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キイトノオト

作者: 周詞エッダ

序章


これは小説である。

これは小説である。

大事なことだから二回言う。

だから本気にしないでほしいのだが、最近、僕の周辺は騒がしい。

僕は奇異人。

きいと。

変な名前だが、今思いついた名前だから気にしないでほしい。意味なんかない。

僕的には奇異なことが起こっていると言いたいだけなんだ。

モチロン全てはフィクションだから君は何も気にしないでいいわけだ。

奇異なことはまだ何も本当には起きてはいないのだから。


何が奇異かといえば、それは僕が雲を見た時から始まった。

僕はその時、熱を出して寝ていたんだ。母親が気に入っていた絞りの布団の中で僕は憔悴しきっていたよ。空は晴れてて、布団から見える窓は半分磨り硝子で上半分しかちゃんとは見えやしなかった。その切り取られた狭い青空をドーナッツ形をした大きな雲が斜めによぎっていくのが見えた。それは呼吸するかのように脈打っていて、まるで絵本の挿し絵のようだった。

僕は呆気に取られてた。たぶんフリーズしてたと思う。いや夢じゃないだろうと慌てて飛び起きて窓をがらりと開けてみた。雲をもっとよく見ようと思ったんだ。でも、窓の外は真っ青な青空が広がっていた。右を見ても左を見ても雲なんかどこにもなかった。

あんなに大きかったのに。

瞬時に消えてしまうはずはない。

だって雲だよ?

それでも見渡す限り成層圏のような真っ青な空は遙か遠くに刷毛ではいたように白く濁っているだけだった。


人の目なんてまったくあてになりやしない。

それでも僕はあの雲をいまでもはっきりと思い出せるんだ。そこに意味なんかない。ただ記憶があるだけなんだ。

意味ってのは現象の小箱に納められた、もしかしたらガラクタにすぎないのかもしれないね。


たぶんその時、僕の認識が狂ったのだ。

起こるはずのないことが起きると、人の認識がおかしくなってしまうのかもしれない。


不思議なことなんて経験したことないって?


でも、それは君の錯覚かもしれないよ?


