69.月と星の下で
フェールはエンテグア城に戻ってからも多忙な日々が続いた。戦後処理だけでなく大量にたまった王決済の書類の整理などに追われ、さらに反故にできない伝統の王族行事などで、朝から晩まで暇な時がなかった。当然、アンジェリンの墓のことをマナリエナに訪ねる時間もなく、アンジェリンが生きていて子を産んだことも知らないまま、気が付けばすでに次の夏になっていた。
フェールは二十二歳の誕生日を迎え、その日、エンテグアの城では祝賀会が開かれた。
会場になっている大広間には、大量の料理や酒が並べられ、ついこの前まで戦争があったことが嘘のように人々は着飾り踊る。踊っていない者たちはあちこちで小さな塊になって談笑している。
フェールは紹介されるままに、次々と貴族の令嬢のダンスの相手を勤めていた。アンジェリン以外の女性と踊ることは、本当は嫌だったが、それも『王の仕事』。ひとりでも多くの人と話して相手を理解し、その周囲の人物とも親しくなることが内政安定につながる。
フェールの周りには常に人が群がり、露骨な花嫁売り込み合戦が繰り広げられていた。
「陛下、次はうちの娘と踊ってくださいませ」「失礼ながら、わが娘の方が先にお約束をしましたぞ」「陛下、紹介させてくだされ。この女性は従兄弟の娘で――」
令嬢たちの相手を真面目にこなしていたフェールは、休みない会話とダンスですっかり疲れてしまっていた。
「すまぬ、休憩したい。少し外で涼んでくる」
フェールは会場の囲みを抜け出し、侍従と警備兵だけを連れ、広間の端に作られているバルコニーへつながる階段を登った。開かれた広いバルコニーには他にも人がいたが、気にせず、常備されている石の長椅子に腰かけた。
満月に近い月がまぶしいほど輝く夏の夜。頬にあたる微風が汗をかいた体に心地よい。ふう、と息をつく。
「陛下、お飲物はいかがでございましょう」
侍従が汗拭き用の小布を差し出す。
「冷たい酒をもらおう。喉が渇いた」
フェールは座ったまま目を閉じた。祝賀会の喧騒はここまで聞こえてくる。この騒ぎは深夜まで続く。
あと何人の令嬢の相手をしないといけないのだろうか。顔と名前を記憶するのが精いっぱいだった。どの女性も似たような感じで、特に心惹かれた女性はいなかった。くたびれた頭が考えることを拒否する。
「シドがいないと疲れる」
これまでのこういう会では、シドが常に傍にあり、自分ひとりで多くの令嬢の相手をすることはなかった。彼は今も行方知れずのままで、その従者だったゾンデとは、コオサ陥落以後会っていない。シドはザンガクムの山小屋内でも発見できなかったと聞いた。遠方で生きているという知らせすら来ない。やはり、シドはどこかで命を落としてしまったらしい。
シドのことを考え続けているうちに、昔アンジェリンと踊った曲『ロマジエラ』が耳に入って来た。ゆったりした音の流れが過去を呼び起こす。
フェールの中で、ずっと押さえていた鍋蓋が突然開いたように、アンジェリンとの思い出が一気に噴き出した。海賊討伐の日以来、アンジェリンの首飾りをはずし、彼女のことを頭の奥に追いやって、多忙な日常を過ごしてきたが、一度思い出してしまうともう止まらない。
遠くなった過去。アンジェリンへの気持ちを押さえられず、バルコニーで踊った後に唇を強引に奪った。それだけでは気が済まず、どうしても彼女が欲しくなり、よき理解者だったシドに頼んで……彼が密会場所を提供してくれて、そして、彼女に手を伸ばした。
身分を恥じて泣きながらもやさしく受け入れてくれたアンジェリン。白くやわらかな肌が愛で薄赤く染まった。茶金色の長い髪に指を絡め、気が済むまで肌を重ねてたわむれた日々。彼女の重い前髪をかき分ければ、驚くほどきれいな緑の瞳が見つめ返してきた。
笑うとできる頬のえくぼが愛らしく、おどおどとしながらもぽろりと出してくる洒落がたまらなく、そしてそれがどうしようもなく楽しく。
幸せな回想は、彼女の肩と胸から流れた血を思い出すと恐怖に変わり、フェールは無意識に身震いしていた。
「陛下、お寒いのですか?」
かけられた声に顔を上げると、見知らぬ若い女性がフェールのすぐ近くに来ていて、心配そうに顔を覗き込んでいた。警備兵が警戒して近寄り、女性がそれ以上近寄ることを阻んでいる。
フェールは女性が武器は持っていないようだと判断し、警備兵の警戒を解いた。
「そなたはどこの者だ。見たことがないな」
「あっ、私、申し遅れましたが、ティアヌ・バイスラーと申します」
「バイスラー書記官の関係者か」
「はい。父がいつもお世話になっております。こちらからお声をかけてしまい、大変失礼しました。ここから退去しようと思っておりましたら、陛下のお具合が悪そうに見えたのでつい……無礼をお許しくださいませ」
深く頭を下げた女性が顔を上げた時、フェールはあやうく驚きの声をあげるところだった。
――アンに似ている!
