったが、彼女には婚約者がいるから遊び相手にしてやるという意味だったのだろう。アルヤにはよくわからない思考だった。


(そうだ……モテモテのカール君をヒーローにした物語を書いてみよう……)


 ひらめいた瞬間、頭の中に『謎の男に恋をしてしまった』というタイトルが浮かんだ。

 平凡な女の子が彼の秘密を知ってしまい、恋に落ちるというストーリーがすぐに思いつく。


(カール君の秘密って何だろう? 実は王家の影だった、とか?)


 影なんているかどうかもわからない存在だが、物語りの題材としては楽しい。

 秘密のある男性は、なぜこうも魅力的なのか。


 アルヤが自分を護るためにはじめた執筆作業は思いのほかアルヤを楽しませ、慰めてくれた。

 まるで自分がその世界の登場人物になったような、そんな気分になれる。


(だからって自分をヒロインに置き換えるのはちょっと違うのよね……)


 平凡と言いながらも、物語のヒロインというのは『実は可愛い』。

 到底、アルヤがなれるようなものではない。



 ペンを持ち、妄想に耽る。

 その時間だけは、自分の容姿も、婚約者のことも、荒んでいるコレッティ子爵家のことも考えずに済んだ。


 何より、騒動の発端になったクリスティーヌを恨まずに済んだ。


 そのことに気付いたとき、アルヤは騒動が始まって以来の涙を流した。


 容姿の醜さより、自分の心が醜くなっていくことのほうが辛いのだと――このときようやく自分の本当の心を理解したからだった。




 * * *




 執筆に夢中になること数か月。

 アルヤはゴットロープのことなど、もはやどうでもいいという心境に至っていた。


(カール君の謎の部分がうまく展開できない……)


 なんたってアルヤ自身が平凡な人生を送っているのだ。

『転』の部分など、思いつくのは一苦労だ。

 しかも高位貴族や王家のことなんてわからない。

 末端の子爵令嬢が王宮に行くことなど、デビュタント以来ないのだから。


(あーー。城の庭園とか散策してみたいなぁ……)


 城の庭園は事前に申請を出して、しかるべき審査を受けて許可書をもらうか、城で働いている人の紹介状(この人がこの時間に来るよ、という書類)があれば通れる。

 ただアルヤにはさっぱり縁のないことだった。


 親友のマーセイディズが、婚約者と一緒に行ったと聞いて羨ましかったのでよく覚えている。

 城の庭園は令嬢たちの憧れのデートスポットだ。


(マーセイディズは幼馴染の婚約者とラブラブだから散策も楽しいよね……)


 煩雑な手続きをこなしたところで、大した会話もないゴットロープと行っても楽しくない。


(そういえばこの間、また私の悪口で盛り上がってたなぁ……しかもアレ、不敬だよねぇ……)


 ゴットロープは相変わらずアルヤに見せつける。

 それは令嬢との戯れにとどまらず、先日は令息との悪口を聞かされた。


「王太子殿下、ビョーキになったらしいな?」

「そうそう、お妃様たちは降嫁でご愛妾様は下賜だって」

「えーーー。マジかよ、羨ましいー。ご愛妾様って俺らと同い年で、すげえ可憐な美人だって話……っつうかさ、お前の婚約者の親戚じゃなかった?」

「それな」

「残念だったな……ちょっと間違えば、お前が婚約者だったかもな?」

「俺が何度も考えたことを、お前が言うなよ」

「悪い悪い。とはいえ、男爵令嬢ならワンチャンあるけど、今はもう身分がなー。俺ら子爵令息……しかも功績のない学生じゃ、下賜はしてもらえないよなぁ」

「噂じゃ宰相閣下が娶るとか言われてるんだぜ?」

「マジかよ、いくら天才でも三十過ぎのおっさんじゃん!!」

「でもカヌレ伯爵家だよ」

「あぁぁぁぁああああ、金も地位も名声も実力もある……」

「そうそう、俺らには到底及ばないやつだよ……なんだよ、お気の毒に、みたいな顔すんなよ」

「いやだって、俺はさ、どのみち掠りもしねぇけど、お前は婚約者の親戚っていう、かなり惜しい位置にいたわけだし?」

「ほんっと、あいつ、うぜぇから!!」

「まぁまぁ、ほら、あそこで本なんか読んじゃって、健気じゃん……遠くから見れば、見れなくもない……あぁ聞こえたかな……どっか行っちゃうみたいだよ? 追わなくていいの?」



「追わなくていいの?」の後に続く、ゴットロープの言葉には耳を塞いだ。

 嫌な気持ちになる言葉は耳を塞げばいいし、見たくない場面は視界から外せばいい。

 ゴットロープへの恋心など初めからないアルヤにとっては簡単なことだった。



 どうやらクリスティーヌは宰相という最強のカードを手に入れて幸せになれそうだ――という報告がコレッティ子爵家に入り、祖父はやっと落ち着いてくれた。


 少しだけアルヤのことも目に入るようになり、家の中にいても辛さが減ってきた。


 婚約者とは仲良くやってるか、と祖父に聞かれるのは本当に困るけれど、曖昧な返事をしてごまかしている。

 いずれゴットロープとの婚約は駄目になるだろう。


(もうお祖父様の心は悲しみに暮れていないし、私の婚約が駄目になっても、それほど悲しませることはないだろう……)


 幼いころから可愛がってくれた祖父の愛情を疑うわけではないが、自分への関心がクリスティーヌより薄いのは事実だ。

 でも今は、そんなことを嘆き悲しむ暇があるなら執筆がしたい。

 そう考えるようになってからは、祖父のことも割り切れるようになった。


 父は忙しすぎて、アルヤのことは気にかけているけれど母のことがもっと心配という状態だった。

 父がアルヤを気にしているように感じたときは、アルヤのほうから「私は大丈夫です。お母様が早く戻ってきて下さるといいですね」と伝えるようにしていた。


(とはいえ、ゴットロープ様との婚約が破棄されたら、次の婚約なんてろくなものにはならないし、それならいっそ修道院に行くほうが平和よね……)


 できれば執筆作業が続けられるような、甘めの修道院がいい。

 少し調べておく必要があるだろう。


(ついでにお城の絵が載ってる書籍と、古典的なドレスの仕様が載ってる書籍も読んでおきたいな)


 小説を書くには資料が必要だ。

 執筆を始めてみると、知らないことが多いことに気付く。


(修道院て図書館はあるのかな?)


 昼休みも図書館へ通い、修道院のことが詳しく載っている本に出会い、入りたい修道院も定まってきた。


(人生のプランが見えてきたわ……)


 誰かに何かを期待するより、自分の足で立てる道を探したい。


 やはり修道院の蔵書量は少なく、偏っていることがわかった。

 持ち込みたい本をピックアップしたり、その合間に執筆したりとアルヤは忙しく過ごしていた。


(実はカール君が影だとわかって、ヒロインが動揺するっていう場面を思いついたのよね!!)


 物語は終盤にさしかかっていた。

『転』の部分は、ヒロインのピンチをカールが助けてくれるというありきたりなものになったが、初めての執筆なのでそれ以上は欲張らないことにしたら、その後の展開もするする書けた。


 助けてくれた謎の男に恋をしたが、その彼は王家の影だとわかる――


 ただの令息ではなかった人と、平凡なヒロインが結ばれるのは難しい。


(バレたのが、いかにもな黒装束だったっていうのは、ちょっと安っぽいかしら? でも……誰に読ませるわけでもない私の趣味のお話だし、いいわよねぇ?)