だってほら、ずっと不思議が続いたら、それは不思議でなくなるだろ。

もし君がなんで周りの奴らと同じようにいかないんだって思うことがあったら、それは十分に不思議なことだと僕は思うぜ。

僕は君の人生は生きられないからな。

でも、気にしないで。

だってこれは作り話だから。

意味なんてガラクタはとりあえず捨てておこう。


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第一章 夏休み


その話を弦が聞いたのは夏休みが始まった最初の日だった。

「キイト?」

「うん」

少し興奮気味に妹の繭はうなずいた。

掲示板で見つけたんだけど」

「掲示板?ネットは変なの多いからなあ。お前、騙されるなよ」

「いや、そういうんじゃなくて、」

何がそういうんじゃないのかよくわからないが、繭は思い切り否定して、

「オカルト好きが集まるサイトなんだよ」

オカルト。

弦はげんなりする。

大学生の彼にとっては幽霊だのUFOだのはとっくの昔に卒業したカテゴリだった。

まあ、しかし、中学生だからな。

四月に中学に上がったばかりの繭にとってはオカルト世界はまだ身近なものに違いなかった。

弦はどこかで現実的な思考をあきらめて、年の離れた妹につきあってやることにする。

「で、そのキイトちゃんがなんだって?」

「キイト君だと思うんだけど」

「男かっ?」

「うん」

これは一大事だと弦は座り直した。

「その、男がどうした?」

「怖い話が面白いの」

「……それで?」

「お兄ちゃんも一緒に読もうよ」

「……ああ」

怖いのか、と弦は察する。だが、妹のプライドを傷つけないよう、

「そうだな、兄ちゃんも久々の帰省だからな。一緒に怖い話読むか」

「うん」

この四月から弦は遠方の大学に進学している。実家には三カ月ぶりの帰省だった。することもないし、妹につきあってやるのも悪くないだろう。

弦はタブレットを取り出すと繭に渡す。いつもはスマートフォンを使っている繭だが、さすがに二人で見るには小さ過ぎる。

「使っていいの?」

わーい、と繭は上機嫌でタブレットを受け取った。

「落とすなよ」

弦は注意しながら繭の後ろからタブレットをのぞき込む。

「繭はキイトくんと話したことあるのか?中学生だとか住んでるとことか」

「話してないよ」

確かに過去ログを遡っても、プライバシーに関わる話は見当たらなかった。

「だって怖いし」

いい心がけだと褒めながら、兄はキイトの一番最初のスレにたどり着いた。


『これは小説である。

これは小説である。

大事なことだから二回言う』


「なんだこいつ」

弦は不快感を覚える。

ただの中二病じゃないか。


『僕は奇異人』


中二病決定。

弦の中で結論が出るのは早かった。

「面白いでしょ」

繭が自慢するように言った。

「面白いな」

弦は同調した。

長い休みの座興にはちょうどいいかもしれない。


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第三章 硝子の向こう


夜行バスに乗ったことはある?

僕はその時が初めてだった。

何でも初めてっていうのは印象深いよね。


モチロン窓側の席。モチロン三列席さ。隣に誰か座ったら狭いからね。


何分初めてなものだから嬉しくて子供みたいにドキドキしながらアチコチ触りまくってみたんだ。

おかしいよね。ただのバスじゃないか。

カーテンの隙間から外を覗いたりしてたよ。


その日は車内は満席だった。

だからぎっしり人が詰まっていたけど、独立した三列席に座ってしまうと他人はいてもいないようなものだった。席はカーテンに囲まれていたからね。前も隣も人が座っているはずなのに姿は見えないし、ひっそりとしていた。

周りはカーテン。見渡す限りカーテン。

まるで箱の中に仕舞われた贈り物みたいだった。


僕はコンビニで買った安いプライベートブランドのポテチを食べながら閉ざされた空間を楽しんでいたよ。

昔から狭いところが好きだったんだ。

宇宙船みたいでわくわくするだろ。

しかも走ってるんだぜ。

なんて近未来なんだ。


夜行バスで宇宙飛行士気分が満喫できる僕はずいぶんとお手軽な存在だと思うね。

何でも安上がりに楽しんだ方がお得だよ。

楽しむぞ、と思ってないと、朝までの時間は長すぎるだろ?


バスが走り出してすぐだったかな。

カーテンの向こうでばんっと音がした。

窓ガラスに何かが当たったような音。

ばんっばんっと続けて見えない窓ガラスが音を立てた。


まるで乗り遅れた人が追いすがって窓叩いているような音だった。


音がやむ。

何だろう。


またばんっばんっと二回。


何が当たっているのだろう。


カーテンを引っ張ってわずかな隙間から覗いてみると、それは掌だった。

人の白い手が窓ガラスを叩いている。

ああ、やっぱり乗り遅れた人がいるんだ。

追いすがって叩いているんだ。

真っ暗闇の窓の外。

ばんばん、とガラスを揺らす。

白い掌が窓ガラスを揺らしている。

一つではない。それはもう数え切れないほどたくさんの掌が窓ガラスを叩いて揺らしている。

僕はカーテンを閉じた。

バスは走っている。

高速道路をただひたすら走っている。

誰が追いすがってこられるというのだ。

音は鳴っている。

やむことなく鳴り続けている。

でももうカーテンを覗かなかった。

窓を叩く不快な音を聞きながら眠りに落ちる。

一度の不思議はぞっとするけど、それが続けば不思議じゃなくなる。

目が覚めたら音はやんでいた。

カーテンの向こうは明るくなっていた。


夜行バスに乗るのが怖いって?


そんな心配は無用だよ。

だってこれは小説なんだから。


僕の身の上に起こることは君に起こるわけじゃない。

僕の人生は僕しか生きられないし、君の人生は君しか生きられない。

君は君だけの空間を楽しもうと思えばいいんだよ。

だって楽しむぞ、と思わなければ、人生は長すぎるだろ?


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第四章 祭囃子


夕暮れ時には遠くから祭囃子が聞こえていた。

まだ七月だというのにフライング気味の夏祭りは近くの商店街が催しているものだ。

「夏休みらしくていいじゃない」

と母親がスイカを切って縁側に運んでくる。

父は疾うに亡くなって、田舎の旧家には今や母と妹だけが住んでいる。我が子よりも長生きした祖父母も二年前に相次いで亡くなった。

祖父が手入れしていた庭は今や鬱蒼と生い茂り、もはや小さな森だった。多くの蝉が棲みついているのだろう、容赦ない蝉時雨が降り注ぐ中、真っ赤に熟れたスイカにがぶりつく。しゃりしゃりと果肉を噛み砕く感覚に一瞬、父親がいた夏が蘇る。

