せっかく婚約者との結婚式が明日に迫っていたのに、何で10年も前に戻っているのでしょう?
心地よい風が吹く夜。開け放たれたテラスに出た私はリュドヴィック様をじっと見つめる。
ここはボーヴォワール公爵家の領地にあるお屋敷。
嫡男であるリュドヴィック様と私は、明日いよいよ結婚式を迎える。
目の前のに広がるはずの湖は夜の闇に溶け、陸地との境目を曖昧にしている。時折、雲間から顔を覘かせる月が湖面に映り込むと、その瞬間だけはそこが確かに湖であることを教えてくれる。
リュドヴィック様は私の手をそっと引き寄せると強く抱きしめた。
私はリュドヴィック様の体温を感じ、顔が熱くなる。
「あぁ、本当に長かった。ようやっとだね、エレン」
「はい、リュドヴィック様」
耳元で囁かれたリュドヴィック様が私の髪を撫でる。
私はリュドヴィック様の胸に頬を寄せて静かに頷いた。
リュドヴィック様は私の額にかかる髪の毛を優しく払うと、触れるだけのキスをした。
「唇へのキスは式までとっておくよ」
あぁ、早く明日にならないかしら。私は、ゆっくりと瞼を閉じた。
眩しい日差しに目が覚めた。
えっと、昨晩は確かリュドヴィック様に抱きしめられて…………寝てしまったのかしら。
思い出したら、また顔が熱くなってきた。
そろそろ式の支度が始まるはずよね。
私はベッドの上に起き上がって、はたと気が付く。
あれ? これはクレルモン家の私室のベッドでは? 私は何事が起きたのかとキョロキョロと見回す。
散々見慣れた調度品がそこにはあった。若干綺麗過ぎる気もするが間違いない、ここはクレルモン侯爵家の私の部屋だ。
やだ、あれって夢なの? 欲求不満でおかしくなったのかと恥ずかしくなる。
でもこの前、式の最終打ち合わせもして、リュドヴィック様の領地に到着したのが昨夜のはず…………。
「エレオノールお嬢様、起きていらっしゃいますか」
扉から顔をのぞかせているのは侍女のアンナなのだが…………随分と若い。
「アンナ。おはよう」
私はとりあずベッドから降りようとして、足が届かずに転がり落ちた。
慌ててやってきたアンナに抱き起される。
「お嬢様、まだ寝ぼけてますか。もう8歳だっていうのに、ほんとにしょうがないですねぇ」
「へ? 8歳?」
私は自分の姿を見る。小さい…………まるで子供みたいだ。
そういえばアンナが8歳だって言ってた…………。
「ねぇ、アンナ、リュドヴィック様はどこにいったの?」
「リュドヴィック様って誰です?」
「ボーヴォワール公爵子息のリュドヴィック様に決まってるでしょ?」
「さぁ。多分、公爵家にいらっしゃるのではないでしょうか」
「結婚式が始まるのよ、何で公爵家にいらっしゃるのよ」
私は半泣きしてアンナに訴えかけた。
アンナはおろおろしながらも私を抱きしめて、背中を撫でてくれた。
落ち着いてきた私は、これはどういうことなのかと考えた。
どうやら私は…………10年前に戻った?
信じたくはなかったが今が夢でない限り、そう考えるのが一番自然な気がする。
やだぁぁぁぁぁ。
せっかくリュドヴィック様と明日結婚式というところまできたのに、やり直しなの?
せめて唇へのキスぐらい済ませてからでも良かったではないかと、やり場のない怒りを持て余す。
ほんと、どうなってるのか知りませんが、またリュドヴィック様と結婚するべく私エレオノールは頑張ります!
人生が戻ってから早いもので1年。
2年目を迎えた私は、小さい体にもすっかり慣れて幼少期を満喫していた。
公爵夫人になるはずだったこともあり、かなりの時間を勉強に割いていた私は、その知識を余すところなく発揮した。おかげで家庭教師の先生方からは神童と呼ばれ、両親は手放しで褒めてくれる。
世の中には女が勉学をすることを良しとしない貴族が多い事は知っている。だから適当に間違えて誤魔化しても良かったのだが、なるべくリュドヴィック様と結婚する確率を高めるために敢えて神童の道を行くことにした。
そろそろ王宮で開かれるお茶会があるはず。
リュドヴィック様と出会うことになるこのお茶会でいい印象を与えなければ!
