82.真実は重く悲しく(2)
その名に、アンジェリンは息を止めた。
エフネート・ヘロンガル。元警務総官で、シドの父親。前王の妹を妻に持ち、フェールの叔父にあたる男。シドと同じ黒い髪で、切れ長の青い瞳は鋭く冷たい。
アンジェリンが牢獄に入れられたとき、エフネートが『すべての罪を認めればロイエンニを解放してやる』と言ったことを思い出した。
アンジェリンはターニャに確認した。
「エフネート様がそんなところに? 見間違いではなくて?」
「その時間にはすでに外は暗くなっていましたが、間違いありません。エフネート様は惨劇の数日前、ヘロンガル家の大旦那様、ベリオン・ヘロンガル様と一緒に本宅の方に訪問なさったばかりでしたので、私はしっかり顔を覚えておりました。それに切られた若奥様が『エフネート様! どうして』と大声で叫んだのです」
マナリエナが説明を補足した。
「当時、ヘロンガル家とニハウラック家は政敵関係にありました。その対立は日ごと激しくなり、貴族会議は空転。事態を憂慮したニハウラック家側の申し出により、内密に両家の中心人物たちだけでの会合の場をもうけたらしいのです。サイニッスラの火事の数日前にニハウラック家の本宅で開かれた会合で、何が話し合われていたのか、今となっては誰にもわかりませんが、おそらく会合では合意に至らなかったのでしょう」
室内の空気はピンと張りつめ、誰もが出すべき言葉が見つからず、背を丸め、視線を落としている。緊張した雰囲気を破るようにウィレムが「あー」と声を上げた。一瞬、場はなごんだものの、すぐに皆硬い表情に戻った。
ターニャは話を再開した。
「そして、たった一人で数人を相手にしていた若旦那様は、エフネート様が仮面をはずした直後、驚いた隙を突かれて、背後から複数の者に頭を殴られて倒され、その体に油のようなものをかけられた上に火を放たれて……断末魔の悲鳴をあげられたのでございます。それは、生涯耳に残る恐ろしい声でした。私が若旦那様の姿を見たのはそれが最期でした」
「私の父はそんな殺され方をしたの……」
ターニャは涙をこぼしながら頷いた。
「私と若奥様は、火だるまにされた若旦那様を見て絶叫しました。若奥様は『ナタン』と叫んで飛び出そうとしましたが、私がそれを引きとめました。外へ出たら殺されると思ったんです」
惨状を語るターニャに、マナリエナも下を向いて目頭を押さえている。アンジェリンもあまりの恐ろしさに自分の顔から血の気が引いた気がした。
「室内へ戻った若奥様と私は、若旦那様の絶望的な状況に号泣して、二人でよろめきながらも、地下室へ向かおうとしました。地下室なら安全かもしれないって考えたんです。その時点では、室内の燭台にはまだ火が灯っていて、廊下は薄い煙が流れている程度だったので、歩くことはできました。若奥様は若旦那様の名を何度も口にして、ずっと泣いておられたんですよ。『ナタンは死んでしまった。あんなに燃えていたら助かるわけがない。どうしようもなかった……助けられなかった……』と泣かれて、私は何も言えなくて……」
ターニャはあふれてきた嗚咽に耐えられなくなり、話が中断した。
アンジェリンはターニャの震える肩に軽く手を当てた。
「すみません、お嬢様」
ターニャは涙を擦り取ると、再び話し始めた。
「地下室へ向かう途中で、若奥様の具合が悪くなってしまったんです。きっとたくさんの血を流しすぎていたんですよ。若奥様は地下室への階段を下りかかったところで一歩も動けなくなって、階段に座り込むように倒れると、かすれた小さな声で『リーザ……』と何度も名をつぶやかれて……目を開いて、私が抱くお嬢様を見つめ、その小さな手を握ったまま息を引き取られました。唇からゴボゴボと血が……ああ、どうしてあの光景を忘れることができましょう」
ターニャは、ワッ、と声を上げ、両手で顔を覆った。
「お嬢様、お許しください。若奥様の目を閉じてさしあげることなんか、若すぎた私にはできませんでした。私は若奥様をそのままにして捨てて逃げたのです」