何度かリフォームはしたものの、弦が生まれる前から建っているこの家は、それこそ幽霊が出てもおかしくない佇まいだが、弦は生まれてこのかた一度も幽霊を見たことがない。

母親と妹は見たと主張しているが、思い込みが激しいところがある二人だけに気のせいに違いないと弦は思っている。

縁側に寝転がっている繭はタブレットを離さない。

「スイカ、こぼすなよ」

と弦は注意するが、うん、と生返事するだけで信用ならなかった。

「また掲示板か?」

「うん。高速バスの話。怖いよ~」

「ちょ、見せて」

「お兄ちゃんも高速バスだよね。帰り、出るかもよ~」

繭がからかう。

「やめれって」

急いで手を洗ってくると弦は繭からタブレットを取り上げる。

「高速バスで三列独立席とか、金持ちかよ」

「お兄ちゃん違うの?」

「四列が安いんだよ。隣は知らないおじさんだった」

「だったら怖くないね」

いや、それはそれで怖いだろと戯言で返しながら、弦はキイトの怪談話を熱心に読み耽った。

帰りも高速バスである。

窓ガラスを叩かれる風景をふと想像してぞっとする。

それに妙に描写がリアルだ。

実体験だからなのだろうか。

…実体験?

自分で思いつきながら自分で呆れた。

そんなことがあるわけないじゃないか。

オカルトだぞ。

奇異人自身、小説だと言っている。

実体験を疑うのはどうかしている。


「窓ガラス、叩かれないといいね~」

繭はしつこくからかった。

「ちょ、やめれって」

「ばんばんっって、」

繭は空で窓を叩く真似をして、

「で、隣のおじさんと驚くの」

思わず弦は声を立てて笑った。

「そうか、俺だったらそうなるな」

「全然怖くないね」

繭はおかしそうに笑った。


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第五章 家にいたもの


僕の友達もオカルト大好きなんだよね。

よく不思議な話で盛り上がっているよ。


本当か嘘かなんてどうでもよくて、みんなで怖ええ、って言い合えれば満足なんだけどね。

もちろん僕も怖ええ、って一緒に言ってるんだから、僕だってオカルト大好きなんだけど、なんでオカルトって胡散臭いんだろうね。好きなんだけど好きって自己紹介したくないんだよな。まあそんな嘘臭い話。


ある日、そいつが「こんな話知ってる?」と言い出したんだ。

そいつってのは、友達だよ。

「自分の家をイメージするじゃん?」

て言うんだよ。

「頭の中に自分の家を思い描くじゃん?」

そう言われたら、もうそいつの思うつぼだよね。

頭の中には勝手に家のイメージが浮かんでる。


「玄関のドアの前に立つじゃん?」

僕んちの玄関前。

濃いワイン色のタイル張りのアルコープ。

僕の家は古い戸建てで扉の両サイドには分厚い磨り硝子が嵌っている。

「ドアを開けるじゃん?」

冷たい真鍮のドアノブをそっと握ってそっと回す。


「家に入ってすべての部屋をぐるっと回って」

玄関に入る。上がり框。


「どこかで誰かに出会ったら、その家に幽霊いるってよ」

「うええええっ、俺んち幽霊いるじゃん!」

怖ええええっ、ってその日もそんな話で盛り上がる。

放課後の夕暮れの教室で最高に盛り上がる話題だよね。


でも、この時は僕は困ってしまった。


頭の中の家の中。

玄関の上がり框に赤ん坊が座っていたんだ。

この子はいったい誰だろう?

玄関にじっと座っているから、僕は家にあがることもできない。ぐるっと部屋を巡ることもできない。もしかしたら他の部屋にもいるんだろうか。

赤ん坊は置物のように静かで、じっと三和土を眺めていて目すら合わせてくれはしない。


三和土って読める?

たたきだよ。


君んちにも誰かいた?