王宮の庭園には上位貴族の令息と令嬢が集められている。
この茶会の目的は第一王子の側近と婚約者探し。残念ながらその枠に入れなかった場合も想定し、次なるお相手の目星も付けられたりする、という一石三鳥ぐらいの催しだ。
リュドヴィック様一択である私は会場入りすると、早速、彼を探し始めた。
いたいたっ!
だが視線の先のリュドヴィック様は、何だかそわそわされて辺りを見回している。
何か探しているのかしら?
そんなリュドヴィック様の元へやってきた男子が一人。
あれはルクレール侯爵令息のフィリップ様―――確か戻る前の人生では王太子の側近をされていた。
ただ会話をしているように見えた二人は、そのうち言い争いを始めた。
何なんだろう?
私は近寄りがたい二人を遠巻きにして観察を続けていた。
「こんにちは」
突然声をかけられて振り返ると、そこには金髪碧眼の第一王子のアルフォンス様がいらっしゃった。
私はカーテシーをしてご挨拶申し上げる。
「アルフォンス殿下。ご機嫌麗しゅう存じます」
「そんなに畏まらないで。よかったら、あちらで僕とお話しませんか?」
「えっ?」
「ねっ、いいでしょ?」
半ば強引に連れていかれた私は、なぜだかご一緒して下さった王妃様も含めて3人でお茶をすることになった。
「エレオノールちゃんは神童だって噂よね。ふふふ。アルが気になって仕方ないみたいで」
「お母さま、僕はそんなこと言ってません」
顔を真っ赤にするアルフォンス殿下はとても可愛らしい。
「アルフォンス様はお勉強はお嫌いなんですか?」
「別に嫌いじゃない。ただ、目指す所が良く分からないだけだ」
確か前の人生のアルフォンス殿下はとても国民思いで、国王陛下が進める様々な改革にも助力されていた。
「それならば、殿下の勉学の先に民がいると思ってみては? 殿下でしたら、きっと民の助けとなる力にされると思います」
王妃様は目を丸くしている。アルフォンス殿下は口をポカンと開けた後、腑に落ちたような顔をして大きく「なるほど」と言って頷いた。
こうして気が付いた時には、お茶会も終わり…………私はリュドヴィック様にお会い出来ないまま会場を後にした。
2年目を終えた私。次回のチャンスはいつだったっけ?
結婚式まで残りあと8年。
人生が戻ってから3年目。
さすがに今年会っておかないと4年目にある婚約が危ない。
ただ、今年のイベントはボーヴォワール公爵家で開かれるもので、去年のお茶会でお会いしたことがきっかけでお呼ばれするというものだった。会っていない今、招待状は届かないかもしれない。
既に危機的状況なのだとしたら…………。
そんな私の不安など知る由もないアンナが声をかけてきた。
「エレオノールお嬢様、お出かけのお時間ですよ」
「はーーい。今行きます」
どこに出かけるのかと言えば、王宮である。
実は去年のお茶会以来アルフォンス殿下に誘われて、勉強するために王宮へ通うようになっていた。アルフォンス殿下はやはり頭の良い方で、何でもすぐに吸収される。私のような過去の知識を披露しているだけの偽物とは違う。こうなったら私も頑張るぞ!
今日のお勉強会を終えて王宮から戻った私は、お父様の執務室を訊ねていた。
「お父様、お願いがあるのです」
「エレンがお願いかい? 何か欲しいものがあるのかな」
「ボーヴォワール公爵家で子息や息女を集めたお茶会があると聞いたのですが、私宛に招待状は届いているでしょうか」
「いや、来てないな」
「お父様、私、どうしても参加したいのです」
「どうしてなのか理由を聞いても?」
…………優しく聞いてくれるお父様に、話すか話すまいか悩む。
「お父様、私、リュドヴィック様と婚約したいんです」
「!?」
「せめて釣書だけでも送って頂けないでしょうか」
「…………」
黙ってしまったお父様をじっと見る。
「エレン。お前がどうしてそんなにリュドヴィック様に拘るのかは分からない。だけど今は難しいかな」
「そんな…………」
「でもね、エレン。私はお前の父親だ。お前が大きくなった時にまだリュドヴィック様と婚約したいと思うのならば、私はお前の力になると誓うよ。これは約束だ」
「お父様、ありがとうございます!」
こうしてリュドヴィック様に会う機会を持てないまま3年目は終わった。
結婚式まで残りあと7年。
人生が戻ってから4年目。
今年は前の人生では婚約する年。
だが、会ってもいないし釣書も送られていない相手に婚約を打診する人はそうそういない。でもお父様と約束したから、今は最善を尽くして頑張るだけよ!