 図書館での調べ物を終えたアルヤは教室へ向かった。


 今日は心理学の先生の特別講義を聞くため、教室に鞄を置いておいたのだ。

 その鞄を持って講義室に行くためには、お昼休みが終わる少し前に教室に戻らなければならない。


 いつも以上にザワついている教室に入ると、皆が一斉にアルヤの顔を見た。

 令嬢たちは、いくつかの塊になってこそこそと耳打ちをし、令息たちはニヤニヤした顔をアルヤに向ける。


 ふと自分の席の上の鞄の口が開いているのが目に入った。


(私の鞄……!!)


「知らなかったわぁ。アルヤ様って、カール様のことが好きだったのねぇ」


 後ろから声がかかり、振り向く。

 そこにはゴットロープの現在の彼女と言われているボチェク男爵令嬢のフィアンマがいた。

 縦ロールの銀髪をファサッと払い、得意気に胸をそらせている。


「いえ……」


 首を振った。

 開いた鞄の中身が気になり、背中に冷や汗が伝う。


(今日持ってきている個所は、設定資料と今書いている個所だから……)


 設定資料を読めばカールがヒーローだとバレてしまうだろう。

 容姿はそれなりに寄せて書いてしまった。


「嫌だわ、あんな妄想を書き連ねるほどお好きなくせに。ゴットロープ様という婚約者がいながら……ふしだらですわね?」


「え……」


 フィアンマが指をさすのでそちらに目を向けると、いるはずのないゴットロープがしかめっ面をしており、アルヤの小説を手に持っていた。


「わたくしのほうがゴットロープ様の婚約者にふさわしいと仰る方々が親切に教えて下さったの。アルヤ様が浮気をしてるって」


 にんまりと弧を描くフィアンマは、口元に綺麗な指先を当ててほくそ笑んだ。


「……えして」


「なんですって?」


「返して!!」


「ゴットロープ様はアルヤ様と婚約なさっているじゃないですか。返すもなにも……ねぇ、ゴットロープ様?」


 フィアンマはゴットロープを返してと言われたと思ったらしい。

 アルヤはゴットロープのことなど、どうでもよかった。


 どんなに馬鹿にされようと、書いた小説は自分の分身みたいなものだ。

 土足で踏み荒らされたくない。


 アルヤはゴットロープから小説を返してもらうために歩き出した。



「ねぇ、君たちって小説が作家の実体験だと思っている人たちの集まりなの?」


 大きな声で話しながらゴットロープのすぐ側まで歩いてきたのはカールだった。


 カールが教室でこんな大声を出すことなどない。

 学年が違うため、カールの声すら初めて聞いたであろうゴットロープは目を丸くしている。


 その手から一瞬で小説を取り上げたカールは、大切な物だとわかっているような手つきでアルヤに渡してくれた。



「みんなミステリーとか読まないの? あんな事件、そうそう身の回りで起こらないと思うけど、作家はどうやって書いてるんだろうね? みんなは創作って言葉の意味、知らないの?」


 カールの視線はゴットロープからアルヤをからかっている令息たちに移り、最後は令嬢たちを一瞥していた。


「想像で物語を創るのが作家だよ」


 カールの視線がふわりとアルヤに向けられた。


「これだけの量を書くのは大変だったでしょう。凄いね」


「……あり……がとう、ございます」


 アルヤが呆然と見上げると、カールは人好きのする可愛い顔で笑っていた。


 カールのお陰で騒ぎはおさまったかに見えたが、翌日からアルヤは『たんぽぽ令嬢』と呼ばれるようになっていた。


 たんぽぽに込められた意味は色々あったようだ。


 眼鏡が茶色くてたんぽぽの根っこみたいだ、とか。

 綿毛みたいにふわふわと夢のような妄想をしている、とか。

 髪が黄色寄りの亜麻色だったせいもあるが、『頭がお花畑』というのがこの陰口の本質で『妄想癖の痛い令嬢』という意味が込められているのだと思う。


(言いたい人には言わせておけばいいや……)


 どうせもうすぐ卒業だ。

 エスコート相手がいないアルヤは卒業パーティーには参加できないので、学園へ通うのをやめてもよかったのだが。


(図書館が惜しいのよね……)


 王立学園の図書館は、王立なだけあり蔵書量が豊富で資料がすぐに見つかる。

 とりあえず修道院に持っていく本の選別が終わるまでは通おうと思っていた矢先の「別れよう、アルヤ」だった。



(だから……別れようって、何?)



 ゴットロープの言葉のチョイスはおかしくないだろうか。

 それを言うなら婚約破棄ではないだろうか。

 何度考えても、ゴットロープの表情と、私たちの状況が合わない気がするのだ。


 婚約破棄後の身の振り方は決まっているので、婚約破棄を匂わされても取り乱すことはなかった。

 入りたい修道院は二つにまで絞ってあり、その一つには見学の申し込みまで済ませてある。


(あとはお父様たちの説得よね……)


 祖父にはゴットロープと縁を結んだことを責めるような言い方をして諦めてもらうほかない。アルヤのことを思って結んでくれた縁だと思うと心苦しいが、他にいい案が思いつかない。


 コレッティ子爵家は、祖父の存在が大きく、何を決定するにも祖父の了承が必要だ。

 爵位こそ父が継いだが、いまだに実権は祖父にある。


 父はゴットロープの印象が悪かったらしく、最初から婚約に反対していた。

 嫡男との結婚にこだわらなくても、と祖父に随分と食ってかかっていた。


(考えてみたらお父様って……けっこう私のこと可愛がってくれてたのよねぇ……)


 アルヤの希望している修道院は、コレッティ子爵である父が書類にサインしてくれなければ入れない。後から揉めるのを避けるためらしい。入ってから面会もできるし、かなり自由な修道院なのに、なぜそこまでするのだろうという疑問はあるが、過去には色々な揉め事があったのだろう。



 目を瞬きながら、厳かな天井を見上げる。


(なんていう意匠かしら? こんなに素晴らしい天蓋、初めて見たわ……ん?)