いたとしても気にしなくていいよ。

だってすべてはイメージの話。

何も悪いことはまだ起きてはいないんだから。


悪い予感は予知じゃなくてたぶん原因。

悪いことが起きるような気がするって思いがすでにネガティヴで、ネガティヴな気分で事に当たればうまく行く方が奇跡だよ。

それは必然で、そこに不思議はないんだと思う。


不思議なのは赤ん坊だよ。

僕のイメージの中にはまだ赤ん坊がいるんだけど。

どうしたらいいのこれ。

僕はまだ玄関に上がれない。


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第六章 旧家


「ちょっと待て」

と弦はログを読みながら、つい声を上げた。

「キイト君の家、うちと似てないか」

「えーっ、うそっ!」

繭は気づかなかったようで慌ててログを読み返す。


濃いワイン色のタイル貼りのアルコープは確かに同じだ。

ただ、弦の実家の玄関で磨り硝子なのは向かって右側だけである。呼び鈴を鳴らす時、訪問者の姿が映るよう硝子が嵌っていた。

「うーん」

繭は唸った。

似ているといえば似ているが、古い家はどこもこんなものだといえば、そうともいえる。

「……微妙に違わない?」

繭が否定すると、弦も認めざるを得ない。

「玄関、違うな。きっと古い戸建てなんだな」

なんで同じなんて思ったのだろうか。弦はオカルトに飲み込まれている自分がおかしい。

「家の中、誰かいた?」

照れ隠しに繭に聞く。

「いたよ」

「え」

思わず妹の顔を見る。

「誰?」

「お兄ちゃん」

「俺は幽霊か」

あはは、と繭は笑い転げた。

「でもね、他にもいたの」

「どこに?」

「台所と仏間。知らないおばちゃんとおじさん」

「どっちがどっち?」

「台所におばちゃん。痩せててママみたいな服着てたけど白い頭で、でも顔はぼやけて見えなかった」

「……仏間は?」

「襟ついた白いシャツ着て、ベージュのズボン履いてた。こっちも白髪頭で垂れ目のおじさんだった」

やけに描写がリアルで弦は鳥肌が立った。

「……いるんだ」

「お兄ちゃんは?」

「え?」

「見えなかったの?同じ家なんだから見えたよね?」

「あ、すまん、俺、一人暮らしの部屋イメージしたわ」

「何それー裏切者ー」

「なんだよ裏切者って」

「誰かいた?」

「いや、誰もいなかった」

「ホント、幽霊と縁ないよね」

「そんな縁いらんわ」

悪態をつきながら弦はネットで検索をする。

なんとなく聞き覚えのある話だった。

「ああ、キイト君の話は有名な話みたいだな」

「え、ホント?」

繭は飛び起きてタブレットを覗き込む。

「家に幽霊がいるか調べる方法。ま~都市伝説だな」

「すごいね」

何がすごいのかよくわからないが、繭はひどく感心したように何度も頷きながらそう呟いた。


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第七章 布団


ベッドほしいよね。

うちも古くてさ。

畳敷きなんだよ。

もしかして一緒かな。


全部和室。

仏間もあって、仏壇のまえに布団敷いて寝るの。

純和風の日本家屋って感じ。

君んちもそう?


小さい頃はよく従兄弟が寝る前に怖い話をしてきてさ。

布団かぶって周り見回しながら話聞いてたからさ。もはやトラウマだよ。和室にいるだけで、もうなんか出そうな気がしてしまうんだよね。パブロフの犬ってやつ?

旅行も旅館とか絶対泊まれないもん。出そうじゃん。襖あるともうダメ。開けるといそうで。だからいつも泊まる時はホテルだな。

洋室だと先入観ないんだよね。でもホテルで出くわしたら、きっと洋室がダメになるんだろうね。


そう考えたら怖いって経験則だよね。

たぶん僕もそう。

怖い経験したから怖いんだよね。


従兄弟が怖い話をしなくたって、毎日寝てるといろいろあるじゃん。

布団に寝ようと思ったら布団を誰かが引っ張ってるとかさ。


そんなことない?

ないならきっとラッキーだね。


びっくりはするけどそんなに怖くはないんだよ。

姿も見えないし。でも困るじゃん。寝られないし。

せっかく寝たと思ったら敷き布団ひっくり返されたりさ。


それもない?


だったらよかったじゃん。

だって和室は怖くないだろ?

僕は怖いからもう和室には寝ないけど、君はきっと問題ないね。


布団って子供にとって絶対的な安全圏じゃん。

それを脅かされるのはないよね。途方に暮れる。

従姉妹の作り話なんて目じゃないよね。


従姉妹じゃなくて従兄弟?


