83.心の盾
フェールは、固まってしまっているアンジェリンに向かってゆっくり歩いてきた。
すぐに二人の距離は、手を伸ばせば触れるほどになった。
アンジェンは彼を直視できずにうつむいた。彼の琥珀色の目、黄金の髪。彼と別れても、その姿を思い浮かべない日はなかった。こうして実際に前の前にあるとやっぱりドキドキしてしまう。また会えた、という喜びすら感じている自分がいる。
今まで何度も訪れた別れの場面。彼がイガナンツ村の宿から姿を消してしまった時。瀕死の状態で城へ帰還した時。サイニッスラへの二度の訪問の時。
そのたびに涙を流し、こみ上げる胸苦しさを押し殺してきた。
今、再び、彼が目の前にいる。
「ひ──」
『卑怯です! 盗み聞きなんてひどいです!』と言いそうになり、うっかり『ひ』と口から声が出てしまった。国王に対して卑怯だと批判することは無礼だと気が付き、途中で口を閉じたがもう遅かった。
フェールは『はあ?』と言いたげな顔になった。
「『ひ』? 何を言っている」
「えっと、あの……ひ……ひ……【瞳】で【一言】だけ言うなら……」
フェールはプッと噴き出して笑った。
「ここで駄洒落か。意味不明だが面白かった。駄洒落を考えるのは後でよいから、今はまじめな話をしよう」
「すみません……」
フェールは、ひきつった顔で立っているアンジェリンの正面に立った。
「まずは私も王として謝罪させてくれ。前王である我が父は、王としてあるまじき行為をした。ニハウラック家虐殺のことは、私も王位を継承するときまで知らなかったのだが、父の命令だった可能性があるらしい。これは王家として決して放置しておいてはいけない問題だ」
フェールは深く頭を下げてアンジェリンに謝罪をした。
「あのう、謝罪と言われましても、私、まだ知ったばかりで……」
「謝ってもそれで終われる問題ではないと承知している。だから、自分にできることをやるつもりだ。いつか必ずサイニッスラ事件を明るみに出してみせる。すぐには無理かもしれないが」
会話が途絶えた。
フェールは静かにアンジェリンの顔を見下ろしていたが、やがて距離を詰め、両腕を大きく開いてアンジェリンをゆるく抱擁した。アンジェリンは抵抗できずフェールの腕に包まれた。
抱き寄せられた心臓がトクンと鳴る。
ほんのり香る彼が付けている香水。昔と同じ匂いがした。胸の鼓動はどんどん高まってしまう。
「アン……また会えたな。私は本気でおまえと別れる覚悟をしていた。今後おまえに会うことも、ウィレムを抱くことも、二度とできないだろうと思いながらサイニッスラまでの夜道を馬で駆け抜けた。だが、私たちは結局別れることはできず、お互いの想いが露呈しただけだった」
「……」
「口でどう言われようとも、おまえがどれほど私のことを思ってくれているかがわかってしまった。おまえは私のために、私を必死で突き放そうとしていたな。だが、気持ちに嘘はつけまい。おまえはこんな怪我までして」
フェールは抱擁を解くと、アンジェリンの片手を取った。アンジェリンの手は、包帯は外していたが、この前滑落したときにできた擦り傷が、かさぶたになっていくつも残っている。
フェールは足元に目をやった。
「足のねんざの具合はどうだ? 立つことにはできるようだがまだ痛みはあるだろう」
「だいぶよくなりましたから、ゆっくり歩けば大丈夫です」
「怪我は私のせいだ。それに、私のあさはかな行動のせいでおまえの存在が多くの者に知られてしまった。私はおまえが生きていると聞いて、少々浮かれていたのだ。結果、おまえとウィレムをこのまま放置しておくことはできない状況に追い込んでしまった」
「サイニッスラに戻ってはいけないのですね……」
「戻らなくていい。おまえはずっとここにいればいいのだ」
「薬草を作っていたんです。薬師になろうと思って」