「エレオノールお嬢様、お出かけのお時間ですよ」
「はーーい。今行きます」
今日も私は王宮に向かった。
いつもの入り口ですっかり顔なじみになった騎士のお兄さんと挨拶を交わして、通いなれた道を歩いていると向こうからリュドヴィック様とフィリップ様が歩いてくるではないか。
うそっ。
神様はやはり私を見捨ててはいなかったのね。
逸る気持ちを抑えてリュドヴィック様に話しかけるタイミングを見計らう。
どうやらリュドヴィック様とフィリップ様も私に気が付いたようだが、なぜだか二人で言い争いを始める。
ん? この光景前にも見たような……と、その時、聞きなれたアルフォンス殿下の声が。
「迎えにきたよ。エレオノール嬢」
「まぁ、わざわざ来てくださったのですか。ありがとうございます」
軽やかに挨拶を交わしているうちに、リュドヴィック様とフィリップ様の姿は見えなくなっていた。
「今日の外国語の授業は負けないからな」
「いえ、私だって負けませんよ!」
殿下に乗せられた私は、リュドヴィック様とお話できなくて気落ちしていたことを忘れていた。
こうして婚約することもないまま4年目が終わった。
結婚式まで残りあと6年。
人生が戻ってから5年目。
前の人生なら婚約者として少しずつ歩み寄りを始めていた年であるのだが、これまでの4年でリュドヴィック様をお見かけしたことが僅かに2回のみ。
しかも何故だか毎回フィリップ様と言い争いをしているせいで、話しかけることが出来ない。
…………状況だけで言えば、絶望的だった。
窓の外をぼーっと眺めていると、見慣れない馬車が屋敷の門をくぐってくるのが見えた。馬車が横向きになり車体に入った紋章が目に飛び込んできた。
あれは―――ボーヴォワール公爵家の紋章。
なぜクレルモン侯爵家を訪れたのかしら。でも、もし私に関係のあることなら、お父様なら何か言って下さるはず。
呼ばれてもいないのにこちらから突撃するわけにもいかない。
私はイライラと部屋の中を歩き回る。
「エレオノールお嬢様」
「なっ、なに?」
「お出かけのお時間です」
「…………はい」
王宮に着くと、いつものようにアルフォンス殿下が待っていてくれた。
だがはっきり言うと、ボーヴォワール公爵家が何用で来たのかが気になって、勉強の気分ではなかった。
「エレオノール嬢。今日はお母さまが一緒にお茶でもどうかって? すごく美味しいお菓子があるらしいよ」
「えっ、本当ですか?」
実は甘い物が大好きな私は、殿下の言葉にすっかり気分も回復しお茶の用意がされているという四阿に向かった。
「エレオノールちゃん、こっちよ」
「王妃様、お久しぶりでございます。今日はお招きありがとうございます」
「いいのよ、早く座って。アルがいつも頑張っているエレオノールちゃんを労りたいって」
「お母さま、僕はそんなこと言ってません」
お茶が運ばれてきた。綺麗な蔦の模様が精緻に描かれたカップに口をつける。
あ、この香りは……ボーヴォワール公爵家が王家に献上している特別な茶葉。確か隣国シュトレース産だった。
「王妃様、シュトレース産の茶葉を使って頂けるなんて、凄く嬉しいです。ありがとうございます」
王妃様は目を丸くしている。アルフォンス殿下はニヤリと笑われた後、満足そうな顔をして「やはりな」と言って頷いた。
美味しいお菓子も頂き、私はクレルモン侯爵邸に戻った。
執務室から出てきたお父様とばったりと出会う。私はお父様の目をじっと見つめ、今日のボーヴォワール公爵家の要件を話してくれるのを待った。
だが、お父様は首を横に振っただけだった。
やはり今はまだ駄目だということなのだろう。
でもまだ期間はある!
