3 陽本うららは傷に気づかない
あ、というママの声がした。あちゃー、とちょっと困った顔をして、ママは「まいっか」とそれをゴミ箱に無雑作に捨てた。そして一緒に、紙で作った赤いお花も捨ててしまった。
すぐに興味を失ったのか、鼻歌を歌いながら出かける準備をして、ママは私一人を残して家を出ていく。
いなくなったのを確認して、私はそっとゴミ箱から一枚の紙を拾い上げた。花のほうはほとんど幼稚園の先生に造ってもらったようなものだから、ほうっておく。
破れてぐしゃぐしゃになった紙。私はそれを、自分の部屋に持って帰った。直したくて、でも、直し方がわからなかったから、大事に大事にしまっておいた。しばらく後にセロハンテープの使い方を知って、頑張って直した。
直して、それで。
どうしたんだっけ。
夏休みも終盤に差し掛かってきた。今日の部活は十三時からなので、午前中が暇だった。
ということで今私は、数少ない友達の一人である緒川絵美と少し早めのランチを取っている。ランチ、といっても学校近くの花丸な感じのうどん屋さんなのだけど。
絵美は私の幼稚園の頃からの友達だった。いわゆる、幼馴染というやつだ。一番気心が知れている相手であり、何も気負うことなく話すことができる唯一の存在といってもいい。他の人相手だと少し苦手な沈黙の時間だって、相手が絵美だというだけで気にならない。
ブー、と私のスマホが振動したのは、そんな沈黙を楽しんでいる最中だった。目をやれば、松下君……セフレの一人からの、お誘いである。今日どうする? という文字に、そういえば今日は木曜日だったっけ、と思い出す。特に決めているわけではないけど、彼とセックスするのは木曜日が多かった。現在は夏休みのために部活の活動日が変則的だが、普段なら部活は火水金の週三日なのだ。セックスは部活がない日にすると決めている。
箸を置き、ちょっとごめん、と絵美に断って、スマホのロックを解除する。
「……もしかして松下?」
アプリを起動する私に、絵美はほんの少し顔をしかめる。
「え、すごい。なんでわかるの?」
「だって木曜じゃん」
苦笑を返すしかなかった。絵美が私のそういうことを把握しているのは、私を心配しているからなのだ。たぶん彼女は、私以上に私のことをわかっている。だからこちらがいくら心配ないといっても決して納得しないし――私が両親のことが好きだと言っても、嘘つけ、と怒ってくる。
松下君への返信を考える。今日はなんだか気が向かないし、そもそも部活がある。私の中でのセックスの優先順位は、部活よりも低かった。受験のため、もうそろそろ引退するのだから尚更だ。引退するといっても、週に一回は行くつもりだけど。勉強ばかりじゃ気が滅入る。
目の前に座る絵美が、箸を持っていないほうの手で頬杖をついた。
「……わたしさ、あいつなら結構お似合いだと思うよ」
「ただのセフレだよ」
「あんたのそういうとこ、好きじゃない」
きっぱり言う絵美に、また苦笑い。
まあでも、絵美がお似合いだと言ってくるのもわかる。松下君は私の歴代のセフレの中でもちょっと異質で、セフレになる前は、友達ではないけどただの知り合いにしては仲がいい、というポジションだった。あまりそういう人とセフレになるつもりはなかったのだが、なんか流れでそういうことになった。未だに自分でも、なんでだったのかよくわかっていない。高一で同じクラスになって、セフレになったのは確か十月くらいだった。
松下君は優しい。私の誘いには必ず乗ってくれるし、彼の誘いを私が断ったときには笑って許してくれる。何より、行為の最中にしつこくないし、私が嫌がることを無理にやろうとしない。それで私を本気で好きになってこないから、こう表すのは非常に失礼だが、セフレとして本当に都合がよかった。
「行くの?」
付き合う気がないなら行くな、と言外に込め、絵美は私を睨む。
「行かないよ。今日は午後から部活だしね」
「……ほんと、うらら部活好きだよね。部活ってか、真君か。あんた一年のころはそんな真面目に部活行ってなかったし」
「真君が好きなのは事実だけど、一年生のときだって私真面目だったよ。少なくとも他の幽霊部員よりはねぇ」
入ってびっくり、活動日にちゃんと活動しにくるのが私だけ。他の子たちも、部の役職決めや、文化祭の打ち合わせなんかには流石に来るし、文化祭の作品を作るために文化祭前一週間くらいは絵を描きにくる。逆を言うと、それ以外来ない。
一応新入部員は割と確保できるから廃部にはなっていないのだが、真君以外幽霊部員ってやばいと思う。
絵美もその状況は知っているので、微妙な顔で同意はしてくれた。うどんを食べるのを再開し始めた彼女に、ふとあれを話してみよう、と思い立つ。
「……真君と言えばさ」
「ん? ……それ、私食べてないほうがいい真面目な話?」
改まったように切り出したからか、絵美は箸を置こうとした。「別に食べてていいよ」と言えば、遠慮なくまた食べ始める。
「で、真君のことで、ちょっと最近気になることっていうか……なんか変だなぁって感じることがあるんだよね」
もぐもぐ口を動かしながら、続きを目で促される。
「いや、最近、でもないな……? かなり前からなんだけど、最近頻度が増したっていうか」
そういえば、最初っていつだっけ。去年の夏?