どっちでもいいんだよ。


だって、いとこなんていないんだから。


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第八章 墓参り


その日、弦は母親が休みということもあって、墓参りに出かけた。

母親は飲食店で働いているため、お盆休みは取れそうもなかったからだ。

弦が帰省したのは長い夏休みを妹一人にしたくないというのもあった。

とはいえ、もう中学生だから、面倒をみてやる必要もないのだが、テレビで繰り返される物騒な事件報道は弦を不安にさせるのに十分だった。

母親が運転する車の中で、繭は大はしゃぎで母親に話かける。

「うち、幽霊いるんだよ~」

と先日の台所と仏間の幽霊の話をする。二人して幽霊を見たと騒いでいるのだから、今更驚くことでもなさそうだが、繭にとって自分で見る幽霊とはまた違うのだろう。

母親も満面の笑顔でハイ、ハイと聞き流している。

いつもと変わらぬやりとりを久々に見たなと弦は思った。

ふと耳鳴りがした。

何だろう。

蝉時雨が一瞬、遠ざかる。


「和室がダメなら、キイトくんうちで暮らせないね」

繭が話しかけてきて、弦の聴覚は元に戻った。

「心配しなくてもうちになんて来ないだろ」

あ、そっか、と繭は笑った。

ネットばかりで遊ぶのはよくないかもしれない。

家が校区の端にあるせいで同級生の家が遠い。学校以外で繭が友達と遊ぶのは難しい。暇さえあればネットばかりしている繭にとって、毎日見ているキイトは身近な存在なのだろう。

でも、その感覚は危ういように思えた。


墓地に着く。

墓石を洗って清め、線香を焚いて手を合わせる。

「あっ、揚羽蝶!」

繭が声をあげて空を見上げる。

つられて弦は顔を上げた。

空が青い。

沁みるように青い。

耳を覆うほどの蝉時雨。

しかし、どこにも揚羽蝶の姿を見つけることはできなかった。



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第九章 蛹の中


聞いた話だから本当かどうかは知らないよ?

僕の話で本当の話なんて一つもないけどね。


人間の魂って蝶々になって還ってくるらしいね。


昔の人がなぜそう考えたかっていうのにはちゃんと理由があるらしくて。

蝶々って、芋虫から一度蛹になって、それから蝶々になるよね。

それを昔の人はいったん死んで蘇ったんだと思ったらしいね。


そりゃそうだよね。

地面に這いまわっていたのが、動かなくなったと思ったら、飛べるようになるんだもん。

姿だって全然違うし。

人間と魂みたいだと思ったんだろうね。


そうなると蛹は棺桶だね。

でも、死んで入るわけじゃなく、生まれ変わるための装置だから、そのまま墓に入るのとは違うか。


蛹の中ってどうなっているか知ってる?

知ってる人も多いと思うけど。

あれ、どろどろの液体になるんだよね。

芋虫じゃないんだよ。

いったん液体になって、それから蝶になるんだってさ。


で。

これからの話はホントの話。


カロール・ウィリアムズ博士って人が、蛹が傷ついたらどうなるのか実験したんだ。

で、蛹を切断して、細い管で繋いでみた。

管の中を蛹の中のどろどろは行き来できるようになってるわけ。

で、どうなったかっていうと。


羽化したんだよ。

細い管を行き来した細い線でつながれた前と後ろに分かれた蝶々が。

博士は蛹についた傷は修復されるという結果を得ることができた。


細い線でつながれた前後に分かれた蝶々。

羽化した以上は飛び立つ。

宙にふわりと浮いたとき。

細い線は重みに耐えきれず、ぼとりと後ろ半分が落ちた。

そのまま蝶々は死んでしまった。


最初で最後の一羽ばたき。


ウィリアムズ博士は悪くない。

とても貴重な実験だったんだから。


でも、僕はどうしても憂鬱な気分になるんだ。

「少年の日の思い出」のエーミールのように、

「そうか、そうか、つまり君は、そんな奴だったんだな」

と呟きたくなるんだ。


ヘッセの「少年の日の思い出」って知ってる?

知らないとわからない話だよね。


蛹の中で何が起きているんだろうね。

形を持たない芋虫の成分と記憶と経験が液状になって。

もう一度形を作って、再び姿を現す。


そんなところが昔の人には死んだあとに現れる魂のように思えたのかもしれないね。

魂なんてないっていう人もいるけど。

芋虫だって蝶になるんだよ?