「それはロイエンニから聞いた。薬草を育てたいならこの城の庭でもできる。薬師になるための勉強をしたいというならば、それなりの師を連れて来てやる」
フェールの腕が再びアンジェリンを抱き寄せ、指が髪を撫でた。
あの旅の間中、毎日傍で聞こえていた低い声がささやいた。
「アン、愛している。何度でもくどくど言おう。おまえを愛している。おまえが死んだと聞かされても、おまえが私を嫌って拒んでも、私はおまえを愛することをやめられそうにない。これは生まれた時から定められた運命だと私は確信している」
「ディン……」
――私もあなたが。あなたのことだけを。でも。
ザース王子の静かな瞳がどこかから見ているような気がした。
――いけない、わきまえないと。
アンジェリンはフェールの胸をそっと押して数歩下がり、彼の抱擁から離れた。
「国王陛下として冷静にお考えください。駄洒落を言うだけなら、別の方でもきっとできます。だから……」
つらい言葉を口にすることは少しだけためらった。
それでも、彼のことが大切だと思うならばきちんと言わないといけない。声が震えないように呼吸を整える。
「ディンは私なんかよりも後ろ盾のある方を迎えられた方がいいと思います」
フェールの瞳がかすかに揺らいだ。
「どうしても私とは結婚できぬ、と言うのか?」
アンジェリンは無言で首を縦に振った。
――あなたを失いたくないから。あなたを守れないから。
「なぜだめなのだ? おまえの気持ちの深さを私は知っている」
「どうかっ、お察しください。私はあなたの足を引っ張ることしかできません。このままサイニッスラにいては危険と仰せならば、ウィレムと二人でどこか遠くへ行き、生涯身を隠すことをお許しください。遠い外国へでも行きますから、絶対に追いかけてこないでください。他に私にできることは何もないんです」
アンジェリンは半泣きで必死で首を横に振った。もう心はくじけそうだ。見上げればフェールの顔も泣きそうになっていた。
「おまえがいない間の私はずっと心が死んでいた。やっと生き返った気がするのに、また谷底に突き落として殺す気か?」
「そうではなくて、たとえ離れてしまっても、あなたが生涯、元気で幸せに暮らしてくれるならそれで私は幸せなんです。私はどうがんばってもあなたを守れません」
「いや、それは違う。おまえは私を守ることができる」
「いいえ、そんなの無理です。私には国王陛下をお守りできるような財力も人脈もありませんから」
「財力や人脈など、なくてもかまわない。おまえは私の盾になれる」
「盾?」
「私の心を守れる盾だ。その盾はここにある。世界にたった一つしかない貴重品だ」
フェールがアンジェリンの顎に手をかけた。
アンジェリンは次に来る彼の行動を予測して、無意識に息を止めていた。体はよけいに熱くなってしまう。心臓が大きく動いてドクンドクンと脈打っている。彼の唇、彼の腕、彼の胸。限界が近づいている。
彼の唇はアンジェリンの唇に付きそうな距離になった。
真直ぐに見つめてくるフェールの琥珀色の瞳とぶつかる。心が嵐の風のように渦巻く。自分の心は自分が一番よく知っている。真実を知った驚きからはまだ立ち直れていなくても、自分の心は元々ひとつのところにしかない。捨てきれない思いはいつでも心の奥底にのさばっていて追い出すことができなかった。選ぶ道は最終的にはひとつだけ。
「おまえは私と離れて平気なのか?」
「平気じゃないですけど、ディンが危険な目に遭ってしまったら平気でいられないじゃないですか。それなら離れた方がましだと思っています」
フェールは至近距離のままで急に笑い出した。
「お互いに滑稽だな。ずっと同じようなことばかり言っている」
「……そう……でしょうか……」
「意地を張るのはもうやめよう。私はおまえを愛しているし、おまえは私を愛している。これから一緒に過ごす理由が必要ならば、それだけで充分だろう。結婚しよう」
「私が王妃様では不快に思う方が大勢いらっしゃるはずです」