こんなこと絵美に言ったところで呆れられるだけだと思うのだが、それでも誰かに言わないとすっきりしない。絵美に呆れられるのと気持ちがすっきりするの、天秤にかければ後者に傾く。だって絵美に呆れられるのなんて今更だし、見捨てられることはありえないから。
それでもちょっとでも呆れられる可能性を減らそうと、神妙な面持ちを作る。
「なんか、真君の傍にいるだけでムラッとしちゃうんだよね」
「――んぶほっ」
変な声を出して、絵美は吹き出すのを堪えた。
「鼻っ、鼻にうどんが!」
「大丈夫、見えてないよ」
「そういう問題じゃねーよ!」
やや涙目になった絵美は、咳き込みながらティッシュで鼻をかんだ。
「流石の私も、日常生活で発情するとかはないはずなんだよね……。なのに、真君と話してるだけで、というか真君が絵描いてるとこ見てるだけでも、こう、ムラッとするというか。よくわかんなくて、最近めっちゃもやっとしてる」
「いきなりそういう話された私のほうが、現在進行形でもやっとしすぎなんですけど」
意地でそれを言い切って、絵美はまた咳き込む。相当変なところに入ってしまったらしい。そんな過剰な反応をされるとわかっていたら、食べていないときに話したんだけど……まあ、過ぎてしまったことは仕方ない。
「変な話してごめんね」
「ほんとだよ。で? 詳しくは、どういうときにムラッとすんの」
「……えっと。それも、よくわかんない。なんか気づいたらムラッとしてるの」
「ほう。おーけーおーけー、わかりました」
「え、うそ、今ので?」
「今のだけじゃないよ。今までのあんたの言動全部から、導かれる答えは一つってわけ」
さすが絵美! と褒めたたえると、なぜか軽くデコピンされた。地味に痛い。
「あんたってほんと……。や、何でもない」
深いため息をつく絵美に首をかしげる。思ったことは基本言ってくれる絵美にしては珍しい。でも言わないということは、私に言わないほうがいい、と絵美が判断したということだ。それなら問い詰める必要はない。
言葉に迷うように、絵美の視線が宙をさまよう。
「あー……あんたさ、たぶんあれなんだよ。区別ついてないの」
「なんの?」
「ムラッとキュンッの」
まさか絵美の口から『キュンッ』なんていう可愛い単語が飛び出してくると思わなかった。唖然として、真顔の絵美を見つめ返す。
「……大丈夫?」
「おーけーそれは頭ダイジョーブ? って意味でしょ。ざけんな」
今度はさっきよりも強くデコピンをされた。いたっ、と額を押さえる私に、絵美は心底呆れてます、という顔をする。
「つまり、うららは真君のこと好きなんだよ。それも大分前から、ね」
――理解できなくて、痛みも忘れてぱちぱちと瞬きを繰り返す。
好き、そりゃあ好きだ。だってあんなに優しくて、あんなに私の絵を好きでいてくれる子、好きにならないわけがない。大好きな後輩だ。
でもたぶん、絵美が言っているのはそういうことではない。
「……いや、ないでしょ」
ないない、と笑い飛ばす。
絵美は、私が真君に恋をしていると言っているのだ。
ありえない。私は真君を、後輩として、自分のファンとして、人として好きだ。そこに恋なんていう、甘くて不確かですぐに消えてしまうような感情は含まれていない。私はこれから先だって、真君と仲良くしたいのだから。
「いつまで誤魔化しが利くか見物だわ。わかりきった答えをいつまで無視できるんですかねー、うらら君は」
「誤魔化してもないし、わかりきってるっていうなら、ありえないことがわかりきってる。私が恋なんてすると思う?」
私の問いに鼻白むように笑って、絵美はまた私にデコピンをした。
「ばーか」
痛い、と小さく文句を言う私に、絵美はもう何も言わなかった。
絵美と別れた午後、美術室で筆を動かす。夕日に染まる、無人の駅のホーム。文化祭に出展する用の作品だった。
一休みしにきたのか、真君が私の横に移動してきて、私の絵をじっと見つめる。……一休み、というか、この後輩君は二十分に一回は私の絵を見にくるのだけど。
「先輩って、人物画描かないっすよね。人物画っつーか、人の顔?」
ふと、真君がつぶやく。そして「なんでですか?」と尋ねてくる彼に、なぜか苦笑いがこぼれてしまった。今更か、と思ったからかもしれない。
「私は綺麗だと思うものしか描きたくないの。綺麗だと思えないものを描いたって楽しくないし、綺麗に描けないでしょ?」
人を彷彿とさせるものを全く描かないわけではない。たとえば、指輪のはまった左手。たとえば、夕焼けの中伸びる家族の影。たとえば、花火を見上げる二人の後ろ姿。
小さくなら正面を向いた人物の全身を描いたことだってある。顔は意地でも描かなかったけれど。
他人の顔を見て、可愛い子だな、綺麗な子だな、かっこいい子だな、そう思うことはある。だがそれは、私が描きたいと思う『綺麗』ではない。心が動かされない、何も響かない。
「……なるほど」
「わかってくれた?」
「はい。間に合うかわかんないんすけど、文化祭に先輩の絵出してもいいですか?」
「……え、うん、元々これ出すつもりだけど?」
実は美術部現部長は真君なのだが(前部長は私だった)、別に出す絵を決める権利が部長にあるわけではない。だから私の絵を出すかどうかは私が決めるし、真君が許可を得る必要はないのだけど。
「じゃなくて、俺が先輩の絵を描いて、もいい……ああああ、いや、なんでもないっす、忘れてください、違います!!」
はっと我に返ったように、真君は急に大声で叫んだ。
はあ、と曖昧にうなずきながら、今の意味を考える。何がどうして私の絵を描くとかって話になったんだろうか。直前になるほど、と納得していたということは、たぶんその前の私の発言が原因で。
つまり?