感情を抑え、低い声で問いかけた。
「そなたは、なぜここにいる」
「空がきれいでしたから、時を忘れて見ておりました」
フェールは夜空を見上げた。満月に近い大きな月が中天に浮かんでいる。
「確かに、今日は月がきれいだな」
「月だけではございません。星も小さいながらも輝いている姿を見ると、不思議と元気になれる気がいたします」
ティアヌと名乗った娘は穏やかな笑みを浮かべた。
フェールは目を見張った。
――笑い顔にもアンの面影がある。いや、よく見ればそれほど似ていないか。卵のような顔の輪郭は多少似ているとは思うが、そっくりだと思ってしまったのは、アンのことばかり考えていたせいだ。
フェールは動揺を隠し、適当に返事をした。
「ああ、そなたの言うとおりだ。今夜は星も美しい」
「人は死ぬと星になって、生きている人たちを密かに守ってくれていると言われています。星の瞬きひとつひとつに見守られているなんて、すばらしいことだと思いませんか?」
「星が死者の魂……か。私も昔はそうだと信じていた。だが、大人になった今では、そうではないと思うようになった。人は死んだら終わりなのだ。たとえ死者が星になっていることが真実だとしても、今生きている者の守りは勤まらない」
ティアヌはハッと頬をひきつらせて頭を下げた。
「配慮のないことを言ってしまい、申し訳ございませんでした。失礼します」
ティアヌは礼をしてバルコニーから去ろうとした。『ロマジエラ』の音はまだ聞こえている。
「待て!」
フェールは思わず呼び止めていた。
――もしも、おまえがもうひとりいるのなら、もう一度、満たされることができるだろうか。おまえに似た女性に声をかけられたのは、星になったおまえの導きだとしたなら。
フェールは、足をとめて振り返ったティアヌに手を差し伸べていた。
「ティアヌ・バイスラー、ここで踊ろう。月と星が見守るここで」
――あの日の二人のように。
ティアヌは驚いた顔をしたが、王の誘いを断ることはない。差し伸べられたフェールの手に、迷いなく手を重ねた。
フェールはその手を引き寄せ、腰に手を回し、遠くから聞こえてくる音楽に合わせて静かにダンスを始めた。
「そなた、城で私に会ったことはあるか? 普段はどこで何をしている」
「遠くからならば、陛下のお姿を拝見したことはございます。いつもは学舎へ行っております」
「まだ学生か」
学舎通いということは、少なくとも十六歳以下で、フェールよりも六歳以上年下ということになる。
アンジェリンとこうしてバルコニーで初めて踊った時、彼女は十七歳だった。ダンスの後、偽りない気持ちで求婚したが、彼女は恐縮して泣いた……。
見知らぬ娘と、アンジェリンとの思い出の曲で踊りながら、忘れがたい甘美な記憶に浸っていたフェールは、娘のはずんだ声で夢から戻された。
「陛下、私、お相手をしていただけるなんて、すごくうれしいです。高貴な方と躍るのは慣れておりませんので緊張しています」
フェールは急に動きを止め、パッと手を離し、数歩さがってティアヌから離れた。
――私は最低だ。こんな娘に何を期待したのか。アンとこの娘を同じように扱って。私はまたアンの幻に惑わされて自分を見失ってしまった。海に飛び込んでしまった時と同じあやまちをまた犯している。
「陛下?」
「慣れていないと言うならば、もう帰った方がよい」
「えっ?」
「もっと踊りたいなら、誰か別の者を探せ」
「は、はいっ。お相手ありがとうございました」
急に不機嫌になったフェールに、ティアヌは青ざめて礼をすると、逃げるようにバルコニーから去った。
ティアヌが完全に視界から消えると、フェールはバルコニーの端の手すりまで歩いて行った。再び月を見上げる。
――似ていても、やはり別人。アンの代わりになりはしない。そもそも、身代わりにしようとしたこと自体が間違っている。
背格好は多少似ていたが、ティアヌの声が高く耳障りで、丸みのある声音だったアンジェリンとはあまりにも違いすぎた。
届かない月の灯りに向かって両手を伸ばす。掴めない月は広げた手の中にある。
――アン……愛している。今でも強く愛している。本当に星になったのならば、おまえはどこから私を見ているのか。私はおまえの存在を感じることもできないままで、ずっと生きていくのか。一瞬でも顔を見せてくれたなら、私はおまえに謝ることができるのに、それすらも許されないのか。
「陛下、失礼します」
背後から声をかけられ、手を下ろして振り向くと、先ほどの娘の父親、バイスラー書記官が頭を下げていた。
「ん? どうした」
「うちの娘が何か無礼なことを申し上げましたでしょうか。せっかく陛下のお相手を勤めておりましたのに、途中で急にご不興を買ってしまったようで」
「そなたが気に病むことはない。ティアヌはまだ若く、ダンスは慣れていないと言って緊張していたから解放してやっただけだ」
「さようでございましたか。ダンスは下手なうえ、きちんと話もできぬ無作法な娘ではありますが、あれでもおおらかで良いところもあるのでございます。空ばかり眺めている少々変わった娘ですが、よろしければ、おそばにお召しください。連絡をいただけたなら、深夜でもすぐに娘を連れてまいります」
書記官が離れていくと、フェールは密かに溜息を洩らした。あの控えめな書記官ですら娘の売り込みをしてくる。深夜に娘を――自分の娘を捧げてもいいと言っているのだ。既成事実を作ってしまえば妃への道は早い。あの書記官の娘ならば、妃になる者としての身分に問題はなく、ヘロンガル家との関係もなさそうだが。
こういう妃の押し売りは誰かとの結婚が決まるまで続くのだろう。王太子がいないままの現在の状況は、王室の危機であり、できるだけ早く妃を迎え、世継ぎを産んでもらった方がいいことぐらい理解していても、心は乗ってこない。白く輝く月を見ているとすべてがどうでもいいと思ったりもする。
王太子とは、次の国王になる者で、本来ならば王の第一子の男子が受け継ぐべき地位。長年、王に子ができなければ、いつかは誰かを指名することになる。
――たとえば、明日にでもヴァリーを王太子に指名したとして。それでどうなる?