「えっ!?」


 起き抜けのぼんやりとした頭で、なぜ今後の身の振り方は決まったなどと呑気に考えていたのだろう。


「どこっ!?」


 きょろきょろするが厚手のカーテンに阻まれて外が見えない。

 カーテンを開けようと手を伸ばすと、見たこともないシルク素材のネグリジェを着ていることに気付いた。


「えええええええ」


 すごい手触りだ。

 こんな上等な代物は着たことがない……。


(お、お祖父様のドレスシャツじゃないんだから……)


 戸惑っているとカーテンの向こうから声がかかった。


「お目覚めですか?」


「あ、はい……」


 見られてもいないのに、内側でこくこく頷いてしまった。

 とんでもなく高貴な場所に居るのは確かだろう。


 すっと音もなくカーテンが開き、母ぐらいの年齢に見える女性が顔をのぞかせた。

 厳しそうな眼差しにも見えるが、品がよく、貴族夫人だと言われれば頷いてしまうぐらいの女性だ。

 そう思わなかったのは、彼女がお仕着せをまとっていたからだ。


「ご気分はいかがですか?」


「大丈夫です……それより私……」


「雨の中倒れかけていたところを我が家の護衛が助けたのです。昨日まで熱が続き、心配しました。途中、何度か同じ会話をしましたが覚えていらっしゃいますか?」


「いえ、何も覚えていません。お世話になったのに申し訳ありません!! 私はコレッティ子爵家が長女、アルヤと申します。祖父……いえ、父に連絡をして、すぐに謝罪とお礼をしたいのですが」


「存じております。コレッティ子爵様にはすでに連絡済みです。謝罪をしていただくようなことは、なにも起きておりません。お礼のお言葉はコレッティ子爵様より頂戴しておりますのでご安心下さい。胃に優しいあたたかいものをお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」


「いえ、そこまでしていただくわけには!! すみません、すぐに帰ります。あの、こんな上等なネグリジェまで着せていただいたのに汗で汚してしまって申し訳ありません……すぐに代金をお支払いしますので、金額を教えてください」


 このときのアルヤは頭が混乱していたので、この会話が非常識だということに気付いていなかった。

 保護してくれた家は『高貴なるお家』だということぐらいしかわからなかったのだ。


 それなのに、お仕着せを着た上品な女性はアルヤを安心させるように「アルヤ様は私共のお客様ですから。なにも心配なさらず、今はどうか体を休めて下さいませ」と微笑みながら言ってくれた。



(私……もしかしてもう死んでて……彼女は女神なのでは……)


 思わず手の平を握ったり開いたりしてしまう。



「待って、今って何日!?」


 部屋には日付がわかるようなものがなかった。


(どうしよう……修道院の見学の日が過ぎちゃってるかも)


 自分が何日寝ていたのかもわからない。

 体のだるさは熱の後と言われれば確かにと頷くぐらいのものではある。

 根が真面目なアルヤは、見学の申し込みをしたのに連絡もなしにすっぽかすというのは、その修道院にはもう入れないという気持ちにさせるぐらいの出来事だ。


 もぞもぞしてみたものの落ち着かず、とうとうベッドから出ようとしたところで扉がノックされた。


「はい。どうぞ」


 ひょこっと顔だけのぞかせたのは、カールだった。


「ええええ…………!!」


 もう驚き過ぎて開いた口が塞がらない。

 そういえば「うちの護衛が」と先ほどの女性も言っていたな、と頭の片隅にあった記憶をようやく引きずり出した。


「アルヤさん、めっちゃ熱あったんだよ……心配した」


「えっと、カール……さま?」


「うん。ヴィルヘルミイナに用があって、その帰りに倒れそうなアルヤさんを見つけて、びっくりしたよ。なんであんな雨の中あそこにいたのか疑問だったから、ちょっと調べさせてもらったよ」


「助けてくださって、ありがとうございました……ん? 調べる?」


「ベルツ子爵令息に置いて行かれたんだね」


 顔だけ器用に扉からのぞかせているカールは、眉を寄せて不穏な顔をしている。

 どうやって調べたのだろうと思いながらも、それを口にするのは憚られた。


「ああぁ……はい……そうです」


 カールはいっそう眉根を寄せながら口を開いた。


「とりあえず熱が下がったって聞いて安心したけど、まだ病み上がりだから気を付けてね」


「はい。ありがとうございます……あ!!」


「なに?」


 顔を引っ込めようとしていたカールが、再び顔を出す。


 淑女の寝ている部屋には入らないという配慮なのだろう。

 顔だけぴょこぴょこ出し入れしているのが可愛い。


 今まで見てきた無口でクールな彼の一面は何だったのだろうか。


「今日って何日ですか!?」


「三日だけど?」


「三日!? 私、二日も寝込んでたの!?」


 ゴットロープとのデートは一日だった。

 申し込んである修道院の見学は四日だ。

 明日、この体調で修道院へ向かうのは無理だろう。

 体がまだふわふわしている。


「そうだよ。でもお水とかは飲んでたみたいだし、会話は成り立ってたってアンさんが言ってたけど……それも無意識だったんだねぇ」


 アンとは、先ほどの女性だろうか。

 アルヤは頷いているカールに向かって声をかけた。


「あの、カール様!!」


「ん?」


「お願いしたいことがあるのですが……」


 そうしてアルヤはカールに修道院への伝言を頼んだのであった。





 * * *





 アルヤがコレッティ子爵家に戻れたのは、それから四日後だった。


 お世話になっていたのはタルコット公爵家だった。

 タルコット公爵家の前当主は王弟だ。

 しがない子爵令嬢のアルヤからしてみれば、タルコット公爵家は王家と変わらない。


 タルコット公爵家では至れり尽くせりの生活を送らせてもらった。

 帰るころには、雨で泥だらけになっていたはずのドレスとハンカチを綺麗にしてもらい、何度頭を下げても返しきれないほどの恩を感じた。


 茶色い眼鏡までご丁寧に持たされたが、それは帰宅してすぐ家令に捨てるよう命じた。


 帰ってきたアルヤを見たネネは号泣し、祖父と父のゴットロープへの怒りは凄まじく、アルヤはほとほと参ってしまった。


 母もアルヤの一大事だと、領地から帰る準備を始めたと聞いた。

 一時期は髪がごっそり抜けるほどだったらしく、心労は想像以上のものだったらしい。


(お母様は繊細だからなぁ……)


 兄も寮から帰ってくる予定だとか。


「お嬢様、これからはお出かけの際、このネネが必ずやお供いたしますからね!」


「全くだ。何が『うちの護衛を信用していないのか』だ。我が家の護衛と侍女がそばにいたら何か不都合があったというだけではないか!! 大体、一番頼りにならないのは貴様だろうと言ってやりたい。ベルツ子爵家の子息ごときが、我が孫娘を愚弄しおって……」


 祖父がアルヤとゴットロープの不仲を嘆いてドレスを仕立ててくれたのはひと月前だ。

 不仲とはいっても、ここまでとは思っていなかったのだと嘆き悲しまれた。

 どうして相談してくれなかったのかとも。


(ここでお祖父様とお父様が荒れていて言えなかった、なんて言ったら、こじれるだけよねぇ……)


 アルヤはそっと溜息をつく。

 祖父と父はある意味ではそっくりなのだ。

 余計なことを言えば、また二人の言い合いが始まってしまう。


「だから私は最初からベルツ子爵家との婚約は嫌だと言ってたんです。父上は伴侶選びの才能がないのでは?」


「何だと!?」


 アルヤがせっかく余計なことをのみ込んだというのに始まってしまった。

 これが嫌なのだ。

 もう争いはうんざりだ。


「もうお二人ともおやめください。ゴットロープ様は私の容姿や性格をお気に召さなかったのです。おそらく他の多くの殿方も同じ意見だと思います。学園の令息たちも、私をたんぽぽ令嬢と呼び、蔑んでいましたから……ですから私は、修……」


「あぁ、確かに学園はかなり風紀が乱れておるようだな」


「はぁ……まぁ、そうですね……いえ、今はその話ではなく……」


 ゴットロープに彼女がいたことを突き止めた祖父は、ゴットロープのこれまでの素行を調べ上げていた。ついでに学園内の知り合いに頼んで、学園全体の風紀まで調べつくしたとか。


(お祖父様って猪突猛進だし、極端なのよねぇ……)


 イマドキの貴族子女は、自由に恋愛を楽しんでいる。

 それを風紀の乱れと取るかどうかは難しいところだ。


「あんな小僧のことはさておき。お前にいい縁談がきている」


「やめてください。婚約はもうこりごりなんです……私は、」


「安心せい。今度はいい男だ!!」


 ぜんっぜん安心できない!!