「…………私、綺麗? あ、これじゃ口裂け女みたいか」
冷静に一人突っ込みをする私に、真君は赤くなった顔で立ち上がり、ささっと自分の椅子に戻った。
「おーい、先輩が訊いてるんですけど? ねーねーねー、私が綺麗ってこと? そうなの? へー、そう、そうなんだ!」
筆を置いて真君の前に回りこむ。顔をそらされるたびにひょこひょこ移動しながらからかい続けると、真君がぷるぷる震え始めた。
「あーもううっさいです! そりゃああんたが美人なんてわかりきってることでしょーが! 中身は残念っすけど!」
「えー、ひどーい。いいのは外見だけ?」
「や、基本的には性格も好き……いや違います、今のはキャンセルで」
「残念ですがキャンセルはできませーん。ありがとうございまーす」
なんでこの子はこんなに素直なんだろう。将来悪い女に騙されないか心配だ。その前に私が騙してしまおうか、なんて冗談半分に思う。
そうか、そうかー。クズとか残念だとか言う割に、この性格を好きだとは思ってくれてるんだぁ。
にやにや笑っていると、真君は開き直ったのか「つーか」と続ける。
「その、先輩はなんか、色々綺麗なんで。だから描きたいだけっす。いいですか?」
「そりゃいいけど……色々?」
「色々は色々っす」
へえ? とにやけたまま首を傾ける。
色々ということは、彼が綺麗だと思ってくれているのは、私の外見だけではないということで。それがすごく、嬉しかった。
そっかー、私は色々綺麗なのか。自分じゃ綺麗なのは外見だけだと思ってたけど、真君にとってはそうじゃないのかー。ふーん、ふーん。
「ふふふふ」
「……そんな嬉しかったんすか。可愛いとか綺麗とか言われ慣れてるでしょーに」
「まあそうだけど」
答えながら、あれ、と思う。確かにそうだ。見た目を褒めてくれる人はいっぱいいるし、中身も込みで褒めてくれているだろう人もそれなりにいる。
なのに今、なんでこんなに嬉しいんだろうか。
さっきとは違う意味で首を傾げる。言われ慣れているし、言われ慣れる前だって別にそこまで嬉しくなかった。そう? ありがとー、と軽く流してしまう程度。
「んー、なんでだろうね?」
「知りませんよ。あ、もしかして久しぶりでした?」
「いや、そういうわけでも……。セックスの最中とかはよく言われるし」
「……へえ。でもそれ、雰囲気に流されてるだけで、心はこもってないんじゃないすか」
自分は心をこめていた、と言っているも同然だと、彼は気づいてるんだろうか。たぶん、というか絶対気づいてない。天然って恐ろしいなぁ。
ちょっと悪戯心がわいて、座っている真君の正面に立つ。「なんすか」と身構える彼の目元に、私は唇を押し当てた。わざとらしくリップ音を立てて離すと、真君は硬直していた。
「嬉しかったから、お礼」
ぼっ、と面白いくらいあっという間に赤く染まる真君の顔。
「お、礼って、なんですかいきなり!? つーかそれがお礼になると思ってるってどうなんすかね!?」
「えー、この私からのキスだよ?」
「この私からって! ご、傲慢! 傲慢っすよ!」
「はっはっは、褒めるのはやめたまえ」
「褒めてねーよ!」
打てば響くようなこの会話が楽しい。
まあこれくらいにしておいて、と話を変えることにする。
「で、真君。君も人物画描いたことないよね?」
「先輩、切り替え早いですよね……まあ、はい」
「私今回はなんにもアドバイスしない、っていうかむしろ完成まで見ないつもりだから、頑張って? Believe in yourself!」
「えっ、そうなんすか」
困った顔をする真君に、くすくす笑う。せっかく私の絵を描いてくれるのだ。完成まで見たくないと思うのは当たり前じゃないか。
まじかー、と弱った声を出して、真君は何かを考えるように私を見つめた。お、これは構図を考えてるんだろうか。どういうふうに描いてくれるのかなぁ。
「なんか視姦されてるみたい」
「ばっかじゃないすか」
凍えそうなくらいつめたーい視線をいただいてしまった。