80.選択肢はふたつ
結局、フェールは完全に陽が上るまで寝入ってしまった。ハッ、と目覚めて窓辺に駆け寄ると、外の景色は明るい陽の色に満ちていた。用意された寝室には自分の他に誰もいない。
「しまった、寝すぎた。帰らねば」
アンジェリンと話がしたかったのに、待てずに熟睡してしまうとは、なんという失態。高原の涼しい夜は、暑くも寒くもなく、あまりにも心地よすぎた。
フェールが部屋から飛び出すと、廊下で待ち構えていたロイエンニが頭を下げた。
「おはようございます。お食事の準備が整っております」
「せっかく用意してもらったところを申し訳ないが、ただちに城へ戻る。食事をとっている暇がない」
「夜のうちに城へ使いをやりました。お迎えの兵が到着するまで、ゆっくりなさってください」
「それはありがたい。すまぬ、手間をかけさせてしまったな。アンジェリンは?」
「今、ウィレムに食事をさせているところでございます」
ロイエンニと話しながら食事を終えたフェールは、庭にある塚に案内してもらった。アンジェリンの両親が眠る場所。この塚の前で、アンジェリンにこの地で行われた虐殺の真実を話そうと決めた。
屋敷内からもよく見える位置に作られている巨大な土盛り。それがここであった虐殺の犠牲者たちが眠っている墓だった。腰の高さほどの大きな石が中心にひとつだけ置かれた土の塚は、椀をふせたような形の小山で、土が流れるのを防ぐため、足首ほどの短い丈の草で全体が覆われている。塚を囲むように植えられている樹木は二十年の時を経て、すっかり大きくなり、ほどよい日陰を提供していた。この塚の下に百人前後が眠っているのだとしたら、塚は作られる前は相当深い穴だったことが想像できる。
フェールは過去を想像しながら塚の前に跪き、死者への祈りを捧げた。
──私の治世のうちに、この地で起こった事件を明るみに出し、罪びとたちには重い罰を与えることを誓う。ここに眠る者の血を継ぐアンジェリン、いや、リーザ・ニハウラックとウィレムのためにも必ず。私は生涯リーザを愛し、守るためにできるすべてのことをする。この身がある限り。
気持ちの良い風が吹き渡る。ここが惨劇があった地だとはまったく想像できない。おそらく、当時はこの塚の周囲には埋められるのを待つ多くの遺体が並べられていたはずだ。叔父のエフネート・ヘロンガルは埋葬の現場も見ていると思う。どんな気持ちで自分が殺した大勢の人々の遺体をここへ埋めたのだろう。
幼子の声がして、フェールが屋敷の方を見ると、アンジェリンがよちよち歩きのウィレムをの手を引いて戸口に姿を現した。アンジェリンは墓の前にたたずんでいるフェールを認め、軽く頭を下げた。
フェールは、初めて見る息子が歩く姿に、思わず口元を弛めていた。
「ウィレム、ここまで歩けるか? 来い」
フェールは、身を低くしてウィレムに向かって両手を広げたが、ウィレムは庭先に飛んできた鳥に気を取られて、フェールには全く関心を示さない。フェールは苦笑いした。
そのうちに鳥がいなくなると、母子はフェールのところまでゆっくりと歩いてきた。
フェールは、アンジェリンが片足を軽く引きずっていることに気が付いた。彼女の手と肘にも包帯が巻かれている。
「おはようございます、陛下。ほら、ウィレムも陛下にご挨拶しなさい」
アンジェリンはウィレムの背を軽く倒すように押したが、ウィレムは何もせず、フェールを見上げているばかりだった。
「すみません、まだご挨拶がきちんとできなくて」
ウィレムを見るアンジェリンは母親らしく穏やかに微笑んでいた。フェールの緊張感は久しぶりに見たアンジェリンの笑顔で一気に吹き飛んだ。
「怪我は大丈夫なのか? 足を引きずっているように見えるが?」
「軽くくじいただけでございます。あとは擦り傷だけですから問題ありません」
「あのような斜面を滑り落ちても軽傷で済んだならば幸運だったな。夕べは先に眠ってしまい、話ができず、すまなかった」