 祖父の男を見る目は節穴なのだ。

 叔母を見て欲しい。


 今でこそ幸せだが、バルト男爵はメイドとの間にクリスティーヌをこさえたではないか!!

 祖父の見る目の無さは折り紙付きだ。

 父だって先ほど、同じことを口走ったではないか!!


 父に止めて欲しいという願いを込めて見つめれば、父まで腕を組んで頷いていた。


(……お父様も見る目なさそうなの……どうにかしないと……)


 アルヤはぐっと手を握りしめ、立ち上がった。


「お祖父様、お父様!!」


「なんだ」

「どうした?」


 二人は驚いた顔をしてアルヤを見上げた。


「婚約の前にお相手の方に会わせて下さい!!」


「それは……」

「えっ?」


「駄目だというなら、私は今から修道院に入ります!!」


「待て、アルヤ!!」

「早まるな、話を聞け!!」


「反対されても入りますからね!? ゴットロープ様と不仲だったのは最初からです!! それに気付いて下さらなかったお二人の意見なんて、私はもう聞きませんから!!」


 ふーふーふーと、荒い息を吐きながら、心の中では「とうとう言ってしまった」という後悔に早くも苛まれていた。

 元々、争いごとが苦手で、令嬢同士のマウント合戦にも参加せずに生きてきた。


 やられてもやりかえさない。

 それがアルヤだ。


 元々気が弱く、自己主張が苦手で、祖父がクリスティーヌを可愛がっているときも、私を見てなんて言えなかった。

 いい子ぶっていたわけでもなく、自分の気持ちを口に出すのが苦手だっただけだ。


「わかった、わかったから早まるな、いいな?」


 祖父が座れとばかりに手を上下させてアルヤを落ち着かせようとしている。


「わかって下さったのなら結構です。お会いするのは早い方がいいです。私も修道院の見学がありますので!!」


 力強く叫んだものの、手と体はぶるぶる震えている。


 見かねたネネが「お嬢様、病み上がりですし、そろそろお部屋へ」と声をかけてくれて助かった。

 祖父と父は、アルヤが感情を爆発させたところなど見たことがないので口をぽかんと開けて呆けていた。


 アルヤの手を握り、部屋まで一緒に歩いてくれたネネには感謝しかない。


「ネネ、お祖父様とお父様にひどいことを言ってしまったわ……」


 震えの止まらないアルヤを優しくベッドまで導いたネネは、子どものころのようにポンポンと横たえたアルヤの体を叩いた。


「ネネはずっともどかしく思っておりましたよ。旦那様たちはお嬢様を大切になさっているのに、お嬢様のお気持ちには少々鈍感でございますから」


 くすくす笑ながら小声で「いい薬でございましょう」なんて言う。


「お嬢様もこれからはもっと、ご自分を大切になさってくださいね」


 争いを避けていただけで、自分を犠牲にしていたつもりはないが、ネネからはそう見えていたということだろう。

 心配をかけたのだなと思い、アルヤは素直に頷いて目を閉じた。


 ネネのポンポンが気持ちよくて、いつの間にかアルヤの意識は夢の中へ落ちていた。




 * * *




「なぜ、カール様が我が家に!?……もしや、タルコット公爵家で私は何か粗相を!? やはりあの高級なシルクのネグリジェですか!? いま、お父様に相談しますのでお待ちいただけますか?」


 一週間後。

 すっかり回復したアルヤの元にカールがたずねてきた。


 カールはタルコット公爵家の護衛だ。

 カールが公爵家の偉い人の護衛なのは知っていたが、それがマイナ・タルコット公爵夫人だとは知らなかった。


 家名を知ったとき、卒倒しそうになった。


「待って! なんでそうなるの!? 昨日、アルヤさんが会いたいって言ってるって連絡もらったから、デートのお誘いだと思ってウキウキしながら来たのにー!!」


「私が会いたいと言ったのは次の婚約者候補の方ですが……」

「だからそれ、僕だって」

「なぜ?」

「なぜ!? え、そこから!? コレッティ子爵からは何も聞いていないの!?」

「はい……お祖父様とお父様からは何も……」


 次はいい男だから安心しろとしか言われなかった。

 家名すら聞き忘れていたことに気付き、アルヤはコレッティ子爵家の粗忽さに眩暈がした。


(お祖父様のことを猪突猛進とか言って、私もじゃない……)


「アルヤさん、やっぱり視力よかったんだね」


 考え込むアルヤの顔を見つめながら、カールは眼鏡を外すような仕草をしている。


「はい……ご存じでしたか」

「隣の席だったしね。急に眼鏡かけ始めてどうしたのかなって思ってたんだよね。視力悪い人って、こうやるじゃん?」


 こう、と言ってカールは目を眇めて見せた。


「そういう仕草が全くなかったのに、なんで眼鏡かけたんだろうって思ってたんだけど……ベルツ子爵令息のせいかー。って……あいつの話はいいや。そろそろ出かけよ?」


 カールはアルヤに腕を差し出した。

 今までエスコートされないデートしかしてこなかったアルヤは戸惑いながら、そっと手を乗せる。

 カールは嬉しそうに頷いて歩き出した。


 タルコット公爵家のふかふかの豪奢な馬車に乗り込んでからアルヤは気付く。


「この状況に頭が追い付いていないのですが……」

「そんな感じだねー」


 隣に座ったカールはニコニコ笑った。


「あの、なぜ隣に……」

「ん? 婚約しようって男女が向い合わせで座って楽しい?」

「いえ、まだ婚約してませんし……そういえばネネを置いてきてしまいました」

「ずっと隣の席だったのに、婚約とか関係あるの? あとネネさんはちょっと入れない場所に行くからご遠慮願ったの。ごめんね?」

「はぁ……」


 何が何だかわからないが、とりあえず頷いてしまった。


「あの、カール様」

「なぁに?」

「この間は伝言をお願いしてしまい、申し訳ありませんでした」


 修道院への伝言をお願いしたというのに、お礼を言うのを忘れていたことに今ごろ気付く。


「あぁ、あれねー! うん。ビックリした」

「すみません……」

「なんでベルツ子爵令息と婚約解消したぐらいで修道院に行くの?」

「……え? 解消?」

「それも聞いてないの!?」


 カールは薄茶色の瞳をこれでもかと広げた。

 アルヤは何のことだろうと首を傾げる。


「ゴットロープ様には別れようと言われたので、婚約破棄だと思っていたのですが……」


「別れる? 別れる……別れるって何だろう?」


 首を傾げたカールの錆色の髪に馬車の窓からの陽が当たり、それが赤く燃えたように見えてとても綺麗だった。


「僕はアルヤさんに頼まれた見学のキャンセルをしたあと、旦那様を通してコレッティ子爵とアルヤさんのお祖父様に会う約束をしたんだ」


 カールの言う旦那様とは、タルコット公爵のことだ。


「コレッティ子爵には、これまでベルツ子爵令息がアルヤさんにしてきたこととか、僕が知る限りのことを全て話したんだけど、大騒ぎだったんだよ……みんな血気盛んっていうか、すごく行動力があって……うん……僕は凄く好きだけど、みんなちょっと説明が足りないのかなぁ? アルヤさんに作家の才能があることも話したよ。とてもじゃないけれど、修道院に入るような人じゃないですよって」


