1 陽本うららは恋を知らない
キスは気持ちいい。セックスも気持ちいい。バージンロードを処女で歩きたいとか、そんな夢は見たことすらない。気持ちいいからする――私にとっては、それだけだ。
キャンバスにペインティングナイフで色を置いていく。どうせ後で色を重ねるのだ、今はとにかく、丁寧にこのキャンバスを塗りつぶしていきたい。何も考えず、ひたすらに緑色で。他の色を混ぜて色味は変えるが、ベースは緑。夏の、葉っぱの色。
ナイフの跡ははっきりと残る。わざと力を入れているのだから当たり前だ。しばらく緑で塗りつぶして、何を描きたかったのかもわからなくなったときにようやく満足した。個人的に、F8くらいのキャンバスがこういうのに最適だと思う。
紙パレットにナイフを置いて、いつの間にか絵の具がついていた手を割烹着でぐいっと拭く。油絵を描くとき、結構割烹着は便利なんだよね。難点は丈が短めなところだけど、まあそれに合わせて制服のスカートの丈も短くしてしまえばいい。
あー暑い、とぱたぱたと手で顔を扇ぐ。美術室にはエアコンがなく、二つの扇風機が頼りなく回っているだけ。八月に入ってちょっと涼しくなったような気がしていたが勘違いだった。まだまだ夏、普通に夏。
「今日は何描いてんすか?」
一段落ついたと思ったのか、ひょこっと一つ下の後輩君が絵を覗いてくる。ほとんど幽霊部員しかいない美術部で、私の唯一の後輩といっても過言ではない。
葉月真君。夏休みだというのに活動日には絶対に来る真面目な彼は、しかし案外ズボラだ。癖っ毛だから気づかれないとでも思っているのか、いつも軽い寝癖をそのままにして学校に来ている。地毛だというやや明るめな茶色い髪は、現在扇風機によってふよふよ揺れていた。
真君の目は、自他共に認める美少女な私が羨ましくなるくらい綺麗な形をしている。その目が私の絵を認めて、ぱちりと瞬かれた。
「……なんですかこれ?」
「んー、わかんない。何に見える?」
ちょっとの沈黙の後、「森?」と当たらずとも遠からずな答え。外から聞こえる蝉の合唱とあいまって、なんとなく間抜けだ。
くすくす笑って、ぶっぶー、とわざとらしく口でブザーを鳴らす。
「えー、はずれっすか? ってか先輩もわかんないって言ったじゃないですか」
「わかんないけどわかるんだよ、自分が何を描きたいのかはね」
「……そんなもんですか」
これ以上聞いても無駄だと思ったのか、納得したような言葉を吐いて、じっと私の絵を見つめる。
真君は私の絵が好きだ。どこがそんなにいいのか私にはさっぱりだけど、まあコンクールで何度か入賞する程度の実力はあるらしいから、何かが彼のツボにはまったのかもしれない。
二年前、私が一年生だったときの文化祭の展示を見て、真君は私のファンになってくれた。『先輩の絵を見て、この学校来たいって思ったんです』なんて、今よりはマシにセットされた髪で、今よりもちゃんとした丁寧語で、彼は言った。真剣な顔だった。
馬鹿だなぁ、と私は笑ってしまった。高校選びは人生でも重要なターニングポイントだ。それを私の絵なんかで決めてしまうなんて、何を考えているんだ、って。
まあ、学力も合っていたようだし、進学実績もそこそこある学校だ。決め手としては私の絵で十分だったのだろう。そう思うとなんだかちょっと照れくさい。
「陽本先輩、なんか機嫌悪いっすか?」
二年前のことを思い出してぼんやりしていると、真君が唐突に訊いてきた。
相変わらず鋭いなぁ、とぎくりとしながら、なんてことのない顔を装う。
「……いや、別に?」
「嘘でしょ。下書きなしで描き始めるときって、大抵あんた何かあったときじゃないっすか」
なんですかこれ、と戸惑っていたようにしていたのは、どうやら様式美的な何かだったらしい。それなら最初から直球で訊いてくればいいのに。
「言ったらたぶん君は困るけど、それでも言わせる?」
「あ、わかりました。察しました。大丈夫っす。ノーサンキュー」