こうして何の進展もないまま5年目が終わった。
結婚式まで残りあと5年。
人生が戻ってから6年目。
前の人生と同じく、今年いよいよ学園に入学する。今年のというかこの10年で最大の出来事。それは最高学年であるリュドヴィック様の卒業式だ。この卒業式の後に、リュドヴィック様が私が卒業したら結婚しようと言ってくれるのである。
リュドヴィック様は生徒会長をされている筈なので、接点を多くするためには私も生徒会に入らなければならない。そのためには入学早々に行われるテストで学年1位を取らないとならない。
結婚式まで残り半分を切った今となっては、藁をも掴む勢いである。頑張るぞ!
決意も新たに校門をくぐった私を待っていたのはアルフォンス殿下である。
「エレオノール嬢。迎えにきたよ」
「殿下…………ここは学園ですし、迎えはいらないのでは」
「だって僕の方が1年先輩だし、後輩のお世話をするのは当然だろ?」
私が疑問を呈したのも気にすることなく、殿下は私のクラスまで送ってくれた。
クラスみんなの視線が刺さる。痛っ。
「王宮での勉強会があるから、帰りにまた迎えにくるね」
「あぁ……はい」
そうか勉強会は学校があるから放課後の時間にずれるのね。なるほど。
とにかく勉強しまくって何としても生徒会に入らなくては!
猛勉強とアルフォンス殿下のアドバイスもあり無事に学年1位になった私は、予想通りお誘いを受けて生徒会に潜入することに成功した。
活動初日、生徒会室の扉の前に立つ私は、朝から繰り返したシミュレーションのおさらいをする。なんとか納得できる状態になってやっと扉をノックした。
開けられた扉から見えたものは、ピンクブロンドの髪の女子に絡みつかれて身動きがとれなくなっているリュドヴィック会長の姿だった。隣ではフィリップ様がそんな会長の様子を見てニヤニヤしている。
私の姿を認めた会長は、慌ててピンクブロンドを引き剥がしにかかったが、彼女はびくともしない。
そのうちフィリップ様も私に気づかれて、私の方に向かってこようとする。だが、無理やり手を伸ばしたリュドヴィック様に引っ張られて、フィリップ様も動きがとれなくなっている。
その光景を呆然してと見ていた私に、聞きなれたアルフォンス殿下の声が。
「エレオノール嬢。遅くなったね。さっ、副会長の僕が案内してあげるよ。生徒会へようこそ」
「あぁ……はい。ありがとうございます」
こんな調子で、いつ来てもリュドヴィック会長にはピンクブロンドが巻き付いていて、ついでにフィリップ様とも毎度お決まりの言い争いを始めてしまう。おかげて目視は出来ているものの話が出来そうな機会は皆無だった。
その代わりお勉強会以外に副会長としてのアルフォンス殿下とも接することになり、殿下と過ごす時間ばかりが増えていった。
そしていよいよリュドヴィック会長の卒業式の日がやってきた。
生徒会としても大きな催しだけに、学業、勉強会、そして生徒会業と色々忙し過ぎたのは確かだった。だが、言わせてもらおう。卒業の言葉を述べられる会長の腕になぜまたピンクブロンドが巻き付いているのだろうか。決して疲れていて幻が見えているわけじゃない。フィリップ様まで壇上に上がられて、収拾のつかない状況になっていた。
婚約もしてないのにいきなり結婚になるわけもないのだが、こうして何の進展もないまま6年目が終わった。
結婚式まで残りあと4年。
人生が戻ってから7年目。
2年生になった私。前の人生ならリュドヴィック様と初めて王都にある有名なカフェでお茶をした年である。だがリュドヴィック様が学園を去った今、お会い出来るとすればリュドヴィック様がお勤めされることになった王宮しかない。
私は前にもまして王宮での勉強会に足を運ぶことを誓う。頑張るぞ!
