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2 陽本うららは涙を見せない

 甲高い嬌声、低く囁く声。ベッドの軋む音。何かがぶつかり合うような音、荒い息。それから、なんだかよくわからない、水音。ママが――知らない男の人と、ベッドの上、で。

 幼い私は、見てはいけないものを見てしまった気がして、聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、自分の部屋で膝を抱えて耳をふさいだ。

 なにしてたの、と男の人がいなくなってから訊いたら、ママはころころと笑う。


『きもちーこと! あんたのパパもどっかでやってきてんのよー? じゃあこっちも楽しまなきゃ損でしょ』


 パパも、ママと同じことしてるんだ。そう知って、なら本当にあれは気持ちいいんだろう、と思った。

 でも確か、それだけじゃなくて。

 あのとき私は、泣きたくてたまらなかった、気がする。何もかもを理解していなかったから、涙なんてこれっぽっちも出なかったのに。






「……あれ、この前の緑のやつはもう描かないんですか?」


 きょとり、真君が目を瞬く。んー? と生返事をしながら、私はキャンバスに木炭を滑らせた。


「いっつも、描き始めたやつ完成させてから次の描いてるじゃないすか」

「あー……」

「聞いてます?」

「聞いてない」

「聞いてるじゃないっすか」


 描かないんすか、ともう一度訊いてくる真君に、小さくため息をついてみせる。

 今私は、ちょっと機嫌が悪い。私のファンである後輩君に、優しく対応できないくらいには重症だ。真君もそれに気づいているはずなのに、それでも私の答えを待っている。

 数分後、木炭での下書きを終えてから、仕方なく答えることにした。


「いっつもってさ、それ、君が入学してきてからの話でしょ」

「まあ、そっからしか知らないですけど。え、前は違ったんですか?」

「違ったよー。描きたいものを描きたいときに描きだして、そのまま完成させないやつもいっぱいあったもん」

「……じゃあなんで最近はそうしなかったんすか?」


 不思議そうな真君に、君がそれを言うか、と顔をしかめてしまう。……今まで真君に言ったことがなかったし、そもそも指摘するつもりもなかったから、理不尽な話だろう。

 でもわかってくれてもいいんじゃないかなぁ、と勝手なことを思いながら、真君の目を見る。


「君が楽しみにしてるから」

「……は?」


 ぽかん、とする真君が可愛かったので、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。うん、後輩に当たるなんて最悪じゃないか。後輩は可愛がらなくちゃ。

 我ながらやっぱりチョロい、と内心苦笑して、詳しく説明することにする。


「自覚なかった? 真君、私が描き始めると『今度はどんな絵描くのかなー』ってめちゃくちゃキラキラした目で見てくるんだよ」

「……」

「そんな可愛い後輩がいたら、じゃあこれ早く完成させなきゃ、って頑張っちゃうもんなんですよ、先輩は」


 下書き時点では、あーこれ失敗作だなと思っていたものでも、真君が完成を待っているのだからと頑張ればちゃんと満足のいく作品になる。それがどうしてかはよくわからないけど、完成した絵を毎度ふわふわ幸せそうな顔で絶賛してくれる真君を見ると……まあいっか、と。とにかく嬉しくなってしまって、細かいことはどうでもよくなるのだ。

 だから本当は、あの緑に塗りつぶしてしまったキャンバスも、彼が喜んでくれるような作品に仕上げるつもりだったんだけどなぁ。


 苛立ちのような感情が蘇って、手の中にあった木炭をぽきりと折ってしまう。ああもったいない。折れたって使えるけど、私は長いほうが描きやすく感じる。

 折れた木炭を置き、手をトイレットペーパーで軽く拭く。そういえば真君、何にも言ってこないな。ふっと視線を戻し、「え」とびっくりしてしまった。


「……もしかして照れてる?」

「うっさいです照れてません」


 赤い顔でそう言われても、説得力は皆無だった。やっぱり真君は顔に出やすいなぁ。よく赤くなるし……いや、それは私のセクハラのせいか? 反省はしないけども。

 そっかー、こんなこと言われるくらいで照れちゃうのかー。

 ほんと可愛いな、と顔がにやけた。うん、後輩が可愛くて私は幸せです。さっきまでの不機嫌な気持ちも吹き飛んだ。


「あのね、君が思ってるよりよっぽど、自分のファンがいるって嬉しいことなんだからね。Do you understand?」

「そう、っすか」

「そーそー」


「じゃあ今、俺が楽しみにしてても無駄なくらいキツいんですね」


 あっさり言われ、思わず固まる。「違いました?」という言葉には答えずに、そうだよなぁ、と先ほどとは違う意味の苦笑を、今度こそ顔にのせる。

 この前は「なんか機嫌悪いっすか?」、今回は「キツいんですね」。

 ――彼は、そういう子だ。


「八つ当たりして、ごめんね」

「別にいいですよ。それで先輩がすっきりするなら」

「……思うんだけど、君結構私のこと好きじゃない?」


 真君は真面目だから、セクハラしまくり、しかもセフレと遊んでる私みたいなタイプは、人として嫌いかと思っていた。てっきり、私の絵にしか興味がないのかと。でもなんだか最近、錯覚かもしれないが割と好かれているような気がする。