「No, thank you、ね」
「……相変わらず発音上手いっすね」
「お褒めいただき恐悦至極。ま、端的に言って、フられたよね」
真君が動きを止める。数秒後、そりゃー、とゆっくり口を開く。「そりゃー、お気の毒様です」お気の毒なんてこれっぽっちも思っていなさそうな声で、彼は言う。じゃあどんな気持ちがこもっていたかといえば、たぶん安堵、なのだろう。
私だって悲しいわけじゃない、つまり慰められたいわけではなかったからいいんだけど。それにしたってもっと気のきいたことが言えるんじゃないのか、とむすっとしてしまう。
フられた、といっても、一方的ではなかった。……元々、最近あんまり気持ちよくなかったんだよね。社会人であるその人には、女子高生に手を出すという多大なリスクを負ってもらっていたし、相手がもうやめようと言ったら、続ける理由はない。その人じゃなければいけない理由なんて一つもなかったから、セフレ解消の申し出にためらうことなくうなずいた。
……だから機嫌は悪くない、とは思うのだけど。なんとなく変な気持ちがあるのも確かで、真君はそれを察したのだろう。
「今、その、あー……そういう関係の人、何人でしたっけ」
「一人減ったから、二人かな。っていうかセフレも言えないってさすが真君。ただの言葉なんだから恥ずかしくないでしょ、セフレ、セックスフレンド、はい、repeat after me」
「セクハラっす!!」
「一文字目しかあってないじゃん」
「いや繰り返す気まったくねーからな!?」
つまんないのー、と唇を尖らせれば、雑な丁寧語さえ取っ払った真君は疲れた顔でため息をつく。私のほうが変で、彼の反応はもっともなものだとは理解しているが、それとこれとは話が別だ。つまらない。
けれど彼の耳が赤くなっているのに気づいて、ちょっと溜飲が下がった。もっといじめれば顔まで真っ赤にしてくれるのはこれまでの彼とのやり取りでわかっているけど、今日はいいや、なんとなく。
「なんであんな綺麗な絵描く人がこんなクズなんだろ……」
ぼそりと吐かれた言葉にほんの少し唇を尖らせる。
「ひっどーい。成績優秀、無遅刻無欠席、おまけにこんな美少女でおっぱいもおっきい。問題点は複数の男の人と性的関係を持ってることくらいでしょ」
「それが他のすべてをふっ飛ばすくらい大問題なんすけど!」
「えー、でもちゃんと人は選んでるし、多くて一度に三人までしかセフレ作らないし、そこまで言うほどでもなくない? 真君も気持ちいいこと好きでしょ?」
「だっ、れが!」
動揺する真君の顔が赤くなってくる。ありゃ。今日はいいや、とか思ってたけど、そんな顔されるとやっぱりいじめたくなってしまう。
「ちなみにこの前めでたくGカップになりました」
「何がめでたいんすか!?」
「Hカップくらいからは現実味なくなるけど、Gカップって丁度よく感じない? 十分おっきいし」
「…………」
「……真君のえっち」
「はあ!?」
ハートマークがつきそうなくらい甘い声で言ってあげたのに、お気に召さなかったようで。
「童貞君なら今ので勃ったりしないの?」
「もうやだこの先輩……」
「えー、ごめんね? お詫びにおっぱいさわっていいよ?」
「もうやだこの先輩!!」
「あっはっは」
そして真君、童貞君を訂正しないんだね。知ってたけど。まあこの歳だとたぶん童貞のほうが多いだろうし、今日はこれ以上童貞君っていじるのはやめとこう。嫌われちゃったら大変だ。
日々こうしてセクハラを受けても、ちゃんと活動日には部活に来て私に近寄ってくるのだから、偉いと言うか学ばないというか。嫌な思いをしても私の絵がそんなに見たいのか、と考えると、悪い気はしない。むしろいい気分だ。
「やっぱ割烹着だと私のお色気作戦も意味なしかー」
「や、」
真君が口を開けたまま黙る。……や? それはもしかしなくとも、いや、という否定的な意味ですかね?