「ぐっすりお休みになられたのならば、よかったです。お疲れがたまっておられたようでしたので、心配しておりました」
「疲れていても話はしたかった。おまえの真の両親のことを話さねばならないのだ」
アンジェリンの顔からえくぼが消えた。
「そのお話は……昨夜も申し上げましたが、陛下にお話ししていただくほどのことでもないです。生みの親のことは、私にはどうしもようもないことですから」
「いや、おまえは知っておくべきだ。おまえの両親はここに眠っているのだから」
ウィレムを見ていたアンジェリンは顔をあげ、フェールを凝視した。
「それは本当ですか?」
「私が嘘を言うと思うか?」
「あっ、申し訳ありません。これまでそのようなお話は聞いたことがなかったので、少々びっくりしました。では、私の両親はヴェーノ家を逃走してから、ニハウラック家の使用人になり、ここの火事に巻き込まれて亡くなったのでしたか。何年もここで暮らしていたのに知りませんでした。父は何も言ってくれなくて」
「何も知らなくて当然だ。彼らは火災で命を落としたのではない」
フェールは声を落とした。「この塚に眠っている者たちは皆、虐殺されたのだ」
「えっ」
アンジェリンの頬がひきつった。
「だから大声では言えない。王家は長年その事実を隠ぺいしてきたのだ」
そのとき、遠くから複数の馬の音が聞こえた。
フェールは遠目に見えてきた兵団に目をやった。
「時間切れか。迎えが来てしまった。今ここですべてを話している暇はなさそうだな。だが、アン、これだけは言わせてくれ。もしもおまえが生まれのことで私との結婚を躊躇しているならば、それは無駄な悩みだ。後日、おまえの両親がどうしてここに眠っているのかを母から説明してもらうように言っておく。それは人前では口にできない話だから、城へ一度来い。夕べの求婚の返事はその時に」
兵たちがフェールの姿を見つけて接近してくる。
フェールは早口でささやいた。
「おまえたちが安全に生きていくための選択肢は二つある。私の妻になるか、私の傍仕えになって城で暮らすか。この二つだ。その他の選択もあるが、できれば他は選ばないでくれるとうれしい。たとえば、ここでこのまま暮らす、あるいはレクト・セシュマクの妻になる、など、どれを選んでも安全とは思えぬ」
兵たちが近づいてくると、フェールは口を閉ざした。
迎えに来た近衛隊長は口を開くなりフェールに苦言をぶつけた。
「陛下! 我々を置いて夜におひとりでこのような辺境までお出かけになられるとは、危険でございます」
フェールは「忘れ物があったのだ」と告げただけでそれ以上は説明せず、軽く受け流してしまった。
近衛隊長も他の兵士たちも、興味津々の目でアンジェリンとウィレムを見ていたが、そこは王を守る一流の兵士たちの集まり。好奇心にまかせてアンジェリンにあれこれ訊いてくる者はいない。彼らは昨日の朝もここを訪れており、王とアンジェリンの様子からなんとなく状況を理解したようだった。
アンジェリンは兵たちの視線を感じ、フェールとウィレムの父子関係を否定することをあきらめた。フェールの面差しを持つウィレムが、フェールのすぐ横にちょこんと座りこんで石をいじっている。フェールはいとおしそうに目を細め、そんなウィレムを見ている。これでは誰がどう見ても、庭で幼い子供を遊ばせている親子にしか見えない。アンジェリンがいくら泣いてがんばって親子関係を否定しても、まったくの無駄な努力だった。この光景は大勢の人に無言で説明をしてしまっている。
兵士たちはフェールのところにやってきたものの、命令がないためそのまま立ち尽くしていた。彼らは、王が帰ると言うまでは動かないのだ。近衛隊長も帰城を促すことはせず、フェールが穏やかな笑顔で子供を見守っている姿を眺めている。