アンジェリンもこみ上げてきた涙を指でぬぐった。生みの母は、娘の名を呼びながら逝った……もしも、自分が幼いウィレムを前にして動けず死ぬような状況になったら。頼るべき夫は目の前で残酷なやり方で殺されて……母はどれだけ恐怖と悲しみを感じ、そして心残りだったか。炎が迫る中で頼れるのは勤め始めたばかりの年若い使用人一人だけだったとは。そんな大変な事件があったというのに、自分だけが何も知らなかったのだ。真実を知るターニャたちに見守られながら育って。
「私はそのまま地下室にいるのに耐えられなくなって、持っていた毛布でお嬢様を包み、再び煙の中へ飛び出しました。煙がどんどん濃くなってきて、地下室が安全とは思えなくなってきていたんです。運よく、まだ火が回っていなかった部屋の出窓から飛び出して火事から逃れたのですが、屋敷の方からは恐ろしい悲鳴が何度も聞こえてきて……っ……私はがまんできずに木の影から屋敷の方を見てしまいました。あまりのことに私はしばらくその場から動けませんでした」
またしてもターニャは号泣して、しばらく話ができない状態になったが、誰もせかすことなく待つ。マナリエナがお茶を勧めると、ターニャは少し落ち着いた。
「私と同じように火事から逃れて外へ飛び出した人たちが、仮面の武装集団に襲われて、追い回されたあげく、瀕死にさせられ、火の中へ投げ捨てられていたんです。若旦那様と同様に油のようなものをかけられてその場で火だるまにされていた人もいました。夜の庭先には、人の形をした赤い炎がいくつものたうちまわっていました。付近は人が焦げる臭いでいっぱいで、私は吐きそうになりました」
「ひどい……」
「身の危険を感じた私は、眠るお嬢様を抱いて、馬車道を避けて、真っ暗な山へ向かって道のない斜面を登って逃げました。灯りのない山中で背後は敵と燃え盛る家。それはもう、恐ろしい逃避行でございました。山中には凶暴な野獣がいるとわかっていても、とにかく逃げるしかありません。北へ向かって山を超えれば、私の村へ行きつくことができます。途中で方向がわからなくなっても、全力で山を登り続けました」
「そうだったの……ターニャ、本当にありがとうね……つらかったでしょう。ターニャのおかげで私は生きているのね」
「自分が生きるためでもあったのです。怖くて怖くて、無我夢中でした。そして、山中で夜明けを迎えた私は、山の見晴らしが良い場所に出て景色を確かめました。私の村が下の方の遠くに見えて、方向を間違っていなかったとほっとしたのですが、それからも大変でございました。お嬢様はまだ乳飲み子でしたから、村まで降りる前に目覚めて泣き始めてしまって」
「飲み物も着替えも持っていなかったのでしょう?」
「はい。仕方なく、湧水を口移しで飲ませようとしたのですが、いやがられて。若奥様は完全に母乳だけで育てておられて、離乳食もまだ進んでいなくて、何もあげることができません。私は途方にくれました。村まで下りればヤギの乳ぐらいはあるとわかっていましたが、村まですぐに行けるわけでもないですし。大声で泣かれて居場所を敵に知られてしまう恐怖に駆られ、私もお嬢様と一緒に泣きながら山を歩きました」
それからは、村へ無事に帰ったターニャが、事件から半年後にヴェーノ家へ行くことになるまでの過程が語られた。
「あの時、もしも、マナリエナ様に面会を拒絶されていたら、お嬢様は孤児を引き取る施設に入っていただくことになったと思います。あの毛布だけが唯一の身元証明品でした。若奥様は、この毛布はマナリエナ様から直接もらった品だとおっしゃって、とても大切にしておられたのです」
マナリエナが席を立ち、隣の部屋から思い出の毛布を持ってきて、アンジェリンに手渡した。
「それがターニャが持参した例の毛布ですよ。きれいに洗濯されていますが、よく見るとシミ跡も付いています。きっとジャネリアの血です」
アンジェリンは渡された毛布を膝の上で広げてみた。上質の薄手の生成りの毛布には、火の粉が飛び散ったような焦げ跡がぽつぽつついており、何かがこぼれたような薄黒いシミ跡も確かにある。刺繍部分は汚れておらず、花飾りがつけられた文字が確認できた。文字は大きくはないが、さまざまな色の糸で縫われ、文字列そのものがひとつの模様のように見える。
【おめでとうジャネリア あなたとリーザに祝福を マナより】