へえ? とにっこり笑うと、逃げるように自分のキャンバスの前まで戻ってしまった。何事もなかったかのように筆を取り、真君は絵を描き始める。
仕方がないので私から近づいてあげることにした。
「……そこ、もっと影強調したほうがいいんじゃない?」
「あ、そうすか?」
「うん。緑で入れなよ」
「……今日、なんか緑好きっすね」
そういう気分なの、と笑って、私はしばらく立ったまま真君の隣で彼の絵を眺めた。よくも悪くも、優等生な絵。決して上手くないわけではないし、むしろ上手いほうなのに、見ていたって心は惹かれない。たぶん真君だって気づいていて、だけどそれでも、彼は描くのだ。実際、入学当初と比べればマシな絵を描けるようになってきている。
今真君が描いているのは、色とりどりな果物、野菜。華やかだし構図も面白いのに、どうしてここまで、ふーん、という感想しか持てないんだろう。単に私の感性の問題だろうか。
真君の手が、筆を動かす。画面が色づいていく。それを見ていると、なんか。……ムラッとした。
「ねえ真君?」
なんすか、とこっちを見た真君に顔を近づけ――られなかった。「うおぉ!?」と悲鳴を上げた真君が、筆でガードしたからだ。さすがに顔が絵の具で汚れるのは嫌で、しぶしぶ元の体勢に戻る。
「い、いいいい、いま、今!」
「キスしようとしただけじゃん、けち」
「はあ!? 何盛ってんすか!? 相手俺ですけど!?」
緑の絵の具がついた筆を両手で握り直して、ぐいっと更に突き出してくる。赤く染まるかと思った顔は、むしろ青ざめているように見えた。うわぁ、本気で嫌がられてる。
ごめんごめん、と軽く謝っても筆はそのままだった。これはちゃんと謝らなくちゃいけないだろうか。
けれど続いた言葉に、謝る気は綺麗さっぱり消えてしまった。
「そっ、そもそも、こういうのは好きな人同士がやるもんっしょ!?」
「……さっすが童貞君だわぁ」
イラッとして、嫌味ったらしく再び『童貞君』と呼んでしまう。
――好きな人同士。当然のようにそう言い、実際にそう思っているだろう真君に、甘いなぁ、と心の中で悪態をつく。なんて甘い幻想。私と真君ではものの考え方が違うのだから、苛立っても仕方ないのはわかっている。世間一般からしたら私のほうが『間違っている』『おかしい』のもわかっている。
でも別に、そんな関係じゃなくたってやっていいじゃないか。気持ちいいもん。この世で本当に好きな人同士でキスをしている人がどのくらいいることか。交際も結婚も、最初はどうあれ結局は妥協や惰性になっていくのだ。そうならない人たちもまあ、それなりにはいるだろうけど。
「……でも、キスしてみたいと思わない? ついでに筆下ろししてあげてもいいし。気持ちよくさせてあげれる自信あるよ。ね?」
苛立ちを隠して微笑む。
「何がね? だよ! 可愛く言えば許されると思ってんすか!?」
文句を言いつつも、私が本気ではないことは察したらしい。真君は筆をパレットに置いて、ガードするのをやめてくれた。
「あ、今の可愛いって思ったんだ? へーそう、そうかー」
「なんすかもう!!」
「んー、なんていうか」
ぎゃーぎゃー怒っている彼の左手をそっと両手で包む。あ、もう警戒されてる。信頼ないなぁ。警戒と怯えを含んだ目でこちらを窺ってくる後輩君に小さく笑って、その手に頬をすり寄せる。私は顔に汗をかかないタイプなので、嫌がられることもないだろう。
途端に「なにするんすか!?」とぼっと顔が赤くなったのが面白い。
頬から唇へと顔を滑らせて、ちろ、と軽く手の甲を舐める。汗のせいかちょっとしょっぱい。ますます赤くなる顔。最早文句さえ飛んでこない。頭真っ白になってるんだなー。手から熱が伝わってきて、本当に面白い――いや、可愛いなぁ、とくすくす笑ってしまう。
たったこれだけで苛立ちなんて霧散してしまうのだから、私ってチョロい。
「私よりよっぽど君のほうが可愛いよなって思ってね?」
「あ、うう、ちょ……せん、な、え、うぅぅ」
どこからどう見てもキャパオーバーしているけど、とどめを刺すことにする。
「かぁわいい」
甘ったるい声を出しながらもう一度その手に唇を押しつけると、後輩は撃沈した。具体的には凄まじい速さで私から手を救出して、力尽きたようにテーブルに突っ伏した。
おかしくてたまらなくって、思わず爆笑する。爆笑は大勢が大笑いすること? 正しい意味とかどうでもいい、一人でだって爆笑は爆笑だ。通じればいいのだ。
顔を上げた真君が恨めしげに唸る。
「……なんなんすか、ほんともう」
「だから、フられたって言ったじゃん。人恋しーの。慰めて、真君?」
「俺以外に適任がいるでしょーよ!」
……私が、今、慰めてほしいのは真君だけなんだけど。
なんとなくそれを言うのは恥ずかしくて、そうだね、とうなずくと真君は傷ついた顔をした。私の数少ない友達と同様に、真君も、私が好きでもない相手とそういう行為をすることをよく思っていない。たぶん今、それを勧めるようなことを言ってしまって後悔しているんだろう。
「……これは、持論なんだけどさ」
申し訳なくなんて思う必要ないんだよ、と伝えるために、おもむろに切り出す。
「好きな人同士でやれればそりゃーそのほうがいいんだろうけど、別にそこは問題じゃないと思うんだ、私。
この人でいい、じゃなくて、この人がいい、って人に出会えて、なおかつ相手にもそう思ってもらえるって、奇跡みたいなものなんだから」
真君から表情が消える。そのことに一瞬だけ戸惑ってしまった。だって真君は感情が顔に出やすくて、わかりやすい子だから。こんな顔を見たのは初めてだった。
何かまずいこと言ったかなぁ。
内心首を捻りながらも、まあいいか、とそのまま言葉を続けることにした。
「私はそんな奇跡、信じてないんだよ」
微笑む私に、真君はただ「そうすか」と呟いただけだった。