「何ですって!?」


「勝手に小説のこと話してごめんね。でもネネさんは知ってたみたいだし、コレッティ子爵は凄く嬉しそうだったし、お祖父様は自費出版を検討するって言ってたけど」


「聞いてない!!」


「うーん……ね? 僕も今、とても驚いてるんだけど……その話から、お二人に小説のヒーローは僕ですって自慢しちゃったんだよねぇ」


「そこまで……」


 アルヤは丸裸にされた気分だった。

 祖父や父が嬉しそうだったというのが救いだろうか。


「やっぱり、自慢したこと怒ってる?」

「自慢……え!? 自慢なんですか!? 気持ち悪くないんですか!?」

「なんで気持ち悪いって発想になるのかわからないんだけど、小説のヒーローにしてもらえて凄く嬉しかったよ。僕、目立つの嫌いじゃないし」


 カールは頬を染めてモジモジし始めた。


(なぜ照れる!?)


「それでね。アルヤさんのお祖父さんは最初、コレッティ子爵家から婚約破棄するって言ってたんだけど、ベルツ子爵家のお祖父様と話し合って、今後のためにも解消で手を打とうってことになったらしいよ。こちらが強気に出ても、アルヤさんが僕に懸想したのが始まりだと騒がれたら面倒だし、揉めるとアルヤさんが次の婚約をしにくくなると判断したみたい。でも、アルヤさんが雨の中置きざりにされたことはかなり抗議したって言ってたし、お見舞い金は送られてきたって言ってたよ。あと、ベルツ子爵家には頭のいい次男がいて、子爵家はその子に継がせようって話が出てるみたい。で、それを聞いた僕はすぐに父を説得してアルヤさんに結婚の申し込みをする許可をもらって、コレッティ子爵家のお二人に結婚させて下さいってお願いをしたんだ」


「そんな重大な話を全く聞かされずに、次の婚約者はいい男だからと言われたんですけど……一体いつそんな話を……」


「アルヤさんがタルコット公爵家にいるうちに全部済んだ話だけど……僕、いい男なんて言われてるの? 照れるなぁ」


 展開が早くてついていけない。

 アルヤが遠い目をしていたら、カールは笑いながら頬を掻いていた。

 教室で見ていた無口なカールと同じ人とは思えない。


 そのあと不意に見せた表情は、少し怖かったけれど。


「ざまぁなんて、じわじわやるほうがいいしね」

「……ざまぁって、なんですか?」

「ん? なんでもない。こっちの話」


 カールは得意げに胸を反らせて「到着したよ~」と言いながら軽やかな足取りで馬車を降りた。

 降り口で手をさしのべられ、ゆっくり歩を進めて見上げると、王城の門の前だった。


「庭園に行くには、ここで降りたほうが近いんだ。歩ける?」

「お、王城の庭園に入れるんですか!?」

「うん。許可書もあるよ」


 カールは胸のポケットから書類を取り出し、門番に見せていた。


「なんだカール、今日は可愛い子連れて。デートか」

「そうなのー。いいでしょう?」

「ったく、隅に置けねぇな!!」


 気安く肩を叩かれたカールは、まんざらでもない顔をしながらアルヤの手を取り、自分の腕に乗せると、アルヤの歩調に合わせて歩いてくれた。


(城の門番と顔見知りなんて……さすがはタルコット公爵夫人の護衛ね……)


 なんだか少し遠い人に感じる。


 庭園へ続く道は、石畳の左右をビオトープが飾り、小さな水の流れる音がそよそよと心地いい。

 先を見渡せば季節の花々が植えられているのが見える。


「素敵……」

「広いよねー」

「広い……そうね?」


 これを見て広いという感想になるカールが可笑しくて少し笑ってしまった。


「やっと笑った。アルヤさん笑ってたほうが可愛いのに」

「いえ、私は……」


 可愛いなんて言われたことがない。


「可愛いよ。ふくふくのほっぺたとか。僕は好きだなー。アルヤさんの顔」

「……うそ」

「嘘じゃないよ。マイナ様が作る『にくまん』みたいでさぁ。実はずっと触ってみたかったんだよねぇ」

「にくまん……」

「うん。美味しいよ。そのうちアルヤさんも食べられるよ」

「……??」


 コレッティ子爵家の言葉の足りなさもさることながら、カールもなかなかではないだろうか。


 石畳の先の芝生の部分にさしかかったとき、カールがアルヤの前に跪いて胸に手を当てて見上げてきた。


「アルヤさん。まだ婚約に戸惑いがあるなら、その前に僕と付き合ってもらえませんか?」

「付き合う……?」

「駄目? やっぱり婚約が先がいい? あれ? でも婚約の前に会いたいって言ったのはアルヤさんだから……僕とは結婚も付き合うのも考えられないから断ろうとしてたのかな? あれ? でも相手が僕って知らなかったんだよね?」

「そうですね、カール様だとは思いもよらず……」


 アルヤの容姿を見て不機嫌になるような人ならすぐに断ろうと思っていた。

 というより、そういう人がくると決めつけていた。

 まさかカールだとは思っていなかったのだ。


 そしてアルヤの脳裏には「別れよう、アルヤ」というゴットロープの顔が浮かんでいた。


(私とゴットロープ様はお付き合いなんてしてなかったのよ。だからやっぱり『婚約破棄だ』って言わるほうがしっくりくる……それをゴットロープ様は『別れよう』って……)


 ゴットロープはあのときと同じ顔で歴代の彼女たちと別れてきたのだろう。

 自分の言葉に酔いしれた彼の顔は気持ちが悪かった。


 彼は付き合ってる彼女と婚約者を混同していたことに気付いていなかったのではないだろうか。そしてアルヤも男性と付き合ったことがないから、ゴットロープの言葉を疑問に思いつつも婚約破棄を突き付けられたと思ってしまった。


(そもそも子ども同士が『別れましょう』と言ったところで家同士で結んだ婚約が破棄できるわけないのよね……私もいつかこの婚約は駄目になると思っていたから受け入れてしまったけれど、あの人、別れようとか言っちゃって、あの後ベルツ子爵をどう説得するつもりだったのかしら……)


 正式な婚約の破棄や解消には、両家当主のサインが必要になる。

 コレッティ子爵家とベルツ子爵家の家格は対等なため、破棄や解消には相当な理由がいるだろう。


 ゴットロープはこれまで散々彼女を作っていたのだから、たとえアルヤがカールに懸想したとしても、お互い様ぐらいにしかならない。

 数で言えばゴットロープのほうがはるかに多いのだ。


 なかなか口を開かないアルヤに焦れたカールが、ちょいちょいと指先でアルヤのドレスの裾を引っ張った。

 考えがまとまったわけではないが、アルヤは思ったことを口にした。


「あのときカール様が助けて下さって、とても嬉しかったんです。もうそれだけで十分だと思っていて……私はカール様に迷惑をかけてしまったことを申し訳ないと思うばかりで……」