「はあ?」と眉を寄せる真君に、あ、やっぱ私のことは嫌いだよね、ごめんごめん、と謝ろうとして、続く言葉にまたも固まってしまった。


「あんな絵描く人好きにならないとか有り得ないでしょう。それに先輩本人が好きじゃなかったら、セ……あー、フレンド的なあれがいること、心配したりしません」


 ふ、ふーん。

 かろうじて、それだけ相槌を打てた。

 ……好き、なのか。私の絵だけじゃなく、私のことも。


「もう一年以上一緒にいるんすよ。先輩のこと好きになるなんて当たり前じゃないっすか」


 当たり前とまで言われてしまった。

 嬉しい、けど、むずがゆい。今すぐこのなんか微妙な感情を絵にたたきつけたかった。が、今描いている絵はそういうふうに使う用ではないのでぐっと堪える。

 口元を手で隠し、そっと真君から目を逸らす。これで真君が更に赤くなっていたのならからかうこともできたのに、生憎いたって真面目なお顔。さっきまでの赤みは残っていない。むしろたぶん、今は私のほうが赤くなっていそうだ。


「……あっ!?」

「きゃ!?」


 いきなりの大声に、びくっとおおげさなまでに反応してしまう。


「すいませんいやそーいうことじゃなくていや、好きなんすけど、ほら、あれですよ、先輩として! 先輩としてです! 先輩として!!」


 先輩として、をめちゃくちゃ強調された。ひ、悲鳴に突っ込まれなくてよかった……急に大きい声出されるのとか、苦手なんだよ。だからびっくり系のホラーとかほんと無理。

 しかし、そんな必死に言わなくてもわかってるのに。


「大丈夫だよ、真君にセフレになってもらいたいとか思わないし。でも嫌われてると思ってたから嬉しいなー。これからもよろしくね?」

「……はい。まあ、いいっすけど」


 なんとなくがっかりして見える真君に、首をかしげる。……私のセフレになりたかった、とは考えにくいしな。そもそも私のセフレ選びの基準に、彼は当てはまらない。真面目だし、初心だし。そんな子相手にするとか罪悪感がやばいでしょ。

 この後輩君の傍は心地いいのだ。だから私は、できることならこれからもこのくらいの距離感で付き合いを続けていきたいと思っている。私たち両方が卒業してからもちょくちょく会いにいくつもりだったが、私自身のことも好きだというのなら迷惑にはならないだろう。よかった。


「で、話戻しますけど。何があったんすか?」

「……私、真君のそういうとこだけは苦手だなぁ」

「だけ? 先輩も案外俺のこと好きですねぇ」

「うん、大好きだよ」


 一瞬の間の後、「どーも」と小さな返事。また赤くなっちゃって可愛い。けど先輩、君の照れポイントよくわかんないなぁ。好きだって自分で言ったときは照れなかったくせに。

 ……あ、それは私も同じか。わかんないとか思ってごめん、と心の中で謝っていると、「それで、何があったんです?」としつこく続けてくる。


「……なーんにも?」

「八つ当たりしてた自覚があるってことは、何かあったことは確実でしょーに。頭いいのにそういうとこ抜けてますよね」


 それを真君に言われてしまうのはなんか納得いかない。むぅ、と唇を尖らせてみたが、追及の手を緩めてくれる気はないみたいだった。

 誤魔化されてはくれない、か。私の絵に影響が出るとなれば、真君がどうにかしたいと思うのも無理はない。でもここは空気を読んでくれてもいいんじゃないかな、と思って。……たぶんこれは、空気を読んだ結果なんだろうな、と思い直す。


「……問題です。これ、何の絵でしょう?」


 木炭での下書きはわかりづらいし、わかったとしても真君なら絶対不正解だ。

 じいっと見つめて、自信なさげに答える真君。


「棒つきキャンディーとお菓子の家、ですか?」

「あ、すごい。お菓子の家は正解。キャンディーも正解っちゃ正解なんだけど、キャンディーに見せかけて、ほんとは違うイメージで描いてる」

「じゃあなんすか?」


 意味深な流し目で、にこっと笑う。


「バイブ」


 はい? と気の抜けた声が聞こえた。

 流石に男子高校生がこの単語を知らないとは思えないが、あまりにぽかんとしているので心配になってしまう。そういう知識がないと友達との会話でも苦労するだろう。まあ私、男子たちが普段どんな会話してるのかわかってないんだけど。