その日も放課後にやはり迎えにきたアルフォンス殿下は、私に大きな袋を渡してきた。
「早く着替えてきて。僕も着替えてくるから」
学園の更衣室に入った私はアンナに手伝ってもらい、わけもわからず言われたままに着替える。
薄いブルーの光沢のあるワンピースに、お揃いのリボン。それからローヒールの靴まであった。
しかし、随分とサイズがぴったり合う。
「エレオノールお嬢様。行ってらっしゃいませ」
「はい……行ってきます」
待ち合わせ場所に行ってみるとグレイのスラックスに白いシャツ姿のアルフォンス殿下が立っていた。髪の色は金から栗毛色に変わっている。
普段意識して見ていなかったが、こんなに身長の高い人だっただうか。整った目鼻立ちを見ていたら顔が熱くなってきた。
「さっ、行こうか」
「あっ、はい」
殿下が連れてきてくれたのは、王都の超有名店メゾン・ポンヌフだった。予約だけでも何か月待ちという人気店。だが、殿下が入口で店員と言葉を交わすと慇懃に頭を下げた支配人が奥の個室へと案内してくれた。
個室に運びこまれたワゴンにはケーキがずらりと並んでいる。
「エレオノール嬢は何がいい?」
「私はマンゴーのケーキにします」
「じゃ、僕はチェリータルトにしようかな」
ほどなくお茶のセットと共に先ほど選んだケーキがテーブルに置かれた。
「それからこちらは、当店の新作ケーキになります。宜しければご感想などお聞かせ頂けますでしょうか」
そう言って支配人が追加で置いて行ったのは、とろりとしたキャラメルがかかり上から砕いたナッツの散りばめられたケーキだった。
「凄い、メゾン・ポンヌフの新作が食べられるなんて……。 殿下ありがとうございます!」
満面の笑みで殿下を見ると、殿下は顔を真っ赤にしている。
「殿下? どこか具合でも悪いのですか?」
「いっ、いや、何でもない」
それは良かったですと笑う私に殿下は益々顔を赤くした。
こうして家と学園そして王宮の行き来に明け暮れた私だったが、忘れていたことがあった。
そう今年は殿下が学園卒業の年であった。
殿下が会長になって生徒会も随分としっかりした運営が出来るようになっていた。ここはお礼の意味も込めてきっちりと卒業式を成功させたい。
残される生徒会メンバーが一丸となって準備に励んだ。
おかけで卒業式は大盛況のうちに幕を閉じた。
そろそろ後片付けをしないとと思い舞台の裏に回ったところで、急に脇から伸びてきた手にひょいと引き寄せられる。
「エレオノール嬢」
「殿下?」
「僕と婚約してくれないか?」
…………えっ? 今なんて?
殿下はそっと私を抱きしめると、耳元で「考えてみて」と囁いた。
こくこくと頷く私に満足したのか、殿下は腕を緩めてにっこり笑った。
「また勉強会、迎えに行くから」
「あっ、はい」
どうやって屋敷に戻ったのか全く覚えていないが、ここはお父様の執務室でお父様が机の向こうに座っていた。
「エレン? 何か話があるんだろ?」
「お父様、私…………」
突然泣き出した私に、お父様は慌てて立ち上がり傍に来てくれた。
手を引かれてソファーに座る。
お父様は私を抱きしめて背中を優しく撫でてくれる。
「話せそうかい?」
「殿下が……アルフォンス殿下が婚約してくれないかって」
また涙が溢れてくる。
「エレンはどうしたい? まだ、リュドヴィック様のことが気になるかい?」
私はこくりと頷いた。
だってそのために、ずっと頑張ってきたのだから……。
背中を撫でていたお父様の手が止まった。
「エレン、悪かった。エレンはそんなにリュドヴィック様の事が好きだったんだね」
私はこくこくと首を縦に振った。
翌日、リュドヴィック様への想いを改めて父に伝えた私は一人部屋に籠っていた。
突然人生が戻ってしまってから、ずっとリュドヴィック様と結婚するべく奮闘してきた。だけど、最初からリュドヴィック様とはすれ違ってばかりだった。頑張れば頑張る程、遠ざかっていくリュドヴィック様。
疲れた…………。
もう何をどう頑張ればいいのか分からなくなっていた。
「エレオノールお嬢様。リュドヴィック様がお見えになりました」
いつものアンナの声に出かける時間かと我に返る。
ん?