「結婚に反対する者がいるならば、全力で説得してみせる。そなたの身分には何の問題もないのだからな。他にどのような問題があるというのだ」
「……なんだかもうよくわかりません。王妃様になってはいけないと自覚しているだけです。でも傍仕えになっても迷惑がかかります。どっちも無理なんです」
アンジェリンは正直に答えた。フェールは息がかかるほど近くにいて、まともに頭が働かない。
「アン、何も気にするな。私を愛してくれ。私は生涯、おまえだけを愛すると誓うから」
彼がさらに近づいた。
「ディン……」
「逃げることは許さぬ」
唇が押し付けられるように合わさると、不安が激流に流されるように消えていった。
――ディン、どうしようもなくあなたが好き……。ザース様、お許しいただけますか? 危険でも共にありたい。この人と一緒に生きてゆきたいとやっぱり私は思ってしまって。
アンジェリンは温かいフェールの唇に溺れた。こぼれた涙もフェールは唇でぬぐってくれる。たったこれだけのことで、締め上げられていた心が弛められていく。
唇を離したフェールはアンジェリンを骨も折れんばかりにきつく抱きしめた。
「おまえは美しい。その姿は私を狂わせる。誰にも渡したくない。渡すものか」
息ができないほど強く彼の胸に顔を押し付けられる。アンジェリンは自然に顔をうずめていた。
「ウィレムと三人で幸せになろう」
「……っ……」
――愛しいあなた。私だけを見ていてくれるあなた。
「おまえを妃に迎えたことで私を笑いものにするようなやつは、絶対に許しはしない。これでもまだ意地を張る気か?」
フェールの両手がアンジェリンの頬を大きく包んだ。
「答えろ。私と一緒にいることが苦痛か?」
「いいえ……一緒にいるとうれしくて……幸せすぎて怖いです」
「不安はどんな結婚にもつきもの。私だけを見ていてくれればそれでよい」
再び唇が重なり合った。口づけが深く入り、アンジェリンがよろめくと、フェールはアンジェリンの腰をしっかしと支えてくれた。
背に当てられた彼の手から伝わる熱。抑えきれないときめきで心臓が大きな鼓動を打つ。
「これでも私と離れた方が幸せだと信じているのか」
「……いえ……」
「私の妃になれ」
「……それは……あの……」
「返事は?」
「……こんなの、断れるわけがないじゃないですか。ず──」
ずるい、と言おうとしたが、それも無礼かと思い、言葉をひっこめると、フェールはまた笑い出した。
「今度は【ず】か。この場面で駄洒落を考え中とは、相変わらず変な女だ」
アンジェリンは泣き笑いした。もうやけだ。適当に駄洒落にする。
「私も【ずる】く【ずるずる】引きずっていて……本当にこんな私でよいのですか?」
「それでいいと言っている。おまえは私の妃となり、私の心を守る盾として一生傍にいるのだ」
「……はい……ディンと……結婚します」
一生を決める返事は小さな声しか出なかった。他の選択肢はきれいさっぱり消えてなくなっていた。
フェールはさわやかな笑顔を見せた。
「やっと承知してくれたか。この憎らしくかわいい口は時におかしな駄洒落を言うが、とんでもないことを言うときがある。あのマニストゥの家でのことは忘れぬ。おまえは私を守るためにイルカンの恋人になってもいいと言ったな。この悪い唇には蓋が必要らしい」
「んっ……」
再び重なる唇。夢中になって応える。アンジェリンはフェールの背に回した腕に力を込めた。彼は痩せたと思うが、それでも背中は広かった。
──お妃さまになる道は間違っている? それでも私はこの人の心の盾になりたい。もう迷わない。迷えない。
唇を離したフェールは、熱い衝動を抑えるように軽い溜息を付いた。