 とにかく、沈黙はたっぷり十秒は続いた。


「バイブ、知らない?」

「……し、知って、ます、けど」

「あ、よかったー。知らなかったら他にも色々教えようかと思っちゃったよ」

「知ってますけど、え、な、なんで、わざわざ、え、お菓子の家と、その、それなんですか?」


 そこまで卑猥な単語というわけでもないのに、バイブすらまともに言えないらしい。大丈夫だろうかこの男子高校生。友達との猥談についていけないんじゃないか……? お姉さんが教えてあげよっか、という提案が口から出かけたくらいには心配になった。言ってもいいんだけど今ちょっとシリアスな雰囲気……にしようとしているから自重する。

 ここからが本題だ。


「昨日ね、キャンディーの形のバイブプレゼントされたんだ。色違いで三つ」

「……え」

「お母さんから、ね」


 かわいいでしょ、ってにこにこしながら渡されて、流石の私も困っちゃったよ。そう、軽口のように続ける。

 私のお母さんは、自分とよく似た可愛い私が大好きで、色んなものを買ってきてくれる。服も、アクセサリーも、下着も、全部全部ほとんどお母さんが買ってきたもの。私が自分で買うのは、文房具くらいかもしれない。

 それでも、バイブみたいな大人の玩具をもらったのは昨日が初めてだった。


「……気持ちを、形にしたくて。実際可愛かったし、綺麗だったから、ところどころ変えればモチーフとして普通に使えるし」


 どんな意図があったのか、私はお母さんではないからわからない。本当に可愛いと思ったからくれただけなのか、それとも。

 それとも……それとも。


 ありがとう、と受け取って、けれどずっと、何かが引っかかっていた。悲しいのかもしれないし、悔しいのかもしれないし、気持ち悪いと思ったのかもしれなかった。

 気持ちはぐちゃぐちゃで、だから絵にぶつけようとした。絵にすることで、何かがわかるかもしれないと思ったから。結果的に、下書きはとてもメルヘンなことになって、色をつけたところで自分の気持ちがわかる気はしない。カモフラージュを意識しすぎてしまったかもしれない。

 まあ、些細な問題なのだ。私が苛立つ必要なんてなかった。お母さんのことが大好きなんだから、何も疑問に思わず、ただ喜んでおけばよかったのだ。


「ね、大したことない話でしょ?」

「……先輩」


 困った顔で、真君は私を見つめる。たぶん昨日の私も、こんな顔でお母さんを見ていたんだろう。――何も気づかず、ただ満足そうに笑うお母さんを。


「あー……先輩」

「なに、後輩君」

「……なんかしてほしいこと、ありますか」

「……なぁに、それ」


 アバウトな質問に、ふはっ、と吹き出してしまう。

 別にしてほしいことはないんだけど、そう言ってくれるなら何か考えよう。セクハラにならないやつを。

 じっと待っている真君に、うーんと唸る。

 ちょっと考えて、私はテーブルの下から新しい椅子を出した。美術室のテーブルは大きく、椅子はただの四角い台のような形をしているので、使わないときは下に収容しているのだ。


「じゃあここ、座って」


 素直に座ってくれた真君の後ろに、自分の椅子を移動させる。背もたれのない椅子だから、そうして背中合わせに座れば当然背中がくっつく。

 この暑い中何してるんだ、という感じだし、真君の背中はなんとなく湿っていて正直ほんの少し不快ではあるのだけど。


「……陽本先輩。これ、緊張するんすけど」


 蝉の声がやけに大きく聞こえる。――心臓の音、隠れてるかな。


「奇遇だね、私も。ハグとかキスとかだったら私は緊張しないけど、」

「絶対やめてください」

「はーい」


 たぶんそう言いつつも、ハグくらいならめちゃくちゃ頑張ってしてくれただろうなぁ。そう思って、こっそり笑ってしまった。



 どうやら真君は、自分が最初にした質問は忘れたらしい。『この前の緑のやつはもう描かないんですか?』という。あれには、なんで描かないんですか? というニュアンスも混じっていたから、答えたくなかった。答えようがなかった、というか。

 私だって、よくわからないのだ。

 緑は、私にとって真君の色。葉月という名字からでもあるし、なんというか、そういうイメージなのだ。穏やかで、眩しくて、安心する。


 だからこんな気持ちで、その絵を穢したくなかったというのが一つ。

 もう一つの理由は――どんな絵にしたらいいのか、わからなくなったから。


 やっぱり下書きを描かなくちゃダメだったのだ。きっと、たぶん、ちゃんと考えて、ちゃんと下書きを描けば、わからなくなったりしなかっただろう。見切り発車を反省。あの絵はもう、お蔵入りだ。

 ……なんでわからなくなったのかは、わからないのだけど。






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