シドの弟のヴァリー。シド亡き今、十歳のそばかす少年が今のところ最も有力な王太子候補になっている。前王の妹を母に持ち、強い勢力を持つヘロンガル家の次男。シド亡き今はヴァリーが事実上のヘロンガル家の嫡子。将来の王になるべきものの血筋としては申し分なく、しかも、ヴァリーは穏やかな性格で、臣下になる者たちも彼が王ならばおそらくやりやすい。
――いや、それでもヴァリーを王太子にしてはだめだ。ヘロンガル家の者に王位を渡すことはできない。あの人は恐ろしい罪を犯している。まだまだ罪を重ねていくだろう。目的のためならどんなこともする人だ。その息子が王太子になっていいわけがない。危険すぎる。
エフネートが、クレイア王女などのザンガクムの旧政権の残党を利用してフェールを亡き者にする可能性は充分すぎるほどある。フェール暗殺後、ヴァリーが即位したら、今度は実行犯たちを裏切って、責任を転嫁し処分。城内の反乱の例を思い出すと、そんな図式が浮かぶ。利用してから捨て、処分まできちんとやる、それがおそらくエフネートのやり方だ。
祝賀会場を見下せば、エフネートがにこやかに数人の貴族と談笑していた。ヴァリーはまだ十歳なのでこの場に来ていない。これは大人だけのごく普通の交流会であり、今のところは不穏な空気はない。
エフネートの罪は疑わしい物も含めればおそらく片手では足らないと思われる。
サイニッスラでの虐殺のことだけではない。ザンガクム国と通じてラングレ王を屠った罪、さらにエンテグア城内における反乱の引導。裏で重要書類の書き換えなどの工作もやっているかもしれない。
彼にまとわりつく黒い疑惑は、どれも決定的な証拠がなく、密かに調べている様子を見せることもできないまま、時間が過ぎていた。
数々の罪の疑惑。罪を重ね続けるエフネートが本当は何をしたいのか、その真意はつかめない。
ふと視線を感じた方向に目をやると、壁際に立っているココルテーゼが、フェールに熱い視線を送っていた。フェールはわざと柱の陰に入り、ココルテーゼから見えない位置に移動した。
──あれはヘロンガル家の密偵だと母上が言っていたな。かわいい顔をしてああやっていつも私を見張り、いちいち叔父上に報告していたわけだ。不快な女め。失態を犯したらすぐにでも追放してやる。
再び空を見上げた。運ばれてきた冷酒の杯を手に取る。
──しっかりしろ。アンはもういない。今は、アンのことよりも、叔父上を警戒しながら王位を全力で守ることに集中すべきなのだ。アンジェリンに似た女性を見かけるたびに激しく動揺するようなことがあってはならない。
杯を月に向かって掲げた。
「セヴォローンの王として、月と星に願う。黒い志を抱く者たちを浄化し、この国に永遠の繁栄と安らぎをもたらしてくれ」
杯をおろし、一気に飲み干した。
祝賀会が無事に終了し、疲れていたフェールは自室へすぐに戻った。寝室に入ろうとしたとき、侍従が、突然の来客の到来を告げた。
「バイスラー書記官が私に何の用だ」
「このようなお時間ですし、面会の事前申し込みはいただいておりませんので、断わってもよろしいかと存じますが」
「いや、会おう。今、会っておかないと、もっと忙しい日にまた押しかけてくるかもしれぬ」
バイスラー書記官の後ろには、背中を丸めて泣きじゃくるティアヌの姿があった。




