5 陽本うららは涙を見せる
文化祭まであと一週間ちょっととなり、部活に来る人が増えてきた。逆に、私は部活に行かなくなった。もう文化祭用の作品を完成させていたのもあるし……あの日から、真君をつい避けてしまっているのだ。真君が、私のお母さんとお父さんへの思いを肯定してくれた日から。
本当は今日も部活があるのだが、早々に学校を出てきてしまった。私の家は学校から歩いて十五分のところにあるので、のんびり歩く。自転車通学でもよかったのだが、申請がめんどくさかった。
ぱたぱた顔元を仰ぎながら足を進めるうちに、家に着く。九月になっても暑さは相変わらずだった。
ドアに鍵を差し込んで回そうとして、私は違和感に気づいた。……開いてる? 今日は家を出るのはお母さんが後だったし、閉め忘れたのかもしれない。でも防犯意識の高いお母さんのことだから、閉め忘れはないと思うんだけどなぁ。
それか、お母さんがもう帰ってきているんだろうか。だとしたら珍しい。日の高いうちに帰ってくるなんて。
「ただいま……?」
おそるおそる入って、お母さんの靴があることに安心する。泥棒とかじゃなくてよかった。けれどその横に――見慣れない、靴があった。おそらくお父さんの靴ではない、男物の靴。
ひゅ、と息が詰まる。心臓の音が大きくなる。貼り付いたように動かなかった視線を、のろのろとゆっくり、寝室のほうに向ける。
まだ、そんな、やって、たんだ。私がいないときに、家で。この家で。三人で暮らしていた、この家で。
そして聞こえてくる。
幼い頃は理解できなかった、音。
荷物を放り出して、玄関を飛び出す。走って走って、ひたすら走って、学校に帰ってきていた。自然と足が向かうのは、真君が待っている美術室。
がらっと勢いよくドアを開けると、絵を描いていた真君が目を丸くしてこちらを見た。他の部員は、いない。
それを見て私は。
よかった、と、その場にへたり込んでしまった。
全力疾走したせいか、心臓がばくばくとうるさい。息を整えながら、スカートに入れていたハンカチで思いきり汗を拭う。
暑い。熱い。あつい、あつい。
息を吐く。吸う。オイルのにおい、絵の具のにおい、木のにおい、紙のにおい。美術室のにおいだ。私が一番好きなにおい。
うつむいていると、真君が立ち上がる気配がした。
「……先輩、どうしたんすか」
いつも優しいその声が、いつもより数倍優しく尋ねてくる。よくわからない感情で、胸がいっぱいになりそうだった。
今声を出したら、きっと震える。でも答えないわけにはいかなくて、声の震えに気づかれませんように、と顔を上げて笑顔を作る。
「……何でもないよ」
「あんたの何でもないは信用できないって知ってます。どうしたんですか。そんな顔して」
「えー、どんな顔?」
「泣いてます」
え、と慌てて顔に手を当てても、水分は汗しかない。ただのカマかけか、とちょっと文句を言おうとしたのに、「泣いてるでしょ」と言い切られてしまえば何も言えなくなった。
泣いてる、ともう一度繰り返して、真君は困ったように笑う。
「最近俺を避けてたことについて、色々言ってやろうと思ってたんすけど」
そこで切った真君は、私の傍まで歩いてきてしゃがみこんでくれた。
「……ねえ、笑ってくださいよ。泣かないでください」
あまりにつらそうな声だったから、もしかして私は本当に泣いているんじゃないか、と錯覚を起こしそうになる。
しかし、再び目を擦ってみても、涙はなかった。
「……泣いて、ないよ」
「陽本先輩」
たしなめるように名前を呼ばれた。
泣いてない、とまた小さく答える。
「じゃあそういうことにしといてあげます」