「マナというのはわたくしの愛称です。この毛布は、わたくしがジャネリアの出産祝いとして刺繍を施して手渡したものに間違いありません。ジャネリアはわたくしよりも先に結婚したのですが、五年近く子に恵まれず、わたくしに二人目ザースが生まれたころにようやく懐妊しました。その知らせに、わたくしも心から安堵したものでしたが……」
アンジェリンは刺繍の文字を何度も読み返した。胸が熱くなってくる。自分とそっくりだという真の母は、きっと笑顔でこの毛布を受け取ったに違いない。
マナリエナはアンジェリンを気遣うようにとてもやさしい口調だった。
「わたくしの元にターニャが来たときには、惨劇後半年が過ぎていました。そう、わたくしは半年間もあの火災が虐殺だとは知らなかったのです。ですが、前陛下は事件が起こることは事前に知っておられ、そして放置しました。これは王家の汚点。明らかな罪です。アンジェリン、わたくしは王家の一員として、リーザ・ニハウラックに正式に謝罪します。そなたには本当につらい思いをさせましたね。申し訳ありませんでした」
マナリエナはアンジェリンに向かって深く頭を下げた。
「王太后様……」
「事実を知っても今まで公表しなかったのは、そなたとターニャの安全を最優先したため。ヘロンガル家は全力でこの惨劇を隠ぺいしたのです。誰も告発できませんでした。わたくしですら何もできなかった」
マナリエナは、ニハウラック家と関係が深かった人々や、彼女が密かに事件の調査を命じた者たちが相次いで急死したことなどを語った。
「この城に残っている公式の記録は完全に改ざんされています。サイニッスラの火災の件は、台所からの出火によりあの別荘にいた全員が逃げ遅れて焼死した、ということになっていて、謎の武装集団がいたという記述はありません。大火事だったとしても、馬番や警備兵など外にいた者もいるはず。全員が火災で亡くなるなど、よく考えたらありえないことです」
「お嬢様、本当なんですよ! 私は本当に見たんですから、全員が火事で焼死なんて大嘘です! 故意に焼き殺されたんです、殺人ですよ!」
「ターニャ、落ち着きなさい」
マナリエナは、声が大きくなってしまったターニャをなだめた。
「アンジェリン、そなたにはニハウラック家の莫大な財を放棄させてしまったことになりましたが、わたくしはそれでよかったと信じています。リーザ赤ちゃんが生きているならば、誰が赤子を助けたのか、ということになり、徹底的に生き残りが捜し出され、事実を知る者は全員殺されたことでしょう。当然、わたくしも、ロイエンニも、ターニャも」
マナリエナは、当時のことを思い出すように目を細めた。
「ニハウラック家の財産の所有権を主張する者は現れず、あの一族は全滅したと世間に信じさせることには成功しました。財産相続よりもリーザが生きている方が大事です。だから、そなたは逃走した泥棒が捨てて行った娘、ということにして育てられたのですよ。下品すぎる両親で、探し出して話題にすることも汚らわしいと、そなたと世間に思わせるため」
アンジェリンはもう言葉も出なかった。ターニャはまだしくしく泣いている。
──これが私の本当の両親の真実……。私は逃走した下男の娘ではなかった……。
長年にわたり自分の間違った出自を悲しく思いながら生きてきた。しかし事情が事情だけに、泥棒の娘でなくてよかったと大声で笑うことはできなかった。
「そなたはこれからのことを考えなければなりません。そなたが王妃になってもならなくても、その身は安全ではありません。フェールが二度もサイニッスラへ行ってしまって、そなたとウィレムの存在を兵たちに知らせてしまった今、どう転んでもヘロンガル家に狙われることになるでしょう。ウィレムのことで後継ぎ問題が絡みますからね、身内から王妃を出したがっているヘロンガル家にとっては、そなたとウィレムは邪魔者以外の何物でもないのです」
「はい……」
「ヘロンガル家は今でも、邪魔者を平気で殺してしまう一族だということを覚えておいてほしいのです」
マナリエナは、ティアヌ・バイスラーの殺害の件にも触れた。
「もちろん、ティアヌの死にヘロンガル家が関わっていたという証拠はありませんよ。あくまでも想像ですが、ヘロンガル家の恐ろしさをそなたにもわかってもらいたいと思い、ティアヌのことを出しました」
息をするのもためらわれるほど空気は張りつめている。