王に、情婦と隠し子との時間をゆっくり過ごしてもらう……兵士たちのそんな無言の気遣いがじわじわと感じられて、アンジェリンは赤くなった顔をあげられなかった。彼らから見れば、アンジェリンは王を一晩引き留めた女。夜中に密会しそのまま宿泊。朝まで何をしていたのかと、人々が考えることは大体同じだ。実際には何もなかったが、そういう目で見られると、とんでもなく恥ずかしかった。
フェールは楽しそうにしていたが、いつまでも子供と戯れていることはなく、命令を待つ兵士たちに声を掛けた。
「皆も少しだけ休憩せよ。馬にも水をやって休ませてやれ。落ち着いたら出発する」
小休止の後、兵士たちと一緒に来た王家専用の馬車が屋敷の玄関前に付けられた。屋敷の一同が帰路につく王を見送るために皆玄関に並ぶ。
フェールはウィレムを抱いたアンジェリンの前で足を止めた。
アンジェリンはただ深く頭を下げた。
「アン、そのように苦しげな顔をするな。王都でまた会おう。よい返事を待っている」
フェールは隠しもしない言葉を投げると、馬車に乗り込んだ。
兵たちに守られた王の馬車は、サイニッスラの地から遠ざかって行った。
フェールの一行がすっかり見えなくなってしまうと、アンジェリンは抱いていたウィレムをさらにギュッと抱きしめた。そうしないと冷静でいられない気がした。彼が先ほど言っていた『虐殺』という言葉が胸に焼き付いている。そこの塚で眠っている人々はみな、殺されたというのか。そして、その中に実の両親が混じっていると。真実を知りたいが、それは、決して開けてはいけない毒物が入った壺の蓋を開けるようなものだった。ロイエンニにその事実を訪ねる勇気はない。
ロイエンニたちが屋敷に入ると、アンジェリンはウィレムを塚の前に連れて行き、二人で座り込んだ。
「私のお父様とお母様はここにいらっしゃるの? 殺されたから私に会いに来られなかったの? 盗人ではないの?」
すべてを知りたいが、やっぱり知りたくないような。
両親が泥棒でなかった、とフェールが言ったことは本当だったらそれはうれしい。だが、きっとそれは間違いで、フェールは勘違いしている。ロイエンニの妹がこの家に来たときに、はっきりと『アンジェリンは盗人の子ども』だと言っていたのだ。
──どんな真実でも、文句を言ってはいけないわよね。お父様にこんなに大切に育ててもらったのだから。
両親のことも気になるが、それよりも──。
彼の熱い求婚の余韻がまだ抜けない。
『アン、結婚しよう』
あれで胸がきゅっとなってしまった。自分の気持ちはずっと彼に持っていかれたまま。離れて暮らせば、心の熱はいつか収まると信じていたのに。
──あの人はお妃候補だった女性を亡くしたばかりだったのよね……。その女性がまだ生きていたなら、彼はここには来なかったのかしら。私のことも、ウィレムのことも一生知らずに過ごしたかもね。
そう思うと少しさみしい。だが、彼はここまで来てくれた。忙しすぎる体に無理をして。
彼は今もアンジェリンを望んでくれている。
──もしも、私が本当に泥棒の子でないのならば、私はお妃さまになってもいいの? いいえ、だめでしょう。ザース様がおっしゃったとおり、私ではあの人を守れないから求婚を断らないと。それならば、昔のように侍女としておそばにいる方が安全? ああ、それもだめ。王妃様になる方の迷惑になるわ。
彼のそばにいたい。そんな欲望がすぐに膨らんできてしまうが、それは心の奥に押し込んでおく。
求婚されても強い心で断るべき。
フェールが言った二択のどちらも選べない。王妃も、傍仕えも。
ならば、残る選択肢は?
いっそのこと、ウィレムを連れて外国へ逃げてしまおうか。
──それは最悪よね?
きっと彼はどこまでも追ってくる。それが遠い地の果てであったとしても。彼をさらに危険にさらすことになってしまう。
何の答えも出せない。
「ねえ、ウィレム。お父様は素敵な人だったでしょう?」
息子の頭をそっと撫でた。
悩むアンジェリンの元に、王太后マナリエナからの使者がやって来たのはそれから数日後だった。