偉そうに言って、真君はただ傍にいてくれる。体温も感じることができない距離。
それでもなぜか、安心してしまった。
そっと手を伸ばすと、同じようにそっと手が近づいてきた。それ以上は何もしてこなかったので、仕方なくこちらからその手をつかむ。するりと動かして恋人のように指を絡ませれば、真君は驚いたように手を引こうとした。それを無理やり引っ張り返して、そのままにさせる。
身長にはそれほど差はないけれど、やっぱり手は男の子だった。私より大きくて、骨ばっていて、意外なくらいに綺麗な手。
きゅ、きゅ、と軽く手に力をこめると、ためらいがちに握り返された。
心臓の音が伝わってきそうだ、と思った。そんなわけがないけれど。
目をつぶって、息を吐いて。
そしてもう一度目を開けたときには、世界はぼやけて、上手く見えなくなっていた。
繋いでいるのと反対側の拳を握り締めて、息が変になりそうなのをやり過ごそうとする。けれど、無駄な努力だった。
ひぅっ、と引き攣ったような声が漏れて、しゃっくりのように止まらなくなる。瞬きをするたびに視界はますます滲んでいって、鼻の奥のような喉の奥のような場所がつんと痛くなった。
「……真君のせいだぁ」
嗚咽の合間になんとかそう言って、握り締めていた手でぽかりと彼の胸を叩く。
うわあああん、だなんて子どもっぽくは泣けない。ただひたすら、声をできるだけ出さないように、唇を噛む。ごしごしと痛いくらいに目を擦る。
私は、どうやって泣くのが普通だったっけ。
「はいはい、俺のせいでも何でもいいんで、そんな擦らないでくださいよ。ハンカチ貸すんで。なんなら鼻かんでくれていいっすよ」
目を擦っていた手に、ハンカチを握らされた。こういうときだけちゃんと格好いいのがムカつく。本当なら言われたとおり鼻をかんでやりたかったけど、女子としてそこは自重しておいた。
ピンストライプ柄のハンカチは、なんだか真君に似合わない。へぇ、こういうの使ってるんだ? と笑いたいのに、やっぱり涙が止まらなくて、ハンカチがぺったりと肌にはりつくようになるまで拭き続けた。
また少しだけ、繋いだ手に力がこめられる。
「うららが泣いたところ見たことない、って。言ってたんすよね」
主語はなかった。けれど、そんなことを言うのは絵美くらいだろう。
そうだったっけ、とぼんやりと熱い頭で思い出そうとする。私だって転んだりして、痛い思いをしたときには泣いていた。たぶん絵美も傍にいたと思うのだが、私の記憶違いだろうか。
「めちゃくちゃ、悔しそうでした」
なぜ、と思うと同時に、なるほど、と納得した。絵美が言った『泣く』というのはつまり、私が今しているような。……こういう、泣く、なのだ。
まあ、だとしたら見せてない。だって、泣きたくならなかったから。泣きたいと、思わなかったから。
「絵美先輩がなんで悔しがってたかわかりません? わかりませんよね。先輩、案外バカですもんねぇ」
しみじみと失礼なことを言われた。少しだけはっきり見えるようになってきた視界の中で、真君はおかしそうに笑っていた。
私が泣いているのに、真君が笑っている。それがなんだかとても悔しくて、意地で涙を止めた。呼吸はまだ元に戻らないけれど、とりあえず、洪水状態だった目は何とかなった。
ゆっくりと繋いでいた手をほどこうとすれば、あっさりと真君は放してくれた。
「だって、ふつう……っ人、が泣いてるとこ……見たく、ない、でしょ」
「先輩って、なんつーか……頭良いのに、めっちゃバカですよね」
「……さっきからひどい」
なんなんだいったい。
びっしょり濡れたハンカチで、顔全体を拭く。……あ、これ、汗も拭いたことになる……か。絶対に綺麗に洗って返さなきゃ、と思ったところで「もう大丈夫ですか?」とハンカチに手を伸ばされたので、慌てて両手で握り締める。