蛹の中で何が起きているか誰にもわからない。

人間が死んで違うものになっても不思議じゃない気がするんだ。


だから、墓場にはいつも蝶々が舞っている。

真っ黒の揚羽蝶が青空の焦げ跡のように舞っているんだ。


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第十章 地震


弦は心底不気味だった。

「お盆だし」

繭は気にしていない。

「だから墓参りネタなんでしょ」

墓参りで繭が揚羽蝶を見た翌日のキイトノオトが蝶々ネタだったのが弦にはどうにも引っかかった。

「俺は蝶々見てないし」

「すぐ飛んでっちゃったからね」

繭は全く気にしていなかった。

テーブルの上にノートを広げて、せわしなく文字を書いている。

「宿題?」

「うん、英単語を百回書かなきゃいけないんだ。こんなんで覚えるわけないのに」

繭の現実的な悩みがなんだかとてもおかしかった。

「…そうだな」

弦は考え直す。

偶然を必然と考えるのは結局、見る側の主観だと思った。


そういえば大学の心理学の講義で習ったことがある。

いつも時計を見ると四時四四分だと不気味がる人がいる。

しかし、それはその数字だから記憶に残っただけなのだそうだ。

もしかしたら四時三十分にも時計を見たかもしれないし、四時三十八分にも見たかもしれない。

それでもそのことを思い出すことはない。

時計を見ることは特別なことではないからだ。

我々が覚えているのは、印象深い何かがあったことだけ。

四の数字が三つ並んでいたから、だから覚えているだけなのだ。


「今、揺れた?」

繭が顔を上げて聞く。

「え?」

弦はわからない。

「今、なんか地震?」

「え、ホント?」

繭は仕方なさそうに笑う。

「わかんないから聞いたんじゃん」

言われて弦はあたりを気にする。


気がつけば蝉時雨は止んでいた。

一瞬、眩暈のようにぐらりと揺れる。

「ホントだッ、」

眩暈ではない。

繭が悲鳴を上げた。

「地震だッ!」

弦は妹を庇おうと立ち上がる。

覚えているのはそこまでだった。


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第十一章 藪


これは僕が見た話じゃなくて。

同じクラスの子から聞いた話なんだけど。


通ってた小学校が山を切り開いたところにあって。

校舎は綺麗だったけど、裏山は地震でがけ崩れが起きてたんだって。

フェンスが崩れて運動場からそのまま山に入れるような状態だったんだ。


山は草ぼうぼうで、背が高い草が生えていた。

草はちっとも緑じゃなくて、枯れたように黄色くて、分け入るとカサカサと音を立てていた。

ボールでもけりこんだ日には悲惨の一言。

低学年だと草より背が低いから掻き分けながら進まなきゃならないしね。


それでも小学生だからね。

意地悪な奴はいるもんで、わざとボールを蹴り込んで取りに行かせたりするんだ。

友達もそれをやられたらしい。

いじめっ子に取ってこいと命令されて、仕方なく林の中へ入ったんだって。


ただでさえ、周りが見えなくて不気味なのに、歩けばカサカサと四方で音がする。

風は唸るし、あまり気持ちのいいもんじゃなかった。


進んでいくうちに黄色い草の先に白いものが見えてきて、ボールがあった、と思ったらしい。

でも、草は背丈より高いのに、その高さにボールがあるわけがない。

枝に引っかかるような木も生えてない。

おかしいと思って、目を凝らしてみると、横にもう一つ白いものがある。

草を少しだけ掻き分けると、それは人間の頭だった。

何のことはない。

知らない大人が二人草むらにいるんだ。

男性が一人。女性が一人。向き合って立っている。

ボールが来なかったか聞いてみよう。

そう思って、もう一歩分け入った。

そうしたら、二人の体がなかった。

頭だけが浮いていた。


友達は半狂乱になりながら慌てて運動場に駆け戻ると、そのただならぬ気配に先生たちも駆け寄ってきて、不審な人物が徘徊してるってことで大騒ぎになったらしい。

その場に居合わせた大人たちがすぐに裏山を捜索したけど、猫一匹見つけられなかったんだってさ。



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第十二章 記憶


目が覚めると、煤けた白い天井が目に入った。

起き上がろうとするが、体は動かなかった。

頭が割れるように痛む。

うーんと唸り声をあげると、すぐ傍でガタッと大きな音が鳴る。

「大丈夫かッ?」

目玉だけ動かして見ると、白衣を着た男性が見下ろしていた。

何が起きているのだろう。

「無理しないで、頭を打っている」

男性は先ほどと打って変わって、静かな声で囁くようにそう言った。

ああ、そうだ。

思い出した。

地震だ。

大きな地震が来て。

家はどうなっただろうか。

家族は。

だんだん意識が蘇ってくる。

同時に頭痛はますます酷くなる。

眩暈がする。あの時と同じような眩暈。

あの時?

