刷り込み
潮の匂いを含んだ空気。陸には寄せない波の音。体に感じる揺れ。
意識を失っている間に船に運び込まれたらしい。見回すと、中々に広い部屋で応接セットまである。私がいるのは上等な寝台の上だ。
「目が覚めたくせに鮮やかに俺を無視するな」
不機嫌オーラ全開で暗い光りを藍色に宿したザキが見下ろす。
室内にはいないエロ執事も、残り香から先刻まで近くに居たことは察せられた。
「不穏な巨漢なんか寝起きに認識したくない」
「アレはどう言う意味だ?」
「アレ?」
「お前、執事にエロいコトさせながら、俺には『お前は人間だから駄目だ』と」
私はそんな事を言ったのか。
たしかに、エロ執事の体液で頭が飛ぶ前に、ザキが暴走しないように釘を刺そうとは思った。
エロ執事は、あの時は私を犯さないと言った。あいつは胡散臭いが、嘘で誤魔化しはしないと何故か本能的に感じる。
あの時のザキは、私にイケニエにされた怒りから、意趣返しとしてセクハラをするつもりだっただろう。だが、私にはザキがエロ執事のように私に触れた後も最後までせずに治まるとは思えなかった。
理由は分からない。でも、この直感は正しいと思う。
ただ、操を立てたい相手がいるわけでもなく、世間的には二人くらい子供がいても不思議無い成人女性の私は、別に処女というものを後生大事に守りたいとは考えていない。
この歳まで恋愛もしたことが無いし、結婚願望も無い。襲いかかる男達を撃退して来たのは、自分より弱い男は好みではないからだ。
それが私の基準なら、エロ執事だけでなくザキもクリアしている。
それでもザキは駄目だと許さなかったのは、ザキでは殺されてしまうからだ。
ん? 殺される? 誰に?
唐突に浮かんだ物騒な単語に私の思考は停止した。
「どうした? ようやく俺の言葉が絵本の話じゃなく現実だと理解したか?」
絵本の話のようなザキの戯言。
それ等を思い出して、私の思考が再始動する。
「ザキの話を全部現実とはまだ思えない。ただ、理解不能な能力を持つ人間以外の人型生物もいるとは思った」
人間だとは思えない。天才だの努力の賜物だの、超人という言葉ですら当てはまらない、人外の存在。
「例えば私の知る中で、父さんと母さんは私が生まれた時から老けていない。けど、私が成長するに連れて母さんは表情や目つきなんかが変わって行った。だから、子供の時に見た母さんと成人後に見た母さんは、同じ姿形でもきっと見分けられる」
不思議なことに、母さんにもホクロは無かった。けど、傷痕は色々あったし日焼けもしていた。髪も父さんが無理矢理手入れをしなければ傷んで行った。
「けど、父さんは私の記憶の何処を切り取っても、いつの父さんか見分けがつかない。男親と女親の違いかと思っていたが、エロ執事が現れて妙な能力を確信したら、なんか納得した」
この世にホクロもアザもシミも傷痕も一つも無く、日焼けすることも無い年齢不詳の絶世の美形が『人間として』ゴロゴロいるなんて有り得ない。
父さんやエロ執事の美貌は、手に入れるために戦争が起きても不思議ない傾国レベルだ。
美しいだけじゃない。母さんやザキは、肉体の老化具合は20代に見えるが、纏う雰囲気が老成している。声も力強いが、乱暴な口調であっても喋り方は落ち着いていて若者のそれとは違う。
鍛え上げると肉体の老化が遅くなるのかは分からないが、それでも見た目に時間の経過が読み取れる存在だ。
「どの知識を総動員しても説明のつかない能力をエロ執事は持っていた。外見も含めエロ執事は人間じゃない気がする。多分、父さんもエロ執事と同じナニかだ」
何なのかは分からない。でも、私の知る『人間』という生き物ではないと思う。
存在から時間の経過が見えない。それは、一体いつの時代から存在していたのかも読み取ることが出来ないということ。
人間は、どれほど頑健で長命のためにカネを注ぎ込んでも百年生きれば伝説になる程度の寿命しか持たない。
若作りしたとしても、リスクの多い外科手術に縋ろうと、肌も髪も爪も完璧な美しさを保ち、筋肉も骨も内臓も脳も若いままは不可能だ。
当然違法だが、唸るほどカネの有る権力者が不老不死を夢見て内臓を移植し若返る方法を取ることはあるらしい。でも、脳は移植出来ない。骨と筋肉も無理だ。髪や爪も経年劣化が現れる。
そして、避けられないのは精神の老化。
どう手を尽くしても百年しか生きられない人間は、蓄積されて行く記憶に翻弄されやすい。
周囲の変化に影響を受けやすいのだ。
寿命に相応した器しか持たない生き物だから、手に入るモノが器の容量を超えると狂って行く。
地位や権力やカネが有るほど手に入るモノは多く、長く生きると周囲を巻き込んで崩壊して行く。
それが人間の歴史に刻まれる事件の裏側。
「え? なんでこんなこと考えてるんだ?」
私の口から呟きが溢れた。
「えーと? うん、父さんが一般教養として教えた話、だよな?」
頭がぐるぐるする。視界がぐにゃりと歪んだ。
「おい、アンナ。大丈夫か」
「私は、父さんの、モノ」
「アンナ! おい! しっかりしろ!」
ザキが怒鳴りながら肩を掴んで揺すっている。その感覚を遠く感じ、私はまた意識を失った。