「え、なんすか」
「これは! ぜったい、洗って返すから!」
「いや、別にい」
「よくない」
はあ、まあ、それじゃあお願いします? と真君は了承してくれた。
気まずいような気まずくないような、なんとも言えない沈黙が落ちる。
……後輩の前で、醜態をさらしてしまった。
不細工になるような泣き方はしていない、とは思うが、そこまで気を遣う余裕があったか、と問われれば自信はない。
深呼吸をしてから、一度鼻をすする。……垂れてきそう。
「あの、真君。ティッシュ持ってる?」
ありますよ、と真君はティッシュを取ってきてくれる。ちょっとあっちを向いているように頼んで、私は静かに鼻をかんだ。できれば鏡を確認したいが、荷物は全部家の玄関に放り出してしまったし。――あれに気づいたら、お母さんはなんて思うかな。
鼻をかんですっきりしたところで、ふう、と一息つく。お礼を言ってティッシュを返した。
立ち上がると、ずっと座っていたせいかふらーっと世界が傾く。ぼう、と白くなった視界に、鈍くなった聴覚。ぱちぱちと目を瞬いて、なんとか気合でゴミ箱まで歩いていく。
「まあ何となくわかってるんすけど、一応訊いていいっすか?」
「んー? 何?」
ティッシュを捨ててから振り返ると、真面目な顔をした真君が目に入る。
「なんで最近、俺のこと避けてたんですか」
……突っ込まれるとは思っていたけど、今訊くかー。先に訊かれるのは急に泣き出した理由のほうかと。そっちを訊かれていたら困っていたから――たぶん真君は、それを察して、何も訊かないでくれたのだ。
だったら、避けてる理由のほうも訊かないでくれたら嬉しいんだけどなぁ。
どう返せばいいものか悩んでいる間に、真君は続ける。
「おかげで先輩が絵描いてるとこ見れなくて……あー、違いますね、これ。うん、単に先輩と会えなくて、イライラしちゃったんですけど」
「……私に会いたかったの?」
「……別にそういうわけじゃ、ない、わけでも、ないです?」
素直になるのかツンデレるのか、はっきりしてほしい。
呆れる私に、真君はどこか気まずげだった。だけど「会いたかった、っすよ」なんて小声で付け足すものだから、にこーっとつい微笑んでしまった。さっきまで散々泣いていたせいで、ぎこちない笑顔になっているだろうけど。
で、なんでっすか、と真君は返答を促してくる。
……なんで、か。
うーん、と時間稼ぎのように唸ってみる。
「わかんないんだよね」
きっと、私は今すごく情けない顔をしていると思う。私がわからないのに、真君は何となくわかっているらしいから、尚更。
三秒ほど経ってから、真君はこてんと首をかしげた。
「……マジで言ってます?」
「え、うん、マジで……」
はああ!? と叫ばれて、びくっと震えてしまう。
「嘘でしょう!? いや本気で言ってるのは顔見ればわかりますけど! はー、マジかぁ……マジか」
「そ、そんなにびっくりすること?」
「まさか無自覚とは思わなかったもんで。先輩、タチ悪いっすね」
「タチ悪い自覚はあるけど何について言ってるの!?」
真君のぱっちりした目が、じとっとしたものに変わる。そんなふうに見られることは何度もあったが、なんだかいつも以上にたじろいでしまった。
「……陽本先輩、一番最近せ……せ、性行為したのいつっすか」
セックスより性行為のほうが、言うの恥ずかしくないか。
というかなんでいきなりそんな質問? と不思議に思いながら、とりあえず答える。
「一ヶ月前くらいかなぁ」
「で、そういう友達との関係、もう今全部切ったんですよね?」
……はい?