アンジェリンは、ロイエンニの膝から降りたウィレムが室内を歩き回っているのを見て心を落ち着けようとしたが、心臓の鼓動は収まらず、頭まで痛くなってきた。口が渇く。
「私はどうすればよろしいのでしょうか」
「どれが一番正しい道なのか、わたくしにもわかりません。すべての真実、危険を教え、そなたに判断をゆだねるためにここへ呼んだのです。王妃になりなさい、とは私は言いません。どうしたいのかは、そなたが決めること。ただ、王妃になるならば、真の出自を明かすべきだとわたくしは考えています。黙っていてもそなたはジャネリアに生き写し。そのように着飾れば、誰が見てもジャネリアの関係者だとわかってしまいますから」
過去の重さに、誰もなにも言わずうつむいている。幼いウィレムだけが大人たちのそんな様子にまったく構わず、窓際に張り付いていた。
「王太后様、このことを知っている人はここにいる皆以外で他にいらっしゃるのでしょうか」
アンジェリンが訊ねると、マナリエナは「いますよ」と肯定した。
「ヴェーノ家の御者をやっているワウダイという男と、それからもうひとり。ジャネリアの母親、スティエ・コリューンがすべての事情を知っています」
「えっ! スティエ先生!」
「そうです、そなたの家庭教師をやってくれていたあの上品な女性は、そなたの実の祖母。夫人はとても学識高い女性で、今はエンテグア美術館の管理人をしてもらっています。あとで会いに行くとよいでしょう。美術館は、元はニハウラック家の本宅で、あそこには売却を免れてかき集められたニハウラック家の遺産が保管されています」
マナリエナは遠い目で語った。
当時、ターニャが連れてきた赤ちゃんを孫のリーザだと確認したスティエは、できることなら自分の手でリーザを育てたいと言って泣いていたという。しかし、リーザの命を守るため、祖母だと名乗ることも、共に暮らすことも諦めた。それで、リーザの家庭教師として定期的に会う道を選んだのだと。
アンジェリンは、あふれる涙をなかなか止められなかった。
ずっと黙っていたロイエンニは、感慨深げに瞳を潤ませて静かに娘を見た。
「マナリエナ様から養女の話をもらったとき、私はモカーヌに相談するからと、いったん話を持ち帰った。私は実は断るつもりだった。当時、私はまだ二十代前半で子育ての経験もない。それに空気の良いサイニッスラに資金をもらって家を建てるとしても、城の侍従職の私は頻繁にモカーヌと離れてしまうし、おまえのことを一日中見ていることはできない。だが、病を抱えたモカーヌはそれでもいいから母親になりたいと言ったのだ。私の家族になったおまえは、モカーヌの光となり、彼女に生きる力を与えてくれた」
ロイエンニは妻を思い出したようで、潤みっぱなしの目を瞬きした。
「おまえを預かった日、サイニッスラの秘密は必ず守ると、どんなことがあってもおまえを守り通すと、マナリエナ様に誓った。だから親戚にもおまえの出自を偽った。酷い両親の設定に苦しめられてきたことだろう。だが、盗人ぐらいにしておかないと、おまえが自分で勝手に人をやとって実の両親を探す可能性があると思った。許してくれ」
「お父様……そんなこと、もういいんです。私って幸せ者だったのですね。私は何も知らずに多くの人に守られていた。私のせいでお父様は御親戚の方とけんかになって……ごめんなさい」
「おまえは病に苦しむモカーヌに笑うことを思い出させて、暗い家にさわやかな風を吹き込んでくれた。おかげで、モカーヌは余命宣告以上の月日を生き抜いた。感謝の言葉を言うのはこちらだ。父と呼んでくれてありがとう。おまえの父親になれて私は心から嬉しく思っている。あの時断らなくて本当によかった」
「家族として迎えてくれて、ありがとうございました。これからも私はお父様の娘でいたい。ターニャも、今まで本当にありがとう」
アンジェリンが震える唇で礼を言うと、ロイエンニは軽く頷き、涙まみれのターニャも、うんうんと納得するように頭を振る。マナリエナも涙をぬぐった。
部屋の隅に控えている先ほどの女官もすすり泣いていた。それに気が付いたマナリエナは彼女を示して紹介した。女官はノーマという名で、元はニハウラック家の使用人だと言う。惨劇の直前まで長く勤めていて家の内部事情をよく知っていたから、ニハウラック家の遺産整理のさいに、マナリエナが手伝いを頼んだということだった。