「このままおまえと眠りたいところだが、あいにく、今日は決済書類がたまっていて夜遅くまでかかるから、今宵はおまえと遊んでいる暇はない。明日、できるだけ時間を取れるようにするから、帰らずに待っていてくれ。ウィレムはロイエンニとターニャにまかせて、二人だけでゆっくりしたい。明日、時間が空いたらすぐに連絡するから私の部屋へ来い。せっかく久しぶりに会えたのだから、たっぷりおまえと」
さらっと言われる誘い文句に、アンジェリンは自分が少女のように頬を染めてしまっていることに気が付いた。
「今日の午後の会議でおまえを正式な婚約者として、ウィレムを第一王子として紹介する」
「今日! ちょっと急すぎませんか?」
「急だと思うが、婚約者となれば、きちんとした護衛を明日からでも大勢つけることができるし、おまえが私の部屋にいることをあれこれ言う者はいなくなる」
アンジェリンは顔を火照らせたまま頷いた。結局、依然と同じように妃に望まれ、そして、今度こそ本当に彼の妃になる。急すぎて目が回りそうだが、安全面での現実を考えれば、他に万全な安全策もない以上、たぶんさっさと話を進めた方がいい。
「とりあえず、おまえを皆に紹介するときに、サイニッスラ事件の件には触れず、出自だけを明かしてみる。それで誰がどう動くか。かなりの危険は伴うぞ。だが、これからは私が一緒だ。母もロイエンニたちもいる。おまえはひとりではない」
アンジェリンは覚悟を決めて愛する男の顔をもう一度しっかりと見つめた。
フェールはアンジェリンの肩を抱いたまま、窓辺に向かった。
ガラス窓越しに外を見ると、広い中庭に作られた小道を、小さな男の子がよちよちと進んでいる。それに従うように、大人数人が付いてゆっくりと歩いている。所々に植えられている木々と白花の花壇の間を縫うようにゆるやかな曲線を描く道。微風が花と葉先を揺らしている。
ターニャがウィレムに帽子をかぶせようとして失敗。ウィレムは青い布帽子をぽいと後ろに捨ててしまった。笑いが起こり、ターニャが仕方なく帽子を拾っている姿が見える。
「ウィレムは帽子が嫌いなのか。サイニッスラでもかぶっていなかったな」
「その日の気分次第です。あの子が生まれたことを長く報告しなくて、すみませんでした。ディンにも王太后様にも、あの子の一番かわいい時をたくさんお見せできなくてごめんなさい。私、本当にディンに対して残酷なことをしてしまいました」
「終わったことは気にするな。見ろ、母上が声を出して笑っているぞ。私の前ではいつも不機嫌そうでめったに笑わない人なのだが」
アンジェリンはフェールの横顔を見て、温かい気持ちになった。
──ディンも笑っている。
フェールはアンジェリンの肩を抱いたまま、幸せそうに口元を弛め、愛しい息子を見つめ続けていた。
アンジェリンも一緒に息子の姿を追った。
ニハウラック家のことを知ったばかりで、心の整理はすぐにできそうにない。ターニャが語った両親の凄惨な死に様は心の芯まで持っていかれた。ヘロンガル家のことは恐ろしい。マニストゥもうろついているようだ。そして、結婚を決めたことに対し、ザース王子はあからさまな不快感を示すことだろう。フェールにあこがれていたかつての侍女仲間のココルテーゼも、きっと嫌な顔をするに違いない。アンジェリンに求婚していたレクトも傷つくだろう。
──それでもディンと一緒にいれば、私は不思議と安心してしまう。どんなことがあっても、きっとどうにかなるわ。
「【陛下】に【平和】をいただいてもいいのですね?」
フェールはにやりと唇を横に伸ばした。
「もちろんだ。おまえが私に【平穏】をくれるからだ。今後は心に【塀】をつくるなよ」
「お話はまとまりましたか」
しばらくしてから室内に入って来たマナリエナたちは、頬と唇を染めて寄り添うフェールとアンジェリンの様子をみて、満足そうに微笑んだ。
「わたくしたちはおめでとう、と言ってよいのかしら?」
フェールはにっこりと、それも、これ以上ないというほどのいい笑顔で応えた。
「アンジェリンを妃に、ウィレムを第一王子として迎えます」