思わずまじまじと真君を見てしまう。松下君の告白を断ってから数日後、残り二人のセフレにも別れを切り出した。付き合っていたわけではないから別れとは違うのかもしれないが、とにかく、ごめんね、と謝って、もうそういうことはしないと伝えていた。
それは純然たる事実、なのだけど。
「……そうだけど、何で知ってるの?」
「絵美先輩から聞きました」
あの子はいったい、この可愛い後輩君に何を話してるんだ。
天を仰ぎかけて、いやその前に、と思い直す。
「……この前も思ったけど、なんで絵美先輩なの」
「はい?」
「私のことは陽本先輩のくせに」
むっと唇を尖らせると、真君はうろたえる。
「え、いやだって俺、絵美先輩の名字知らないですし……」
「私のことも、うらら先輩って呼んでくれていいんじゃない? それか絵美のこと緒川先輩って呼ぶか」
「……緒川先輩で」
「なんでそこでそっち選ぶの!?」
今のはうらら先輩って呼ぶ流れでしょ!? とむくれる私に、真君の視線はあちこちに泳ぐ。何も下の名前で呼び捨てにしろって言っているわけじゃない。難度は非常に低いと思うんですけど。
高校生にもなって女子を下の名前で呼ぶなんて抵抗がある、という気持ちもわかる。……でも絵美のことは絵美先輩と呼んでいたのに、私のことをうらら先輩と呼ばないなんて、そりゃあないんじゃないですかね。
う、う、と努力はしてくれているらしい真君に、ぐいぐい近づいていく。人一人分の距離を残したところで「ストップ!」と言われてしまった。
「……う、うらら先輩」
「うん、なーに?」
ようやく呼んでくれたのが嬉しくて、にこにこ笑ってしまう。
「えっと、俺と目を合わせてみてください」
「ん? いいけど……」
変なお願いだな、とは思ったけど、うらら先輩と呼んでくれたのだから、と気にしないことにする。
そして目を合わせて数秒、なんだかそわそわしてきてしまった。……そういえば最近、真君とちゃんと目を合わせたことなかった。久しぶりだからなのかなんなのか、妙に恥ずかしい、というか。顔に熱が集まってきて、今すぐにでも逃げたくて体がぷるぷるしてきた。
なんだこれ、なんなんだろうこれ。
真君の綺麗な目に、私が映っている。それが耐えがたいくらい恥ずかしかった。映った私が見えるくらいの距離まで近づかなくてよかった、と心底思う。
――なんだ、これ。
混乱と恥ずかしさで、じわ、と目に涙が滲んでくる。数年ぶりにまともに働いた涙腺は、どうやら緩くなっているらしい。
息さえ止め始めた私に、真君が問いかける。
「……わかりませんか?」
「にゃっ、何が!?」
あざとい路線は目指していないのに、不本意なことにあざとい噛み方をしてしまった。その勢いで思いきり真君から目を逸らす。
いや、マジでわからない。本当にわからない。この状態で何をわかれって言うんだ!
「マジかよこれでわかんないのかよ……。ええええ? なんなんですかあんた、そんなんじゃなくても可愛いでしょーに」
「君がなんなの!?」
「……あ、すいません、今のなしで」
「ほんとに何!? わ、私が可愛いのは知ってるけど、知らない部分を可愛いって言われるのは不気味なんだけど!」
「いや、いいっす。今日のところはこれで」
めちゃくちゃ気になる言い方をされた。どうせ教えてくれるなら今教えてくれればいいのに。
「うぅぅぅ、私が真君に翻弄されるなんて!」
「あ、俺翻弄してました? よっしゃー」
「喜ぶならもっとちゃんと喜んでよ……」
そうじゃなきゃこっちが惨めになるだけじゃないか。「はーい、すいません」と真君は上機嫌そうに笑う。棒読みなよっしゃーだったが、意外と本当に嬉しかったらしい。
……まあ、納得がいかない部分はあるけど。真君が嬉しそうだから、もうなんでもいいかなぁ。
もう一度、目を合わせてみる。どーしました、と真君はますます笑う。その笑顔が可愛くて、久しぶりにムラッとした。
……いや、いや、いやいや。ここでそれはないだろう私。いくら一ヶ月セックスしてないからって、ないだろう。
だけど、さわりたくなって、キスをしたくなった。啄むようなキスから、舌を突っ込んで深く深くどろどろに――そこまでで思考を止める。そんな前段階で止められたのは奇跡に近かった。
Be cool. それ以上考えるな私、こういうときはあれだ、素数とか数えればいいんだ。あれ、待って、素数ってなんだっけ。二は素数? 素数だね? じゃあ、一、二、三、四……いや待った一も四も素数じゃなくないか。これじゃただ一から数を数えてるだけだ。
「先輩?」
今度こそ、と思ったのに、真君の声を聞いただけで呆気なく無駄になる。
「…………I can't apologize enough」
「はい?」
「ごめん、ごめん……」
あっという間にどこまで考えてしまったかは、その、えっとですね。はい、真君に大変申し訳ないので、私だけの秘密にさせていただきたく思います。