「まだ寝ている方がいい」

男性の声がした。

返事をしようとしたが、声が出なかった。

廊下をバタバタと走る音がして、初老の男が入ってくる。やはり白衣を着ている。

「目が覚めたんだって?」

「たった今」

「そうか、それはよかった」

二人の男が顔を覗き込む。

「…あの」

やっとのことで声が出た。

声はしゃがれていて甲高く、自分の声じゃないみたいだった。

「ここは…」

初老の男性が優しい声音で答える。

「土塀が倒れて下敷きになったんだよ。大きな地震だったからね」

土塀?

何の話だろう。

「家は…」

「どこか覚えてるかな?」

地震が起きた後、どうも家から道路まで出ていったようだった。

「ご家族が連絡してくれるといいんだが」

そうだ。家族は。

連絡をしないと。

体を起こそうとすると傍らの男性が手を貸してくれた。

体が重い。

ベットの手すりを掴み、何とか助けを借りて起き上がる。

目の前には鏡があった。

病室の洗面所の上に壁に取り付けられた簡単な四角い鏡。右隅の留め金だけ錆びて色が変わっている。

鏡の中には中年女性が映っていた。

女性?

振り返る。

部屋に女性はいない。

もう一度鏡を見る。

しかし、やはりそこには中年女性が映っていた。

ベッドの上に身を起こして座っている。

違う。

自分は男性のはずだった。

大学生で。

夏休みに。

帰省していて。

母親が女手一つで育ててくれて。

妹がいた。

名前が。

名前が。

…なんといっただろう。

自分は?

なんて名前だったろう。


「名前は?思い出せる?」

傍らの男性が聞いた。

名前は。

なんだっけ。

ツルのような。細長い。ほら。ピンと張った。生糸のような。

生糸?蚕?

「生糸」

「キイト?」

「いや、違う」

急速に記憶が遠のいていく。

考えようとすると、逃げるように遠ざかる。

俺は、誰だ。


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終章 生糸の音


これは小説である。

これは小説である。

大事なことだから二回言う。

だから本気にしないでほしいのだが、最近、僕の周辺は騒がしい。


なんていっても僕は名前が思い出せない。

生糸と関係があったと思うんだ。

でも、きっとそれは僕じゃないんだ。

不思議だよね。

自分の名前を忘れてしまうことがあるなんて。


記憶をなくしたら、僕は年齢も性別も忘れてしまっていた。

全部、自分が思っていたのと違っていて。

思っていた夏からもう三年も過ぎてしまっていた。


でも別に三年気絶していたわけじゃない。

傷は浅くて、血も固まっていなかったから、怪我してすぐに救助されたことは間違いないんだ。

だったら。

僕の三年前の記憶はいったいいつの出来事なんだろう?


君もそういうことはない?


自分と思っている自分が、実は本当は違っていたってこと。

自分が自分だっていうこと自体が錯覚かもしれなくて。

本当の自分は違う人生を生きているかもしれなくて。


でも、本当はそんなこと心配しなくていいはずなんだ。


だって、これは小説なんだから。

そんなことは君には起こらないし、僕にも起こるはずがない。

きっと何か理由があって、ただ、僕がそれを知らないだけなんだ。


だから、もし君が人生が嫌になっても、気にしないで。

だって、それは本当の人生じゃないかもしれないんだから。


もし今すぐに君が違う人生を始めれば、それが本当の人生になることだってあるんだから。

今にこだわる必要なんてないんだよ。きっと。

それは望むと望まぬとに関わらず、起こることもあるんだよ。


だから辛い時は深呼吸して。

十の吐息を数えて。

息とともに吐き出せる妄想もあるんだよ。


トオノトイキがきっと君を変えてくれるはず。

だから記憶なんてガラクタはとりあえず捨てておこう。


(終)

ホラー募集してたんで書いたら、〆切終わってました。

折角書いたのでアップします。

ちょっとでも怖いと思ってもらえたらいいなと思います。

半分くらいは本当の話です。

どれが本当かはご想像にお任せします。

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