「迷惑なんて、かけられてないけどなぁ」

「色々なことがありすぎて頭が混乱していて、どうお返事したらいいかわからないのですが……」

「わかった! とりあえず恋人の予約ってことでいいかな!?」

「予約……はい。ではそれでお願いします」


 カールの前向きな提案に思わず頷いてしまった。


「よし! 王宮の庭園なんていつでも来れるから、一周したらご飯行こう!!」


 すくっと立ち上がったカールはアルヤをさっさとエスコートして、本当に一周だけして門へ引き返してしまった。


(なんだか勿体ないわ……)


 アルヤにしてみれば、なかなか入ることのできない場所だ。

 門番も「もう帰るのか?」と驚きながら見送ってくれた。


 そうして再び馬車に乗って辿り着いた先はヴィルヘルミイナだった。


「アルヤさんの嫌な記憶はさっさと消しちゃおうね!!」


 カールはまたしても軽やかに馬車を降り、アルヤを店までエスコートしてくれた。


「なんか騒がしいねぇ」


 店内が騒然としている。

 いつものヴィルヘルミイナらしくないとアルヤも思った。


「だから何で入れないんだよ!! 俺は常連だぞ!?」

「失礼ですが、当店は然るべき方からのご紹介がない場合、予約も入店もお断りしております」

「何度も来てただろ!? 二週間前にも来たんだよ!! 忘れたのか!?」

「さて。帳簿には、そのような記録はございません」

「俺はベルツ子爵家のゴットロープだぞ!?」

「左様でございますか……あぁこれはこれは。カール・ブロック様、お待ちしておりました」

「カール?」


 ゴットロープはイライラと足を踏み鳴らし、カールとアルヤが並び立つのを見て目を剥いた。

 彼の隣にいたフィアンマは、アルヤを上から下まで舐めるように見て馬鹿にしたような顔をしていた。

 彼女はこれでもかというほどリボンとフリルのついた派手なドレスを着ていた。


 一方のアルヤは、婚約者候補に普段のアルヤを見てもらおうと思い、あえて控えめなドレスを選んでいた。


「こんにちはー!!」


 カールはゴットロープのことなど目に入っていないかのように、店主とにこやかに会話を進める。


「アルヤ様、ようこそいらっしゃいました。本日も大変可憐な装いでございますね」


 店主はアルヤにも丁寧に頭を下げ、二人をテラス席に案内してくれた。

 背後からは「何であいつらだけ」などと叫ぶ、ゴットロープの品のない声が響き渡っている。


 明日にはヴィルヘルミイナで恥を晒した令息として社交界で噂になることだろう。

 彼がここに入店できていたのは、アルヤの連れだったからに過ぎない。アルヤだって、祖父の名前がなければ一歩も入れないような店だ。


 ベツォ王国で三本の指に入る高級店での失態がどれほどのものか。

 悪質な客と判断されれば、他の高級店にも入れなくなるということを彼が知るのはいつだろうか。


(ゴットロープ様ってあんなに馬鹿だったかしら……)


 なぜこの店が有名な高級店なのか、そこに思い至らない頭の悪さにアルヤは辟易する。

 カールがこのタイミングでアルヤをここに連れて来たのは偶然ではないのだろう。

 なんとなくそんな気がした。


(公爵家の力って、本当にすごいわ……)


 権力とお金があれば、偶然すら装える。

 カールはただニコニコと朗らかに笑うだけだった。


「テラス席にちゃんと座るのは初めてです」

「寒くない?」

「大丈夫です。風が気持ちいいですね」


 以前こんな場所でお前と飯なんか食えるかと、ゴットロープに言われたことがあった。

 春のあたたかい日で、外で食べるのが気持ちいいからと、店が気を回してテラス席を用意してくれていたというのに。


「今日は新しいデザートが出る日なんだよねぇ」

「知ってます……新種の皮まで食べられるぶどうを使ったデザートですよね」

「そう! 僕は甘いものが好きだから楽しみなんだ」

「甘いものお好きだったんですね?」

「うん。アルヤさんの書くヒーローの僕は、苦いコーヒーしか頼まないんだっけ?」

「あの一瞬でよく読めましたね……」


 ゴットロープから取り上げた小説の束の一番上は設定資料になっていて、そこにはヒーローの食べ物の好みなども書き込んでいた。

 設定資料のせいでヒーローのモデルがカールだと知れてしまったのだと思うと、苦い気持ちになる。


「僕は人よりちょっとばかり耳がいいんだけど、目も割といいんだよね」

「カールさんは頭もいいじゃないですか」


 学園を休みがちでも、カールは学年一位の成績をキープしている。

 アルヤも大抵五位以内ではあったが、カールを抜くことはできなかった。


「本当は剣で一番になりたかったんだけど、さすがに兄貴には勝てないし……あ、僕の言う兄貴は血の繋がりのある兄上たちのことじゃなくて、公爵家のね……」


 カールはアルヤが質問しなくても色々なことを教えてくれた。


 小さい頃からマイナの実家であるべイエレン公爵家に行儀見習いで通わせてもらい、そこで剣の師匠となるヨアンという人に出会い、鍛えてもらったこと。

 そのヨアンを兄貴と呼んで慕っていること。

 ヨアンに耳のよさを買われ、マイナが結婚したあとタルコット公爵家の護衛になったこと。

 今はタルコット公爵家の使用人部屋に住んでいること。


「僕は本を読んで自分で勉強できるし、剣の腕も立つから別に学園に通う必要なんてなかったんだけどさ。マイナ様が『子どもは学校に通うもんだ』って言うんだよ。そういうマイナ様だって学園には通ってなかったのに。言われて渋々通いはじめたら、しつこい令嬢に追いかけまわされるし、ろくなことないって思ってたんだけど、アルヤさんが隣の席になってからはすごく楽しかったよ。アルヤさんて無口なのに表情に出るから面白かったし。もうちょっと話したかったけど、急に話しかけたら怖がらせちゃうかなって思って……今こうしてアルヤさんとデートできるようになってよかった。学園も、今は通ってよかったって思ってる。マイナ様に感謝しなくちゃ」


 運ばれてきた大きなお肉を頬張りながら、カールは頷いていた。


 アルヤはそんなカールが眩しく見えてしまい、伏し目がちになりながら呟いた。


「私はカール様にそんなふうに言ってもらえるような人間じゃないんです」

「どうしてそう思うの?」

「ずっと……従妹に嫉妬していて、お祖父様を取られてしまったような気持ちになって、そんな自分が嫌いでしたから」

「それって、僕がアルヤさんを好きだと思う気持ちには何の影響もないよね?」

「ない……んでしょうか」


 アルヤは自分を許せないでいる。


 バルト男爵家は新興貴族だから、社交界では軽く見られがちだ。

 その上、クリスティーヌは庶子だ。

 貴族社会の厳しさを思えば、彼女の立場は相当危ういものだっただろう。祖父の庇護が彼女の助けになったのなら、同じ世界で生きる令嬢として喜ぶべきだったのだ。


 アルヤは小説を書くようになってからそんなふうに考えるようになっていた。


「まったく、なんの影響もないね。むしろアルヤさんは寂しかったんだろうな、としか思わないなぁ」

「でも、私は見目の評判も悪くて」

「なおさらどうでもいいかなぁ。僕の周りが煌びやか過ぎて、もはや美醜の感覚がなくなるレベル」

「はぁ……それは確かにそうですね……」


 タルコット公爵家は、当主夫妻はもちろん、侍女やメイドまで美人だった。


「そういうアルヤさんこそ、僕よりベルツ子爵令息のほうが金髪碧眼でかっこいいって思ってるんじゃないの?」


 ゴットロープをカッコいいと思ったことはない。

 むしろ表情や態度が醜くて嫌いだった。

 アルヤは正直にそれを伝えるとカールはものすごくいい顔で笑った。


「もう答えなんか出てるじゃん。アルヤさんはヒーローにするぐらい僕に興味があって、僕はアルヤさんをお嫁さんにしたいぐらい可愛いと思ってる。やっぱり『にくまん』最高」