「エレオノールお嬢様。起きていらっしゃいますか? リュドヴィック様がお見えです」
えっ? 今アンナは何て…………リュドヴィック様?
「アンナ、リュドヴィック様って!?」
ソファーから飛び上がって扉に向かう私は、扉に辿り着く前に思い切り誰かとぶつかった。
恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは忘れもしないリュドヴィック様だった。
リュドヴィック様は私の顔をじっとみると、私の頬をするりと撫でた。
「エレン、遅くなってごめんね。もう大丈夫だから」
リュドヴィック様はギュッと抱きしめてくれた。
私は今度こそ大声で泣いた。
こうしてようやくリュドヴィック様がとお会い出来て7年目が終わった。
結婚式まであと3年。
人生が戻ってから8年目。
いよいよ私も卒業の年になった。正式にリュドヴィック様の婚約者になった私に、お父様は祝福の言葉かけてくれた。
学園では私が生徒会長になった。
女性の生徒会長は学園始まって以来だと話題になったが、周りが全部やってくれるので特にすることなどないぐらいだった。
相変わらず勉強会は続いていたが、その勉強会にはアルフォンス殿下の代わりに何故か隣国の第一王女が来るようになっていた。
王宮に着くと、入口で待っていてくれたのはリュドヴィック様だ。
「エレン。迎えに来たよ」
「はい、リュドヴィック様」
勉強会へはお城勤めをされているリュドヴィック様が迎えに来てくれるようになった。
「エレン」
「リュドヴィック様?」
リュドヴィック様が出してくれた腕にそっと手を添える。
「行こうか」
「はいっ」
こうして私も無事、卒業式を迎えた。
思えば入学してからずっと誰かの卒業式があった。最後は自分の卒業式だけど。
代表の挨拶も済ませ、卒業式は終了した。
今年は後片付けは後輩がしてくれるので私がすることはない。少し寂しいと思いつつ講堂を後にすると、リュドヴィック様が待っていた。
「卒業おめでとう。エレン」
「リュドヴィック様、ありがとうございます」
リュドヴィック様は私の手を引きながら歩き出す。
「エレン。2年後、今度こそあの湖畔で結婚式を上げよう」
「えっ?」
人生が戻る前リュドヴィック様と結婚式を挙げるはずだったその年に、あの湖畔で…………。
リュドヴィック様も人生が戻ってる?
「リュドヴィック様? もしかして……」
「あぁ、時を戻したいと強く望んだのは私なんだ」
リュドヴィック様は何があったのか話してくれた。
10年前の結婚式前夜、テラスにいた私たちを陰から狙っていたのはルクレール侯爵令息のフィリップ様だった。リュドヴィック様は以前から私に執着していたフィリップ様を牽制していたそうなのだが、さすがに結婚するとなれば諦めるだろうと思っていたそうだ。ところがフィリップ様はボーヴォワール公爵家の領地にある、あの湖畔の屋敷までやって来た。
そしてリュドヴィック様を…………。
「私は咄嗟にエレンを突き飛ばして、衛兵を呼んだ。エレンはぐったりして動かなかったが、どこにも怪我はないようだった。衛兵がなだれ込んでくる音がして、私は漸くエレンを守れたと安堵した。たがその時には私の命は尽きかけていた。でも、私はエレンと共にいる人生が諦められなかった。だから死の間際、もう一度エレンと居たい。こんなことになる前に戻りたいと強く願ったんだ。―――気が付いたら、10年戻っていた」
リュドヴィック様があの夜に殺されていたなんて…………。
余りにも衝撃的な話に私は只々涙を流していた。
「痛かったですよね、リュドヴィック様。私、気が付いてあげられなくて…………」
リュドヴィック様は縋って泣く私を強く抱きしめてくれた。
「エレンが無事ならいいんだ。それに、戻ってから迎えに行くまで時間がかかってしまった。謝らないといけないのは私の方だね」
私は首を横に振った。
結婚式まであと2年。
人生が戻って9年目。
今年はデビュタントの年である。