「そなたが今身に着けているジャネリアの婚約式のドレスは、ノーマが保管しておいてくれたものですよ。生前のジャネリアたちのことを知りたいなら、後で彼女に詳しく聞くとよいでしょう。それから」
マナリエナは、戸口を守っている大男、ピツハナンデを手招きした。
「このピツハナンデもサイニッスラ事件の被害者の家族のひとりです。彼の父親は、当時、ニハウラック家所有の馬車の御者を勤めていて命を奪われました。まだ八歳だった彼は父子家庭だったため、身寄りのない子どもを預かる施設へ入れられましたが、わたくしが密かな追跡調査により、彼を拾い上げ、事実を知らせて戦士としての教育を施しました。いつか来たるべき正義の戦いの日のため」
アンジェリンの正面に立ったピツハナンデは、大きな体を曲げて挨拶した。
「リーザ様、共に戦いましょう。我々の大切な身内は、皆、サイニッスラの塚の中で物を言うことも許されずに泣いています。自分には体力と腕力しかありませんが、どんなときでも体をはってお守りすることをお約束いたします」
「あ、ありがとうございます……」
アンジェリンは礼を言うだけにとどめた。王妃の専属護衛となったこのピツハナンデも、特別な思いを抱きながら、恒例の王妃のサイニッスラ訪問に付いて来ていたのだろう。
自分だけが本当に何も知らなかったことが大きすぎ、周囲との温度差を感じる。どの道を選んでもこれから戦いになるとわかっても、まだそこまで気持ちが付いて行かない。
マナリエナはそんなアンジェリンにやさしく微笑みかけた後、決意を込めた顔になり、皆を見回した。
「ヘロンガル家は近日中に必ず動き出すでしょう。そこを利用して逆に彼らを捕えるのです。これは敵を誘う絶好の機会。心を引き締めて戦いに挑みましょう」
一同は真剣な顔で頷いていた。
「ところで、アンジェリン」
「はい」
「もうひとつ、大切なことを聞きたいのだけれど、そなた、フェールのことはどう思っているのです?」
「あの、それは……」
「もう愛していないのですか? いえ、最初から愛していなどいなかったから王妃にはなりたくない、無理ということ? だからフェールに子の父親ではないと言ったのですか?」
アンジェリンは、困ってしまった。
どう答えたらいいだろう。自信もなく、小さな声で返答する。
「母親になっても、陛下のことを思わない日は一日たりともございませんでした。共に旅をした危険な日々は、畏れ多くも思い出すだけで涙が出るほど幸せで……幸せすぎて怖かったです。最高の思い出をくださった陛下には、幸せになっていただきたいと願っております」
「フェール婚約のうわさを聞いたそなたは、縁が切れてすっきりしたと思ったのですか?」
「いいえ、そういう気持ちではなくて……陛下のお子を産んだからといって、私がお相手では陛下がお気の毒です」
「それでは何を言っているのかよくわからないわ。はっきり教えて。フェールを愛していますか?」
「……愛しています」
「今はどうなのです?」
「今も、変わらず、お慕いしております」
「今でも愛しているのね?」
「はい」
マナリエナは少し大きめの声を出した。
「フェール、聞こえましたね? 出てきなさい」
アンジェリンは悲鳴をあげ、飛びあがるように立ちあがった。
奥の部屋の扉が開かれ、見覚えのある顔が現れた。黄金の髪に琥珀色の目を持つ男が。
彼は魅惑的な微笑を浮かべながらアンジェリンに近づいてきた。
「陛下! ずっとそこに居られたのですか!」
「アン、馬鹿な男だと笑うがいい。おまえの真の気持ちが知りたかったのだ。誰が何と言おうとも、おまえは私にとってたったひとりの女性だ」
真っ赤になってうろたえるアンジェリンを見て、マナリエナは気を遣った。
「二人きりでこれからのことを話し合いなさい。他の者は庭へ出ましょう。フェール、どんな選択になっても彼女の意志を尊重すること。無理強いしてはなりません」
マナリエナは庭園への掃出しの窓を開け放った。ウィレムは喜びの声を上げて、明るい外へ向かっていく。その姿を、涙顔のターニャと感慨深げなロイエンニが追って出て行き、女官と護衛を連れたマナリエナもいなくなると、室内にはフェールとアンジェリンだけが残された。