 そう言いながら頬をふにふに触られた。

 男性に頬を触られたことなどないので、すごく恥ずかしかった。


「そういえばカール様を追いかけていたアーレ伯爵令嬢、最近見ませんね?」


 恥ずかしさを誤魔化すために、見かけなくなったドミニカ・アーレ伯爵令嬢の名を出すと、カールの表情がすっと冷たい雰囲気になった。


「お父上の借金が膨らみ過ぎて、娼館に売られたよ」

「そんなっ……」

「彼女は気に食わない令嬢を階段から突き落としたり……そういうことをしてた問題の多い令嬢だったけど……だからって売られていいかと言われれば、よくはないかなぁ……それこそ修道院に行って反省を促したほうがいいような気がするけど……でも、世の中にはそういう親もたくさんいるんだよね。うちはかなり貧乏な男爵家だけど、父上は『貧乏暇なし、お前らせっせと働けー』とか言う人でよかったよ」


 眉を下げたカールの瞳には悲しみが見えた。


「私は恵まれてますね……」

「うん。すごくいい方たちだよね。僕はコレッティ子爵家が大好きだよ」

「ありがとうございます。説明が足りませんけど」

「そこは改善点だね」

「はい。帰ったらお父様たちと話します」


 力強く言い切ったアルヤに、カールは微笑みながら頷いてくれた。



 カールと食事を終えて店を出ると、仁王立ちのフィアンマがアルヤたちを待っていた。

 ゴットロープの姿はない。


「やっと出てきたわね!!」

「……何か御用ですか?」

「私を送りなさいよ」

「なぜ?」

「このお店に入れなかったのも、ゴットロープ様が怒って帰ってしまったのも、みんなアルヤ様のせいだからよ!!」


 ゴットロープはまたしても令嬢を置き去りにしたらしい。


「お店に入れなかったのはゴットロープ様が手順を踏んで予約を入れていないからで、私には関係のないことですし、置いて行かれたのも私のせいではないですよね?」

「あなたが予約を入れさせないようにしたんだって、ゴットロープ様は仰ってたわ!!」

「そんな力が私にあると思いますか? ただの子爵令嬢ですよ?」

「うるさいわね!! 全部あなたのせいなのよ!!」


 置いて行かれたのが堪えたのか、口調は威圧的だがフィアンマは泣きそうだった。

 動きがおかしいことから、ハイヒールが靴擦れして痛いのだろう。


(無理に着飾って街歩きなんかするからよ……)



「絶対に私のせいではありませんが、仕方ありませんね……」


 アルヤはカールに視線を向け、今日のお礼を口にした。


「カール様、本日はありがとうございました。とても楽しかったです。後ほど、家を通してご連絡をいたします」

「なんで別れの挨拶!?」

「靴擦れで動けないフィアンマさんと辻馬車で帰りますので」

「それこそなんで? どうしても送るっていうなら乗ってきた馬車でいいじゃん」

「滅相もございません。かのお家の家紋の入った馬車でフィアンマさんのお宅に付けたら大変な騒ぎになります。絶対にいけません」

「うん、さすがアルヤさん。それはそう」

「ですからここで」

「待って、それなら彼女だけ辻馬車に乗せればいいじゃん。ヴィルヘルミイナに入れなかったことを責めたせいでベルツ子爵家令息と揉めて置いて行かれたんだから、ボチェク男爵令嬢の自業自得でしょー?」


「わたくしのせいではなくってよ!!」


「あら、ベルツ子爵令息様は批判されるのが大嫌いな方なのに、フィアンマさんは責めたんですか? それにしてもカール様よくご存じですね?」

「僕は耳がいいからね。テラス席だったし、店外で揉める二人の会話は全部聞こえてたよ」

「すごいですねぇ……私は全く気付きませんでした」


「ちょっと!! わたくしの話、聞いてまして!?」


「はいはい、聞いてますよ。そろそろ行きましょうか。馬車付けまで歩きますよ。そのぐらいは我慢なさって下さいね」


 アルヤがカールのエスコートの腕から手を離すと、カールが焦ったように声をあげた。


「わかったよ。僕が辻馬車を呼んでくるから、アルヤさんは待ってて」


 カールは一瞬で消え、すぐに走って戻ってきた。

 タルコット公爵家の馬車はカールが戻るよう告げたらしく、静かに走り去っていった。


「貸切ったから乗って」


 三人の前に辻馬車が到着し、カールはアルヤにだけ手を差し伸べた。


「ちょっと! わたくしには手を貸して下さらないの?」

「アルヤさんがボチェク男爵令嬢を送るっていうから渋々乗せるだけなのに、本当に図々しいね」

「あなた、あのクールキャラはどうなさったの!?」

「僕はクールなんかじゃないんで。喋らなかったら勝手にそっちがそう思っただけでしょ?」

「裏切られたわ! あのカッコいいと言われていたカール様がこんな男だったなんて!!」

「勝手に期待したのはそっちなのに、勝手に裏切られたと騒ぐのはやめてもらえるかな? 迷惑なんで」


 しれっとアルヤだけ馬車に乗せ、さっさと自分も乗り込んだカールは馬車内から「乗らなくてもいいよ?」と、かなり意地悪なことを言っていた。


 フィアンマは送ってもらえなければ困るとばかりに、大股で馬車に乗り込むと音を立ててアルヤの隣に座った。


 タルコット公爵家の馬車とは違い、座面が硬くて痛い。

 それでも馬車に乗れたフィアンマは幸運だろう。


(私もカール様に助けてもらえたから幸運だったわね……)