ここ数日、クレルモン侯爵家は準備に追われていた。
「エレオノールお嬢様。お出かけのお時間です」
「はーーい。今行きます」
私はリュドヴィック様から送られた白いドレスに身を包み、彼の待つ玄関に向かった。リュドヴィック様は階段から降りてくる私を認めると目を見開いた。
私がリュドヴィック様?と呼びかけると、家族の前だというのにのぎゅっと抱きしめられた。
慌てて離したリュドヴィック様は、凄く綺麗だよと言ってくれた。
リュドヴィック様のエスコートで会場に到着した。
その年のデビュタントが全員揃うと、演奏が始まり国王陛下を始め王族の方々へダンスの披露をする。
時に隣の人と手をつなぎ、時にパートナーを入れ替えてくるくると踊っていく。
最後に女性は全員でカーテシーをし、男性は胸に手を当てて腰を折った。
後は国王陛下から個々にお祝いの言葉と白い花を頂く。王族席には国王陛下、王妃札、そしてアルフォンス王太子殿下と、その横には王太子妃になられた隣国の王女様がいた。
私の順番になり、リュドヴィック様のエスコートを離れ一人でご挨拶する。
王妃様から小声で「エレンちゃん、綺麗よ。本当はアルのお相手にしたかったんだけどねぇ」と言われ思わず苦笑する。王妃様は幸せになってねと私の手を軽く握ってくれた。
ご挨拶を終えてリュドヴィック様のところに戻ると、壁際でピンクブロンドにぴったりとくっつかれているフィリップ様が目に入った。
あの二人、何気に気が合うのかも?
こうしてデビュタントを無事終え9年目が終わった。
結婚式は来年。
人生が戻って10年目。
ついに明日、私はリュドヴィック様と結婚式を挙げる。
ここはボーヴォワール公爵家の領地にあるお屋敷。もちろんお屋敷の警備は万全だ。
心地よい風が吹く夜。開け放たれたテラスに出た私はリュドヴィック様をじっと見つめる。
リュドヴィック様は私の手をそっと引き寄せると強く抱きしめた。
私はリュドヴィック様の体温を感じ、顔が熱くなる。
「エレン。ようやっと式が挙げられる」
「はい、リュドヴィック様」
耳元で囁かれたリュドヴィック様が、私の髪を撫でる。
私はリュドヴィック様の胸に頬を寄せて静かに頷いた。
リュドヴィック様は私の額にかかる髪の毛を優しく払うと、ちゅっと音を立ててキスをした。
「唇へのキスは式までとっておくつもりだったけど…………」
次の瞬間リュドヴィック様は私の頤を指で上げると唇にキスをした。
私はゆっくりと瞼を閉じた。
漸くここまで来たけれど、まさか、これも明日を迎えることなく終わってしまうとか?
急に怖くなった私は、アンナを呼んだ。
「どうされました? お嬢様?」
「アンナ、リュドヴィック様はご無事かしら?」
「もちろんですよ。こんな厳重な警備は見たことないと、ご来賓の方々もびっくりする程なのですから」
「良かった。ねぇ、アンナ? 今夜はここにいて?」
「はぁ、しょうがないお嬢様ですね」
アンナはため息をつくと小さな椅子を持ってきて「ここにおりますから」と言った。
眩しい日差しに目が覚めた。
いつの間にか寝ていたらしい。
恐る恐る周りを確認する。アンナが椅子に座ったまま器用に寝ている。クレルモン侯爵家ではなかった。私は無事に結婚式当日を迎えられたんだ!
袖を通すのも恐れ多いようなウエディングドレスに身を包んだ私は、お父様のエスコートで司祭様の前で待つリュドヴィック様の元へ歩いていた。
やがてリュドヴィック様の腕をとった私は彼と共に司祭様のお言葉を聞き宣誓した。
リュドヴィック様は私のベールを上げると、私の唇にキスをした。
会場から割れるような拍手が起こり、私たちは会場に来てくれた人々の方に向き直ると手を振った。
教会の鐘がそれを合図にしたかのように高らかに鳴り響いた。
無事にリュドヴィック様と結婚式が挙げられた。なんとか頑張ってきた10年を振り返る。
そして私は漸く踏み出せる新しい時に期待を込めて、ブーケを投げた。
お読みいただきありがとうございました。