 よからぬことを考えるような人物に捕まっていたら、どうなっていたかわからない。

 他国で奴隷になっていた可能性すらある。


「アルヤ様に助けてもらったわけじゃないから、お礼なんて言わないわよ!!」


 フィアンマはまだ強気の姿勢を崩していなかった。

 泣きたいぐらい心細かったくせに、必死で耐えているようだ。

 帰りはゴットロープが送ってくれるだろうと思い、辻馬車に乗るための銅貨すら持っていなかったのだろう。


「ええ。フィアンマさんを助けたのはカール様ですし、私はあなたを置き去りにしたら後味が悪いなって思っただけですから、お礼は結構ですよ」

「うわっ、最低」

「お金がなくて辻馬車に乗れなくて泣きそうだった方に、とやかく言われたくないですね」

「たんぽぽ令嬢のくせに!!」

「図星ですか?」

「ち、違うわよ。ほんっと嫌味な女。大っ嫌い」

「私もフィアンマさんのことは嫌いですね」

「そんなだからゴットロープ様に嫌われるのよ」

「ゴットロープ様のことはもっと嫌いなので問題ありません」


 フィアンマとのやり取りを、カールは嬉しそうな顔をして眺めていた。

 自分でも自分の口からするする出る言葉にびっくりする。

 嫌味な令嬢を撃退する場面を小説に書いたお陰かもしれない。

 自分の中にこんな引き出しがあるとは思わず、うっかり感心してしまったぐらいだ。


「あなた、ゴットロープ様のことが好きで別れるのが嫌でゴネたんじゃなかったの!?」

「誰の話ですか? そもそも私とゴットロープ様はお付き合いなんてしてませんよ」

「婚約者だったんでしょ?」

「確かに仲のいい婚約者であれば恋人のような関係にもなれるんでしょうね。婚約は家同士の契約に過ぎませんから、互いの気持ちが揃わない場合は……どういう関係になるんでしょうね? 契約婚約者?」


 変な言葉を創作してしまい、首を傾げていたら、カールが堪えきれずに噴き出した。

 カールがあまりにも楽しそうにお腹を抱えて笑うから、つられてアルヤも笑ってしまった。


「なによ……聞いてた話と全然違うじゃない……」


 フィアンマは唇を噛みしめていた。


「私は、ゴットロープ様のことをお慕いしたことは一度もありませんよ。それこそ、ほんの一瞬も」

「ほんとに? あの見た目にも?」

「……彼、カッコいいですか?」

「かっ……」


 フィアンマは口をつぐんだ。

 女を置き去りにする男なんて、かっこよくないだろう。


「別れよう、アルヤ……悪いけど、自分で帰って……別れた女を送るほど、お人好しにはなれない」


 アルヤは髪をかきあげる仕草をしながらゴットロープの口調を真似た。


 カールはお腹をかかえてヒィヒィ笑い出し、フィアンマは口を開けて真っ赤な顔をしていた。

 似たようなことを言われたのではないだろうか。


「好きでもない人に酔いしれながら『別れよう』と言われた私の気持ちをわかれとは言いませんが、せっかくフィアンマさんの見た目はいいのですから、他の男性になさっては? 縦ロールは古臭いですけど」


「一言余計なのよ!!」

「せっかく美しい銀髪なんですもの。ハーフアップがよろしいんじゃありません?」


 縦ロールが古いことも、図書館の資料を見ていて気付いた。

 さして令嬢の髪形に興味はなかったのだが、あえて言ってみた。効果は抜群だった。


「ダサいアルヤ様に言われたくない!!」

「はぁ、そうですか。ちなみに、私の根っこのような眼鏡もゴット……ベルツ子爵令息様に強要されたのであって、趣味ではありませんが?」

「なんなのあの男!! 最低じゃない!!」

「だからさっきから申し上げているではありませんか。彼に懸想したことなど一度もないと」


 ようやくゴットロープの本性を理解したのか、フィアンマが大人しくなった。

 カールは相変わらずヒィヒィ笑っている。


(なんだか言いたいことを言うとすっきりするわね……)


 すっかり大人しくなったフィアンマをボチェク男爵家の近くで降ろし、カールと二人きりになった。

 すっと馬車の重心が傾き、カールが隣に座ったことに気付く。


「はーーーー。面白かったーー!! 最高!! アルヤさん、めっちゃ言い返せるじゃん。なんで今まで黙ってたの?」

「前は本当に思ったことを口にできなくて……おそらくこれも小説のお陰です」

「そっかー。作家は偉大だなぁ」

「作家じゃないです……本当にただの妄想です」

「創作でしょ? 僕は、僕をヒーローにしてくれた可愛いアルヤさんのことを好きになったけど、今日のやりとりを見て、ますます好きになっちゃった」


 カールの薄い茶色の瞳に、揺れるアルヤの瞳が映る。

 小説に書いたからわかる。

 これはキスの合図だ。


(あぁ……困る……)


 本当に愛おしいみたいな顔をされ、顔を近付けられてしまえば――


 それが大切な小説を守ってくれた人ならば。


 フィアンマとのやり取りで興奮していたアルヤは、カールからのキスを受け入れるために瞼を閉じてしまった――





 * * *





「アルヤさん、とっても綺麗だね」

「ありがとう……カール君」


 アルヤの首元に重たいネックレスをつけながら、夫のカールが耳元で囁く。

 深い色合いのガーネットを探し出して加工したネックレスは、カール渾身の愛の証だ。


 このガーネットでアルヤを飾るときは、カールが他の男性を牽制したいと思っているときだとアルヤは知っている。


(私なんてモテやしないのに、相変わらず謎な人よね……)



 馬車でファーストキスを体験したアルヤは、出席できないと思っていた卒業パーティーにカールのエスコートで参加することになり、パーティーの真っ只中でプロポーズされて婚約した。


 結婚後はタルコット公爵家内の夫婦用の使用人部屋に住み、アルヤは公爵家の使用人の子どもたちに読み書きを教えながら執筆をし、カールは変わらずマイナの護衛として働いている。



 あれから五年。



 ベルツ子爵家は次男が子爵位を継ぎ、ろくに仕事ができないゴットロープは婚約者不在のまま子爵家のお荷物になっているらしい。そろそろ領地に送られるのでは、という噂が流れている。


 フィアンマとアルヤは、フィアンマがしつこくお茶やら食事に誘ってくるのでそれに渋々付き合っているうちに気の置けない友人になってしまった。彼女は幼馴染だった男爵家の次男と結婚し、子どもがいる。



 そして。


 タルコット公爵家の支援を得て作家デビューを果たしたアルヤは、処女作だった『謎の男に恋をしてしまった』を改稿し、納得のいくものに仕上げて発表した。

 それが若い令嬢の間で広まり、ベストセラーとなったのはつい先日のこと。


 本日はそのお祝いとしてタルコット公爵家で夜会が開催される。


「今日もアルヤさんのことを馬鹿にしてた奴らが手の平を返してくるよ」

「そうね……慣れてるわ」

「またあの虫けらを見るような目で『たんぽぽ令嬢と呼んでくださったお陰でデビューできましたわ』っていうアルヤさんの冷たい台詞が聞けるのかと思うと……僕はウキウキして夜も眠れなかったよ」

「やっぱり変わった趣味してるよね……カール君て」

「そう?」


 ニコニコと、人好きのする笑顔は相変わらずだ。

 差し出された腕に手を添える。


「では行きましょうか」

「うん。僕のお姫様は今日も最高だね」

「あら、『にくまん』最高って言わないの?」

「それを言うとマイナ様に叱られるんだよ。女性を『にくまん』にたとえるなんてって」

「別にいいのに。ふわふわして可愛いって意味なんでしょ?」

「うん」


 初めて『にくまん』なるものをタルコット公爵家で出されたときは驚いたが、ふわふわの生地とジューシーなお肉が口の中に広がって、とても美味しかった。

 カールの好物だと聞いていたから、『にくまん』と言われても嫌な気持ちにはならなかった。


(変わった趣味の夫だけど、幸せだからいいの)


 カールの口づけを頬に受け、アルヤは笑いながら一歩を踏み出した。




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